tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

再び「言葉の重さ」を考える

2017年04月18日 12時12分39秒 | 社会
再び「言葉の重さ」を考える
 先月、言葉を軽く扱う風習がひどくなったと痛感し、「 言葉の重さを考える」を書きました。
 しかしその後も残念ながら、日本国の運営を担当している方々の発する言葉が、あまりにも軽いといった状況が続いてしまっています。

 昔から、「武士に二言はない」と言い、寺子屋では「病は口より入り、災いは口より出る」と教えた日本文化はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。

 日本のリーダーである安倍総理は、流石に、発言を撤回しるようなことにはなっていないようですが、頭の回転がいいせいでしょうか、発言の中には、詭弁に類するようなものが織り込まれたりします。

 待機児童が減らないことについて、子供が増えたという点では「うれしい悲鳴」といった側面もあるという発言があったと記憶しますが、先日は家計学園の関係でしたか、総理の知人だから特区に指定「しない」というのはおかしいという趣旨の発言がありあました。
 理屈はその通りです。

 森友学園関連では、100万円の寄付はしていませんが、したとしても喜ばれるだけで、犯罪にはならないとの発言の報道がされていますが、これは犯罪でなければいいのかと問題を孕むように思われます。

 このところ続いたのは、1つは、復興相の、自主避難は自己責任という発言です。当然後から撤回ということになりましたが、発言の時の切れ方はひどかったようですね。
 つづいて、地方創生相の学芸員は癌、一掃すべきという発言飛び出し、真面目に研究している学芸員たちはさぞびっくりしたことと思います。これも撤回陳謝となりましたが、一体こんなことが起こるのは何故なのでしょう。

 言葉がなければ人間は論理的な思考ができないと言われます。言葉は人間が合理的な知性(理性)を持つために、何万年もかけてが作ってきたものでしょう。
 本来、文字がない時代は言葉が重要だったと思います。日本は文字については(アイヌやインデアンなどと同じように)遅れた国でした。そのせいか、口から出る言葉に、大きな意味を置いてきたように思います。(「インデアン嘘つかない」というコマーシャルもありましたね。)

 文字が使われ、記録が出来るようになっても、日本人は、瞬間的に消え去る言葉を大事にしてきました(今は言葉も記録され消え去りませんが)。これは美しいことです。
 言葉なら記録されても後から撤回すればいい、というのは、不正なカネでも後から返せばいいといった最近の風潮にも似ているようです。

 「恥の文化」と言われた日本文化が、「恥知らずの文化」になるような事態を本気で恐れています。