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tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

人類社会の進化と政治、宗教、経済

2021年08月22日 10時49分14秒 | 文化社会
30万年ほど前でしょうか、アフリカでホモサピエンスが、生物の進化の結果として、生まれました。
Social animal、社会的動物と言われるホモサピエンスは、次第に社会をつくるようになったのでしょう。

ホモサピエンスの一部は10万年ぐらい前にアフリカから出て数万年のうちに世界中に広がったと考えられています。

そした人々、多分、採集や狩猟で木の実や動物を求めて移動した人たちがまず求めていたのは、A.マズローの欲求五段解説になぞられれば、まずは、生理的欲求、そして安全欲求というより低次欲求段階に加え、人間らしい好奇心や冒険心(より高次な欲求)㋾もって世界に広がったのでしょう。

しかし、世界の至る所に分布した人たちはさらに上位な欲求である社会的欲求、承認の欲求、更には自己実現欲求を 強く感じて人間社会を進化させ、現在の高度な文明社会を作り上げたのでしょう。

その人類が10万年前には想像もつかにない現在の高度な文明社会を作り上げたのです。A.マズローはこれを人間がより高次は欲求を持っていたからと説明しています。
社会的動物と言われる人間はより高次な社会的欲求で人間集団(社会)を作り、その中で承認欲求、更に自己実現欲求というより高次の欲求の従った結果でしょう。

ところで、こうした欲求を人間が持つのは、欲求を感じさせる「目標」がなければならないでしょう。「こんな社会でこんな成果を得たい」という事でしょうか。

ならば、その目標は何でしょうか。先ずは豊かさだったでしょうが、更にそれに「快適さ」を加えて「豊かで快適な社会」と考え、それは今に続いているようです。

ここで標記の命題に戻りましと、誰にも「豊かで快適」と感じられるような社会を作るために、政治、宗教、経済の、3つの検討の要素における体制がどうであれば最も合理的か(便利か)という事になるのが現実のようです。

第1番目の要素の政治は、今、はっきり意見が分かれています。バイデンさんも指摘していますように、民主主義と専制主義(独裁主義)が対峙して競争(バイデン用語)の状態にあります(争いや戦いは良くないです)。では、
そのどちらが人々の「豊かさと快適さ」をより充実させるかが問題です。

ゴルバチョフさんはソヴィエトの大統領として、自らの経験に照らし民主主義を選択すべしと言っています。
それに対して、習近平さんは、中国が発展していくためには、共産党一党独裁でなければならないと言っています。結論はまだのようです

第2番目の要素は宗教です。
宗教は時に頑なですが、時に柔軟で、キリスト教は、より豊かな経済のために宗教革命を活用し、カトリックでは認められなかった金利をプロテスタンティズムで認めるという変化(進化)をしています。

第3番目の要素の経済ですが、人間の「豊かで快適な生活」を直接支えるのが経済です。
ならば政治や宗教は、それぞれに人類社会の安定と発展のためになすべきやくわりをはたしながら、それが人間(国民)の「豊かで快適な生活」という目的と矛盾しないことが大事になっているという事でしょう。 
 もう少し論じなければならないのですが、長くなりますので次回にします。

共産主義の独裁主義化は必然か

2021年08月20日 16時06分12秒 | 文化社会
最近ゴルバチョフさん(90歳)が、声明を発表して、 
ソ連の改革を目指して推進した「改革路線」は正しかったと述べ、(プーチン政権に対しては、名指しは避けつつ)ロシアの発展には、民主主義こそが正しい道と言っているとのことです。

このブログでは、歴史的にみると、共産主義は必然的に独裁主義に陥っていると指摘してきていますが、共産主義国でも、独裁主義に陥らないという事も可能なのかという問題は残っているように思います。

この問題とは一見関係無いようにも思えますが、政治と宗教を分ける政教分離が世界では進んできています。

日本も1945年までは、皇国史観で国民は天皇の赤子(せきし)と神道で国をまとめ、独裁政治をやっていました。
共産主義というのも、人間の思考構造としては宗教と同じで、しかし宗教を否定する宗教でしょうか。

皇国史観や、共産主義の場合は「信奉」という言葉が使われ、宗教の場合には「信仰」という言葉が使われるようですが、いずれにしてもそれ以外の価値観は排除する、あるいは認めたくないというところは同じでしょう。
そういう意味では、リーダーの個人崇拝や、独裁主義が出来やすいと言えるような気がします。しかし権力は腐敗するという事もよく言われます。

共産主義国でも、独裁政権はまずいと気づいていて、国のトップは二選までとか決めているようです。中国も、毛沢東の経緯に学び、二選までとしているようです。
しかしプーチンはそれを撤廃したようで、習近平さんも、今度三選をどうするか世界が注視しているようです。(安倍さんもやりましたね)

ところで、中国では、鄧小平が共産主義の中でも、土地所有を認めて(資本の私有を認め)経済に関する管理の部分を自由化する政策を取り、「社会主義市場経済」と名付けました。

そのおかげで、中国経済は大発展し、世界第2の経済大国になった訳です。しかし、政治は社会主義(共産主義)にしておいた方が国として健全という考え方なのでしょう。共産党一党独裁は変わりません

民主主義にすると、巨大な国ですから統一が取れなくなることを懸念するのは当然かもしれません。

ベトナムなども、ドイモイ政策は基本的には同じで、経済の発展は著しいというのが現実でしょう。

という事で、政治的には一党独裁、経済的には、自由経済の利点を活用するという方法の成功例はあるのですが、これは、本当は、本来の共産主義とは違うものでしょう。
共産は「資産が共有」という事でしょうから、中国もベトナムも社会主義であっても「共産」ではないという事になりそうです。(日本語がいけないのかな)

ところで、この、経済は自由経済、政治、社会構造は共産主義という手法が、今後どうなるのかという問題です。
これは永続しうるものでしょうか。民主主義・自由経済への過渡的なものでしょうか。

これは「政教分離」ならぬ「政経分離」ですから、広く考ええれば、政治、宗教、経済、という3者が、人類社会の発展の中でどんな役割を果たしてきたかという歴史の延長線上で、大変難しい問題のようです。(参考:マックス・ウェーバーの理論)

そういえば、日本共産党は「共産」という言葉を使っていますが、財産の共有も、独裁主義も認めていないようですから、もう少し親しみ易い名前の方がいいのではないかなど思ったりするところです。(年寄りに多い余計なお世話ですね)

2つの昭和、何が同じで何が違うか(続2)

2021年08月16日 17時32分01秒 | 文化社会
昭和の46年間を論じてきました。当初、昭和20年(1945年)以前の戦争の昭和とそれ以降の平和と経済成長の昭和(今はもう懐かしいレトロの昭和)を2回に分けてと思っていましたが戦後の昭和はやっぱり2つの違った時期があって、どうしても長くなるので、続と続2になりました。

続と続2の境は大阪万博の翌年、1971年(昭和46年)で、この年の8月15日、アメリカのニクソン大統領が基軸通貨ドルの金兌換を停止し、変動相場制になり、そのために世界経済の不安定化が進み、その荒波に翻弄される日本になったことによります。

具体的には、順調な成長期は終わり、2度の石油危機、更にプラザ合意による円高、バブル経済までで、その崩壊で平成長期不況に入る直前までという事になります。

前回の最後の部分で触れました石油危機は、前後2回、最初は昭和48年(1973年)の10月です。

石油の99.8%を輸入に頼るといわれた日本は大混乱、トイレットペーパーと洗剤が店頭から消えるパニックが起き、消費者物価は高騰、結果、翌昭和49年度の経済成長率はマイナス0.8%(実質)と戦後初のマイナスを記録したのです。49年の春闘は33%の賃上げとなり、消費者物価はピーク時には26%も上昇、急激なインフレの進行で、日本経済は潰れるといわれる危機状態になっています。

しかしこの時、日本の労使は賢明でした。翌50年春闘までの1年間分析と討議を重ね、インフレは、石油の値上がりのせいよりも、大幅の賃上げのせいであることを理解、賃金上昇を急速に抑制することで合意、経済を正常に戻しています。

そして昭和56から57年にかけて起きた第2次石油危機は、混乱もなく乗り切り、中成長、安定成長などと言われる安定した日本経済への回復を実現しています。

ここで指摘すべきは欧米主要先進国の状況です。アメリカを始めほとんどの国々は、石油価格の上昇から賃金コストインフレの誘発という状況を続け、当時先進国病といわれたスタグフレーションに陥って、その脱出には政権交代を要し、1990年前後までの長い時間がかかっています。

先進諸国の中で唯一スタグフレーションを回避した日本は、先進諸国から驚嘆の目で見られたようです。
ハーバード大のエズラ・ボーゲルが「ジャパンアズナンバーワン」を書いたのが1979年、(昭和54年)日本が第一次オイルショックを克服し終わった年です。

アメリカが赤字国になり、ドルの金兌換を停止、変動相場制になって日本がまず経験した難関はこれでした。
日本は世界に類のない労使の協力という形で難関を乗りきり、戦後の高度成長の時と同ように先進諸国を驚かせることになりました。
真面目に頑張る日本人のエネルギーが、この成功を齎したのでしょう。付け加えれば、これはほとんどが民間の労使の力で、政府の役割は、側面援助程度でした

しかしこの成功は、昭和の日本に、次なる難関を齎したようです。

それは日本の突出に対する警戒感、特にアメリカにとっては、覇権国アメリカに追いつくことは阻止したいとする覇権国の本能のようなものでしょうか。
1985年、ニューヨークのプラザホテルのG5 において、日本は、円レートの切り上を要請されたのです。

ここでは、日米の「経済学の知識」の差が出たようです。日本は受け入れました。しかし変動相場制の中での受け入れは、円高の限度がどうなるかの十分な注意まではしなかったようです。

結果的に円レートは1ドル240円から2年後には120円と2倍に値上がりしたのです。
日本製品の価格は、外国では2倍なり、航空運賃や国際電話の料金は、日本から海外への場合は、海外から日本への場合の2倍の料金になりました。

石油危機の時は石油の値段は世界中で同じ値上がりでしたが、円高の場合はコスト高になるのは日本だけです。そして、これを克服するのは昭和を大きく過ぎてからになりました。

プラザ合意から昭和64年、平成元年(1989年)までは、日本は、アメリカの勧めに従って金融の大幅緩和をやり土地バブルを起こし、バブルの宴に酔い痴れていたのです。

終戦以降の昭和は、廃墟から出発、世界2位の経済大国になり、ニクソンショックまでは順調でした。
そしてその後の第一の試練だった石油危機は立派に乗り切ったものの、プラザ合意では経済学の知識の低さから鷹揚に円高を受け入れ、最後の4年間は、バブルの宴に酔い痴れていたのです。

後に待っていた平成不況は、これもアメリカ発の世界金融大惨事、いわゆる、いわゆるリーマンショックの影響も受け、2010年代まで続く長期不況でした。

黒いダイヤル電話機、白黒テレビ、たばこや塩の看板、満員の通勤電車、植木等のスーダラ節・・・などなどで、今や郷愁の対象となっているレトロの昭和の背景には、こうした日本経済の動きがあったのです。

そしてその前の戦争の昭和の20年、昭和は大きく2つの時代にまたがる、日本経済の大転換を歴史に記した時代だったのです。
この昭和の意義を、日本人はいつまでも大事にしなければならないのではないでしょうか。



2つの昭和、何が同じで何が違うか(続)

2021年08月15日 21時14分39秒 | 文化社会
1945年8月15日以前の昭和は、国民の巨大な犠牲の上に立って、軍閥が天皇を利用し、自分たちの勢力を世界に広げようという構想に支配されたものでした。
軍閥の指導部は、それが日本を一流国にするための必要条件と考えていたのでしょう。

この構想は敗戦で一挙に崩れ、その後の昭和は一時的に日本を占領したアメリカから民主主義と教わり、国民の意思によって国を作っているという日本になりました。

その後の44年は勿論失敗もありましたが成功した面が圧倒的に多く、日本は、一流国どころか、アメリカに次ぐ、世界第2の経済大国になったのです。
その中の庶民の哀歓が今、マスコミでいう「レトロな昭和」という事になるのでしょう。

戦後10年は、食糧難、国民皆空腹という廃墟からのたち上りでした。国民は真剣に復興に邁進しましたが、物不足需要超過の中で生産設備も無いのに政府はにカネばかり供給したのでインフレになるという失敗でした。

 インフレを抑えるために、アメリカの銀行家を呼んで教えを乞い、預金封鎖で通貨量の大削減を行って、その銀行家の名前を付けたドッジ・デフレなども経験しつつ、それでも
急速に生産力をつけ、戦後10年で昭和30年(1965年)には戦前の経済水準を回復しています。

昭和30年代、日本は高度成長期に入ります。まだ国際競争力不足でしたから、外貨準備が少なく、外貨準備が減ると引き締め政策で不況、外貨準備が増えてくると成長政策という事で、短期の不況を挟んで神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気、と古事記に因んだ名前の好景気を連ね、昭和45年(1970年)まで破竹の経済成長を続けます。

この間には、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、昭和45年(1970年)の大阪万博があり、その2年前の昭和43年(1968年)にはGDPでドイツを抜き、世界2位の経済大国になっています。
日本の国際競争力は強化され、国際収支は安定した黒字で、外貨不足で経済政策に悩む必要のない国になっていました

庶民の生活水準もウナギのぼりで、戦後の食糧難時代から、「新三種の神器」といわれたカー、クーラー、カラーTV(いわゆる3C)のある快適な生活を実現しています。

しかし昭和45年、大阪万博のあった1970年を境に、日本経済は新しい波乱の時代に入ります。理由は、アメリカが次第に経済力を弱め、国際収支赤字国に転落、基軸通貨国の地位維持のためにドルの金兌換を停止、ドルをペーパーマネーにし、世界経済を不安定なものにしたことの影響です。(アメリカ自身が作ったブレトンウッヅ体制の破綻)

1971年の、奇しくも8月15日、アメリカはドルの金兌換停止を宣言(ニクソンショック)、ドルの価値の下落が始まったのです。

これは世界経済を震撼させ、世界経済は不安定さを増し、結局、変動相場制の時代が始まったのです。

固定相場制から変動相場制への移行で不安定さを増した世界経済の中で、中東情勢も不安定を増し、中東紛争が起き、昭和48年(1973年)に至り、石油の供給不安という状況の中で、OPEC(石油輸出国機構)は、原油価格を4倍に引き上げました。
そして昭和56年(1979年)から翌年にかけの中で、更に3倍に引き上げたのが、いわゆる第1次、第2次の石油危機です。

石油危機が、欧米主要国の経済、そして日本経済に与えた影響については、このブログで繰り返し取り上げています。
更に、変動相場制が日本経済に与えた影響も、このブログの主要なテーマになっています。

それらの問題が、世界第2位の経済大国になった昭和の日本にどのような影響をもたらしたか、それらの点を整理して、次回で「2つの昭和」をまとめたいと思います。

2つの昭和、何が同じで何が違うか

2021年08月14日 22時53分52秒 | 文化社会
明日は終戦記念日です。
1945年の8月15日、あの日、日本中が晴れて暑かった日、正午にラジオから終戦の詔勅(玉音放送)が流れて、国民は日本が戦争に負けたことを知りました。この日のことはかつてこのブログに書きました。

あの日を境にして、昭和は2つの時代に分かれています。同じ昭和ですが、中身は全く違います。
端的に言えば、あの日までは戦争遂行の昭和、そしてあの日からは平和を志向し、国民生活を豊かに・快適にする昭和です。

しかし、昭和の時代を生きたのは同じ日本人です。同じ日本人が、全く違った国造りに励んだのです。その結果、昭和は2つの時代にくっきりと分かれています。

昭和というのは昭和天皇の時代という事です。太平洋戦争の敗戦によって、神であり全軍を率いる大元帥であった昭和天皇は、日本国民の統合の象徴になりました。

もともと神や大元帥というのは陸軍を中心に軍部が作ったフィクションの役割を押し付けられたようなものですから、昭和天皇は、新憲法のもとでの「国民統合の象徴」の方がお好きで、その在り方を真剣に創られたように思っています。

この思いは国民もやはり同じだったと思っています。当時、国民学校6年生の私たちですら「青少年学徒隊員」の一員であり、敵を撃滅するために、御国に命を捧げることが生き甲斐という役割を徹底的に教えこまれていました。

しかし、1945年8月15日を境に、国に命を捧げることは不要と理解するにしたがって、自分の思うように生きられる、という全く新しい可能性に気づき、「生きる」という人間の本能が、忽ちにして脳幹から大脳皮質に伝わり、大脳が、新しい生き方の模索という思考体系を切りかえていったのでしょう。人生への考え方が全く変りました。この変換への違和感はあまりなかったように思っています。

しかし、実際に戦争を体験した人の場合は、自分の現実の行為の記憶が鮮明であればあるほど変換は大変だったと推察するところです。  
  
勿論個人により事情は異なるでしょう。しかし、大きく見れば、日本人は、戦争というフィクションを現実に組み込むようなリーダーに従う時代から、自分の生き方は自分で考えて選び取るという時代へ大きな変換を成し遂げたのです。

そしてこれは、基本的には人間の生命体としての本能が大きな役割を持っていたのだろうと私は考えています。
同時に、大脳の発達した人間にとって、誤った教育がいかに恐ろしいかを示すものではないかと考えています。(最近は、これには洗脳という言葉がよく使われます)

以上が私の感じている1945年8月15日を境として、昭和という時代がどう変わったかという部分だとご理解いただきたいと思います。

そして変わらなかった部分というのは何かという問題です。

これは縄文時代から培われた、多くのDNAが極東に吹き溜って、混血を重ね、あたかも純血種のようになった日本人、そしておそらく細長い日本列島の中で自然の優しさと恐ろしさを知悉し、真面目に、勤勉に生きる事がベストと考えて生きてきた日本人の特徴であるエネルギーレベルの高さではなかったかと考えています。

この点については明日、8月15日に譲りたいと思います。

2021年6月も平均消費性向上昇ですが・・・

2021年08月08日 22時21分21秒 | 文化社会
一昨日、8月6日、総務省から6月分の家計調査が発表になりました。

まず、消費需要と関係が深い(感染が増えると消費が減る)コロナ新規感染者数を振り返ってみましょう。

東京の数字で見ますと、4月には3度目の山が始まり、連休頃がピークでその後は3回目の緊急事態宣言で減少傾向でした。6月下旬緊急事態宣言解除でそれ以来急増4回目の緊急事態宣言に入って、今、最も深刻な状況というところです。

という事で6月は上中旬は緊急事態宣言の最中でした。
これでは、3、4、5月と上がってきた平均消費性向も、人流抑制、外出制限、消費支出も緊縮でまた低下かなと思って6月の勤労者所帯の収支を見ますと、案に相違して6月も上昇になっています。昨年6月が35.4%、今年6月は38.8%です。(6月はボーナス月ですから数字は低いです)

あれっと思いましたが、気が付いて調べてみました。2人以上の勤労者主体の実収入は、前年同月比11.3%の減少です。可処分所得(手取り収入)の方は14.1%減です(名目値、以下の同じ)。

当然ですが,消費支出も節約されて5.8%の減少です。支出を節約しても収入の減少の方が大きいですから消費性向(消費支出/可処分所得)は上昇です。

問題は、何故家計の収入がそんなに大幅に減ったのかですが、既にお気づきの方も多いでしょう。去年の6月は、1人当たり10万円の給付金の支給がピークになった月でした。
去年の勤労者所帯家計収入を見ますと、可処分所得で、一昨年に比べて、5月13.4%、6月19.0%、7月12.0%の増加です。

こういう特別なことがありますと、統計調査は、それをそのまま反映しますので、時系列比較などをするときには十分注意が必要になります。

その分を修正してと考えても、正確な修正などはとてもできません。困った事ですが統計は現実をしっかり反映してくれることが生命ですから、出てきた数字から「それなり」の判断をするしかありません。
来月も給付金の影響はまだ残りますが、8月には消えるでしょう。

このブログでは、2人以上勤労者所帯の平均消費性向が、この3月以来顕著に上昇傾向にあることに注目しているのですが、注目の理由は、アベノミクス以来の日本経済の低迷状態の回復は、平均消費性向の回復いかんにかかっていると見ているからです。

この問題は繰り返し論じているので、深入りはしませんが、これから秋にかけて、コロナの動向と、それに、いろいろな意味で振り回される平均消費性向の動向を、毎月、確り見ていきたいと思っています。

このままではデルタ株コロナウィルスの蔓延は不可避

2021年08月02日 15時10分13秒 | 文化社会
前回、五輪開催強行の中で、新型コロナの猖獗を防ぐことは何としてでも成し遂げなくてはならないこと、そのために政府と国民は何をしなければならないかについて最低限の必要事項を整理してみました。

しかし、それが現状ではかなり難しいことも事実のように思われます。その最大の原因は、どうも政府がそうした持つべき危機感を持っていない事ように思われるのです。

 一昨日の菅総理の記者会見を見ましても、プロンプターを読んでいましたが、かつてドイツのメルケル首相が国民に訴えたスピーチのような、心から危機感を国民に訴える表情 はあまり感じられませんでしたし、質問の中で、最も重要な「緊急事態宣言を8月30日まで」とした理由はという質問には、正面から答えてはくれませんでした」

現実を見れば、新規感染者のグラフは、GoToを奨励した時の感染者増加の山が随分小さく見えるほどの高さになっています。そして人流の規模はこの所もあまり減っていません。

最も心配しているのは、感染増加の著しい自治体の長の方々のようで、漸く政府から緊急事態宣言が出ることが決まり、積極的な対策が取られると思いますが、デルタ株の性質から見ますとかなりの困難が予想されます。

というのも、従来の飛沫感染のレベルで考えられていた事では対応が不十分の可能性が高くなっているという見方が強くなっている状況があるからです。

コロナウィルスが、飛沫感染だけでなく、エアロゾル感染、いわゆる空気感染の可能性があること(飛沫の水分が蒸発しコロナウィルスそのものが空中を浮遊して、吸い込んだ人に感染する)、が解って来たという事のようです。

最近特に、感染経路不明という感染者が増えていることも確かなようで、これでは、航空機や列車バスなどさらには、感染対策をとったた建物や部屋の中でも油断はできないのではないでしょうか。

更に、デルタ株の増殖力は、当初のウィルスと較べて千数百倍から2000倍という研究も結果も出されています。感染から発症までの期間も2日ほど早い(他者に感染させる可能性も早い)という研究もあるようです。

加えて、ワクチン接種済みの人の感染もあるようですから(ただし軽症とか)、本格的な対応は大変だと思われます。

望まれるのは、各人がそれぞれどこまで感染対策を自主的に実行するかにかかっているということになるのですが、国民全体をそうした気持ちに急速に変化させることができるかどうかでしょう。

まさに、政府と国民が心を合わせなければできないことではないかと思われますが、どういう展開になるのでしょうか、これからも毎日発表される感染者数、重症者数などが減少することを願うばかりです。

コロナの中の東京五輪開会式を前に

2021年07月23日 13時33分10秒 | 文化社会
色々ありましたが、今日は1年遅れの東京五輪開会式です。
日本が国として決行を決めて、IOCはじめ多くの国が賛同し、実行ということになったからには、最後までベストを尽くしてやるしかないでしょう。
 
天皇陛下が開会宣言をされることが決まったことは、大きな意義のあることだと思います。
恐らく、通常の五輪開会宣言とは趣を異にするものになるのでしょうが、世界中がコロナ蔓延という異常事態の中にあって、古代オリンピック、近代オリンピックを貫く「争いを封じて競いに変える」という人類の理想の姿を追求する精神を明示するものになるではないでしょうか。
 
既に国連では、古代オリンピック以来の伝統である「オリンピック休戦」を満場一致で決議していますが、今回の東京五輪は、いかなる困難の中でも、このオリンピック精神は堅持されなければならないという世界人類が求めるところを、このオリンピック実行の中で、世界に明示しなければならない役割を持つと考えています。
 
無観客という選択は、コロナ・パンデミックの中での決行という意味では、コロナに対抗する知恵と行動力を人類は持つという信念を現実に実行の中で示すという大きな役割を持つのではないでしょうか。
これをやりきることが、人類の可能性を示すことでもあるのでしょう。
 
幸い、今日の世界は、多様な音声、映像の組み合わせをどこでも活用できるという人類の知恵の成果を共有しています。
東京でのアスリートの一挙手一投足は、瞬時に世界の至る所で、場合によっては現場よりも詳細に伝わっていくのです。
 
アスリートの感覚としても、例え無観客であろうと、世界の観衆の中で、その応援を得て頑張っているという感覚を、既に自然と身に着けているのではないでしょうか。
 
主催国日本としては、やるからには、この環境の中で出来ることを確りとやることに徹することが最も大事なことだと思います。
多分、日本人の生真面目さが、それを可能にすると信じながら、異形の東京五輪を見守りたいと思っています。

日本流の「諺」を考える:「水に流す」は日本的?

2021年07月19日 22時12分30秒 | 文化社会
話すとき、モノを書くとき、我々はよくいろいろな諺を使います。

多くの人が良く知っている諺を使うと話が通じ易くなるということはよくあります。
たとえば、「いやぁ。やめておこう、『君子危うきに近寄らず』ですよね」などと言ったり、
「やっぱりやるか『虎穴に入らずんば虎児を得ず』だ」と全く反対の行動にそれぞれ都合のいい諺があります。

こうした日本の諺は、殆ど中国の故事に由来を持つものでしょう。それ程この千数百年の日本文化は、中國の文化を源流にしているということです。

ただ、「諺」というのは、書いたり話したりしても、相手が知っていたり、すぐ理解したりしてくれないと効果がないので、千年とか、何百年の間には、あまり共感を得られずに、自然淘汰のようにして消えてしまったものも沢山なるのでしょう。

ですから、古い故事来歴をもって今も残っている諺は、余程日本人の考え方に叶ったものということが出来るのではないでしょうか。

ところで、そういう意味では、日本流、あるいは日本産の諺にはどんなものがあるのでしょうかと何となく考えてみました。
日本産の諺なら、ますます、日本人にしっくり来る、みんなの共感を得やすいものだろうという気がしたからですし、また日本の長い歴史の中で、淘汰されずに残っているのであれば、まさに日本らしいものということになります。

「和を以て貴しとなす」などは諺というより、聖徳太子の憲法17条の第1条ですから、ちょっと諺としては固すぎますでしょうか。

ネットで調べてみても、日本らしい諺にもいろいろあって、もとは中国だったり、欧米にも同じような諺があったりするものが沢山あります。
「猫に小判」が英語では「豚に真珠」だったり、ネットでは色々な諺を日本、中国だけでなく欧米もネットして教えてくえます。

そんなのを見ていて、何となく気がついたのは「(過ぎたことは)水に流して」という言い方です。
これは「諺」ではないということなのか、諺の辞典でもあまり見かけませんが、何か大変日本的なように感じられるのです。

中国では、あまりぴったりした成語はないようで、その代わりに「臥薪嘗胆」などという「絶対忘れないぞ」という逆の四文字熟語は有名です。

英語では Let bygones be bygones (過ぎたことは過ぎたこと)というのがそれにあたるのではないかという解説もありますが、これもどうもピンときません。

どうも日本文化というのはあまり「しつこく」考えるのが好きではないようで、死ねば誰でも仏様で、憎しみも恨みもそこまででお仕舞い、「死者に鞭打つ」ような気にはあまりならないといった淡泊さが特徴なのかなといった気もしてきます。

日本列島は細長くて、背骨になる山脈があり、分水嶺からどちらに流れてもみな急流です。川に流せば、あれよあれよという間に見えなくなります。取り返しは付きません。

縄文の昔から、台風はあったでしょうから、その度に何もかも流れていって消えてしまうという経験から、人の世のトラブルも、すべて「水に流す」と、後は何かさっぱりしてしまうという考え方が生まれたのかななどという気がします。

何か、これは大変に賢い考え方のような気がしますが、日本以外ではあまり通用しないような考え方なのでしょうか。
だからでしょうか、良くも悪くもこれが日本的なのかなといった感じがします。

コロナ後を見据えた経済政策 9

2021年07月11日 17時11分37秒 | 文化社会
財政再建は急ぐべからず、先ず経済成長、財政再建はその結果
このシリーズでは、SDGsの理念に従って、持続可能な安定成長路線に日本経済をのせるには、という検討をしているわけですが、これまでに消費拡大のために必要な所得税の改革、高度技術の開発を促進するための法人課税の改革をとりあげてきました。

税制を改革するということは、政府がこの国の在り方を改めるという事ですから、その政府の意思が国民に伝われば、国民の意識や行動も変わり、国民生活も、技術革新活動も活発になり、経済はは安定成長路線に乗るはずです。

多分その辺りで出て来る問題が、税制改革も結構だが、今まで政府が積み上げてきた膨大な財政赤字、GDPの2倍以上の国債残高はどうするのか、という疑問、意見が出て来るように思います。

安倍政権は財政再建を言いつつ何もできず、菅政権はコロナでさらに巨大な赤字国債を積み上げたばかりです。
財政再建の目標は、先ず、基本的にはプライマリーバランスの回復ですが、安倍政権も菅政権も、目標は決めるものの、実現性は全くないという結果の繰り返しです。

では、財政再建問題は、どう考えるべきなのでしょうか。
昨今、アメリカ発のMMT理論(新時代の貨幣理論)などというのが出て来て、日本のような借金財政でもインフレにならないのだから、財政赤字は特に心配することはない。インフレにならなければそれでいいのだ、などと主張するようです。

この問題については、このブログでは昨年、MMT問題のシリーズ、また、日本の国債が紙屑になる条件のシリーズとして検討してきて、ほぼ結論は出ています。
単純に言えば、MMT理論はアメリカ発で、日本の状態を前提にしているから成立する、とまあそんなところです。

理由は、アメリカは基軸通貨国で、ドルを刷ればよい、日本は万年黒字国で、外国の持っている日本国債は数%で、海外取引上の信用が当面無くなることはないといった条件の上に成立することのようです。

もう一つ付け加えれば、政府主導の新自由主義で、労働組合の力が弱まり、先進国では賃金インフレが起きにくくなっているという事もあるでしょう。

昨年来の検討で見て来ましたように、現状では日本の国債が信用を無くする(円が暴落する)という事は、起きないようですので、巨大な政府債務を早く何とかしなければならないと政府が言って、国民を心配させることは大変まずい政策選択です。

安倍政権も菅政権も、財政再建を旗印に掲げて、出来るはずがない様なプラマリー・バランス回復計画を立てて、当初予算だけは辻褄を合わせ、計画の期限が近づくと「駄目でした」と先延ばしの再計算を繰り返しています。
コロナ対策で、緊急事態宣言を4回も繰り返すのと似ています。失敗の繰り返しです。

財政健全化は経済が成長しなければできません。ゼロ成長でやろうとすれば、多分それは、日本がかつての韓国やギリシャのようにIMF管理になった時でしょう。

ですから、日本が万年黒字国で、世界的に信用があるうちに、早く経済が成長する政策を取り、地道に時間をかけて、国際的な信用を維持しながら、小幅でも確実に進めていくというのが最善の政策選択でしょう。 
 
財政再建は大事なことですが、出来ないことを焦って、じり貧になるよりも、万年黒字国という信用を確り維持しながら、先ずは、このシリーズで見てきたように、GDPの配分を税制も活用して「成長できる形」に組み替え、牛歩でも進めれば、何時かは片ついているということになるのです。

 世界がSDGsを最重要な課題としていることを確りと理解し、税金を決める政府も賃金を決める労使も協力して格差社会化を逆転し安定所得層を増やし、もう一方では先端技術開発により多くの資源を割くような国づくりが必要なのでしょう。

コロナ後を見据えた経済政策 8

2021年07月09日 17時23分54秒 | 文化社会
法人課税の構造改革でSDGsを目指す
「プラザ合意」(1985)前の日本の法人税率は40%、平成不況では30%に下げられましたが、その後、安倍政権で年々下げられ現在は23.2%です。

確かに消費不振に比べれば、企業の設備投資が僅かな成長率を支えてきたという実績はあるかもしれませんが、日本経済を安定成長とか力強い成長に向かわせるような効果は、法人税の減税で実現することはなかったようです。

勿論、消費需要が活発になって、国内経済を需要が引っ張るようになれば、企業の設備投資も活発になるでしょうが、SDGsを目指す経済ということになりますと、これには当然高度な技術開発が必要になり、法人税制もそうした要請に添うものでなければならないでしょう。

既に、日本の研究開発投資の停滞には何度も触れていますが、現在の最大の問題であるワクチンの開発についても、いかに日本が遅れてしまっているかということが、今回のコロナ禍で、はしなくも明らかになってしまいました。

これは、法人税減税の中で、法人課税の構造そのものを、技術立国と言われる日本経済のあるべき姿にふさわしい物にしてかなければならないという喫緊の要請を、国民の前に明らかにしたものではないでしょうか。

勿論問題はワクチンだけではありません。再生エネルギー、蓄電技術、省エネ、省資源、といった基礎的な物から、日本社会の高度情報化といった問題、例えば、マイナンバーカードやスマホが、国民生活をどう変えるかという問題、その条件整備のために必要となる基礎教育から高等教育までのシステム構想などなど、既に日本は先進国ではない分野がどんどん増えているような状態を変えていくのでなければならないでしょう。

サステイナブルな開発発展過程をたどる安定した成長路線を構築するために必要な政策、それに必要な法人課税構想ということになりますと、アベノミクスの中でのような単なる減税ではなく、望ましい研究開発に企業が経営資源を積極的に集中するような税制が必要でしょう。

最も解りやすい伝統的な方法としては、法人税は引き上げ、その増収は、レベニューニュートラルの原則に従って、望ましい研究開発投資に対しての加速償却制度に充てるといった方法があるでしょう。

法人税の基本税率は引き上げられますが、SDGsに適う高度な投資については積極的に減税の対象にするという方法です。
レベニューニュートラルですから、トータルの法人企業の税負担は変わりません。

そして、恐らくこうした政策の結果、消費の安定成長の効果も含めて、中・長期的に成長率が高まるでしょう、その結果は、租税弾性値1.1(高度成長期は1.2)に従って、税収は伸びるでしょう。

これこそが、国家財政のまともな姿で、経済が成長しないような政策を取りながら、国債を発行して何か国民の人気取りをしようなどというのは、まともな政府、まともな財政政策とは言えないと考えるべきでしょう。

2021年6月日銀短観:好調、目先停滞、投資計画堅調

2021年07月02日 22時17分57秒 | 文化社会
2021年6月日銀短観:好調、目先停滞、投資計画堅調
昨日、日本銀行から、この6月時点の「全国企業短期経済観測(短観)」が発表になりました。
製造業好調、非製造業も回復という事で、現状はコロナ禍からの回復が見えていますが、この先3か月ほどについては、企業は多少停滞を見通しているようです。

ただ、もう少し長期の見通しに立つ設備投資については、積極的な計画を持っているようで、遅れている中小企業にも、次第に回復の波が及ぶことが期待されます。

数字は、いわゆるDIで回答を100として良いと答えた%から悪いと答えた%を引いたものです。

先ず、代表的な指標である、製造業大企業を見ますとDIは14で、3か月前の3月の5から大きく改善しています。
中堅企業は5(3月は-2)、中小企業は-7(3月は-13)でそかなりの改善です。

改善の遅かった非製造業も、大企業は1(3月は-1)中堅・中小企業も,まだマイナスながら、それぞれに改善をみています。

一方、3カ月後の予想についてみますと、順調に改善ではなく、何となく停滞の雰囲気が全体的に感じられます。
これは多分、デルタ株、東京五輪、ワクチン入荷状況など、どうにも良く解らない点が多いことに起因するものではないかと思われますが、重要なのは、その先秋以降の日本経済がどうなるかでしょう。

その辺りを企業がどう見ているかについては、同じ日銀短観の中で調査されている設備投資計画が参考になるように思われます。
企業が設備投資意欲を持っているということは、将来に対して何らかの目標や希望を持っているということと理解できるからです。

という事で企業の設備投資計画について見てみますと、どちらかというと強きの様子が見て取れます。

 短観では設備投資計画については、2020年度と2021年度の設備投資の実績と計画の対前年伸び率の数字が出ています。
 設備投資の中身は、土地投資を含むものと含まないものがありまして、土地投資はこのところほとんど減少傾向です。

企業の将来に向けて大事なのは「ソフトウェア・研究開発を含む設備投資(除く土地)」ということになるわけですが、これについては、一様に企業は強気の姿勢を示しています。
大企業の場合は製造業、非製造業ともに2020年度は減少でしたが、2021年度につては、製造業10.3%、非製造業10.4%の増加を計画しています。
中堅企業、中小企業においても製造業、非製造業ともに前年のマイナスからプラスに転じ、特に中堅企業の製造業では15%増を計画しています。

その内訳のソフトウェア投資と研究開発投資の分けてみますと、圧倒的にソフトウェア投資の伸びが大きく、中堅企業製造業では55.5%の増加が計画されています。

一方、研究開発投資は、プラスに転じてはいますが、大企業中堅企業ともに1桁の増加にと止まっていて、中小企業の非製造業の62%が唯一気を吐いています。

企業としてはコロナ後にかなりの期待を持っているということは感じられますが、特に大企業の研究開発投資が本格的に動き出してほしいと感じられるところです。

菅総理は、日本をワクチン研究の世界のセンターにと言っていますが、リーマンショックからアベノミクス時代を通して日本の 研究開発投資(注)は、官民ともに異常な停滞を記録しています。
中國、韓国に後れを取る分野も多くなっているようですが、政府の積極政策で、本格的な巻き返しに邁進することを期待したいと思う所です。
注:https://blog.goo.ne.jp/tnlabo/e/4d4fd6af93bfe3f6a21a1a047aac35b1

コロナ後を見据えた経済政策 3

2021年06月30日 19時13分13秒 | 文化社会
消費税減税構想を考える
立憲民主党の枝野代表が、消費税を時限的に5%に引き下げるという構想を発表しました。
これまでの自民党政権は、財政再建という重い問題と、景気刺激という当面の必要のあいだで腰の定まらない状態を続けて来ました。
 
しかし、今回のコロナ禍は、それどころではない緊急事態ということで、財政再建は当面無視、赤字国債発行で、巨大補正予算を組んで、「景気の維持」と「国民の健康と生命を守る」ことの二兎を追いましたが、結果は財政再建の困難化だけで終わったようです。
 
これに対して、立憲民主党の枝野代表の構想は、コロナ後を目指して、まずは国民の税負担を少しでも軽くし、賃金が上がらない中でも庶民生活が少しでも楽になるようにという事でしょう、消費税率を当面半分にし、消費支出を刺激することで、それで消費も増え、景気の回復もを促進されれば・・・という狙いでしょう。
 
 今まで、消費税の増税をすれば、景気は停滞し、国民の支持を失うというジンクスがあったわけで、それなら、消費税を減税すれば国民の支持は増すという期待も当然あるでしょう。
 
では、国民にとって消費税の減税は、どのくらい望ましい物でしょうか。それによる低所得世帯の生活の改善、心理的な安堵感はどうなのでしょうかということになります。
 
増税の負担感と、減税の有難さは必ずしも同じ比重ではないでしょうが、5%の減税はそれなりの実感があるでしょう。低所得の方ほど実感するのではないでしょうか。
 
ところで問題は枝野さん自身「時限的に」と言われていうように、減税は国家財政を圧迫します。財政再建はより困難になりますから、他に何かが必要でしょう。
更に、時限が来て元に戻す時に、経済が好調で皆喜んで5%の増税(10%に戻す)に賛成するかどうかは解りません。
 
といったことで、この問題は、消費税だけで片付く問題ではありません。もちろん枝野さんもそんなことは承知のうえで今後の政策をお考えでしょう。当然、税制全体の改革が必要になります。
 
増減税を行う場合、最も納得的な方法はレベニュー・ニュートラルの原則です。片方に増税があれば、片方に減税がある。その逆も同じです。
そしてその原則は、合理的であり、国民の多くが納得するものでなければなりません。
 
そこで、登場すべきだと思われるのは、消費税の減税をするのであれば、その財源を、どこからか求めるべきではないかというとで、現状の税制から言えば、所得税の累進課税の強化でなければならないでしょう。
 
このシリーズの前に序論的なブログを2、3書きましたが、その時のテーマは、コロナ後の経済政策はSDGsに適うものでなければならず、格差社会化はサステイナブルでは在り得ないという事でした。
 
その視点から見れば、プラザ合意以降、バブル経済と30年の経済停滞の中で、日本社会の格差化はかなりの程度進み、アベノミクスの第1弾で、円レートが正常状態に戻っても、この格差化は止まってはいないと思われる現状の中で、格差社会化を、より格差の少ない社会に巻き戻すためにも、所得税の累進度は、高度成長期なみとは言わないまでも、大幅に見直さなければならないということになるはずです。
 
もともと日本の社会文化的伝統は、欧米流の社会主義思想などを必要としないぐらい、格差を嫌い「和」と「多様なバランス」を尊ぶもので、かつてはジニ係数の低さは北欧諸国と肩を並べるまでになっていました。
 
 コロナ後の日本経済を、安定した健全成長路線に戻すためには、まず、格差是正を目指して所得税制の見直しは必須でしょう。 

マネー経済と格差問題

2021年06月24日 17時49分50秒 | 文化社会
マネー経済と格差問題
マルクスの時代には、資本家が労働者を安い賃金で使って、利益を上げ、格差(貧富の差)が拡大しました。賃金基金説などいう説もあって、賃金はあらかじめ資本家が決めた基金の額だけ労働者に分け与えるものなどと考えられたりしました。
 
こうした資本家が労働者を搾取して格差が拡大することを批判して、社会主義、共産主義が生まれたことはすでに指摘しました。
 
ところで、今日のマネー資本主義と言われる状況の中ではどうでしょうか。
賃金は一応労使交渉で決まるようになっており、最低賃金制もあって、賃金決定の合理性や、格差拡大阻止の政策も整備されているのですが、ピケティが指摘するように、資本収益率の方が経済成長率より高いので、賃金が経済成長率と同様に上がっても格差は拡大するというのです。
 
 ピケティは過去のこうした統計数字の分析から、何時の時代もそうだ(1960年台は例外として)と言っているのですが、マネー経済、金融工学などが盛行する今日の状態は、更に進んだ要素を生んできています。
 
 今、資本家(もちろん全部ではありませんし、一般市民の一部も指向しています)の多くは、労働者を搾取して利得を得るのではなく、労働者など使わずに、マネーマーケットに金を投資するだけで、膨大な利得(キャピタルゲイン)を得ることが可能になっています。
 
所謂、投資から投機へ、さらに多様な手段(信用取引、高レバレッジ、各種のデリバティブなどの活用、金融工学の発達)を擁するマネーゲームの巨大な世界が育っているのです。
 
その世界の資金量は、GDPという指標で語られる実体経済が活用している資金量とは(正確な数字は産出不能と言われますが)複数桁違いに大きい数字になると言われる状態です。
 
こうしたマネーゲーム、金融工学の世界は、もともとアメリカが、実体経済の赤字を、マネー経済で取り戻そうとして発達させたと言われますが、今や、世界では(法人税率を低くして)マネー立国を志向する国まで生まれているのが現実です。
 
アメリカ有名なヘッジファンドや投資銀行などの機関投資家といわれるプレーヤーの収益は巨大で(ときには巨大なロスもあるようですが)、関わるパートナーたちの報酬は、実体経済におけるビジネスとは比較にならない巨額という指摘もあり、その影響が実体経済に関わる経営者の報酬を吊り上げているなども言われています。
 
しかし、そうしたマネー経済分野の報酬や賃金が実体経済に関わる人たちの賃金に影響することは一般的には起きていないようで、実体経済の世界とは別世界の現象のように見られているようです。
 
とわいえ、人口の1%がその国の富の9割を所有するなどというのは、まさに異常な格差社会でしょう。
 
 ただおかしなことに、その影響が、労働者のへの配分「賃金水準」を低く抑えるようなことになっているかというと、そうでもないようですし、巨大なキャピタルゲインが、消費者物価の上昇を齎しているかというと、そうでもないようです。
 これは一体どういう事でしょうか。

どんな社会で格差が拡大するのか

2021年06月22日 17時31分36秒 | 文化社会
どんな社会で格差が拡大するのか
中世、西洋では王様が国を治め、日本では殿様が藩を治めていた時には、格差は殿様次第だったのでしょう。領民の生活水準を豊かに保った領主は、名君として慕われ、苛斂誅求で領主だけが贅沢三昧ということろは通常長続きしなかった(サステイナブルでなかった)ようです。
 
大航海時代から産業革命と社会は進歩しますと、今度は資本を蓄積の個人や職業間の偏りが大きくなり、典型的には資本家と労働者の所得格差が拡大して、社会主義・共産主義思想が生まれます。
結局、初期の資本主義は格差の拡大のせいで、サステイナブルではなかったようで、一部には共産主義革命で、平等を志向する国が生まれたりします。
 
そうした国にはどうなったかと言いますと、平等を確保するために政治権力が強化され、結果は政権中枢に富が集中し、国民はいわば平等な配給で暮らし、政権中枢は苛斂誅求の封建領主のようになって、政権中枢と国民の間の格差は巨大になるり、民心は離反、サステイナブルではなくなり国家崩壊(典型的な例がソ連邦)となるようです。
 
革命まで至らな国では、政権がサステイナブルな社会にするために部分的に社会主義を取り入れ、累進課税、社会保障政策などで、較差の拡大を防ぎ、資本主義の社会主義化などといわれながら格差社会化の進展を防ぎ、サステイナビリティを確保してきました。
 
イギリスの「揺籃から墓場まで」の社会保障や、北欧のジニ係数を低く抑える福祉国家政策が、結局は生き残ったのです。
 
此処までのところは、資本主義の福祉社会化が、格差拡大を防ぎ、サステイナブルな経済社会への重要な道筋と考えられましたが、そこにも多少の落とし穴がありました。
 
それは、福祉、社会保障のための負担が次第に過重になり、国の生み出す付加価値、GDPに占める資本蓄積の部分を狭め、開発のための原動力としての資本蓄積が弱くなるという問題でした。
 
結局国は不足する開発のための投資資金を借金である「国債発行」に求め、財政の不健全さが増し、サステイナブルな経済発展を阻害することになったのです。
 
この状態は、現象としては、いわゆる「スタグフレーション」という形で現れ、その是正のために模索された政策が、資本主義の本卦帰りでもある「新自由主義」だったようです。
 
これがまさに、レーガン革命、サッチャリズムなどに代表される動きで今日に至る状況になっているようです。
 
確かにこれは、スタグフレーションという当時の社会主義的資本主義の行きづまり状態から脱出して、より安定で、サステイナブルな経済社会に向かうためには適切な方向だったのですが、それが政権交代による保守政権によって行われたことから、新自由主義は、政権が強行するもの(典型的な例は、サッチャー政権は、イギリスの世界に冠たる最低賃金制を一時廃止しています)というイメージが生まれたようで(政権による既得権打破が新自由主義だといった誤解も生まれ、あちこちで混乱があるようです。
 
日本でも、小泉政権の郵政改革や、安倍政権の「決める政治」、菅政権の説明のない強硬策などが新自由主義のように言われたりしています。
 
詰まる所、格差社会化というのは、GDPを国民の間でいかに分配するかということで、それには2つの側面があるようです。

1つは、国民が今日の豊かさを享受する消費支出と、明日への開発を生み出す資本蓄積にどう分けるか、
もう1つは、消費支出への分配の中で、所得格差がどの程度まで認められるのかという問題です。

通常、格差問題とは後者を差しますが、スタグフレーションの問題は前者の問題です。

SDGsに「D」すなわち開発という言葉がある以上、上の2つの問題を適切に処理できないと、SDGsは達成できないという事でしょう。

そしてもう一つ新しい問題が発生したのです。それはマネー資本主義と格差社会化の問題、それとサステイナビリティの奇妙な三角関係です。
長くなるので、この問題は次回にします。