COBOLは日本では通常「コボル」と読む。コンピュータのプログラム言語である。しかも古い。1959年に制定されたのが最初で、その後幾多のバージョンアップがなされてきたが自然言語(英語)的な記述法から非理系の人にも理解しやすいプログラム言語として広く普及している。
プログラム言語としては非常にしっかりした作りになっており信頼性が高く、従って世界中のビジネスシーンで広く使われている。現在でも日本の大企業(特に金融・保険系や大企業の営業システムの多く)では未だにCOBOLがメインのプログラム言語として使用されている。古い言語なのになぜ使われているかと言えば、安定性が絶対重視される汎用大型機のシステムでは非常に信頼されているからである。
(*1)
さて、田原氏である。
今から約3年前に彼の討論番組で社会保険庁の年金問題を取り上げた際に田原氏自身が
「COBOLなんか使ってるから社会保険庁はだめなんだよ」
と発言した。
これは全くお笑いで田原氏は何を血迷ったのか、と。社会保険庁の問題は人的要因、つまり所属官僚たちの怠慢と悪意によるもので、コンピュータシステムの問題ではない。百歩譲ってシステムに問題があったとしてもそれはシステム設計・開発、そして運用の問題であってプログラム言語自体の問題ではない事は200%明白なのである。(*2)(*2a)
このように基本的な知識ですらとんでもない事実誤認を平気でしてしまう人がジャーナリスト面で闊歩できているというのは日本のジャーナリズムのレベルの低さを現しているのではないだろうか。
前述のように日本の中枢を担うシステムの多くがCOBOLで動いているのである。田原氏が誰から変な入れ知恵されたか、或いは付け焼き刃の知識で変な思いこみをしたか知らないが、知ったかぶりが大恥を招いた結果となったのだし、田原氏がIT関係に対しては全く無知であることが周知されたのであった。全然無知無知かたつむりである。田原氏の強権的な番組進行は世間で度々話題になるが、その強面の姿勢がついつい知ったかぶりをさせてしまったか。
先日、「田原総一朗の遺言」という番組が放送された。ちなみに田原氏は元々は東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のディレクターであった。そこで披瀝された彼のドキュメンタリー製作思想は一言で言えば正に「やらせ」そのものである。田原氏が言うには「やらせ」は相撲で言えば「土俵」に相当するものでドキュメンタリーの舞台作りなのだ、という認識だそうだ。
ここでも強引な論理で自己弁護する田原氏だが、実際に彼が製作したドキュメンタリーを視ると彼の強権的で独善的な姿勢が強く実感されるものであった。(*3)(*4)
平易に言い換えれば、基本的に田原氏は常に自分の欲望の通りにモノを作るべく周囲の人や物を自分の都合ひとつでいいように振り回す人物である、ということ。さらに簡単に言えば「己の欲望を満たす事が第一義」であり、その為に周囲を振り回す事を一切気にしない人物、なのである。(*5)
そのエネルギー・行動力と意志の強さには感心する部分も無くはないが、しかし結局のところ、彼が作るモノは普遍的な価値観に通じるものではなく前述の通り彼自身の個人的な欲望の充足に重きが置かれているように見えるのである。
その意味でも田原氏をいっぱしのジャーナリストとして扱う日本の社会はいかがなものかと思うし、マスコミを中心とした社会の未熟な一面を改めて痛感させられるのである。
(*6)
------------------------------
(*1)
余談だが、ちなみに ジャパネットたかた のシステムもCOBOLで書かれている。
(*2)
田原氏は当時の安倍晋三総理と非常に親しい関係にあり、その流れで安倍政権を擁護したい(社保庁問題の原因を人や政治ではなくITシステムにすり替える)が為に思わず言ってしまったのかもしれない。いずれにしてもみっともない駄目発言であることには間違いないのである。(蔑笑)
(*2a)
本当に「COBOLが駄目」だと言うなら、田原氏が ”COBOLのどこがどう駄目”なのかきちんと説明する責任があるだろう。しかし彼に説明はできない。田原氏は無知であり、恐らく誰かに吹き込まれたのだろう、知ったかぶりでCOBOLの誹謗中傷をしているだけだからだ。(蔑笑)
(*3)
確かに「真実」を描き出すのにリアルな「ファクト」だけに拘る必要はなく表現手法のひとつとしての「やらせ/フィクション」は単純に否定されるものでもない。しかしこの項で言いたいのはそこではなく田原氏の人格とその影響について、だ。
(*4)
人の生き方や人生上の根本思想はその人の顔つきにも表出するものだ。田原氏の目つき顔つきを見ればここで語っていることがあながちはずれではないことが見た目からも納得できるであろう。目つき顔つきはその人の生き様を示すアイコンである、とも言えるのだ。
(*5)
田原氏は他人の発言中に平気で割り込んできて話の腰を折る。当然のようにそれをする。自分が何か思いついたらすぐに「言いたい」のだ。まるで子供である。自分が「言いたい」だけで他人の主張などどうでもいいのである。そしてそれが全て、と言っても過言ではないほど単純で独善的なのだ。
(*6)
それでも田原氏がTV界から重宝されているのは混沌とした状況を引っかき回す役目として重宝されているからである。テレビ局は政治の真実を描き出す事には関心が無く、例えば討論が激しくなり喧嘩のような"TV的に面白い"状況を演出し放送することで話題を作り視聴率に繋げていくことにしか関心がない。田原氏自身もテレビ局出身でありTV(番組・制作者)の扱い方を心得ており、また演出側の意図をよく理解しているからこそ番組制作者は好んで使いたがるのである。
プログラム言語としては非常にしっかりした作りになっており信頼性が高く、従って世界中のビジネスシーンで広く使われている。現在でも日本の大企業(特に金融・保険系や大企業の営業システムの多く)では未だにCOBOLがメインのプログラム言語として使用されている。古い言語なのになぜ使われているかと言えば、安定性が絶対重視される汎用大型機のシステムでは非常に信頼されているからである。
(*1)
さて、田原氏である。
今から約3年前に彼の討論番組で社会保険庁の年金問題を取り上げた際に田原氏自身が
「COBOLなんか使ってるから社会保険庁はだめなんだよ」
と発言した。
これは全くお笑いで田原氏は何を血迷ったのか、と。社会保険庁の問題は人的要因、つまり所属官僚たちの怠慢と悪意によるもので、コンピュータシステムの問題ではない。百歩譲ってシステムに問題があったとしてもそれはシステム設計・開発、そして運用の問題であってプログラム言語自体の問題ではない事は200%明白なのである。(*2)(*2a)
このように基本的な知識ですらとんでもない事実誤認を平気でしてしまう人がジャーナリスト面で闊歩できているというのは日本のジャーナリズムのレベルの低さを現しているのではないだろうか。
前述のように日本の中枢を担うシステムの多くがCOBOLで動いているのである。田原氏が誰から変な入れ知恵されたか、或いは付け焼き刃の知識で変な思いこみをしたか知らないが、知ったかぶりが大恥を招いた結果となったのだし、田原氏がIT関係に対しては全く無知であることが周知されたのであった。全然無知無知かたつむりである。田原氏の強権的な番組進行は世間で度々話題になるが、その強面の姿勢がついつい知ったかぶりをさせてしまったか。
先日、「田原総一朗の遺言」という番組が放送された。ちなみに田原氏は元々は東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のディレクターであった。そこで披瀝された彼のドキュメンタリー製作思想は一言で言えば正に「やらせ」そのものである。田原氏が言うには「やらせ」は相撲で言えば「土俵」に相当するものでドキュメンタリーの舞台作りなのだ、という認識だそうだ。
ここでも強引な論理で自己弁護する田原氏だが、実際に彼が製作したドキュメンタリーを視ると彼の強権的で独善的な姿勢が強く実感されるものであった。(*3)(*4)
平易に言い換えれば、基本的に田原氏は常に自分の欲望の通りにモノを作るべく周囲の人や物を自分の都合ひとつでいいように振り回す人物である、ということ。さらに簡単に言えば「己の欲望を満たす事が第一義」であり、その為に周囲を振り回す事を一切気にしない人物、なのである。(*5)
そのエネルギー・行動力と意志の強さには感心する部分も無くはないが、しかし結局のところ、彼が作るモノは普遍的な価値観に通じるものではなく前述の通り彼自身の個人的な欲望の充足に重きが置かれているように見えるのである。
その意味でも田原氏をいっぱしのジャーナリストとして扱う日本の社会はいかがなものかと思うし、マスコミを中心とした社会の未熟な一面を改めて痛感させられるのである。
(*6)
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(*1)
余談だが、ちなみに ジャパネットたかた のシステムもCOBOLで書かれている。
(*2)
田原氏は当時の安倍晋三総理と非常に親しい関係にあり、その流れで安倍政権を擁護したい(社保庁問題の原因を人や政治ではなくITシステムにすり替える)が為に思わず言ってしまったのかもしれない。いずれにしてもみっともない駄目発言であることには間違いないのである。(蔑笑)
(*2a)
本当に「COBOLが駄目」だと言うなら、田原氏が ”COBOLのどこがどう駄目”なのかきちんと説明する責任があるだろう。しかし彼に説明はできない。田原氏は無知であり、恐らく誰かに吹き込まれたのだろう、知ったかぶりでCOBOLの誹謗中傷をしているだけだからだ。(蔑笑)
(*3)
確かに「真実」を描き出すのにリアルな「ファクト」だけに拘る必要はなく表現手法のひとつとしての「やらせ/フィクション」は単純に否定されるものでもない。しかしこの項で言いたいのはそこではなく田原氏の人格とその影響について、だ。
(*4)
人の生き方や人生上の根本思想はその人の顔つきにも表出するものだ。田原氏の目つき顔つきを見ればここで語っていることがあながちはずれではないことが見た目からも納得できるであろう。目つき顔つきはその人の生き様を示すアイコンである、とも言えるのだ。
(*5)
田原氏は他人の発言中に平気で割り込んできて話の腰を折る。当然のようにそれをする。自分が何か思いついたらすぐに「言いたい」のだ。まるで子供である。自分が「言いたい」だけで他人の主張などどうでもいいのである。そしてそれが全て、と言っても過言ではないほど単純で独善的なのだ。
(*6)
それでも田原氏がTV界から重宝されているのは混沌とした状況を引っかき回す役目として重宝されているからである。テレビ局は政治の真実を描き出す事には関心が無く、例えば討論が激しくなり喧嘩のような"TV的に面白い"状況を演出し放送することで話題を作り視聴率に繋げていくことにしか関心がない。田原氏自身もテレビ局出身でありTV(番組・制作者)の扱い方を心得ており、また演出側の意図をよく理解しているからこそ番組制作者は好んで使いたがるのである。