Altered Notes

Something New.

音楽ビデオにおける映像制作屋のマスターベーション

2019-07-04 15:37:00 | 音楽
1970年代前半に最高傑作を発表し大活躍したEL&P(エマーソン・レイク&パーマー)というトリオは有名なので皆さんもご存知と思う。今回はそのEL&Pの音楽や演奏ではなく、彼らの記録映像を制作した映像とそれを制作した映像屋たちについて記す。

下記のビデオはEL&Pが「展覧会の絵」を演奏した1971年頃のライブ演奏を撮影したものである。

emerson, lake and palmer pictures at an exhibition full video

この映像のおよそ17分14秒あたりから画面上ではまずEL&Pが映っている映像がソラリゼーション風になり、さらにサイケデリックな模様や毒々しい色使いの抽象パターンが被せられて演奏者の様子が極端に見にくくなる。ついにはサイケ映像だけになってしまい元々の映像(演奏者たち)は画面上から消えて見られなくなってしまう。曲目で言うとグレッグ・レイクが歌う「賢人(The Sage)」が終わって次の「古い城(The Old Castle)」に移り、キース・エマーソンがシンセサイザーのリボンコントローラーをしごいている場面からおかしくなってくる。

これと全く同じ事が後半の「プロムナード」のあとに演奏される「バーバヤーガの小屋」の冒頭から性懲りもなく再び繰り返される。ひたすら辟易するばかりだ。

こうした映像上の遊びは音楽を聴くことを中心にして映像を鑑賞している人にとっては完全に邪魔であり、サイケ映像が出ている間は演奏者・演奏風景は一切見られなくなるのだ。これは酷いことである。あまりにも酷い。

なぜこんなことになるのか?

1960年代から1970年代にかけての時代は麻薬や覚醒剤の流行に伴ってやたらにサイケデリックな装いに彩られた音楽や美術が溢れていた時代であり、当時の映像制作屋もまたその時代の空気の中に居たのであろう。「古い城」や続く「ブルース・ヴァリエーション」の跳ねたリズム・ビートとキースのフリーキーな演奏を聴いてサイケ映像に溺れたくなってしまったのかもしれない。しかしその欲動は映像屋の個人的なものであり普遍妥当性は無い。正に映像屋の自己満足/マスターベーションであり、純粋にEL&Pの音楽を鑑賞したい人々はこの映像屋のマスターベーションに無理やり付き合わされるのだ。なんという迷惑であろうか。強烈な憤りしか感じない。

その時の映像屋が想定していたユーザーは音楽が目的の人々ではなくサイケ文化全般を楽しむ一般的な若者達だったのかもしれないが、そうだったとしてもそこで加えられた映像効果は映像屋の勝手な推測と勝手な好み・趣味の話である。音楽そのものを楽しみたいユーザーや研究したいユーザーにとっては演奏者が曲を演奏する様を映像で見られないという映像効果はあり得ないナンセンスであり地獄のような仕打ちに思えたであろう。(私はそう思った)

曲という素材を演奏者がその時その場でどのように演奏したか、それを鑑賞し確認できるのがコンサートビデオの醍醐味の一つであるが、その魅力を根本から奪ってしまうのは相当に問題行為である。

少なくとも、EL&Pがコンサート会場で演奏した映像素材は存在していて、変な映像加工さえしなければユーザーはそのままミュージシャンが演奏する様を鑑賞し楽しむことができたはずなのである。せっかくの元の映像をサイケ映像効果でぶっ潰してしまうナンセンス、そして映像屋の個人的な趣味と思い入れを強制的に押し付けてくる無神経さには本当に腹が立つ。

こうした映像屋のマスターベーションはこのEL&Pの例にとどまらない。欧州で制作された音楽もののビデオ映像にはやたらクローズアップが多用されたものが少なくない。1976年のウェザー・リポートのモントルー・ジャズ・フェスティバルでの演奏ビデオなどもそうだが、途中からやたらクローズアップの映像ばかりになってしまってバンド全体が今どのような状況にあるのか全くわからないような見苦しい映像、といった例もある。なぜクローズアップ(ビッグクローズアップと言った方がいいほど寄りすぎな映像)ばかりになってしまうのか理由が全く想像できない。映像というのは映像制作側の意図が素直に汲み取れてはじめて楽しめるものなのだが、カメラワークや映像加工の意図が鑑賞者側に全く伝わらない映像は退屈の極みと言って過言ではない。

こうした問題はジャズやロックだけではない。

クラシックでは毎年正月におなじみのウィーンフィルのニューイヤーコンサートである。これもまた途中から風景映像やバレエを踊る男女の映像に切り替わってしまうシーンがあり、演奏者が曲を演奏する様子を見たい純粋な音楽ファンの顰蹙を買い続けている。

日本の映像制作者も基本的に身勝手な傾向はもっているようである。ジャズのコンサートを収録したビデオ映像やテレビ番組を見ても、映像制作者側に”そもそも音楽を判っていない”傾向が見られることがしばしばあり、その度に残念な思いをしていた。

それは例えばやたらに演奏者のクローズアップ(狭い画角)の映像が続くなど、音楽がバンド全員によるアンサンブルで成立している事をそもそも理解していないのでは?と思えるようなケースもある。百歩譲ってその理由を想像するなら、昔(アナログ映像の時代)は小さな画面サイズのテレビ受像機が多かったので、どのカテゴリーの番組であろうとクローズアップを多用せざるを得なかった、という事情である。

それにしても…というくらい、実は映像制作者は音楽を知らない場合が多い。音楽に詳しい人なら演奏の映像を見ていて「あ、今どうしてこっちを撮ってくれないのか?」とか「なんでこの瞬間は全体(引き)を撮らないんだよ!」などと憤りを感じたことが一度や二度はある筈だ。

そう、往々にして映像制作者たちは音楽を知らないし、知ろうともしないし、そもそも音楽に対する愛情が皆無であることがほとんどである。音楽を、演奏を、どのように撮影してどのように仕上げればいいのか、全く判っていないのだ。判っていない人間が作る作品ほど無価値なものはない。かくして世の中に酷い音楽ビデオはばら撒かれることになった…ということだ。

上でウィーンフィルの例を挙げたが、クラシック音楽を撮影した映像の場合はだいたい演奏や場面の進行にシンクロさせた映像設計がなされることが多く、ジャズやロックのケースに見られる無神経で酷い映像は比較的少ないと思われる。映像制作者側がある程度そこで演奏される音楽を理解して撮影し編集するからである。

現在は流石に1970年代の昔のようなあまりに酷すぎる映像は多くはないかもしれない。しかし本当に音楽を愛して理解して音楽ビデオの映像制作ができるクリエイターがどの程度いるのか、と考えると「まだまだ」な気がしてならない。





「間違え」か「間違い」か

2019-07-04 08:15:00 | 社会・政治
テレビの報道で自動車事故のニュースを扱っていた時に、アクセルとブレーキの「踏み間違え」という表現が出てきた。これは少しおかしいのだが、こうした妙な言葉づかいは最近とみに増えている印象がある。

今回の例で言うならば、「踏み間違え」のように、そこで切るならば「踏み間違い」とすべきなのだ。

なぜか。

「踏み間違え」と書く場合は普通ならその後に何か文字が続く事が前提になる用法だからである。
「間違え"た"」とか「間違え"る"」「間違え"てしまった"」といった具合に、である。

今回のようなケースでは「踏み間違い」と記すのが正しい。

何かが間違っている事を表したり、間違っている行動や間違った概念それ自体を指す言葉として言うのなら「間違い」と書くべきであり、間違った行動をしたような場合は「間違えた」「間違える」となるだろう。

最近はこうした言葉の使い分けができない若い人が増えている印象がある。マスメディアの中にもそうした人間が制作フタッフとして入ってきているのだろう。驚くべきはマスメディアの中にこうした言葉づかいの間違い(”間違え”ではなく)をチェックし修正する人間がいないことである。こうして間違った言葉の用法がマスメディアで垂れ流され、それにより社会が悪影響を受け、そして言葉がどんどん崩壊していくのである。