川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

阿射加神社の歴史・文化

2018-07-28 07:11:36 | 日記
 松阪史跡探訪会主催の第10回史跡めぐりで阿射加神社を訪れ、松本明徳宮司からお話をお聞き、またいろいろな資料を参考にしてまとめました。
 阿射加神社は同じ社名で小阿坂町と大阿坂町にあり、小阿坂町を「小阿射加神社」、大阿坂町を「大阿射加神社」と呼ぶということです。

✦(小)阿射加神社の概要
       
                      (小阿坂町の阿射加神社) 

・神社名 阿射加神社
・創 建 紀元前13年  
・主祭神 猿田彦大神
・社 格 式内社・旧村社
・家 紋 花菱
・敷 地 境内:5,891坪、境外地:1,215坪
・本 殿 大社造、三殿で本殿をなす(3つの別棟の本殿)
・氏 子 210戸
・宮 司 松本 明徳
・鎮座地 三重県松阪市小阿坂町120番地
・電 話 0598-58-1291
・祭 礼 10月8日
・主な神事 羯鼓踊り、御火試・御粥試神事


✦(大)阿射加神社の概要
   
                      (大阿坂町の阿射加神社)

・神社名 阿射加神社
・創 建 不明
・主祭神 猿田彦大神 
・社 格 式内社・旧村社
・家 紋 不詳
・本 殿 神明造、1つの本殿に3つの扉があり
・氏 子 105戸
・宮 司 松本 明徳
・鎮座地 三重県松阪市大阿坂町670番
・祭 礼 10月8日

✦阿射加神社の創建
 阿射加神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社で、伊勢神宮より8年古い紀元前13年の創建とされています。今から1100年前の醍醐天皇の時代には、皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)と並ぶ由緒ある神社でありました。また阿坂は鎌倉時代には小倉百人一首の選者である藤原定家の領地でありました。

✦猿田彦大神とは
 阿射加神社の主祭神である「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」は古事記の日本神話に登場する大神です。天孫降臨で天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、荒れる地上の国・葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)を治めるため、天上の国・高天原(たかまがはら)から日向国の高千穂峰に降り立ったとき、道案内をしたのが猿田彦大神といわれています。
 この猿田彦大神は阿射加(阿射訶)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)という大きな貝に手を挟まれ海に引き込まれ溺れ死にます。この時、3つの泡が浮き上がり、底度久御魂(そこどくみたま)、都夫多都御魂(つぶたつみたま)、阿和佐久御魂(あわさくみたま)という3つ神が誕生しました。現在の阿坂は伊勢湾の海岸より約8㎞も離れていますが、太古の阿射加は今の一志郡東部の総称であったといわれています。

✦大社三座を祀る
 伊勢の国(三重県)において式内社は253座あり、大社と小社に区別されています。この内大社は18座あり、ほかは小社が祀られています。18座の大社の内、伊勢神宮とその関連の神社に14座祀られており、残り4座の大社の内1座は桑名市の多度大社にあり、あとの3座は阿射加神社に祀られています。

✦かんこ踊り、御火試・粥試神事
 小阿坂町の阿射加神社では、毎年1月の14日に近い日曜日に「かんこ踊り」と「御火試(おひだめし)・粥試(かゆだめし)」が行われます。

 
         (小阿坂かんこ踊り)                    (御火試・粥試)

 小阿坂町のかんこ踊りは、鼓踊りとか神楽踊りとも言われ、松阪市内の8地区に伝わるかんこ踊りの多くは初盆供養踊りですが、このかんこ踊りは豊年祈願や農耕への感謝のために神社に奉納してきた神事踊りです。小阿坂町自治会と小阿坂かんこ踊り保存会が主催して行われます。
戦前は秋祭りとして10月20日に踊られていましたが、今は1月14日に近い土曜日にどんど火や御火試・御粥試と一緒の日に行われています。
 小阿坂のかんこ踊りのいつ頃から始まったかは定かでありませんが、松阪市史によると天明3年(1783)の唄本があり、それ以前から踊られていたことになり、唄の内容から江戸時代初期までさかのぼることができるとしています。
            
 かんこ踊りが終わると、やぐら状に組んだどんど火に火がつけられ、庁屋の囲炉裏では神主により御火試・御粥試が行われます。御火試神事は月数を書いた樫の木の先端を囲炉裏で焼き、その燃え具合で月毎の天候を占ない、粥試は小豆粥釜に竹の筒を入れ、筒に入った小豆や米粒の入れ具合でその年の米の豊作を占うものです。
かんこ踊り、御火試し・粥試については詳しくは、私のブログをご覧下さい

✦私見
 神代の昔の話しは、古事記や日本書紀の記述によるところが大きいが、いろいろな説があり分からないところも多い。猿田彦大神についてもいろいろな人物(神)像があるようです。この猿田彦が“阿射加の海„で漁をしているとき比良夫貝に挟まれ亡くなるのであるが、当時の阿射加は広い地域をさし、その中心となったのが今の阿坂付近であるという考えがあります。
 もう1つの可能性として地質学的に考えてみると。現在の阪内川をはじめ伊勢湾に注ぐ全ての中小河川には多量土砂が上流から流れて堆積しています。時には浚渫もされますが、予算の関係もありなかなか追いつかない状態です。これが昔であれば、堅固な堤防も浚渫のない時代、上流から流れてきた土砂はそのまま海に流れ込んでしまいます。
 松阪市付近を例にとっても、伊勢湾の海岸線はすごい勢いで沖に向かって伸びていることが考えられます。「津」という地名は私のブログ「松阪の地名を訪ねて(3)~「津」の付く地名~」で述べたように、港につく地名です。松阪市であれば郷津、石津、保津、大津は、今は伊勢湾の海岸線から離れていますが、もともとこの付近に海岸線があった時についた地名であると思われます。また船江は「船の入り江」と書き、この付近まで海がきていた時代があってと考えられます。神代の昔が今からどれくらい前かは分かりませんが、今の阿坂地区付近まで海がきていた時代があっても不思議ではありません。ベルファームや阿坂地区の東側に広がる水田地帯はもともと海であったのではないかと推定されます。だから猿田彦大神がなくなったのは今の阿坂付近かも知れません。これはあくまで私の私見です。

参考資料
・「阿射加神社と猿田彦大神」阿射加神社社務所
・「松阪市史」松阪市
・「どんど火・かんこ踊り案内」小阿坂自治会

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2 コメント

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岸江城について (川口保)
2018-08-09 04:12:35
講演会ありがとうございました。

私は、岸江城の話しは聞いたことがありません。
山城ですと、土塁など痕跡が残っている場合がありますが、平地では景色が変わっている場合が多く、分かりにくいのではないかと思います。

ただ、阪内川を始め多くの河川から大量の土砂が海に流れ込みますので、伊勢湾の海岸線はすごい勢いで沖に向かって伸びていると思います。
岸江城が東町付近と仮定するなら、城があった当時、東町付近に伊勢湾の海岸線があったことも十分考えられます。
いずれにしてもロマンのある話しです。
セルフコラボレーション (ラム)
2018-08-03 07:47:53
昨日はご来場いただきましてありがとうございました。
初めて三重の山城界の一端を聞きました。
その辺にもまだあるのかも知れません。

昔、松阪に「岸江城」があったとする記述を見たことがあり探していますが未だ見つけておりません。

東町当りの愛宕川の岸辺というロケーションを想像していますが、伊勢湾から船で遡れる小さな港があったと想像しています。

ご存じないでしょうか。
山城ではなく港を掌握する土豪の館ではなかったでしょうか。
よくいう、海鮮問屋の屋敷のような感じかなとも思います。

阿坂の神社周辺もまだ探索の余地があると思っています。白米城を守る、支援する城であったり、逆に白米城を攻める陣城であったり、戦いが何度もあった土地柄なのでどこになにがあっても不思議ではないと思います。

とりとめのない記述になってしまいました。
今後ともよろしくご指導のほdお願い申し上げます。

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