川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

松阪史跡めぐり②-七夕伝説と鵲橋・波氐神社

2015-07-05 20:57:29 | 日記
         
                      (織姫と彦星が再会する鵲橋)

◆七夕伝説
 七夕は「しちせき」とも読み、5節句の1つに数えられ、日本では7月7日に子どもたちが願い事を短冊に書いて笹の葉につるし、星にお祈りをする年中行事でもあります。
 また7月7日は七夕伝説の日でもあり、天の川を隔てた織姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)が年に1度だけ会うことができる日です。天の川の両岸に立った二人ですが、天の川は増水で渡れず途方に暮れます。そこに鵲(かささぎ)が飛んできて橋を架け、二人は再会できるという話しです。この時の架空の橋が「鵲橋(かささぎばし)」です。

◆鵲と鵲橋
 松阪市の三雲地域には「星合」「鵲」など七夕にまつわる地名がいくつかあり、星合町には七夕伝説の架空の橋と同じ名の「鵲橋」があります。
鵲(かささぎ)という鳥は、私が仕事で韓国に行ったときよく見ました。日本のカラスくらいの大きさの鳥で、日本のカラスは縁起の悪い鳥となっていますが、鵲は羽根を広げると黒い羽根の中に扇の様な白い模様が見え、韓国では大変縁起のよい鳥とされています。日本では九州に生息しているということです。
 ではここになぜ鵲という地名があるのか、何も文献はありませんが、中国あるいは朝鮮から渡来した技能集団の人たちが、住みついたところではないかといわれています。
 鵲橋は大江川に架かる橋で、鵲七夕まつりの舞台にもなります。

◆大伴家持の石碑
 この鵲橋のたもとに明治36年(1903)に建立された「鵲橋の碑」があります。この石碑には奈良時代の歌人で三十六歌仙の一人といわれた大伴家持(おおともの やかもち)の歌と、鵲橋や波氐神社などの由来が書かれています。家持の歌は百人一首に収められている一首です。
『鵲の王多せ類はし耳おく霜乃志ろき越みれ盤夜曽更丹希流』
(かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける)
【現代語約】
 七夕の日、牽牛と織姫を逢わせるために、かささぎが翼を連ねて渡したという橋ーー天の川にちらばる霜のようにさえざえとした星の群れの白さを見ていると、夜もふけたのだなあと感じてしまうよ。(百人一首講座より)
また石碑の碑文については『鵲(かささぎ)橋碑文解読したよ(ハンドメイド和太鼓愛好家集まれ!)』に詳しく書かれています。

 
            (大伴家持の石碑)                    (波氐神社)     

◆波氐神社(現 星合神社)
 松阪市星合町の鵲橋の北方約200mの所に波氐(はて)神社(現 星合神社)があります。この神社には多奈波太姫命(たなばたひめ)(=天棚機姫命)がまつられています。
 星合町には「烏鵲(うじゃく)神社」が、笠松町には「烏鵲橋」(烏鵲は鵲のこと)があったことから、三雲町に合併する前は鵲村と呼ばれていました。

◆鵲七夕まつり
 毎年8月7日、松阪市星合町の波氐(はて)神社と鵲橋を中心として「鵲七夕まつり」が行われます。この祭りは鵲小学校管内の小舟江町、笠松町、星合町、五主町地区で行われるもので、鵲地区住民協議会が主催します。


(写真は平成25年の鵲七夕まつり)


 この七夕祭りは、もともと星合地区で昔から行われていました。文政年間(1818~1830)の紀行文にこの七夕祭りの記述があるということから、200年近い歴史があります。星合地区の子供たちが少なくなって祭りの存続が難しくなってきたため、平成17年(2005)から鵲地区の祭りとしてスタートし、平成18年(2006)からみこしが登場しました。
 またこの祭りは、以前は午前中に行われていましたが、七夕だから夕方がよいのではということで、平成22年(2010)から夕方行われることになりました。

 波氐神社に集合した子供たちは、御輿の出発地点である東西の神社に分かれます。東は五主町の綿積神社、西は小舟江町の八雲神社。祭りの主人公の織姫、彦星は鵲小学校の6年生から選ばれます。波氐神社でお払いを受けた織姫は綿積神社から、彦星は八雲神社からみこしと共に出発します。そして夕暮れが近づく午後4時40分、みこしは鵲橋に到着します。橋の両側に立った織姫と彦星は橋が渡れず途方にくれます。そこに鵲が飛んできて橋を架け二人は再会することができたという話しです。めでたく織姫と彦星は鵲橋の上で会うことができ、祭りはクライマックスを迎えます。
 2015年の鵲七夕まつりも8月7日に行われます。

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