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Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

ラ・ラ・ランド

2017-11-09 | 映画(ら行)


■「ラ・ラ・ランド/La La Land」(2016年・アメリカ)

●2016年アカデミー賞 監督賞・主演女優賞・撮影賞・歌曲賞・音楽賞・美術賞
●2016年ヴェネチア国際映画祭 主演女優賞
●2016年NY批評家協会賞 作品賞

監督=デイミアン・チャゼル
主演=ライアン・ゴズリング エマ・ストーン キャリー・ヘルナンデス ジェシカ・ローゼンバーグ

※結末にちょっと触れてるし、ほめてないので注意ww
世間の評判がよいだけに言いにくいのだけれど、
正直申し上げると僕が期待したものとは違った。

往年のクラシック映画へのオマージュでありながら、
かつてのハリウッド製ミュージカル映画がもたらしてくれる(と僕らが期待してしまう)
この上ない楽しさと極上のハッピーエンドがここにはない。

「ラ・ラ・ランド」は、確かにカッコいい音楽映画だ。
ではあるけれど、黄金期のハリウッドミュージカル映画を期待すると、
それはちょっと違う。

引用されたジミー・ディーンの「理由なき反抗」、
登場する映画スタアの華やかさなど、この映画はハリウッド黄金期の香りを匂わせている。
それなのに、iPhoneの着信音が鳴り響き、プリウスの鍵がズラッと並ぶ現代劇だから
違和感が最後まで消えない。
今どきフィルムが焼けちゃうグラインドハウスな映画館がハリウッドにあるの?
そりゃ潰れるよね。
それに現実に引き戻される着信音だけでなく、火災報知器の音とか映画館の大音量で聴きたくない音も、
僕がこの映画に入り込めない一因かも。

でも、チャゼル監督の演出は前作同様、カッコいい。
ワンシーンワンカットでカメラが走り回るオープニング、
プールの真ん中でカメラが回転し続ける驚きのカメラワーク、
コミカルなタップダンス、
「世界中がアイラブユー」のラストシーンみたいな空中浮遊、
映画館で重なる手と手の胸キュンな場面、
そしてショービジネスの裏側の厳しさ。

ラストで彼が奏でた曲は、
「カサブランカ」の As Time Goes By みたいに二人にしかわからない思い出。
映画はそこで締めちゃえばいいのに、
さらに未練がましい二人の別な展開を観せてさらに切なくしてくれる。
音楽と映画と恋に2時間溺れてハッピーになりたかった僕のような方は、
ちょっと裏切られたのでは。

ラ・ラ・ランド(予告編)



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ルビー・スパークス

2016-08-10 | 映画(ら行)

■「ルビー・スパークス/Ruby Sparks」(2012年・アメリカ)

監督=ジョナサン・デイトン & ヴァレリー・ハリス
主演=ポール・ダノ ゾーイ・カザン アントニオ・バンデラス アネット・ベニング

 ある日突然、理想の彼女が目の前に現れて、しかも自分を愛してくれる・・・なーんて"男子の願望"的な物語は、手を変え品を変え様々なものが作られてきた。長いこと映画ファンやってると「またかい」と思うこともあるけれど、むしろ僕はそのバリエーションを楽しんでいる。一方、無垢な女性を男性がリードして素敵な(しかも自分好みの)レディに育てていく物語も、世の東西を問わず恋愛映画で人気のある展開だ。「プリティ・ウーマン」や「マイ・フェア・レディ」に代表されるこれらの物語は、男性目線にはギリシャ神話をルーツにするピグマリオン願望が、女性目線には次第に洗練されていくヒロインに変身願望が共感を呼ぶポイントだ。そのどちらかだけでも十分ラブコメ映画は成り立っちゃうのだが、男性目線寄りに見たとき、この「ルビー・スパークス」はその両方の要素を含んでいると言える。そういう意味では面白いバリエーションだろう。

主人公はスランプの小説家。デビュー作の成功後、新作が書けずにいた。そんな彼は、繰り返し同じ女性が出てくる夢を見る。彼の願望とも言えるその女性、ルビーを小説に書いた。するとある朝目覚めると、その彼女が彼の自宅に現れた。しかも、小説に書き足すとその通りに彼女は行動するのだ。最初は信じられなかった彼だが、本気で彼女に恋をすることに。しかし、彼女の奔放な性格がだんだんと気に入らなくなった彼は、小説に新たな設定を書きこみ始める。

着想自体はよくあるファンタジーなんだろうけれど、この映画が見事なのは二人の関係の始まり方がどうであれ、男と女が関係を維持していく普遍的な難しさをきちんと描いているところだ。あんな娘が現れたらいいな、から始まる突飛な男子願望系のストーリーだけど、そこには血の通った男女の物語がある。

気まぐれな彼女との関係がギクシャクし始めて、それを修正しようとするために再び原稿を上書きする主人公のエゴ。それは見苦しくも恐ろしい場面。叫び狂い、のたうちまわるルビーの姿には、目を背けてしまいたくなる。劇中ゾンビ映画が挿入されるけど、それは主人公がルビーを現実世界に生み出したことが、死人を生き返らせたに等しいという暗示なのだろうか。だったら「フランケンシュタイン」を引用したら、もっとしっくりきたような気もする。この辺りは女子にはヘイトされる展開かもしれないし、この映画が他の同様なラブコメと並ぶ評価をされていない理由なのでは。

いかにも…な結末がありきたり?と言われればそれまでかもしれない。「(500)日のサマー」、ダイアン・レインの「愛にふるえて」(古っ)、水島裕子の「後ろからバージン」(例えが悪い・笑)に通ずるその結末。でも、だからこそ幸せな気持ちで僕らはエンドクレジットを迎えられるのかもしれない。

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ロング・グッドバイ

2016-03-26 | 映画(ら行)

■「ロング・グッドバイ/The Long Goodbye」(1973年・アメリカ)

●1973年全米批評家協会賞 撮影賞

監督=ロバート・アルトマン
主演=エリオット・グールード ニーナ・ヴァン・パラント スターリング・ヘイドン ジム・バウトン

 レイモンド・チャンドラーの小説に登場する私立探偵フィリップ・マーロウ。その魅力にドキッとしたのは中学生の頃(なんておマセな!)。テレビの映画番組で観た映画「さらば愛しき女よ」がきっかけだった。ロバート・ミッチャムが演じる寡黙なマーロウ、謎の女シャーロット・ランプリング。粋な台詞のカッコよさにシビれて、原作に手を出したニキビ面の中坊。しかし文庫本の厚さにビビって当時手を出さなかったのが、実は「長いお別れ」。この映画「ロング・グッドバイ」の原作である。最近、戦後すぐの日本に翻案したドラマが製作されたせいか、BSの映画番組で「ロング・グッドバイ」が放送された。あー、やっとこの映画を観られたよ。

 松田優作がこの映画に惚れてあのドラマ「探偵物語」が生まれたという逸話もあるが、今観るとそれも納得できる。だらしなさそうで、本当に頼れるのか不安に思える映画やドラマで見る私立探偵のイメージ。それでも生き方や仕事のやり方に貫く美学をもっているカッコよさ。エリオット・グールードのマーロウはまさにそれだ。映画冒頭、猫がお気に入りのカレー印のキャットフードで猫一匹に翻弄される姿はなんともおかしくて、彼の人の良さがにじみ出ているように思う。だが、この後ストーリーが進むにつれて、厄介な事に巻き込まれて損な役割を背負い込むことになる私立探偵という仕事をもここでイメージを植え付けているようにも思える。実に巧みな導入部分。そしてマーロウは友人テリー・レノックスの国外逃亡を手助けしたと疑われてしまう。テリーが死亡したと知らされ、さらにその隣人の失踪が関係し、テリーが持っていた金銭を巡ってギャングにも絡まれる始末。マーロウは事件の渦中に堕ちていく。私立探偵ってやっぱり損な役回り。

 この映画、事件の真相にたどり着くストーリーではあるけれど、決してこれはスカッとする謎解きではない。マーロウを中心とした探偵映画というよりも、他のアルトマン作品にも共通する"変な人たちの群像劇"として観るのが実は正しいのだろうか。失踪した作家ロジャーの豪快なキャラクター、ギャング団のおかしなボス(監督として活躍しているマーク・ライデルが演じている)、ビーチ沿いの高級住宅街に住む人々の奇妙な暮らしぶり、変に口答えするスーパーの店員、マーロウの隣人である半裸のドラッグお姉ちゃんたち。そして事件の発端である友人テリー。世の中は理解できないヤツばかり。そんな人々の間を、マーロウは口癖の「いいけどね(It's ok with me)」を繰り返しながら渡り歩いていく。ハンフリー・ボガートやロバート・ミッチャムが演じたトレンチコートが似合うカッコいいマーロウ像とは違うその姿は原作ファンの不評を買ったそうだ。しかし、ダメ男なマーロウに銀幕のこちらの僕らは、いつしか自分を重ねている。かくいう僕もそうだ。近頃雑用や周囲の人々に翻弄されているとボヤいてしまいそうな時期に鑑賞したせいかもしれない。でもそののらりくらりとした私立探偵像は、後の映画やドラマに大きな影響を与えている。一風変わった映画ではあるけれど、多くの人に愛されているのはそれが理由ではないだろか。

 ジャズボーカルが切なく響く主題曲がアレンジを変えて随所で使われる。切ないメロディーが心に残り、映画が終わった後もあの曲に浸りたいと思えた。これが「スターウォーズ」のジョン・ウィリアムズの仕事というのも興味深い。ヴィルモス・ジグモントのカメラがまた素晴らしい。ロングショットで様々なことを語り尽くす構図と、光線の美しさ。無言ですれ違うラストシーンがなんて雄弁なのだろう。往年の映画スタアの物真似をするおじさんも含め、この映画は様々な顔の魅力があり、それが愛される映画である理由なのだろう。


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6才のボクが、大人になるまで。

2015-07-19 | 映画(ら行)

■「6才のボクが、大人になるまで。/Boyhood」(2014年・アメリカ)

●2014年アカデミー賞 助演女優賞
●2014年ベルリン映画祭 銀熊賞(監督賞)
●2014年ゴールデングローブ賞 作品賞・助演女優賞・監督賞

監督=リチャード・リンクレイター
主演=エラー・コルトレーン パトリシア・アークエット ローレライ・リンクレイター イーサン・ホーク

 映画の中で描かれることではなくて、その背景にある出来事や事実で泣かせる映画って世の中にはよくある。例えば実話の映画化では、現実の出来事を宣伝文句以上の"予備知識"として使われることも多い。僕はそれをときどき「ズルい」と感じる。先入観を植え付けられて映画館に行き、映画会社の目論見通りに泣かされる人もいれば、デフォルメされた表現に冷めた反応をする人もいる。"予備知識"の助けがなければ感動できないならば、作り手の力量不足だ。それにあらかじめ筋を知って観るようなものなので、映画に素直に感動できない。伝えられておくべき情報もあれば、そうでない情報もある。それは実話、原作との改変、製作者や出演者の過剰な作品への思い入れ。それらは映画の理解を深める上で役立つこともあれば、邪魔になることもある。

 しかしだ。「6才のボクが、おとなになるまで。」に関しては話は別だ。12年の歳月をかけて、同じ役者が同じ人物を演じ続けて撮影された映画だという銀幕の外側の情報を僕らは知っておかなければならない。リチャード・リンクレイター監督はこれまでも「恋人までの距離(ディスタンス)」「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」の3部作を、同じ主演俳優で撮ってきた。そして本作は、12年に渡る1本の物語を、実際に12年の歳月を重ねて描いていく。もし俳優自身に出演が継続できない事態が発生したらどうなっていたのか、と考えてしまう。だが、そんなリスクよりも、俳優自身が重ねていく年月が、映画の登場人物が重ねていく歳月と重なることは、僕らに不思議な感覚を与えてくれる。

 映画は本来フィクションであるはず。しかし僕らはこの「6才のボクが大人になるまで。」に、これまで味わったことのない現実味を感じる。映画はその時のスタアの姿を切り取ったものだった。ストーリー上の歳月は、セットやメイクや演技、配役によって描き分けられるものだった。そこで老け方や演じ分ける俳優に納得いかなければ、説得力は大きくダウンするものだった。この映画を完成させるまでの手法によって、描かれる少年の成長と自立への過程を、あたかも観客が彼を見守り続けてきたような感覚をもたせる。製作する側からみれば、気の遠くなるような作業を伴う、とんでもない冒険だと言えるだろう。

 そして、観客である僕らは、主人公の成長に、自身自身のこれまでの人生、子供を持つ親世代なら我が子のこれまで(これから)をオーバーラップさせずにはいられない。子供を持つ人ならば、まだ幼い年齢なのか、子育て真っ最中なのか、既に子供が独立しているのか、で感想は大きく異なるだろうし、感動する場面も違うかもしれない。しかしこの映画は様々な立場の人の心に訴える部分がある。大学生となり家を出て行く息子に、これまで言ったことのないキツい言葉を浴びせる母ロザンナ・アークエット。離れて暮らすようになっても子供達を見守り続ける父イーサン・ホーク。ステップファーザーたち。12年の歳月を3時間弱の尺で描ききるだけに、それぞれのエピソードは駆け足になるのは仕方ないが、かといって人生のダイジェスト版を見させられているような物足りなさは感じない。数年後、うちの子供が自立する時分になったらこの映画を改めて観てみたい。きっと今泣けなかった部分に涙するのではないだろか。僕らが生きていく日々、それぞれの瞬間に、人生というドラマは刻まれている。何とはなく過ぎていく毎日がとても愛おしく感じられる映画。



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LUCY/ルーシー

2014-09-02 | 映画(ら行)

■「LUCY ルーシー/Lucy」(2014年・フランス)

監督=リュック・ベッソン
主演=スカーレット・ヨハンソン モーガン・フリーマン チェ・ミンシク

 リュック・ベッソンご乱心。"人間は脳の機能を10%しか使っていない"という事実をもとに、もっと覚醒したらどうなるか?と妄想の翼だけを過剰に広げまくって撮ったサスペンス映画。映画冒頭から単刀直入に物語は進行し、主人公ルーシーがどんな人物なのか、物語の背景は、悪役はどんな連中なのか、一切語られない。コリアンマフィアによって合成された薬を体内に埋められたルーシー。その強力な薬が体内に漏れ出し、彼女の脳は覚醒する。処理能力を増した彼女の脳は、自分の髪の色を変えたり、相手の動きを止めたりは当たり前。事件を追うフランス警察の刑事を強引に協力者にした彼女は、脳科学の研究者の元へ。その間にも脳の活動域は拡大を続け、電磁波の流れを感じてしまったり、細胞がもつ記憶を遡れるのかついには時間を超えて過去を見ることすらできるようになる。彼女を追うコリアンマフィア一味が迫る中、彼女は自分がいた証を残そうとする・・・。

 89分の上映時間にやりたい放題の映像を詰め込んだベッソン監督。血液中を駆けめぐる薬剤のイメージ。神の視点とも言える地球誕生の瞬間。誰が何をやっても敵わないような能力を身につけてしまうルーシー。確かに何も考えずに映像を楽しむにはよい映画なのだが、疑問に思えることやツッコミどころも見過ごせない。ギャングたちを天井に張り付けてしまうほどに重力を操れたりするし、電波や電子機器を操れたり。「自分の脳内データをダウンロードする」と約束して最後に博士に渡すのは、なんとUSBメモリー1本!。そりゃないでしょ。

 リュック・ベッソンは、フランス映画にハリウッドのようなエンターテイメントや派手なアクションを持ち込んだ。「ニキータ」や「レオン」がそれだ。しかし、それらは単なる娯楽作ではなくてヒューマニズムと愛があった。一方、「グランブルー」では台詞よりも映像から染みだしてくる情感に涙させられた。「フィフス・エレメント」のようなド派手な作品こそあれど、この絶妙なバランスがベッソン監督のすごさだと思っていた。これで引退と一時は宣言した「エンジェル」で、従来のフランス映画離れしたこれまでの作風から一転。それはフランス、いやパリという街への愛を込めたファンタジーだった。

その後、製作会社を立ち上げたベッソンは、今本当に映画製作を楽しんでいるように思える。この「ルーシー」は、映像にしたいとベッソンが思ったことを素直に撮っている無邪気さを感じる。「ジュラシックパーク」よろしく恐竜が襲ってきたり、英知を得る前の人類に「E.T.」のように触れたり、まるでスピルバーグへのオマージュ。これを"遊び心"以外の何と呼ぼうか。

 そしてラストシーン。ルーシーは人知を、形あるものを超越した存在となる。アニメ「攻殻機動隊」に出てくる意識だけの存在(ゴースト)が、ネットという広大な海に消える場面を彷彿とさせる。人によっては、誰にも知られることのない存在へと変わっていった魔法少女みたいに感じられた人もいたかもしれない。クライマックスで巨大なコンピューターを形作るルーシーは、まるで「AKIRA」ではないか。ベッソンはジャパニメーションをも意識していた?。その真意はわからないが、これもベッソンの無邪気な遊戯なのは間違いない。そしてルーシーは"千の風"になった(笑)。宝石のような形をしたドラッグによってヒロインが昇華する。ドラッグソングとしても名高い、ビートルズの"Lucy In The Sky With Diamond"・・・ってところまで深読みするのは、映画同様悪ノリなのかも(笑)。

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LIFE!

2014-04-06 | 映画(ら行)

■「LIFE!/The Secret Life Of Walter Mitty」(2013年・アメリカ)

監督=ベン・スティラー
主演=ベン・スティラー クリステン・ウィグ アダム・スコット シャーリー・マクレーン ショーン・ペン

 ダニー・ケイ主演のクラシック「虹を掴む男」(1947)に現代的な設定を盛り込んだリメイク作品。僕はオリジナルは未見だが、そんなことはもはやどうでもいい。空想癖のある男性の大冒険と成長物語という基本線をそのままにして、2010年代の今だからこそ描けるビジュアルやストーリーが、センスよく見事にまとまった映画だ。そして、日々を慎ましく生きている名もなき僕らに勇気をくれる映画だ。正直なところ、予告編を見たときは、「自分を変えよう」みたいなお題が散りばめられたいわゆる自己啓発本みたいなテイストの映画?ちょっと説教くさいんじゃない?と感じていた。でもその予告編は僕の心を離れなかった。それはヒマラヤやアイスランドの広がりある風景と、心の底から突き上げてくれるような音楽のせい。ショーン・ペンが写真の向こうから手招きしたのは、主人公ウォルターだけではなかったのだ。

 フォトジャーナリズムという目線で世界の今を報道し続けてきた「LIFE」誌。時代が変わってかつての部数は売れなくなり、webサービス化され、そこで働いてきた多くの社員のリストラを決行することになった。主人公ウォルター・ミッティは、その会社でネガの管理を長年してきた人物だ。スポットが当たることもない、地味な仕事を黙々とこなす日々を送る冴えない男。密かに心に思う女性はいるのだが、声をかけるのもままならない。しかも時折空想にふけって失敗を繰り返すこともある。そんなとき、最終号の表紙に使われるネガが見つからないというトラブルが発生する。写真家ショーンに直接連絡がつかず、ウォルターはショーンを追いかけて、アイスランド、ヒマラヤへと旅立つ。その旅を通じて、これまで抑え込まれていた自分が少しずつ変わり始めるのだった。

 人間誰しもそんなに簡単に変われるものじゃない。自己啓発的ビジネス本を読むことが大人のたしなみのような現代ニッポンに生きていて、僕は常々そう思ってきた。中には成功した自分をひけらかしたいだけの本すら存在する。みんながジョブズやドラッカーや高校野球のマネージャーのように行動できて、劇的な成功を収められる訳じゃない。ビジネス本に書かれた内容は、悶々とした僕らの日常を好転させるヒントにはきっとなると思う。そのヒントを実行に移せる人と読むだけの人がいる。ガネーシャの教えを実行できるかどうかなのだ。しかしこれまでの自分を否定して、新しい自分を肯定するようなことは決して起こらない。それは今までの自分こそが僕らが生きる基盤だからだ。そこは何も変わらない。

 映画「LIFE!」は、主人公ウォルター・ミッティのように旅に出て雄大な景色や人の生き様を感じて来いと言っているのではない。主人公ウォルターはショーンの粋で心ある悪戯でネガを見つけられなかったのだが、それを見つける旅というプロセスから見つけ出したのは、他ならず今までの自分自身。そして、ネガを首脳陣に渡して、唖然とする彼らに自分がネガ係としてやってきた仕事への誇りと自信を口にする。この映画が僕らに訴えるのは、一歩を踏み出す勇気を持つことと、これまでの自分を否定せず誇りを持つということなのだ。表紙を飾る写真は、まさにウォルターがやってきたことへショーンが贈った感謝のしるし。最終号を目にする主人公に、僕は胸が熱くなるものを感じた。その1冊に至るまでの「LIFE」マガジンの歴史、関わってきた人々の思いを感じられたような気持になったからだ。

 この映画は10年程前にジム・キャリー主演スピルバーグ監督で撮るリメイク企画だったそうだ。それはそれで面白い映画になっていたかもしれない。でも当時のジム・キャリーだったら、一歩間違えれば適当なスチャラカ社員みたいな役柄に見えたかもしれない。もしこれと同じ脚本だったとしても、スピルバーグが監督というだけで絵空事に思えたかもしれない。ニコリともしない生真面目さが笑えてしまうベン・スティラーの持ち味があったからこそ、この脚本のウォルターは等身大のキャラクターに感じられる。かつてスティラーが監督した「リアリティ・バイツ」の主人公たちの仕事や社会との関わり方は、どこか人任せな印象でシニカルに描かれているようにも感じられた。それがスティラー自身も年齢を重ねて、人はどう社会と向き合うべきなのかをかみ砕いて「LIFE!」で示してくれたようにも思えるのだ。人生は自己啓発本を読むだけじゃ変わらない。自分の性格だって到底変わるはずがない。変わることができるとすれば、それは行動だけなのだ。その一歩を踏み出すことがなかなかできずにいる僕らには、少しずつ引き締まった表情になっていくウォルターがまぶしく見える。「LIFE!」は具体的に何をしろ、とガネーシャのように言ってはくれない。だけど、心の中にむずむずとわき上がる何かを僕らに植え付けてくれる映画だ。ウォルターが酔いどれパイロットが操るヘリコプターに乗り込む場面で流れるデビッド・ボウイのSpace Oddity。なんて見事な使われ方!そしてアメリカ好きの船乗りがウォルターに叫ぶひとこと「Stay Gold! Pony Boy!」に、「アウトサイダー」世代は大感激なのである。



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ロボコップ

2014-03-23 | 映画(ら行)

■「ロボコップ/Robocop」(2014年・アメリカ)

監督=ジョゼ・パヂーリャ
主演=ジョエル・キナマン ゲイリー・オールドマン マイケル・キートン サミュエル・L・ジャクソン

 僕はポール・バーホーベン監督のオリジナルに思い入れがある世代。メディアや社会を風刺したクールで、しかも暴力描写満載の奔放な作風は僕らを釘付けにしたものだ。このリメイク版新「ロボコップ」のビジュアルが解禁されたとき、正直なところ「え~?」と思った。だって黒くなってスリムになって、まるでバットマンじゃねえか。アクションは派手になるんだろうけど、オリジナルへのリスペクトが感じられるような映画になってるんだろうか。

 映画冒頭、サミュエル・L・ジャクソンがキャスターを務めるテレビ番組が、ロボットによる治安維持を肯定する偏った世論を訴える。映し出されるのは、世界の警察を気取るアメリカが世界各地の政情不安な地域で治安維持目的で投入したロボットの姿。どう見ても現地の人々に畏怖の対象となっているが、それを成果と伝える番組。機械に裁きが下せるか、犯罪が減ることを優先するのか、世論を二分する中、ロボットを開発販売する企業オムニコープ社は世間に愛される製品を出すべく、人間の思考とロボットの行動力を併せ持つものを目指していた。その矢先、ある事件を追っていた警官アレックスは自動車に仕掛けられた爆弾により愛する家族の前で瀕死の重傷を負う。オムニコープ社は遺族の承諾をとりつけ、アレックスをロボコップとして甦らせる。華々しいデビューを飾ったアレックス=ロボコップだが、その裏で犯人逮捕の成果を優先させるためアレックスの人間としての意志は抑え込まれていた。夫を取り戻そうとする妻、体面を保とうとするオムニ社、彼を守ろうとする科学者、そして次第に人間味を取り戻していくアレックス。彼が自分が襲われた事件の捜査に着手したことから、事態は大きく動き出す。

 ストーリーの基本はオリジナルをほぼ同様に追っている本作。「お前はクビだ!」のひと言で逮捕可能になるラストのオチが好きだったが、そこは異なる展開が待っている。オリジナルと大きく異なるのは家族愛の要素が加わっているところと、最新のSFX技術であの鋼鉄の体の下がどうなっているのかを明確に見せたところだ。脳手術をする場面なども出てくるので、グロいと感じる人もいるかもしれない。ともかく、いかにしてロボコップが造りあげられたのかを物語のメインに据えている。ロボットと比較した反応速度の遅れをカバーするために、バトルモードに入ったらアレックスの意識をシステムがコントロールするとか、ドーパミンの分泌をコントロールしたりする場面に、ノートン博士(ゲイリー・オールドマン、久々にいい役!)の葛藤が描かれるのも興味深い。右手だけは生身のまま、というところが最後に家族を抱きしめる場面に生きてていいですな。何はともあれ、オリジナル程の残虐描写もなく、万人受けするアクション映画として生まれ変わった「ロボコップ」だと言えるだろう。

 銀幕のこっち側では、世界各地の紛争地帯でロボット兵器が使用され始めている。それは紛れもない現実だ。アメリカ兵の被害を出さずに、現地の治安を維持できて問題を排除できる(解決ではない)。この映画でも、海外の紛争地ではそれを押しつけながら、様々な危惧があるからこそ自国では導入しない(できない)状況が描かれる。無人偵察機が飛び交うようなこのご時世で、「ロボコップ」がリメイクされたことにどういう意図があるのだろう。少なくとも映画のラストでキャスターが口汚く叫ぶような「米国万歳」的世論に立っているのではないことを望むのだが。


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ラッシュ プライドと友情

2014-02-23 | 映画(ら行)

■「ラッシュ プライドと友情/Rush」(2013年・アメリカ)

●2013年英国アカデミー賞 編集賞

監督=ロン・ハワード
主演=クリス・ヘムズワース ダニエル・ブリュール オリヴィア・ワイルド アレクサンドラ・マリア・ララ

 1970年代後半。少年だった僕らはスーパーカーに夢中だった。テレビで特集番組があれば欠かさず見て、エンジン音が収録されたレコードを友だちの家で聴き、近所で外国車のショーがあれば親に連れて行けとせがみ、池沢さとしの「サーキットの狼」に夢中になり、学校の図書館でモーターカースポーツの本を繰り返し借りた。大分オスカーで上映されたドキュメンタリー映画「ポール・ポジション」(78)は、確か友だちと一緒に観て大興奮したっけ。

 77~78年のF1グランプリを記録したイタリア映画。ジェームズ・ハント、ニキ・ラウダ、マリオ・アンドレッティにカルロス・ロイテマンら名ドライバーたち。フェラーリやマクラーレンはもちろん、僕のお気に入りだったジョン・プレイヤー・スペシャル仕様の真っ黒なロータス、6輪タイレル。迫力あるレース場面はもちろん、76年西ドイツグランプリでのニキ・ラウダのクラッシュシーンも映し出された。誰しもが生還はできないだろうと思ったラウダ、奇跡の復活劇。その執念と勇姿にニキ・ラウダは僕らの間でヒーロー視された。その後、横浜タイヤのCMでハンドルを握るラウダの姿に感激したもんだ。前置きが長くて申し訳ない。

 映画館で予告編を初めて観たときはちょっと驚いた。ニキ・ラウダの復活劇がハリウッドで感動作として映画化されてしまうのか。僕ら世代のヒーローが安っぽく描かれはしないのか?。しかも映画会社のコピーが「あなたの生涯の1本を塗り替える。」と大上段で来やがった!。正直に言う。僕は、日本題にサブタイトルがついて、かつ、コピーが大げさな映画宣伝は信じないことにしている(笑)。だから最初は観るつもりはほぼなかった。しかしだ。ジワジワと気になってきた。だって、少年時代に好きだった頃のF1の映画だぞ。「ポール・ポジション」のチラシにもあるフェラーリが走る勇姿が見られるんだぞ。結局、映画館に来てしまった。

 小中学生の頃のように「車が見たい!」という欲望に完璧に応えてくれた。ありがとう、ロン・ハワード!。トップを争う熾烈な争いはド迫力だし、撮影はさぞかし工夫と苦労をしたんだろうな、と思う。それがちゃんとハイスピードでブッ飛ばしてるんだから。小学生のときに観た実写版「サーキットの狼」(77)とは比べものにならない!(比べるなっ)。あれはサーキットでスーパーカーが徐行運転する映画だったもん!(笑)。スタート最前列にいるハントとラウダの後ろには、ちゃんとロータスもタイレルもいる。順位を示す縦長の電光掲示板もそのまま。クラッシュシーンまで再現してくれるこだわりに、男子として感激。「グッバイ、レーニン!」のダニエル・ブリュールはニキ・ラウダのしゃべり方まで徹底して研究したなりきり演技。

 しかし、人間ドラマの方はなぜだろう、どうも物足りなさを感じてしまう。ハントとラウダは確かに好対照の性格だ。しかしサブタイトルにあるような"友情"を感じさせるエピソードは、事故後のラウダの容姿を悪く言った記者をボコボコにする場面くらいしか印象に残らない。F3からF1へと活躍の舞台を移す展開は物語をさらっと流してるようにしか感じられなかった。確かにそこに時間は費やせないのだろうけど。しかし、細部においてはサーキットの舞台だけでなく、"あの頃"を再現する数々の仕掛けがうまい。ハントの妻スージーが心を移す相手がエリザベス・テイラーと別れたリチャード・バートン(初めて知りました)というエピソードもそのひとつ。ロン・ハワードは監督作「アポロ13」で、「ビートルズが解散しちゃったよ」という子供のひと言で映画で描かれる時代を納得させた。こういう細部が観客を取り込む巧さなんだよね。でも全般的にはどうも引き込まれず。

 ともあれ、レースの映画は難しい。ヘルメットに包まれた顔では銀幕スタアは見栄えしないから、それ以外の部分でやたらええかっこしいになる(例えば「デイズ・オブ・サンダー」)。派手な見せ物としてレースを描くとロックをBGMとして過剰に流してしまう(例えば「ドリブン」)。人間ドラマを重視するとちょっと地味になる(例えば「栄光のル・マン」)。そういう意味では「ラッシュ」は、職人監督ロン・ハワードによってそれなりに手堅くまとめられてるようにも思えるのだが。 




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ラスト、コーション

2014-01-01 | 映画(ら行)


■「ラスト、コーション/Lust, Caution(色・戒)」(2007年・中国=アメリカ)

監督=アン・リー
主演=トニー・レオン タン・ウェイ ワン・リーホン ジョアン・チェン

 「ラスト・・・」とというタイトルと、激しいベッドシーンがあることから、ベルトリッチの”あの映画”を連想する人が多いのか、やたらとそっちばかりの話題が先行している本作。されど、この映画は決してそんな色モノではない。重厚な人間ドラマと緻密に作り込まれた映像と脚本は、むしろあれだけの性愛場面を含むのにむしろ気品さえ感じる。僕はこの映画にまったく飽きることはなかったし、ラストまでハラハラしながら、緊張しっぱなしだった。

 日本占領下の中国で、日本軍に協力するイー(トニー・レオン)を探るために近づくマイ夫人に扮するヒロイン(タン・ウェイ)。そして彼女をそこに送り込んだ男との見えない三角関係・・・。重い話であるし、ラストも救いがある訳ではない。でも、そこにこめられた登場人物一人一人の思いを考えると実に切なくなってしまう。国のため、自分たち民族のためにと時代の流れに身を投じる若者たち、その為に処女も失ってしまうヒロイン。彼らは傷つくけれども、それも戦争という流れに押し流される哀しみ。一方、日本軍に協力するとされるイーも、誰も信用できない孤独と拷問と死に接するだけの日々。きっと人間性をかろうじて保っているのだろう。そこに現れたマイ夫人に心を傾けるのも無理はない。荒々しく、激しいセックス(時にアクロバティックにさえ思えたが)にふけるのも、彼にとっては非現実的な日常を忘れ、人と人のふれあいを取り戻せる時間。ベッドシーンは、ヒロインにとっては「イーに疑われているのではないか」と常に不安になる心理戦でもあり、イーにとっては悲しき生への執着でもある。こんな激しくて悲しい性愛場面、僕はこれまでみたことがない。

 それでも心を通わせていく二人。日本料理店で当時の中国の流行歌を歌って踊るタン・ウェイは本当に美しい。二人が同じ民族として、男と女としての感情がひとつになる。・・・そしてラストの展開。小さく告げた「逃げて」の一言。誰もいなくなった部屋に一人座り込み、時計の音が鳴り響くラストシーンは喪失感に満ちている。胸がしめつけられるようだ。

 劇中映画好きなヒロインが行った映画館に、ヒッチコックの「断崖」のポスターが見える。主人公3人のシチュエーション・・・そうか、「ラスト、コーション」はヒッチコックの「汚名」をケイリー・グラントぬきで撮った映画なんだ。「汚名」は僕の大好きな映画。小道具をサスペンスの材料に上手に使っている傑作だ。でも初めて観た頃(20歳くらいだったかな)、疑問だったことがある。それはイングリット・バーグマンが仇であるクロード・レインズと、内情を探る為とはいえ、結婚までしてしまうところ。彼女にそこまでの辛い使命を与えたくせにクール(にしかみえない)ケイリー・グラントの態度。そしてレインズとベッドも共にしているはずのバーグマン。そこには葛藤があったはずだし、そこまで身体を犠牲にするなんて・・・と描かれもしない部分に僕はモヤモヤしたものだ。「ラスト、コーション」にはその答えがあったのだ。



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ラブソングができるまで

2014-01-01 | 映画(ら行)

監督=マーク・ローレンス
主演=ヒュー・グラント ドリュー・バリモア ブラッド・ギャレット

 新作映画の情報を雑誌で見ていて、これは観なければ!と思った映画。いや、ほんとに。ヒュー・グラントが80年代のポップスタアに扮する、作詞作曲のコンビでロマコメ・・・設定としてはまさに僕の望むもの。有名人と一般人の恋物語というと「ノッティングヒルの恋人」を思い浮かべるが、今回のヒュー・グラントは有名人側で逆の立場。ドリュー・バリモアも、80年代ものを歌う男性と恋におちる女の子役・・・とくれば「ウェディング・シンガー」。二人は初共演なのだが、二人の映画を見続けてきたファンには、期待する二人がきちんと観られる映画として満足度は高いことだろう。

 80年代洋楽ファンには懐かしい名前が次々出てくる。「今日のゲストはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド。だから”リラックス”して。」てな具合に。主人公が在籍したアイドルバンドのPVが流れる冒頭に笑いを抑えられない僕。デュランデュランとワム!を足したようなバンド・・・。ローランドのD-50とヤマハDX-7のデジタルシンセ2段重ねかぁ・・・86年のヒット曲ということだが、D-50の発売は87年じゃないのか?・・・と一人ツッコミを入れてみたり。ディティールが楽しめるのが嬉しいね。

 作詞作曲のコンビが恋人になる・・・。音楽によって結ばれた絆はとても深いものになると、僕は常々思っているだけに、このテーマには共感できる。そういえば、高校時代に好きな女の子に書いてもらった詞に、自分で曲をつけたもんだ。作詞/●●チャン作曲/takって名前が並ぶだけで嬉しかったっけ(恥)。二人がデモテープの歌を吹き込むところが好き。それにステージの脇で抱き合うクライマックスも。二人がスポットライトの中で抱き合わないでよかった、と僕は思った。幸せって、こんなふうに目立たないところで花開くものなんだもの。そう、楽譜の上に名前が並ぶように。



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