Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

ナポレオン

2023-12-11 | 映画(な行)

◼️「ナポレオン/Napoleon」(2023年・アメリカ)

監督=リドリー・スコット
主演=ホアキン・フェニックス ヴァネッサ・カービー タハール・ラヒム ルパート・エヴァレット

世界史の授業でナポレオンについて先生が話す時、サラッと出来事だけを話す方もいれば、偉人として業績の話を並べる人もいれば、独裁者としての一面を語る人もいる。フランス革命の後、政治体制が混沌としていたフランスをまとめあげた人物ではある。一方で王政からの解放と称して各国に攻め入った侵略者でもあり、最後は皇帝(王の中の王)を名乗った独裁者でもある。ナポレオンを語る上ではいろんな側面があるだけに、単純に話すのは難しい。たった一人のフランス人がヨーロッパ全土を引っ掻き回した数年間が年表に刻まれている。それはすごいことだし、恐ろしいことでもある。世界史の先生のひと言が生徒に歴史観を植え付けることにもなる。歴史ものの映画も同じだ。

それでは、我らがリドリー・スコット先生は、僕らにナポレオンをどう語ってくれるんだろう。これまでも十字軍、出エジプト、古代ローマ帝国、コロンブスなどなど、スコット先生は歴史ものを手掛けてきた。ナポレオンは語るべきエピソードが多いだけにたいへん難しい題材。頭角を現す若い頃や、特定の戦いに絞った映画化はこれまでもあった。スコット先生はジョセフィーヌとの出会いから失脚まで、かなり長い期間を160分弱に収めた。

ジョセフィーヌとのつながりが彼の精神的な面での支えになっていたことが描かれる。子供を授からないことから夫婦関係を解消した後も、ジョセフィーヌに手紙を書き、彼女の元を訪れることを欠かさない。戦術に長けた優れた軍師としての一面や、その圧倒的な戦果をバックにした強気の外交が描かれる一方で、決してタフではない面にも踏み込み、人間くさいナポレオン像に仕上げている。

ホアキン・フェニックスは、何かに取り憑かれたり、染まっていく変化ある役柄を演じさせたら確かに上手い。(大嫌いな)「ジョーカー」はもちろん、権威に執着するローマ皇帝(「グラディエーター」)、完全犯罪でアタマがいっぱいの大学教授(「教授のおかしな妄想殺人」)、精神を病んでいく聖職者(「クイルズ」)など名演が思い出される。本作でも権力を手中にして変わっていく姿が印象的だ。

しかしながら、語るべき多くのエピソードを尺に収めるために、描ききれない部分も多々ある。ナポレオンの何がフランスの民衆に支持されたのか。ナポレオン戦争はヨーロッパをどう変えたのか。また、前半ジョセフィーヌを絡めてナポレオンの人柄にあれだけ迫っていたのに、後半は手紙ににじむ孤独感こそあれ、急に客観的な目線になっているようにも思えた。いずれにせよ、スコット先生の語るナポレオンは、偉業たる光よりは年表に載らない影に、興味が向けられている。

それでも、これだけの大人数を使った合戦シーンを生々しく撮れるのは、監督の手腕あってこそ。砲弾が近くで炸裂して兵士が倒れる映画はこれまでもたくさんあったが、人だけでなく軍馬にも銃弾が当たる血生臭い戦場を映像化しているのはなかなか観られない。アウステルリッツの戦いでは凍った池に砲弾が撃ち込まれ、落ちた人々で水が血の色に染まる。その様子を水中からのアングルで捉える。悲惨なのにどこか美学さえ感じる印象的な場面だった。光と影、グロと美は、スコット監督の巧さ。

エンドクレジット前に、戦死者の数が示される。たった一人のフランス軍人がヨーロッパを引っ掻きまわした結果だ。それは功なのか罪なのか。フランスにもたらした光なのか、影なのか。日本でのキャッチコピーは「英雄か、悪魔か」。冒頭に述べたナポレオンの様々な側面あっての言葉選びなのだろうが、この映画で"悪魔"とは受け取れなかったのだが。




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ノートルダムの鐘

2023-12-09 | 映画(な行)

◼️「ノートルダムの鐘/The Hunchback Of Notre Dame」(1996年・アメリカ)

監督=ゲイリー・トルースデール カーク・ワイス
声の出演=トム・ハルス デミ・ムーア トニー・ジェイ ケビン・クライン

ディズニー映画をいちばん観ていたのは1990年代。「リトル・マーメイド」から始まる、いわゆる"ディズニー・ルネサンス"と呼ばれる時代だ。配偶者がディズニー好きでレーザーディスク(笑)で映像ソフトを集めてた。僕は「アラジン」のA Whole New Worldのピーボ・ブライスンのパートを練習してカラオケでも十八番だ。90年代ディズニー作品で観ていなかった作品の一つが「ノートルダムの鐘」。当時の僕は最初の転職をする頃だから、ディズニーどころじゃなかったんだろう。

冒頭から、語り部となる道化の歌と怒涛のミュージカルシーン。その華やかさの一方で、語られる物語は暗く重たい。ジプシー狩りをする判事フロローが女性を殺害し、彼女が抱いていた醜い赤ん坊を井戸に捨てようとする。ノートルダム寺院の司祭に咎められ、その子を育てることを約束させられる。カジモドと名付けられた子供は成長し、ノートルダム寺院の鐘撞きになった。しかしフロローによって、外に出ることを禁じられていた。祭りの日に言いつけに背いて街に出たカジモドは騒ぎに巻き込まれてしまう。

この頃のディズニー作品は大人向けな題材が多いが、本作にはディズニーお得意の魔法は出てこない。喋る石像たちが出てくるが、彼らにしてもカジモドのイマジナリーフレンドのような存在だ。また、冒頭の殺人から始まって、醜い人を見世物にする祭りの一幕、一転して異形の者を忌み嫌う世間の視線、カジモドに向けられる仕打ち、偏見に満ちたジプシーへの弾圧など、人間の汚い面が描かれる。

しかし、ジプシー娘のエスメラルダ、護衛隊のフィーバス隊長との出会いで、カジモドの未来が大きく動き出す重厚な物語は目を離せなくなる。聖地だから手を出せないはずの大聖堂に兵隊が迫るクライマックスを経て、カジモドが外の世界に受け入れられるラストは感動的だ。本作も「美女と野獣」などと同じく、舞台のミュージカル作品として語り継がれている。この時代のディズニー作品のクオリティの高さを改めて感じた。



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担え銃

2023-07-24 | 映画(な行)

◼️「担え銃/Shoulder Arms」(1918年・アメリカ)

監督=チャールズ・チャップリン
主演=チャールズ・チャップリン シドニー・チャップリン エドナ・パーヴィアンス

戦争を笑い飛ばした映画と言われたら、何を思いつくだろうか。ブラックコメディの「M★A★S★H」、ミュージカル仕立ての「素晴らしき戦争」。それらは様々な手法で戦争を笑いのオブラートに包む。でもそこには少なからず反戦への思いが込められているので、笑わせるだけでなくしんみりする何かが必ず用意されている。

しかし。喜劇王チャールズ・チャップリンが第一次世界大戦終結前の1918年に発表した「担え銃」は違う。ちゃんと笑わせてくれるのだ。

訓練風景から映画は始まる。われらがチャーリーは回れ右がうまくできない。指導されてもなかなかこなせない姿は、ドタバタで面白い。今の目線だと、この場面のような笑いは、運動オンチな人を笑いの対照にしているから不快だと言う人も出てきそう。でも、ここでこの映画を投げ出すのはもったいないぞ。

戦場に舞台を移してからは、塹壕で過ごす日々の辛さが描かれる。雨で水浸しの中で就寝する場面やチャーリーにだけ手紙が来ない場面はコメディ描写だが、自然とその映像に込められた辛さや寂しさがしみてくる。生活道具を何もかも持ってくるから身動きとれなくなり、ネズミ取りで指を挟むギャグなんて細かいけれどクスクス笑ってしまう。

チャーリーが投げたチーズが敵将校の顔に当たるギャグ。戦場で飛び交うものなんて銃弾じゃなくたっていいじゃない。さらに立木に化けたチャーリーが戦友と大活躍する後半の面白さ。この映画、爆発はあっても銃弾で相手を傷つける場面はない。それでいて戦場を表現している面白さ。そして常連エドナ・パービアンス演ずるフランス娘とのコミュニケーションも、パントマイムで演ずるサイレントだからこそ形にできるいい場面。軍服を取り替えて敵を欺くクライマックスを笑いながら、僕らはふと気付かされる。中身はおんなじ人間じゃないかって。

戦争終結前に戦争を笑い飛ばす映画を撮るという度胸に感激する。観る人を喜ばせたい一心なんだ。そしてこのスピリットが後の傑作「独裁者」につながっていく。やっぱりチャップリンは偉大だ。

それにしても配信の字幕がなんともひどい。Two of A Kindの字幕に日本語訳は「2種類」。はぁ?何言ってんの?😨。戦友の二人が並ぶ場面じゃん。「似た者同士」でしょ💢



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肉体の悪魔

2023-06-27 | 映画(な行)

◼️「肉体の悪魔/Diavolo In Corpo」(1986年・イタリア=フランス)

監督=マルコ・ベロッキオ
主演=マルシューカ・デートメルス フェデリコ・ピッツァリス アニータ・ラウレンツィ

この映画を20歳の頃に映画館で観ている。ソフィー・マルソーの「狂気の愛」と二本立てだった。ソフィー初ヌードの話題作とインパクトのある本作。映画館を出る僕は眼が血走ってたんではなかろうか(恥)。正直、こっちの方が「狂気の愛」より面白かったので、また観たいなと思ってたところ、近所のTSUTAYAに置いてると近頃気づいた。2023年6月にDVDで再鑑賞。

1920年代に書かれたレディゲの原作は未読。夫が出征中の人妻に恋した少年のお話だが、本作は現代に舞台を変えて拘留中の婚約者がいる女性ジュリアに高校生アンドレアが恋するお話。70年代に政治的に不安定な時期があったイタリア。製作当時の80年代はその後だけに拘留中とした設定は現実的だし、ヒロインのパートナーを目に見える存在として登場させることも緊張感を高めて、ヒロインの葛藤をより深くする改変だ。ベロッキオ監督は後に政治的な内容を含む作風になった人と聞く。なるほど。

さらにジュリアは精神科医(アンドレアの父)の元患者という設定、ジュリアに監視の目を注ぐ婚約者の母親も大きなハードルとなる。イカれた女と付き合うなとの忠告に従わないアンドレア。時に不安定になるジュリアの言動に振り回されるところだが、恋にまっしぐらなイタリア男子は周囲の心配など関係なく、勢いは止まらない。

初めて観た時も長回しが多い映画だと思ったが、今回観なおしてこんなに長かったっけと改めて思う。特にベッドで抱き合う場面のカットがとにかく長い。相米慎二監督の「魚影の群れ」のベッドシーン程ではないにせよ、いつまで見せつけるのさ?。しかもアンドレア君の下腹部をジュリアがまさぐる場面は、えー?演技とはいえ、ここまでさせるの!?と驚愕😳。こんな場面はあったっけ?。初めて観た公開当時は、おそらくボカシが今よりも広かったから何だか分からなかったんだろうなw。

年上女性が恋の暴走にブレーキをかけるところが、奔放な彼女も二人の世界に夢中になっていく。男と女が惹かれあった時の、どうしようもない止められない気持ち。法廷で檻に入れられた被告人たちのうち、ひと組の男女がもぞもぞと抱き合い始める場面も印象的だった。止めようとする廷吏に向かって、ジュリアは「最後までやらせてあげて!」と叫ぶ。アンドレアとの出会いにもつながるこの場面は、ヒロインのキャラクターを短い時間に掴ませる。エロ描写たっぷりの映画だけど、観終わった時にしっかりアート作品を観た満足感がある。ラストのヒロインの涙の意味、その後の二人の関係を考えてしまう。

マルシューカ・デートメルスはこれしか観たことがない。デビュー作のゴダール監督作をずーっと敬遠してきたけれど、そろそろ挑んでみたい。




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逃げきれた夢

2023-06-17 | 映画(な行)

◼️「逃げきれた夢」(2023年・日本)

監督=二ノ宮隆太郎
主演=光石研 吉本実憂 工藤遥 松重豊

この映画のラストシーン。スクリーンの向こうから次の言葉が発せられるのを注目しながら待つ、無言の時間がある。劇伴なし、流れるのは日常音だけ。画面には主演の二人に向けられたカメラが真っ直ぐに表情を捉える。気の短い観客なら「なんか言わんかい」と口にしたくなる長さ。でも言葉を発する前のふっと変わる表情一つ一つにも気持ちが込もってる。このシーンを演技の"間"だと言うのならそうだろう。実生活でも口ごもる相手を前にして気まずくなる瞬間ってたまにあるけれど、それをスクリーンを通して感じるなんて。こんな緊張を味わう映画、他に何かあっただろうか。

現実からしばし逃避しようと映画館に行ったのに、この映画には自分と地続きの現実がたくさん散りばめられている。ちっとも逃避できなかった。それはロケ地の風景を見慣れているのはもちろんだ(背景が気になって時々映画に集中できなくなるw)が、それだけではなかった。光石研演ずる主人公を、俺とは違うと思いながら観ていたはずなのに、どうも"自分"がチラついてしまうのだ。主人公の様に忘れてしまう病気でも今のところないし、家族ともそれなりの関係は維持してる。だけど、この冴えない主人公のダサさに共感できる何かがある。

妻と子供に「ご苦労様くらい言えんか?」と悪態をつく場面。ダッセェなぁ、んなこと言わなきゃいいのに…と思う。けれども、その後すぐに卑屈になるのを見て、結局誰かに自分を認めて欲しいんだろうな、なんかわかるな…とおっさんの悲哀を感じてしまう。松重豊演ずる幼馴染と呑む場面でも、なかなか本当に言いたいことが言えない。カッコつける必要もないのに…と思いながらも、自分が抱えている不安な気持ちを打ち明けられない。それを見透かされて自分勝手と言われてムキになる。ダサい。でも、なんかわかるのだ。

"自分"がチラつくのは、僕がセンセイと名がつくお仕事やってた時期があるのも理由。主人公末永の職業は定時制高校の教頭。学校で日々接していた生徒たちの方が、家族よりも自分を理解してくれるのでは、という淡い思いがあるのだろう。それなりに生徒思いでいい事も言う。吉本実憂演ずる卒業生の平賀からも
「"そのままでいい"って、あの時言ってくれて、救われました。」
って言われるんだもの。でも生徒が自分の理解者かというとそれは別な問題で、本当に淡い期待でしかない。映画のクライマックスではキツい言い方もされる始末。例えが悪いかもしれないけど、「バトル・ロワイヤル」のラスト、北野武先生が抱いていた偏った気持ちにどっか通じる気がする。寂しいけど、それは現実。

主人公がこれまで自分がまとってきたいろんなものから、少しずつ自由になっていくんだろう。職業柄、相手を励ます言葉を口にしてきただろうけど、一方で相手を肯定する言い方しかできず、本音を口にすることはできなかったのかもしれない。「海外で暮らしたい」と言う平賀の言葉をきっちり否定するラストシーン。不器用な先生が口にできた精一杯かも。でもそそれまでの自分からは発し得なかったひと言なのではなかろうか。

気にしちゃいけないんだけど、見慣れた背景がある映画は地理情報がどうしても気になって仕方ない(笑)。
黒崎を歩く→
戸畑のお店でコーヒー→
喫茶店を出たら若松!😆
でもいい場所を選んでるからいい雰囲気なのだ。この映画のロケ地選び、北九州のランドマークを外して、様々な日常的風景をにしているところも面白い。松重豊とのコテコテの会話。「病院跡地のホールが…」「しゃーしぃー」こんなローカルな会話の映画がカンヌ映画祭で上映されたのかと思うと、ちょっと面白い🤣。





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ネバーセイ・ネバーアゲイン

2023-04-09 | 映画(な行)

◼️「ネバーセイ・ネバーアゲイン/Never Say Never Again」(1983年・アメリカ)

監督=アービン・カーシュナー
主演=ショーン・コネリー キム・ベイシンガー バーバラ・カレラ クラウス・マリア・ブランダウアー

ジェームズ・ボンドこそ男子の理想めいた刷り込みをされて育ったtak少年。「ユア・アイズ・オンリー」の頃には、007シリーズは家族で楽しむものと化していた(変な一家ですみません😅)。
👨🏻「でもやっぱりショーン・コネリーがいいのお」
贔屓目に見て(頭髪の具合が)ショーン・コネリー似の親父殿が言う。妹たちも同意。刷り込みって怖いよな。そんな1983年の暮れ。正月映画として封切られたのが、ショーン・コネリーが再びボンドを演ずる「ネバーセイ・ネバーアゲイン」だ。地元映画館での同時上映は残酷な場面満載のドキュメンタリー映画「グレートハンティング’84」。ビビる妹たちを尻目に、自称ハリソン・フォード似の僕は提案した。
😏「今回は男二人で行こうよ」
👨🏻「お前、3学期始まったらすぐ試験ち言いよったじゃねえか」
😜「平気平気、余裕だよ。ジェームズ・ボンド並みに余裕」
👨🏻「なにバカ言っちょんのか」

ご存知かと思うが、本作はイオン・プロダクションの正統派シリーズとは違う。コネリー復帰を望む声に、別の製作会社が名乗りを上げて、イアン・フレミングの原作の中でイオンプロが映画化権を取得していない「サンダーボール作戦」をリメイクしたもの。ケビン・マクローリー氏が映画化権を持っており、正統派シリーズの第4作「サンダーボール作戦」にも製作に名を連ねている。それ故にガンバレルで映画は始まらないし、お馴染みのテーマ曲も流れない。

貫禄のついたショーン・コネリーがテロリストのアジトに潜入するオープニング。相変わらずカッコいい!。と思ったら、いかにも官僚出身の新任"M"(なんと「ジャッカルの日」のジェームズ・フォックス!🤩)に、「身体の毒を抜け」と施設での健康管理を言い渡される。闇で動いていた悪の結社スペクター。核弾頭を手に入れてNATOを揺する声明を発表する。白猫を抱いた首領はもちろんブロフェルド(なんと名優マックス・フォン・シドー!🤩)。

悪役ラルゴはビッグビジネスで成功を収めた実業家で、ボンドとはカードで勝負せずコンピューターゲームと当世風にアレンジ。派手な見せ場も多いし、娯楽映画としてゴージャス。ミサイル飛行シーンの特撮にしても、潜水艦からミサイル状で打ち上げられる飛行ガジェットにしても、オートバイを使ったカーチェイスも派手で楽しい。初めて観た時は、そうしたアクションやキム・ベイシンガーのいい女っぷりが楽しかった(レオタードの透け具合のせいなのか、Amazon PrimeはPG-12)。ウン十年ぶりに改めて観ると丁寧に撮って、正統派と違う魅力を出そうとしているのがよくわかる。

監督のアービン・カーシュナーは「スターウォーズ/帝国の逆襲」を撮る際に、「画面を人々の顔で満たしたい。これにまさる娯楽はない」と述べている(Wiki)が、その演出編集の手法は本作でも冴えていて、ボンドが出てくる場面がやたらスタイリッシュで、映るだけで観客を納得させる。当時予告編やCMでも使われていた白い壁の向こうから黒いタキシード姿のショーン・コネリーが現れる場面。胸元から銃を出すワンカットだけで、誰もがジェームズ・ボンド映画だと思えてしまう。また、療養施設で怪しげな患者をボンドが覗き見る場面。暗視スコープでショーン・コネリーの顔が浮かび上がるだけで、ボンドとスコープで見ている悪女ファティマの緊張が伝わる。他にも表情のアップやバストショットなど人物に絞った映像は多用されている。悪役ラルゴのキレやすさ、恐れと不安に震えるドミノ、神経質なM。キャラクターが際立っている。

あと、力説したいのは悪女ファティマを演ずるバーバラ・カレラのカッコよさ。「サンダーボール」のファティマもエロくて自意識の強いキャラクターだったが、「ネバーセイ…」のファティマはさらに殺し屋を楽しむ気質やド派手なファッションが素晴らしい。ボンドに銃口を向けて、「私が一番だ。最高の快楽を与えてくれたのは私だったと書き残せ。」と迫る。スペクターの順列であろうNo.12と呼ばれてイラっとする表情など、細かいけど人柄がよく出ている。ミシェル・ルグランの音楽もジャズぽい劇伴もあって大人の魅力。主題歌のトランペットソロ🎺とプロデュースは、ハーブ・アルパートじゃねえか!🤩

水上スキーをしていたファティマとボンドが初めて交わす会話がオシャレ。
👩🏼‍🦰「ごめんなさい。服を濡らしちゃったわね」
😏「大丈夫。私のマティーニはまだ"dry"だ」
酒の辛口=dry、と乾いている=dryをかけたカッコよさ。映画雑誌に英語の台詞を解説するコーナーがあって、この台詞を取り上げていた。
😉「こんなこと言える大人って、カッコいいよな」
と試験勉強の英語そっちのけ。映画で使われたスラングの方が頭に入るのはなんでだろ。そういえば、関係代名詞のwhoの使い方は「私を愛したスパイ(The spy who loved me)」、付帯状況withの使い方は「黄金銃を持つ男(The man with the golden gun)」で覚えたぞ。何が悪い。

そして3学期が始まり定期試験。
…惨敗😱
返却された答案は、ボンド映画に倣って「読後消去すべし」(For your eyes only)と勝手に解釈しました😝。





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ニキータ

2023-02-06 | 映画(な行)

◼️「ニキータ/Nikita」(1990年・フランス)

監督=リュック・ベッソン
主演=アンヌ・パリロー チェッキー・カリョ ジャンヌ・モロー ジャン・ユーグ・アングラード

リュック・ベッソンが日本で知られるようになった頃は、フランス映画の新しい波"ヌーヴェルヌーヴェルヴァーグ"と呼ばれた映画作家たち、レオス・カラックスやジャン・ジャック・べネックスらとひとくくりで紹介されていた。型破りな「サブウェイ」もあったけど、「グレート・ブルー」の映像美と作家性で語られることが多かった時期だったし。

90年にベッソンが放った大ヒットが「ニキータ」だ。フランス映画には珍しい激しいアクション、スタイリッシュな映像に世間が沸いた。そしてアクションが話題の映画なのに女性客が多いと、当時伝えられていたのを覚えている。

ハリウッド映画で見られる天下無敵なレベルの戦うヒロイン像とは違って、もっと個人的なレベルで成長するヒロイン像が示される。そもそも主人公は麻薬中毒のストリートギャングの一人。警官殺しに関わったことがきっかけで国家組織の下で働く暗殺者となる。その大きな転身には、暗殺者としての教育、訓練が科される。指導するのは「狂気の愛」のチェッキー・カリョ。

それだけでなく女性としての魅力を高める術をも学ぶ。その指導役として現れるのがジャンヌ・モローというキャスティングが素晴らしい。女性の生き方や恋愛観について数々の名言を残してきた人だけに、そのパブリックイメージが役柄に説得力を与えてくれる。リメイク版の「アサシン」でアン・バンクロフトがキャスティングされたのも見事な人選だ。そうした指導の下でジャンキーの小娘は華麗な仕事人として開花する。女性客の変身願望をくすぐらずにはおかない。

そして映画後半、ニキータと名乗ることになったヒロインは恋愛と仕事の間で苦悩することになる。それはスクリーンのこっち側の僕らの共感にもつながる。個人レベルの成長と葛藤がある。この映画のキャッチコピー。
「泣き虫の殺し屋、ニキータ」
「凶暴な純愛映画」
女殺し屋をこんなに身近に感じさせる宣伝文句が他にあるだろか。そして本編はヒロインが戦うだけじゃない。血の通った一人の人間のエンターテイメントに仕上がっている。






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猫のように

2023-01-21 | 映画(な行)

◼️「猫のように」(1988年・日本)

監督=中原俊
主演=吉宮君子 橘ゆかり 森川正太

「櫻の園」(1990)を観て、女子と女子との距離感や相手への気持ちをうまく表現する映画だなと思った。男の自分でも切なさにジーンと来てしまって、繰り返し観てしまった。中原俊監督が特別に女心がわかる奴とは思わないけれど、そんな世界を描けることをなんか羨ましく思った。そんなことを考える僕も若かったのだろうな。

そんな中原俊監督のにっかつ時代の作品「猫のように」を観た。シスターコンプレックスな感情を抱えた姉妹が主人公。姉の男性関係に対する苛立ちから、妹は姉を監禁しようと考える。普通の関係でもなく、禁じられた恋愛感情でもなく、でもどこか異常な気持ち。好きだけじゃ言い表せない感覚。それをネチっこいエロティシズムでフィルムに収めている。

「櫻の園」を先に観たせいか、男には計り知れない心のつながりを別な形で見せつけられた気がして、ロマンポルノじゃなくてもいい題材だよなー、と思ったのを覚えている。

主演の橘ゆかりが素晴らしかった。強い眼差しと美しい肢体が忘れられない。橘ゆかりは「櫻の園」で演劇部OB役で出演している。わずかな出番だったけど、高校時代の揺れる気持ちを通り過ぎた人なんだと思うと、素敵な場面に感じられたっけ。

ともあれ「猫のように」もっかい観たいんですよねー🥺




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ナイトメア・アリー

2022-07-28 | 映画(な行)


◼️「ナイトメア・アリー/Nightmare Alley」(2021年・アメリカ)

監督=ベネチオ・デル・トロ
主演=ブラッドリー・クーパー ケイト・ブランシェット ルーニー・マーラ トニ・コレット ウィレム・デフォー

予告編でどんな映画なのかがまったく掴めなかった。近頃の外国映画の予告編って、あらすじをバカ丁寧に教えてくれるものが目立つだけに、意味深なシーンだけを繋ぐ謎めいた予告編に心が引っかかっていた。

その謎めいた空気は映画冒頭から。死体らしきものを重そうに床下に落として、黙って部屋に火を放つ男ブラッドリー・クーパー  。いかがわしい見世物小屋が立ち並ぶカーニバル(移動遊園地?)を訪れた彼はとにかく言葉を発しない。「お前の過去なんて誰も気にしない」との言葉から、彼はカーニバル一座に身を置くことになる。ウィレム・デフォー、ロン・パールマンと、出てくるだけで怪しげな雰囲気を出してくれる名優たち。やがて読心術を覚えた彼は一座の危機を口八丁で救ったことで自信を深め、電気人間の見せ物をやっていたルーニー・マーラを連れて出て行く。

大げさな劇伴もない前半。ボソボソしゃべるトニ・コレット、飲んだくれのデヴィッド・ストラザーン、そして強烈な印象を残す"獣人"。言葉数が異様に少ない前半戦。主人公が保安官を言いくるめる場面を境目に、この映画は言葉が満ちあふれてくる。

ケイト・ブランシェットが登場してからの後半戦は、主人公が嘘にまみれた深みにどんどんハマっていく姿が描かれる。野心、みなぎる自信。成功を支えるために悪事に手を染める。重ねる嘘、嘘。さらに嘘。読心術は見せ物。しかし次々と自分のことを言い当てる様子に、その術を過剰に信じてしまう人間の弱さよ。クライマックスに登場する老判事夫婦のエピソードは短いながらも強い印象を残す。出番は少ないがメアリー・スティーンバーゲンは怪演だ。

デル・トロ監督作は凝ったビジュアル重視のイメージがある。本作でもホルマリン漬けの胎児が登場する気味悪い場面はあるけれど、代表作「シェイプ・オブ・ウォーター」ほどデフォルメされたビジュアルの面白さはない。

しかし、本当にグロテスクなのは人間の悪行が見せる醜さである。映像の陰影や夜の場面、ケイト・ブランシェットの黒い衣装まで、深みのある黒が印象的なこの映画。映画館の暗闇は色彩としての黒をきちんと表現するために必要だと言われる。これを映画館で観たら、人間が闇に染まっていく様子が堪能できたのかもしれない。そんな暗闇で聴くラストの「宿命だ」のひと言。それは観ている僕らまで引き込むような重たい響きだったのではないだろうか。



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ニューヨーク・ニューヨーク

2022-05-24 | 映画(な行)

◼️「ニューヨーク・ニューヨーク/New York, New York」(1977年・アメリカ)

監督=マーチン・スコセッシ
主演=ロバート・デ・ニーロ ライザ・ミネリ ライオネル・スタンダー バリー・プリマス

マーチン・スコセッシ作品は、「タクシードライバー」を筆頭にニューヨークを舞台にした作品が多い。この「ニューヨーク・ニューヨーク」は、往年のハリウッドミュージカルへの愛と、大都会ニューヨークへの思い入れが込められた作品。スコセッシ監督は、古くからあるスタジオ撮影に現代の感覚を取り入れようと試みた。

いかにもセットだとわかる背景や、わざと歩道を高くするなどデフォルメされた街並み。衣装もやたらと色彩が鮮やかで、襟が大きかったり、異常な量の肩パットが入れられたりとこちらもデフォルメされている。デ・ニーロが身につける鮮やか茶系のスーツが好き。でも、平成の初めに黒シャツにオーバーサイズ気味の紫色のソフトスーツ(「ガンダム 鉄血のオルフェンズ」オルガ・イツカをイメージしてください)を着ていた僕ですら、これは着れないと思う。あ、関係ねえな(笑)。

スタジオに用意された作り物の背景と夢物語を、演者の実力とパフォーマンスで盛り上げる。これは従来のハリウッド製ミュージカル、またライザ・ミネリが得意としてきたところだ。そこにスコセッシは最大限の敬意を払っている。劇中演じられるミュージカル「Happy Endings」は、単独の作品になりそうなくらい凝ったものだし、何よりもニューヨークに強いこだわりがあるスコセッシが、ハリウッドのスタジオにニューヨークを作り上げて撮ったなんてかなりの冒険。

一方でロバート・デ・ニーロとスコセッシは即興の演技や演出を好む。例えば、この映画でのプロポーズ場面は生々しくてやたら長い。また二人の出会いの場面もテーブルを挟んで口説き続けるデ・ニーロに、ライザ・ミネリは「No !」の台詞だけで応酬を続ける。デ・ニーロのアドリブにライザは影響を受けたという。この映画、スコセッシには失敗作だの、ミュージカルシーンを切れば秀作だのと言われているが、舞台裏を知れば知るほど僕は深みを感じるんだけどなー。

好意的でない感想もある映画だが、劇中、妻に捧げる曲として作られた表題曲New York, New Yorkの素晴らしさは、誰しもが認めるところ。フランク・シナトラもカヴァーし、日本ではビールのCM等で使われ、ご当地ニューヨーク市では非公式市歌として親しまれている。

利己的で危ないサックス吹きは、この頃のデ・ニーロのイメージそのまま。プレイする姿もカッコいい。そしてスター街道を突っ走るライザ・ミネリは、エンターテイナーとしての彼女自身が重なる。そんな根っからの表現者二人のすれ違い。切ないラストシーンが心にしみる。

ラ・ラ・ランド」(大嫌い)がこの作品へのオマージュという話もあるけれど、こっちは舞台のミュージカル場面を含む人間ドラマであって、あっちは音楽映画としてのミュージカル。あんな辛気臭いミュージカルとは違うのだよ。



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