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Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

ローラ殺人事件

2025-08-25 | 映画(ら行)


◼️「ローラ殺人事件/Laura」(1944年・アメリカ)

監督=オットー・プレミンジャー
主演=ジーン・ティアニー ダナ・アンドリュース ヴィンセント・プライス クリフトン・ウェッブ

ずーっと観たかった「ローラ殺人事件」。オットー・プレミンジャー監督のデビュー作にして、ミステリー/サスペンス+メロドラマのクラシック。

冒頭、いきなりローラが散弾銃で顔面を撃たれて死んだと観客は伝えられる。その捜査をする刑事マークが、ローラと親しかった文筆家ウォルドを訪れる。ローラに活躍のチャンスを与え、立派なレディに成長させたウォルドは、フィアンセだったシェルビー、叔母のアンと共にローラ殺しの容疑者。やがて刑事マークは殺害現場であるアンの部屋で長い時間を過ごすようになり、「君は死人に恋をしている」と言われてしまう。果たして犯人は誰なのか?

ジーン・ティアニー主演作観るの初めてかも。バイタリティある美女役で周りの注目を浴びる存在だが、周囲の男性を振り回すようないわゆるファムファタールとはちょっと違う印象。でも肖像画だけで虜になる男も出てくるわけで、運命の女と呼んでもよいのかな。

後半に話が急展開してからの面白さは、90分弱の尺でも十分に満足させてくれる。登場人物と舞台が限られているからこそ、観客を集中させられた構成。お見事。

プレイボーイのシェルビー役は数々の怪奇映画で知られるヴィンセント・プライス(ヒゲがなかったから最初はわからなかった💧)。アン叔母さんは「レベッカ」の怖い女中ジュディス・アンダーソン。この2人のキャスティングがいい。刑事マークが殺害現場で過ごすようになり、ローラの肖像画を見つめる場面は無言で彼の心境を示す。上手いなぁ。そしてその先の場面…え、えっ!?🫢💦

この映画、フーダニットの古典ミステリーとして味わうだけでは、ちょっともったいないと思えるのだ。




(以下、結末に触れます)




ミステリーの面白さはもちろんなのだが、本作はピグマリオン・シンドロームを描いた作品の系譜でもある。以下、ネタバレもネタバレで申し訳ありません💧

私ごとだが、むかーし「歳をとって女に夢中になると狂うぞ」と身近な人に言われたことがある。ある種の呪縛のように自分には思えた言葉だった。実生活でそんな事態には陥っていないが、目にする映画ではそうした人物をあれこれ見てきた。「北斎漫画」や「痴人の愛」で、その言葉の重さを感じてゾクッとし、「昼下がりの情事」でこの後おっさんゾッコンになるんだろなと冷ややかな気持ちになった(笑)。

そして本作でオスカー助演賞を獲得したクリフトン・ウェッブもその例に加わる。度を越した執着が行き着く果てを見事に演じている。「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ先生も「プリティ・ウーマン」の大富豪エドワード・ルイスも、ヒロインを華ある女性に育てただけのつもりが結局心が揺れてしまったじゃない。最後までクールだったのは「舞妓はレディ」の長谷川博己くらいではなかろうか。

本作でクリフトン・ウェッブが演じた役の言動は、映画を思い返してみるとローラへの気持ちがいかに強かったかが理解できる。刑事に言った「死人に恋をしている」も、思えば燃え上がるジェラシー。映画後半、そりゃ平静な気持ちではいられなかっただろう。

最初から見直したら、切ない初老男の物語に見えてしまうかもしれない。
「彼女に恋を?」
と刑事に尋ねられた後の台詞は、とんでもない強がりに聞こえるのでは。そんなことを考えてしまったのは、自分もそんな年齢に近づいているからかもしれないな💦

シェルビーがローラの帽子を褒める場面。
「いい帽子だ」
「気に入った?」
「かぶる人がいい」

おお、使えそうな台詞♡
メモしとこっ📝(笑)




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列車に乗った男

2025-08-20 | 映画(ら行)


◼️「列車に乗った男/L'hommo Du Train」(2002年・フランス)

監督=パトリス・ルコント
主演=ジャン・ロシュフォール ジョニー・アリディ ジャン・フランソワ・ステヴナン イザベル・プティ・ジャック

パトリス・ルコント監督の真骨頂は"おっさんの片恋"である。それは「髪結いの亭主」「仕立て屋の恋」「歓楽通り」などの男女間の切ない話だけではない。一方的な憧れや強い関心という意味では同性の話でも同じ。本作「列車に乗った男」を観てそう確信した。

オフシーズンのリゾート地である田舎町が舞台。列車でやって来た男ミラン。薬局に立ち寄った際に元教師のマネスキエと出会い、彼の家に泊まることになる。
「土曜に出て行くよ」
「土曜は私も用事がある」

ミランは銀行強盗をするためにこの町に来た。仲間が準備を進めているが、どうも気が乗らない。一方、マネスキエは手術を控えていた。独りで暮らしているから喋りたくて仕方ないマネスキエと寡黙なミラン。正反対の2人だが、話をして行く中でお互いの生活に憧れのような気持ちを感じ始める。マネスキエは革ジャンを着て鏡に向かい悪漢の真似事をしてみるし、ミランは邸宅で上履きを履く生活に憧れる。不思議な友情で結ばれていき、行動が少しずつ変わって行く2人。

土曜日というタイムリミットが迫る中で、お互いにないものを少しだけ味わう。マネスキエは銃の練習をし、ミランはうろ覚えだった詩の続きを教わる。マネスキエは姉に本音でものを言い、ミランは計画的な生活を知る。

マネスキエが好意を寄せている女性を家に招いて3人で食事する場面。本音で接することができないマネスキエの本心を、ミランがストレートに代弁する。きっとマネスキエは長年の思いが伝わったんだろう。静かだけど印象に残るいい場面だ。

2人が少しずつ影響を受けて行く様子が、淡々としていながらも面白い。詩を習いにくる少年にミランが代わりを務めたり、ジタンを詰めてパイプを試してみる姿もいい。

そして2人は大仕事に向き合う土曜日を迎える。映画はそれまでの静かな雰囲気を打ち砕く強烈なエンディングを迎える。だがその先で、お互いがそれぞれの生き方を交換するような無言の幻想的なシーンで幕を閉じる。それまで経験することのなかったお互いの生活への憧れ。それは、ルコント得意のおっさんの片恋の見事なバリエーション。「地下室のメロディー」や「さらば友よ」のような男と男の渋さとも違う。でもくたびれた男たちにしか出せないビターな味わいは同じだ。





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レッドソニア

2025-08-18 | 映画(ら行)


◼️「レッドソニア/Red Sonja」(1985年・アメリカ)

監督=リチャード・フライシャー
主演=ブリジット・ニールセン アーノルド・シュワルツェネッガー ポール・L・スミス サンダール・バーグマン

ブリジット・ニールセンというと、「ロッキー4/炎の友情」で演じたロシア女性のイメージがあまりに強くって。あの自信満々で挑発的で憎たらしい役柄。それに比べたら、同じ年に出演した本作のヒロイン役は好印象。それなりに頑張ってるアクションも見事な体格も、そして男嫌いのはずがだんだんとシュワルツェネッガーに惹かれていく演技も。

王国を追われたお子ちゃま王子とその家臣がコメディリリーフ。生意気なガキんちょが真の大人の強さを学んでいく姿が微笑ましい。

「コナン・ザ・グレート」のスピンオフだと誤解されがちだが、本作は全く別のお話。シュワルツェネッガーは出演しているがあくまで助演。コナンではなくカリドーと名乗り、ヒロインを助ける心優しき勇者役。太刀を振り回すアクションは「コナン」2作品と同様に見応えがある。水中で機械仕掛けの蛇と格闘する場面は戯れているだけにしか見えず、安っぽさを感じるのが残念なところ。

カリドーにも剣で立ち向かうとにかく強気なソニアに、「愛を求めるなら征服されることも必要だぞ」と言うひと言がいい。ラストシーンのキスになんかほっこりしてしまう。こういうテイストは徹底してハードな「コナン」とは違って好みが分かれるところかも。僕は好きだな。

「コナンPART2」と同じくリチャード・フライシャーが監督。音楽はエンニオ・モリコーネ御大。




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リトル・ダーリング

2025-08-06 | 映画(ら行)


◾️「リトル・ダーリング/Little Darling」(1980年・アメリカ)

監督=ロナルド・F・マックスウェル
主演=テイタム・オニール クリスティ・マクニコル アーマンド・アサンテ マット・ディロン

クリスティ・マクニコルと銀幕で出会ったのは中坊のとき。地元の映画館で「スタートレック」(1979)を観に行って、同時上映だったのが本作「リトル・ダーリング」。70年代末から子役として人気があったテイタム・オニールと人気上昇中だったクリスティ・マクニコル共演作。SF大作目当てで出かけたのにガールズムービーにプチ感動した次第。

サマーキャンプの間にロストバージン競争をする賭けに巻き込まれてしまったのは、ちょっとツッパリ(死語)のエンジェルと金持ちお嬢様のフェリス。フェリスはゲイリー先生、エンジェルは男子キャンプにいるランディ(若きマット・ディロン!)を相手に選ぶ。

あの頃性春映画はあれこれ製作されていて、テレビで放送されたら親の目を気にすること必至な作品もたくさんで、その多くが男子願望目線。本作はストーリーこそロストバージン競争だが、描かれるのは環境が違うそれぞれのヒロインが抱くミドルティーンの悩みと人間模様。金持ち娘とチヤホヤされるのでなく、自分自身を見て欲しいと願うフェリス。奔放な母親の生き方共感できず、人間関係も距離を置くエンジェル。

あの頃は2人のヒロインばかりを見ていたけれど、今の年齢で見ると気になるところも。

アーマンド・アサンテ演ずる先生に迫ったフェリスだが、相手にもされず撃沈。しかし、さも2人の間に何かが起こったと受け取れるようなことを他の女子に喋ってしまう。映画では全く描かれないが、翌日女子の間で先生がフェリスに手を出したと噂になって、先生が立場を悪くしてしまったに違いない。それらがないままやや唐突に、フェリスに「恋人だもんな」と嫌味を言う先生がビールを飲みながら登場する。フェリスは個人的な悩みを打ち明けながらひたすら謝る。今の年齢で見ると、先生は子供に手を出したと疑われて立場どころか社会的な信用を失う危機だ。どれだけ重大なことをしでかしたのか。

一方でエンジェルは現実の虚しさを知る。映画後半のクリスティ・マクニコルは、いろんな表情を見せながら葛藤と不安、本心を打ち明ける勇気を演じてみせる。改めて観ても上手いなと思う。

あの頃はクリスティが気に入ったもので、テイタムの印象が悪いままだった。改めて観て、帰路のバスに乗る場面で「(私が)21歳になるのをお楽しみに♡」と先生に告げるテイタムの笑顔が最高。そして、映画冒頭では喧嘩していた彼女を「私の親友」と母親に紹介するクリスティ・マクニコルの照れた笑顔がいい。80年代初めの青春映画の佳作として、もっと知られて欲しい作品。

サントラにはブロンディ、ジョン・レノン、スーパートランプ、リッキー・リー・ジョーンズなどが使われている。





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龍拳

2025-04-19 | 映画(ら行)


◼️「龍拳/龍拳(Dragon Fist)」(1978年・香港)

監督=ロー・ウェイ
主演=ジャッキー・チェン ノラ・ミャオ ジェームズ・ティエン リン・インジュ

ヒット作「酔拳」「笑拳」と同じ年に製作されているが、本作はコミックカンフーではなくシリアスな正統派カンフー映画。監督はブルース・リー作品でも知られるロー・ウェイ。復讐劇はカンフー映画とマカロニウエスタンの王道だが、本作「龍拳」は"修行して勝つ"単純な筋書きではなく、他のカンフー映画とはひと味違う複雑なストーリーになっている。

師匠を非公式試合で殺された主人公。師匠の奥様と娘を守りながら復讐の時に備えていた。師匠を殺した仇はある事情で自分の行いを悔い片足を切り落とす。復讐を遂げられず悶々とする主人公。奥様が突然の病に倒れ、薬を手に入れる為に用心棒まがいの仕事に就く主人公。だがそれは対立する武道館の争いに利用されていたのだった。非道な策略に怒った主人公の鉄拳が炸裂する。

ロー・ウェイの代表作である「ドラゴン怒りの鉄拳」同様に、積もり積もった怒りが爆発する展開は観ているこっちもアツくさせる。

タイトルにある"龍拳"が特別な秘拳なのかもしれないが、習得するまでの鍛錬の様子は一切描かれない。だがその分アクションシーンにしっかりと尺が使われているのは大きな魅力。ジャッキーは蹴りが少なめで、コンパクトな腕の動きから突き出す攻めに無駄がなく、一撃の強さを感じさせる。しかし接近戦中心の型なので、クライマックスに登場する刃のついたトンファーを操る相手には苦戦を強いられる。そこからの逆転劇がカッコいい。

ジャッキー・チェンの初期主演作は日本公開時に独自の劇伴と主題歌が付け加えられている。本作も同様で、渋い印象の主題歌はDragon Fist。林哲司はカンフー映画楽曲でもいい仕事。もっと評価されていい。香港映画で他の映画のサントラが引用(無断使用?)されるのは多々あるが、本作ではジェリー・ゴールドスミスの「砲艦サンパブロ」楽曲などが繰り返し使われている。「サンパブロ」は中国が舞台のスティーブ・マックイーン主演作。オリエンタルムードが「龍拳」にも違和感なく溶け込んでいる。





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リリィ

2024-11-18 | 映画(ら行)


◼️「リリィ/Le Petiti Lili」(2003年・フランス)

監督=クロード・ミレール
主演=リュディヴィーヌ・サニエ ニコール・ガルシア ベルナール・ジロドー

クロード・ミレール監督と聞くと、「小さな泥棒」「なまいきシャルロット」「伴奏者」あたりを思い浮かべる世代には、若手女優を主役に据えて揺れる心境を撮る人めいたイメージがあると思う。フィルモグラフィーを見れば遺作のヒロインはオドレイ・トトゥだったし、80年代にはイザベル・アジャーニ主演作もあるし。

本作「リリィ」は日本ではDVDスルーとなった作品。ヒロインはリュディビーヌ・サニエ。フランソワ・オゾン監督作で気に入って、彼女目当てでセレクト。えーと、フレンチロリータに弱くてすみませんw

チェーホフの「かもめ」を現代フランスを舞台に翻案した作品。そう聞くと敷居の高さを感じてしまうが、それほど小難しい映画ではない。女優の息子ジュリアンは映画監督を目指していて、恋人リリィを主役に作品を撮った。伯父サイモンの家で家族にお披露目をする。母に酷評されて落ち込むジュリアン。母の出演作を撮っている監督ブリスはリリィに可能性を見出し、彼女を連れてパリへ。ジュリアンを慕っていたジャン・マリーの支えもあって、ジュリアンは数年後に監督デビューを飾ることになる。作品は伯父の家で起こった家族の出来事で、母やブリスが本人役でキャスティングされるが、リリィを演じるのは誰かが決まっていなかった。

うーむ。最初に挙げたミレール監督の代表作と比べると、どうも居心地の悪さを感じる。それは、映画の話自体がタイトルロールであるリリィの視点を貫いていないからだろう。映画前半、庭園に集っていたみんなをリリィが魅了したのは間違いないのだけれど、その後でリリィへの思いをジュリアンが募らせるでもなく、芸能界を駆け上がるリリィが描かれる訳でもなく。ストーリーの真ん中からリリィがどっかに行ってしまうのだ。

中盤は悩み苦しむジュリアンを中心に、伯父サイモンと母マドの意見対立、ジャン・マリーの恋心と村の医者をめぐる女たちの様子が描かれて、群像劇の様相になる。それはそれで悪くないのだが、リリィがいなくても成り立つエピソードが続き、後半売れっ子になったリリィが「私に自分の役を演じさせて」と懇願するのが唐突に思えてしまう。ジュリアンを挫折させた庭園での出来事に、リリィがどれくらいの思い入れがあるのか。その後も実はジュリアンを思い続けていたとか、映画中盤不在だったリリィが何を思っていたのかがわからないだけに、観ていて悶々としてしまう。

その空気を救うのが初監督作の撮影現場を舞台にしたクライマックス。招かれたジュリアンの家族たちが、撮影を見守る様子が微笑ましい。特に伯父サイモンが自分役の名優ミシェル・ピコリに挨拶して、映画の話に花が咲くのが楽しい。監督役のベルナール・ジロドー、ジャン・ピエール・マリエール、ジュリー・ドパルデューら役者陣が魅力的。リリィ不在のどこに辿り着くのかわからない中盤の人間ドラマが悪くないのは役者の力。

えー、お目当てのサニエたん。冒頭の眩しいヌードから始まって、田舎娘から脱皮した後半の表情まで素敵。あんまり聡明な役柄ではないけれど、もっと出番が欲しかった。あのタレ目が好きなんだろって?図星♡





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ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス

2024-11-16 | 映画(ら行)


◼️「ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス」(1995年・日本)

監督=白土武
声の出演=栗田貫一 小林清志 井上真樹夫 増山江威子 安達祐実

劇場版第5作(「風魔一族の陰謀」を4作目としたカウント)の本作は、栗田貫一がルパンを演じた最初の作品。公開前は山田康雄でキャストが発表されていたが、復帰に至らず帰らぬ人となってしまった。ものまね芸人だった栗田貫一がその後継者となった重要作。

ノストラダムスの予言書を信じるカルト宗教団体と、アメリカ大統領選挙に立候補しようとしている大富豪ダグラスが予言書をめぐって対立する。ダグラスの娘ジュリアが、ルパンが盗んだダイヤ入りぬいぐるみを持ち去る。ジュリアの教育係として雇われていた峰不二子。ジュリアを教団が誘拐したことで、ルパンら面々も事件に巻き込まれてしまう。

製作当時はノストラダムスが世界破滅を予言した1999年を目前にした時期。しかもオウム真理教による地下鉄サリン事件がまさに1995年という偶然も重なり、今観ると湾岸戦争後の不穏な空気を思い出させる。さらに地元にタワーと呼ばれる巨大建造物を所有している大富豪が大統領選挙に出馬するのは、今観るとどうしてもドナルド・トランプを想像してしまう。決してそこを狙って製作した作品ではないのに。

結果的にルパン一味が人助けする展開ではあるのだが、全体的なストーリーは決して軽いものではない。富豪一家のドラマ、一時的に記憶を失った不二子、老金庫破りの末路とけっこうハードなエピソードが用意されている。1996年に金曜ロードショーで放送された録画を初めて観た頃は、当時人気子役だった安達祐実のキャスティングと人助けするお話に「こんなんルパンじゃない」と冷めた見方をしていた。2024年8月に配信で再鑑賞。今観ると、「あぶ刑事」の柏原寛治と伊藤俊也監督の脚本は練られたものとの印象を受けた。

当時も思ったけれど、ダグラス財団タワーの金庫階から地上に落とされる場面、高所恐怖症の僕にはキツい😖。テレビでよかったかも…w。本作のキャラデザはかなり好み😋PART2世代だもん、やっぱりルパンは赤ジャケットが好き。エンドクレジットにはスタジオジブリ、京都アニメの名前も並んでいる。





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ルックバック

2024-08-17 | 映画(ら行)



◼️「ルックバック」(2024年・日本)

監督=押山清高
声の出演=河合優美 吉田美月喜

私ごとだが、小学生の頃、自由帳に少年誌の真似をしたマンガを描いてたら、友人たちから読者が広がっていった時期がある。純粋に楽しんで描いたものもあれば、日頃の鬱憤を白いページに向かって晴らしていたものもある。好きな女の子をモデルにしたヒロインを讃美したり、イジメまがいのチョッカイ出してくる男子を悪役にしてコテンパンにしたりw。多少の絵心はあったかもしれないが、画力上げるために努力した訳でもない。要するにちょっとしたお絵描きが得意だっただけだ。大した実力もないくせに。

「ルックバック」の主人公藤野は、学年通信に4コママンガを連載して、周りからチヤホヤされている。目が腫れているくせに短時間で描いたとか言っちゃう見栄っ張り。ある日、不登校の京本の作品も載せると先生に言われ、「学校にも来れない人が」と見下した態度をとる。自分本位のちょっと嫌なヤツ。ところが、京本の作品の描き込まれた絵の巧さに驚愕。「藤野の絵は上手いと思ってたけど、こうして見ると普通だな」と隣の男子に言われてショックを受ける。負けまいと描きまくるのだが、画力では全く追いつかない。6年生の途中で連載を断念してしまう。

この冒頭数分間だけで完全に心を掴まれてしまった。なんて濃密なアニメなんだろ。確かに冒頭の机に向かう場面、鏡の使い方が上手いなぁとは思った。でもそれ以上に引き込まれた理由は、自分自身だった。

藤野は小学生の頃の自分じゃねえか😳

でも僕が藤野と違うのは、京本みたいな存在がいなかったことだ。だから興味の対象がどんどん変わってしまった。藤野は京本という存在がいたことで、負けまいと躍起になれたり、タッグを組んだり。切磋琢磨ってよく言うけれど、同じベクトルで競い合って認め合える存在がいるからできること。一方で、都合よく京本を利用してるようにしか見えない部分もある。それは藤野が基本自分本位のズルさを持っているからだ。最初に「藤野先生」と呼ばれる場面だって、自分も京本の絵を認めているくせに、それは全く口にしない。また描き始めたとか見栄を張る。嫌なヤツだな。

しかし。そこから続く、藤野があぜ道をスキップする場面に再び心が掴まれた。映像から伝わる高揚感。すごい。気持ちがわかる。認められた嬉しさと思わぬ同士を得た喜び。上手いなぁ。

コンビを組んだ2人はプロになって、少年漫画雑誌に連載をもつことになる。しかし、京本は背景画の世界に自分の道を見いだして、絵を学びたいと言い出す。コンビの解消だ。ここでもまた藤野は自分本位の嫌な面を見せる。頼れる存在を失いたくないくせに、「アタシと一緒ならうまくいく。美大生の就職なんて…」と京本を責め立てる。嫌なヤツだな。

そこからの喪失感と事件。起承転結が短い上映時間の中できちんと構成されている。これで58分だって?なんて濃密な。観る前は特別料金と上映時間に文句言ってた自分が恥ずかしくなる。クライマックスで示されるのは、別な流れの2人の道筋。嫌なヤツだと思いながら見ていた藤野が自分を責める場面。そこにあるのは後悔の念。そんな彼女をのもとに扉の向こうから4コマのメッセージが届く。前半との呼応。上手いなぁ。多くの人の感想にあるように涙を誘う。

このアニメ、若い世代もだけどそれなりに年齢層いってる人たちにも共感を呼んでいる。
それは生きてきた時間だけ、いろんな後悔の味を知っているから。

どんな分野でも、創作は結局孤独な作業だ。そこに打ち込める表現者を僕はカッコいいと思う。再び机に向かったラストシーンの藤野。彼女の後ろ姿が、とんでもなくカッコよく見えた。









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ランナウェイズ

2024-04-16 | 映画(ら行)


◾️「ランナウェイズ/The Rnuaways」(2010年・アメリカ)

監督=フローリア・シジスモンディ
主演=ダコタ・ファニング クリステン・スチュワート マイケル・シャノン ステラ・メイヴ

ランナウェイズが活動していた1970年代後半は、やっと洋楽に目覚め始めた頃。聴いてたのはBCRやAbbaとか健全なものが中心だった。洋楽に詳しい友達から、こんなひと言を言われたことがある。
😼「takは育ちがいいから、ビートルズは聴いても、不良ぽいストーンズは似合わねー」
へ?音楽にそんな垣根があるもんかと思ったのだが、世間が"不良ロック"なイメージを持つジャンルは実際後追いで聴くことになる。育ちがいいとはちっとも思わないけど、言葉の呪縛って怖い。ランナウェイズは、当時存在は知っていたものの、色モノのイメージが強くって。もし聴いてたら母に「お父さんが喜びそうな女バンドなんか聴いて!😭」と怒られたに違いないw

本作はそのランナウェイズの結成から解散までを描いた作品。ギターのジョーン・ジェットが音楽プロデューサーに女子でバンド組みたいと名乗りをあげ、メンバーが集まっていく過程が示される。街でくすぶって男の玩具になっちゃうよりも、飲んだくれの父親を抱える家に縛りつけられるよりも、何かで自分を示したい。そんな気持ちが彼女たちを駆り立てていく。

シェリーのオーディションのためにあのCherry Bombが創られていく様子。あまりのテキトーさ、こんな酷い歌詞だったのかと驚かされた。まさに不良ロック。そりゃ小学生の時に言われた言葉もわかる気がするw。
「聴く男どもがどう思うか。煽ってギリギリでかわせ。チンコで考えるんだ。」
すげえ日本語訳w。でもその激しい音楽と、シェリー・カーリーの煽情的なイメージが、バンドの成功とは裏腹に色モノのイメージを決定づけてしまったのは間違いない。

日本での人気がこれでもかと描かれる。僕は当時お子ちゃまだったから知らなかったけれど、日本での熱狂ぶりって激しかったんだな。ただランナウェイズの写真集が当時出版されていたのは知っている。映画の中でも、日本から来たカメラマンが、「いいねぇー、いいねぇー♪」と言いながらセクシーな表情のシェリーを撮る場面が出てくる。そういえばあの写真集は、雑誌GOROの別冊だったよね…おぉ!あの「いいねぇー♪」は篠山紀信センセイじゃねえか!その写真が原因でシェリーと他のメンバーが対立する場面の痛々しさ。音楽に理想があったのにストレートに受け止められない現実。離れたかったはずの家族が恋しくなる気持ち。気づかないうちに、世間の玩具にされてしまっていた自分たち。

映画のラストはその後の彼女たちが描かれる。ヒット曲を出したジョーンが出演するラジオ番組に、シェリーが電話する印象的な場面で幕を閉じる。ロックンロールは終わらない。

ジョーン・ジェットは代表曲I Love Rock'n Rollも好きだが、個人的にI Hate Myself for Loving Youが好き。あんたに夢中なアタシにヘドがでるわ♪表現は悪いが結局行き着くのは誰かを思う愛。その境地をルーズなロケンロールで歌う。最高やん。不良ロックを遠ざけられた少年は、そんなこと言う大人になったのでしたw

クリステン・スチュワートのジョーン、ひたすらカッコいい。ダコタ・ファニングのシェリーも大熱演。ワンシーンだけだが、子供たちを残して再婚相手とシンガポールへと去るシェリーの母親が登場する。おっ!テイタム・オニールだ!。かつてオスカーを受賞したそばかすの少女は、こんな役やる大人になってたのか(懐)





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落下の解剖学

2024-03-07 | 映画(ら行)


◾️「落下の解剖学/Anatomie d'une chute」(2023年・フランス)

監督=ジュスティーヌ・トリエ
主演=ザンドラ・ヒュラー スワン・アルロー ミロ・マサド・グラネール

カンヌ映画祭でパルムドールを獲得し、米国アカデミー賞にもノミネートされたフランス映画。あらすじと不穏な空気しか感じられない予告編で、ただのサスペンス/ミステリーではあるまいと期待して劇場へ。

予告編から思い描いていたものが次々と打ち砕かれた。視力を失った息子が唯一の証人?元恋人弁護士との焼け木杭(ぼっくい)に火がつく話?とか思っていたけれど、これは真正面から厳しく人間関係に迫った緊迫感のあるドラマだ。

本編の半分くらいが法廷内のシーンで構成されており、最初から最後までとにかく会話劇。スクリーンの中の光景がなかなか変わらないからかなり集中力がいる。気力があるときに観るべきという感想も見かけていたがそれも納得。裁判シーンが始まるまでは僕も睡魔に襲われそうになった。しかしそこから物語は二重三重の仕掛けで、主人公サンドラとその家族の現実を浮き彫りにしていく。

夫の傷の負い方で妻が殺したのではと疑われたことから、夫婦をめぐる様々な出来事が法廷で明かされる。度々言い争っていたこと。売れっ子である妻と成功に恵まれない夫。家事の負担と創作活動のバランス。息子をめぐるお互いの気持ち。

映画が進むにつれて、夫殺しが疑われる妻には不都合な出来事が次々と示される。
「私は殺してない」
「大事なのはそこじゃない。君がどう思われるかだ」
そのやりとりが示すように裁く側がどう捉えるかによって、裁判の結論は変わってしまう。フランスは裁判官と市民から選ばれた参審員によって有罪無罪と量刑を決める制度だ。妻にとって不利な事実が疑念をさらに深めることになりかねない。さらによそ者であるサンドラには言語という壁もある。訳され方で印象も変わってしまう。

日本ではメガネの少年探偵が「真実はいつもひとつ」とよく言う。真実は一つでも、受け取り方で結論はどうにでも転がってしまう。「解剖学」とのタイトルが示すのは、物事には様々な見方がある、ということ。しかも人は都合のよいことしか目に入らない。この映画は、法廷ものとして、人を裁くことの難しさを描く一面を持つ映画だ。

だが映画が映し出すのはそれだけではない。息子ダニエルが知る、それまで知らなかった家族の姿、受け入れたくない事実、父と母の間にある溝。クライマックスでいちばんスリリングなのは母と息子の関係の行方。信じることの難しさ。ダニエルがピアノで弾くショパンの有名なメロディは、ところどころ半音階で不安にさせるけれど、哀しげで美しい。人と人のつながりのように。







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