Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

キングダム 大将軍の帰還

2024-07-21 | 映画(か行)


◾️「キングダム 大将軍の帰還」(2024年・日本)

監督=佐藤信介
主演=山﨑賢人 大沢たかお 吉沢亮 清野菜名 小栗旬

第1作を観た時、妙に居心地が悪かった山﨑賢人の今どきヤンキーな口調。礼儀知らず世間知らずなのに、さすがに4作目にもなるとこれが頼もしく聞こえてくるから不思議。本作のラストでは、兵士たちに語りかけ、大将に代わって号令まで。出しゃばりにも程がある。でもその図々しさも許せてしまう頼もしさ。将軍の馬からの景色を覚えておきなさい、と言われる場面の、これまでにない真顔とまっすぐな視線。信の成長物語はまだまだ止まらない。やっぱり面白いな、このシリーズ。

「キングダム」は人の上に立つ者はどうあるべきか、というリーダー論を、主人公信と一緒に様々な登場人物から考える物語でもある。人の痛みを知るからこそ戦のない世のために中華統一を目指す秦王、第2作に登場する麃公(トヨエツ)の大局を見る戦運び、先頭に立って突っ走る縛虎申、それぞれの立場で発揮されるそれぞれのリーダーシップ。そして人柄も実力も兼ね備えた天下の大将軍王騎(大沢たかお)。それらは百人大将となった信の行動にも大きな影響を与えていく。

第4作となる「大将軍の帰還」は、事実上王騎将軍が主役だ。ここにきて王騎をめぐる過去の出来事が明らかになる。これが実にドラマティック。キングダムの映画化は、過去の出来事を描く回想シーンが異様に長い。囚われの身だった時代の秦王を描く第3作前半は、かなりの尺を費やしていた。秦王の信念を描く上では重要なエピソードで、僕もやたら感動したのだけれど、戦いの行方だけに大きな期待をした観客には多少焦ったいのかもしれない。第4作でも、秦国武将の一人摎をめぐる過去のパートが登場する。ホウ煖との因縁を語る上でも重要な部分だが、これが映画全体の話を途切れさせることもなく、むしろ王騎の人柄を印象づけることにも成功して、クライマックスに向かう観客に見届ける覚悟をさせるようにも感じられた。映画自体は確かに長尺になったけれども、無駄には感じられなかった。戦闘シーンとそれ以外のシーンのバランスがいい印象。

羌瘣が尾到の死を悼む言葉から彼女に芽生えた仲間意識が感じられる場面、王騎にかけられたひと言に摎がキュンキュンする場面、草刈正雄の昭王の言葉、王騎が馬上で語りかけるラストまで、挙げたら止まらないくらいにいい場面がある。もちろん原作の良さがあってのものだが、佐藤信介監督はどんどん登場人物が増える群像劇をうまく演出していると感じた。本作は短い場面でも心に残るのはそのせいだろう。

この先まだまだ話は続くのだが、映画化はどうなるんだろう。

小栗旬演ずる李牧のキャラがなーんか嫌い。喋りに加えて、あの南蛮渡来みたいな装束は何だよ、戦場だぞ。第4作では側近のカイネも台詞が増えてきて、二人が並ぶ場面では急に映画の重厚感が薄れる気がしてならなかった(個人の感想です)。昨年第3作を観た後、
😒「李牧でしたっけ?小栗旬が出てくると途端に空気が軽くなるから、個人的に嫌いなんですよねー」
と原作未読の僕は職場で発言した。すると上司からひと言。
😼「何言ってるんですか。李牧はこの後の超重要キャラクターなんですよ。」
ありゃ🙄そうなのか。ってことは、小栗旬のチャラさにこれから耐えなきゃいけないのか。大丈夫かオレ。でも「片腕必殺剣」みたいな要潤の華麗な剣さばきが、きっとこんな僕をこれから救ってくれるはずw

王騎ロスになりそうです。ンフフフ。





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傷だらけの栄光

2024-07-10 | 映画(か行)


◾️「傷だらけの栄光/Somebody Up There Likes Me」(1956年・アメリカ)

監督=ロバート・ワイズ
主演=ポール・ニューマン ピア・アンジェリ サル・ミネオ アイリーン・ヘッカート

実在のボクサー、ロッキー・グラジアノが世界チャンピオンになるまでの半生を描いた伝記映画。ジェームズ・ディーン主演で企画されていたが、急逝でポール・ニューマンが主役を演ずることになったとのこと。勝手な想像だが、ジミーだったら"実は繊細なツッパリ"というイメージが既にある。自制ができず、すぐに拳を振りかざす不良少年役には、優しすぎたかも。一方でポール・ニューマンは粗暴で拳以外に頼れないどうしようもなさがうまい。後に演ずるブッチ・キャシディや「暴力脱獄」のイメージで勝手にそう思ってしまうのかも。

映画が始まって間もなく、主人公がニューヨークの下町を逃げ回る場面から、映像に惹かれてしまった。勝手にロバート・ワイズ監督作「ウエストサイド物語」の空撮オープニングとシャープな映像を重ねてしまう映画ファン。とにかく主人公ロッキーが自分を抑えられない性分なのが、観ていて辛い。盗みと暴力しか周りにない環境が彼をこんな行動に導いてしまうんだろう。徒党を組んでる仲間には「理由なき反抗」のサル・ミネオか…と思ったら、仲間の一人にデビュー作となるスティーブ・マックイーンが!😳

服役、出所を繰り返す前半。唯一の味方である母親からも「限界だ」と言い放たれて、社会的にも追い詰められていく様子が観ていて辛い。ダメ男が頑張る映画は好きだけど、この主人公はとにかく頑張らない。だからますます観ていて辛くなる。リングの中で拳を振るい、その実力を認めてくれる存在が出来てからの後半は小気味いいサクセスストーリーになるかと思いきや、過去との因縁や社会性のなさから失敗を繰り返す。

その様子は、エンターテイメントとして提示される分かりやすいアメリカンドリームに慣れた観客には、焦ったくて仕方ないのではなかろうか。3歩進んで2歩下がる、って歌の文句じゃないけれど、まさにそんな人生。決して気持ちのいいサクセスストーリーではない。しかし、こうした紆余曲折や葛藤のドラマが誰の人生にもついて回るもの。

クラシック映画を観ると、いつの時代にも通じる教訓のような何かが目の前に示されるような気持ちになる。「傷だらけの栄光」もそんな映画だ。強烈な右の拳以外はダメなところだらけの男だが、"天にいる誰かがオレを好いてくれている"と言う。それは少しは謙虚になった彼の変化を示す言葉なんだろう。ラストシーンはこの台詞に続いて、"地上にいる誰かもね"と愛妻のひと言が添えられる。素敵な幕切れだ。

映画冒頭、子供相手を殴る父親にイラッ💢とするが、彼も故あってグローブを置いた元ボクサーであることが分かる。母親、恋人、カフェのマスターなど、ダメ男な主人公を取り巻く人々のドラマも見応えがある。クライマックスの世界選手権戦の緊張感。カットバックを用いた編集が見事で、多くの人がその試合に様々な思いがあることが伝わってくる。「ウエストサイド物語」のクインテットの場面を思い出す。単なる殴り合いに終わらないのだ。観てよかった。




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クラス・オブ・1999

2024-06-23 | 映画(か行)


◾️「クラス・オブ・1999/Class Of 1999」(1990年・アメリカ)

監督=マーク・L・レスター
主演=ブラッドリー・グレッグ トレイシー・リン マルコム・マクダウェル ステイシー・キーチ

「処刑教室」(1984)のSF版?とも言える特撮バトルムービー。「処刑教室」は教師の気持ちも見えたけれど、もはや本作は戦場でしかない。

無法地帯と化した学校に送り込まれたのは、3人のアンドロイド教師。やがてプログラムを逸脱した行動をとるようになった彼らは、ただの戦闘ロボットと化す。彼らに立ち向かうべく、不良グループの面々が立ち上がる。

近未来の設定や独自の未来観はまあ面白い。アンドロイドを導入した校長が、「時計じかけのオレンジ」で未来の不良を演じたマルコム・マクダウェルという、気が利いたキャスティング。パム・グリア先生が怖い😨。

優れた機械を送り込んだからって、「ロボコップ」のようにはいかんのよ。




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靴みがき

2024-06-03 | 映画(か行)

◾️「靴みがき/Sciucia」(1946年・イタリア)

監督=ビットリオ・デ・シーカ
主演=リナルド・スモルドーニ フランコ・インテルレンギ アニエロ・メレ

ネオリアリズモと呼ばれたイタリア映画では、戦後のイタリア庶民が直面する厳しい状況が描かれた。ビットリオ・デ・シーカ監督は「自転車泥棒」も同時期の名作として名高いが、本作は少年たちの辛い物語を軸にしているだけに、公開当時は多くの観客が涙をにじませたに違いない。この監督が後に艶笑コメディ撮るなんて、この悲しい物語しか知らなければ想像もできないかも。

アメリカ軍が駐留する戦後のイタリア。靴みがきをして家計を助け、生計を立てている少年、パスクァーレとジュゼッペは、兄から米軍の払下品を売る仕事を頼まれる。それが盗品だったことから警察に逮捕され、二人は少年院に送られる。主犯について黙っていた二人。しかし取調官がジュゼッペに乱暴しているように見せかけたことから、パスクァーレは自白してしまう。二人の関係は崩れ始める。

観てる間ずっと、「みんなビンボが悪いんじゃ!」って高橋留美子のコミックに出てくる台詞が頭をよぎる。貧困を描いたイタリア映画と日本映画には敵わない、めいた評論を目にしたことがあるが、「靴みがき」を観ていると、それは確かにそうかもと思わされる。

子役が可哀想な役柄を演じて観客を泣かせるだけの映画なら、この世にいくらでもある。けれど「靴みがき」には大人たちの汚さやズルさ、生きていく厳しさもきちんと描かれていて、単に子供が可哀想なだけの話に終わっていない。少年たちのトラブルの責任を取らさせられる中間管理職的なおじさんの悲痛な表情。権威を誇るだけのその上司。ジュゼッペの親に依頼された弁護士は、親がいないパスクァーレに全ての罪をなすりつけようとする。

悪い仲間に唆されて脱走を謀るジュゼッペ。行方を追うのに協力を申し出るパスクァーレ。二人が対峙するラストはあまりの悲劇に言葉を失った。予備知識を入れなかったので、単に貧しい暮らしが描かれるだけの映画だと思っていた。しかし少年院での人間模様の巧みさには引き込まれた。院内で映画鑑賞会が催される夜、パスクァーレが「寝起きができて食事もできて、たまには娯楽まである。外にいるよりマシだ」と呟く。刑務所を行き来している大人が言うのではなく、子供の口からこの言葉がでるのは、なんとも切ない。みんなビンボが悪いんや。





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関心領域

2024-06-01 | 映画(か行)


◾️「関心領域/The Zone Of Interest」(2023年・イギリス=ポーランド=アメリカ)

監督=ジョナサン・グレイザー
主演=クリスティアン・フリーデル ザンドラ・ヒュラー ラルフ・ハーフォース

環境音に人はいつしか慣れてしまう。緊急自動車のサイレンがひっきりなしに聞こえるから物騒なところと感じることも、線路沿いの騒音や振動も、人はいつしか慣れてしまい、疑問に感じなくなってしまう。本作はアウシュビッツ収容所に隣接する家の日常が上映時間の大部分を占める。目の前を映像として通り過ぎるのは、家族が食事をし、子供が庭で遊び、妻はメイドに支持を出し、夫は仕事から帰宅する、そんな風景。しかし、そのバックには異なる音が重なってくる。塀向こうから聞こえてくる罵声と悲鳴、銃声、低く唸り続けるボイラーの音。とんでもないことが塀の向こうで起こっているのに。

二つの音声を同時に聴きながら、映像とは別の出来事が起こっていることを感じ取る。確かに、聴覚で視覚とは違う情報を感じ取る映画なんてこれまでなかった。それが塀を隔てて、映像に映る何気ない日常と、映像に映らない地獄絵図が共存する。僕らが目にできるのは、塀の向こうに見える煙突から立ち上る不気味な煙だけ。ビジュアル表現に頼りがちな映画製作の場でこれまでなかった試みだと思う。

アカデミー賞に媚びる気はないけれど、見世物シアターの大音響で鑑賞することを前提とした「オッペンハイマー」ではなく、本作が音響賞を受賞したのは、テクノロジーや臨場感よりも映画表現としての効果を評価したということなのではなかろうか。普通は観ている映像を飾るのが音響なのに、映像で見えないものを間接的に表現しているのだから。

クライマックスでカメラが収容所の中に入って、観客が見せられたのはそこで命をおとした人々が身につけていたものが積み上げられた山。その尋常でない光景に愕然とする。子供の頃、社会科の資料集で積み上げられたメガネの写真を見て衝撃を受けたのを思い出した。ホロコーストものはやはり観ていて辛いけれど、語り継ぐことも映画の大切な役割。

一家の感覚が麻痺していることは、言葉の端々に現れる。「落下の解剖学」も素晴らしかったザンドラ・ヒュラーが演ずる妻は、気に入らないメイドに「あんたなんか灰にしてそこらに撒いてやる」と言い放つ。また所長である夫は、軍のお偉いさんが集まったパーティの光景を見て、ガス室を思い浮かべてしまう。「天井が高いから殺せないな」のひと言にゾッとした。じんわりとしみてくる、うすら寒い怖さ。一点透視図法や左右対称を強調した構図も冷たい印象でした。

エンドクレジットで流れる、悲鳴をサンプリングしたような不気味な音楽。この映画で感じた気持ちを忘れさせまいと記憶と身体に刻み込んでくるような威圧感がある。二度観ることはないだろうが、この感覚はきっと肌身が忘れない。

されど、観客に分かりやすいストーリーが示されない映画なので、受け入れにくい作品でもある。そうした方には、似たシチュエーションの「縞模様のパジャマの少年」を是非観て欲しい。物言わぬラストシーンが強烈な悲しみと怖さを残してくれるはずだ。



◇こちらも是非ご覧を。


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ゴジラ-1.0/C

2024-05-18 | 映画(か行)


◼️「ゴジラ-1.0/C」(2023年・日本)

監督=山崎貴
主演=神木隆之介 浜辺美波 佐々木蔵之介 吉岡秀隆 安藤サクラ

色があることで見えてくるものもあれば、色を抜くことで感じることもある。

チャン・ツィィー主演作「初恋のきた道」をご覧になった方は覚えているだろうか。夫となる男性と出会う過去パートは美しい色彩で描かれるのに対して、夫の死後一人で暮らす現代パートはモノクロになっている。古い時代だから、ノスタルジックだからと過去をモノクロにするのは、一般的にイメージしやすい。しかし、古いからモノクロというのは、古い映像をモニターを通して見ている第三者の視点でしかない。「初恋のきた道」がこれを逆にしたのは、愛する人を失った世界は、主人公にとってもはや魅力的なものではないことを無言で表現している。モノクロは主人公の心の風景だ。

山崎貴監督は「ゴジラー1.0」のモノクロヴァージョンを製作した。ノスタルジーを感じさせる手段としてモノクロにしたのではない。だったら「三丁目の夕日」もモノクロでいいはずだ。「-1.0」はカラーのオリジナルとは印象が大きく異なる。白と黒の陰影になることで戦後の暗澹たる空気や絶望感、そしてオリジナルへの敬意が際立って感じられたのだ。

「また租界かぁ」
オリジナルの「ゴジラ」で印象的な台詞の一つだ。敗戦から間もない日本に新たな脅威として現れたゴジラを前にして、ポツリとつぶやかれたひと言。平和を脅かすもの。軍隊も爆弾も経済危機も、庶民にとってはどれも自分の身に降りかかる災いでしかない。戦争で打ちひしがれた日本に現れた新たな災いは、巨大な足跡を残す。「また租界かぁ」のひと言は映像以上に胸にしみるし、1954年という時代背景を考えれば、とんでもない失望が込められている。そんな場面はあの時代でなければ撮れない。

「-1.0」がモノクロ化されたのは、ビジュアルであの時代の絶望感を、現代の僕らに少しでも感じさせるためのひと工夫だと思う。「また租界かぁ」はできないけれど、陰影にすることで神木隆之介や安藤サクラの表情はますます険しく映る。ゴジラの皮膚が再生する様子や、背びれが発光する様子は、モノクロでは少し物足りないが不気味さは増して見える。得体の知れない災いが迫ってる怖さ。これはあの時代の心の風景を表現するための一つの手段なのだろう。  







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ココ・アヴァン・シャネル

2024-04-12 | 映画(か行)

■「ココ・アヴァン・シャネル/Coco Avant Chanel」(2009年・フランス)

監督=アンヌ・フォンティーヌ
主演=オドレイ・トトゥ ブノワ・ポールヴールド アレッサンドロ・ニヴォラ マリー・ジラン

ファッション界で並ぶ者のない成功を手にしたココ•シャネルの若き日々を描いた作品。当時のフランスは女性の生き方にまだ真の意味で自由がなかった時代。映画で見る限り、男性にすがる生き方がよしとされていたようだ。シャネルも酒場で歌っていたところを将校エティエンヌ・バルサンに見初められ、彼のお屋敷に居候することになる。そこで出会う英国人男性カペルとの恋。そして彼の協力でココは個性と才能を発揮し始める。

正直なところ、僕はこの映画にシャネルがいかにしてあのシャネルスーツを作るに至ったのかを知ることができるか、と期待していた。彼女がポロを観戦しているときに、寒さから騎手のセーターを借りたことがそのきっかけとされている。確かにポロをする場面は登場するが、ルーツを感じさせる場面ではなかった。

この映画が重視しているのは特に恋物語の方だ。”本当の私を理解してくれる男性”。そして彼との悲しい結末。シャネルを通じて、観客に「あなたの相手はあなたを理解してくれていますか?」と問いかけられているかのようだ。

「あなたは私を恥じているでしょう?」
とバルサンに言う場面は印象に残る。人誰もがつきあう相手から様々な影響を受ける。それは男も女も同じだ。シャネルが女性をコルセットから解放して動きやすいファッションを考案したのも、つきあっている男性からの影響が多大にあるのは事実なんだろう。

お屋敷での退屈な日々の描写が淡々と続くことに途中飽きてしまいそうになった。「成功の秘密」って部分は観客の想像や予備知識に委ねられたような感じ。でもこの映画を観る上ではそこを受け入れないといけないのかな、というのが感想。ハリウッド映画のように「伝記」としてわかりやすく示してくれることは、そもそもこの映画の目的ではないのだ。いろいろな経験をしながら、主人公が人間として強くなっていく姿が中心なのだ。

マリー・ジランが出演しているのも嬉しい。


オドレイ出演のシャネルCM。



コメント (2)
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52ヘルツのクジラたち

2024-04-05 | 映画(か行)


◾️「52ヘルツのクジラたち」(2024年・日本)

監督=成島出
主演=杉咲花 志尊淳 宮沢氷魚 小野花梨

いざ観てみればいい話だし、役者のいい仕事も見られるし、もちろん感動させられる。だけどついつい重いテーマを扱う日本映画を避けてしまう。別にお気軽なエンターテイメントだけを求めて観る映画を選んでる訳じゃなくて、社会が問題としている事から目を背けるつもりもない。ただ映画館で辛い思いをしたくない。

それに重いテーマを前にした自分が、どんな感想をもってしまうのかが怖くなることもある。他人事にしか思えなかったらどうしよう、逆に身につまされる要素を何か感じ取って過剰に感情が揺さぶられてしまったらどうしよう。スクリーンに向かう自分が試されているような気持ちになって、劇場鑑賞に二の足を踏んでる映画はあれこれある。観たけれどうまくレビューできないものもある。「52ヘルツのクジラたち」も正直なところ、観ようと思うまでに時間を要した。

ヤングケアラー、ネグレクト、ドメスティック・バイオレンス、トランスジェンダーと多くのテーマを抱えた原作小説。それだけの要素がきちんと描かれているのか。表面的な話にとどまっているのではないのか。観る前に少なからずそう思っていたのだが、それは杞憂だった。文章では描けても、映像化するために補完しなければならないことに真摯に向き合った映画だと思えた。観てよかった。

杉咲花ら、出演者は当事者の方々に不快な思いをさせないように役作りをしていたと聞く。画面に登場する人それぞれが、自分の思いに真っ直ぐ。辛い場面やエピソードも出てくるけれど、言動の裏にある気持ちを考えること、手を差し伸べてくれる人の温かさを思い知ることができる良作。魂のつがい、いい言葉だな。

届かない声だけれども、映画でなら誰もがその気持ちに寄り添える。気持ちを知ることができる。それは物事に向き合うための第一歩だ。

少年の身寄りを探して訪れる小倉では、小倉駅とチャチャタウン小倉の観覧車が登場。毎度思うが、北九州ロケはほんっとに自己主張強めw。海を見下ろすバルコニーは、大分の別府湾を見下ろす高台にある住宅を使ってロケが行われた。確かにこの風景を撮るためには、穏やかな海に向かって斜面が広がる別府市は格好の場所だろう。海に面した佐賀関の風景と倍賞美津子や金子大地の大分弁がちょっと温かな気持ちにしてくれた。








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クロエ

2024-03-05 | 映画(か行)


◾️「クロエ/Chloe」(2009年・アメリカ)

監督=アトム・エゴヤン
主演=ジュリアン・ムーア アマンダ・セイフライド リーアム・ニースン

フランス映画「恍惚」のハリウッドリメイク作品。なーるほどね。オリジナルではアッサリとしか描かれなかった娼婦の気持ちを、もっともっと深掘りした結果こうなりました!というお話。こういう脚色にした気持ちは分からんでもないのだが、そもそも映画の目的が違う。人間模様こそが主眼のオリジナルに対して、感情がエスカレートした先まで示さないと気が済まないハリウッドリメイク。

フランス映画「暗くなるまでこの恋を」をハリウッドリメイクした「ポワゾン」を思い出した。サスペンス/スリラーにしないと観客にウケないとでも思っているんだろうか。本作も「ポワゾン」も脱ぎっぷりの良さが話題の映画だし。うーむ。

比較して観ると、分かりやすさは断然リメイク版。会話劇に官能小説めいた言葉選びをすることで観客の想像力を掻き立てるオリジナルだったが、その想像を具体的に映像で見せてしまう。リーアム・ニースン演ずる夫がガラスに添えた手が小刻みに震える場面でエクスタシーを表現。クロエが話す情事の様子を聞いて、妻キャサリンが悶々としてしまうのはオリジナルと同じ。だけどジュリアン・ムーアがシャワー浴びながらハァハァ言う場面まで必要だろか。オリジナルを先に観たせいか、こっちは分かりやすさが先にあるので、ヒロインの心情を考える余裕を与えてくれない。

映画冒頭のクロエの台詞が全てを言い表している。言葉も相手を夢中にさせる手管の一つだと最初に示しているから、先が読みやすくなってしまった感もある。でもその台詞は、最後に「私はあなたの中で夢のように生き続ける。そうなったら消えてしまってもいい」と結ばれる。それは娼婦としての仕事について述べているのだが、忘れられたくないという人が誰もが持つ寂しさの現れでもある。それだけに、彼女が確かにいたことを無言で示すラストシーンが強く印象づけられる。オリジナルとは映画の幕切れが全く違うけれど、リメイク版はどよんとした余韻をしばらく引きずってしまいそうだ。




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恍惚

2024-03-03 | 映画(か行)


◾️「恍惚/Nathalie...」(2003年・フランス)

監督=アンヌ・フォンテーヌ
主演=ファニー・アルダン エマニュエル・ベアール ジェラール・ドパルデュー

ファニー・アルダンとジェラール・ドパルデューが共演と聞いて、トリュフォーの「隣の女」(大好き♡)が頭に浮かんだ。本作ではすれ違いが多くなってきた夫婦役。出張から戻った夫ベルナールの携帯に残されたメッセージから、浮気を確信した妻カトリーヌ。自分に見向きもされなくなったと感じていたカトリーヌは、職場近くで出会った娼婦マルレーヌにナタリーと名乗らせて、夫に近づくように依頼。情事の様子を彼女から聞くうちに、二人の間に不思議な連帯感が芽生えていく。

官能小説のようだという感想を目にするが、僕も同感。エマニュエル・ベアールが語る情事の様子は、台詞で語られるのみで、直接的な場面は一切出てこない。それにもかかわらず、言葉の選び方も生々しく巧みで、声をあげるのをこらえる夫や行為の様子を想像させられてしまう。フランス映画らしい会話劇なので、台詞がまさに官能小説。それがエマニュエル・ベアールの吐息多めの喋りなんだもの😍。想像力逞しい映画ファンにはたまらない♡。

でも、それを聞く妻カトリーヌはどんな心境だったのだろう。時に不快に感じてもいたが、のぞき見をしているようなドキドキする感覚もあったに違いない。でも映像から受ける印象はとにかく耐える女。

マルレーヌが使うフレグランスや好みのワインを夫の前で試す様子も面白い。マルレーヌが美容の仕事もできると知ったカトリーヌが、家に閉じこもっている母親をリフレッシュさせる為に彼女を家に呼ぶ場面が好き。すべての結末を知った上で、夫の言動や態度、マルレーヌの台詞の端々、カトリーヌとマルレーヌの距離感に注意しながら、改めて観るのも印象が変わって面白いかもしれない。

ハリウッドリメイク版がエロい、との感想を目にする。言葉で表現してそそる官能小説的なフランス映画。対してハリウッド版はビジュアル重視でそそる映画になってるのだろうな。



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