goo blog サービス終了のお知らせ 

Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

F1/エフワン

2025-07-05 | 映画(あ行)


◾️「F1/エフワン/F1」(2025年・アメリカ)

監督=ジョセフ・コシンスキー
主演=ブラッド・ピット ダムゾン・イドリス ケリー・コンドン ハビエル・バルデム

本作のブラッド・ピットはまさにイケオジ。注目された頃はロバート・レッドフォードの再来と言われた美少年。「キャンディキャンディ」の実写版製作するならキャスティングされるべきよねー、と勝手に妄想しておりました。そんなブラピもおっさんになった。このところなんちゃらトレインとか風変わりな出演作が続いていたから、この「F1」は昔からのファンも歓喜する作品に仕上がった。

同じジョセフ・コシンスキー監督の「マーヴェリック」と同様に、ベテランが鼻息の荒い若者に経験に基づいた実力を見せつけてる物語。主人公ソニーは、90年代にセナやプロストと競ってきたレーサーという設定。新人レーサーのJPが最新のトレーニング機器で身体を鍛える一方、地道なランニングやトレーニングでレースに備えるソニー。スクリーンのこっち側のおっさん達は、きっと「ロッキー4」のトレーニング場面を思い出す。突然加わったソニーのレース運びと戦略にチームも困惑を隠せない。

レースの進行を妨害するようなギリギリの行為を繰り返すが、これが上位との差を縮めてJPの順位を上げる作戦。ピットからでるタイミングで先行車の邪魔をするなど、新人JPを前に出すためのあの手この手。ダーティなやり口にも見えるが、これが見事に的中してチームの信頼を次第に固めていく様子がいい。テクノロジーと野生の勘みたいな対比が面白いが、それが成功に結びついていく様子が楽しい。そして後半ではJPとの見事なコンビネーションを見せる。

「RUSH/プライドと友情」でも触れたがレース映画はほんっとに難しい。有名スターをキャスティングしても、ヘルメット越しでは表情もうまく観客に伝えられないし、台詞も独りよがり。だが「RUSH」で描かれた70年代とは違って、無線で戦術まで含めて会話できる現代の物語。台詞もしっかりあるし、スタッフとのコミュニケーションも描くことができる。そこは見せ方が大きく違う。

カーレースの映画に似合うのはロック。本作では冒頭からLed ZeppelinのWhole Lotta Love、RattのRound & Round。映画館の暗闇でヘドバンする私😆。レース前に盛り上げてくれるのが、QueenのWe Will Rock You。ジョセフ・コシンスキー監督は「オブリビオン」でもクラシックロックを上手に使っていた。だが、映画後半はハンス・ジマーの劇伴中心に切り替える。カーレース映画だが会話劇でもあるので、過剰に歌ものを使うのはよろしくない。そこを心得た上手い演出。「ドリブン」は歌ものを流しすぎて台詞が入ってこなかったし、「デイズ・オブ・サンダー」はいい曲を使いすぎでもはやMTVだったし。

だが何よりもこの映画が見事なのは、流れ者の主人公がチームの成功をもたらすヒーロー像。通りすがりのスゴ腕ガンマンが、恐怖に怯える町の人々のために活躍する西部劇みたいなものだ。チームの成功を背にサーキットを去るラストと、その後も様々な場面でハンドルを離さないソニー。それは現役にこだわり続けるスポーツ選手のようでもある。若い世代を熱狂されるだけでなく、僕らおっさん世代を元気づけてくれる映画でもある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アトミック・ブロンド

2025-06-07 | 映画(あ行)


◼️「アトミック・ブロンド/Atomic Blonde」(2017年・アメリカ)

監督=デビッド・リーチ
主演=シャーリーズ・セロン ジェームズ・マカヴォイ ソフィア・ブテラ ビル・スカルスガルド

いやぁもぉー、アクションは素晴らしいし、シャーリーズ・セロンはひたすらカッコいい。でもそれ以上に、劇中流れる80's洋楽の使われ方がカッコよくて、この手の音楽好きにはたまらん映画♡♪

各国スパイの情報が記されたリストをめぐって、MI6、KGBなど各国の争奪戦が始まる。ヒロインはMI6の諜報員ローレン。ベルリンで死んだ同僚の遺体を引き取るのが表向き、実は二重スパイの"サッツェル"を見つけ出す任務だった。ベルリンに詳しいパーシヴァルと共に東西ベルリンで活動を開始するが、次々と危険と困難に直面する。内通者の存在も疑われる中、任務は成功するのか。

スパイ映画のストーリーは複雑で小難しい。本作も然りで、しかも登場する男たちがみんな黒っぽい服装で風貌も似ているから、ボーっと観てると誰がKGBなのか混乱しそうになる。もし主人公まで屈強な漢だったらもう誰が誰だかわからなかったかもw。それだけにシャーリーズ・セロン姉貴のブロンドヘアと華麗なファッションがものすごく映える。激しい撃ち合い殴り合いを乗り越えてきたヒロインは、顔も身体も傷だらけ。それを癒すように氷を浮かべた浴槽に身を沈める場面も美しい。

任務を終えて戻ったイギリスで報告兼事情聴取を受ける場面と、その報告内容であるベルリンパートが交互に出てくる凝った構成。そこに彩りを添えるのが、冒頭に述べた80's洋楽の数々。それは80年代末の時代を表現する目的はもちろんだが、使われた楽曲の歌詞が映画のテーマや場面に沿うように計算ずくで選ばれているように思える。

舞台となるドイツの楽曲では、ネーナの世界的大ヒット曲99 Luftballonsが使われている。これは空に飛ばした風船を侵略と間違える戦争の歌。東西で国家体制が異なるベルリンがまさに衝突の地であると示したようにも思える。



僕がゾクっとしたのは、ティルチューズデイのVoices Carryが使われた場面。フランスの諜報員デルフィーヌとローレンが耳打ちする。任務に関わる情報や人物の名前が囁かれているところだ。この曲のサビはこうだ。
 シーッ🤫静かに。声を抑えて。
 声で伝わってしまうよ



盗聴が疑われる状況、他には聞かせられない情報、身体を重ねた二人の女性の秘めごと。この曲はさらにMI6での聴取〜デルフィーヌが危機に陥いる場面でも流れる。デルフィーヌのテーマ曲みたいな扱いだ。

他にも歌詞と場面を重ねたような意味深な演出は随所に。深読みのしすぎなのかな?でもニューオーダーのBlue Mondayにしても、フロック・オブ・シーガルズのI Ranにしても、そう思わずにはいられない。

タイトルバックにデビッド・ボウイのPutting Out Fireって選曲はズルい!😆あの不穏な空気からのギター🎸の入りは、セロン姉貴が歩く姿に重なって、リピートしたくなる。殺しの場面で流れるジョージ・マイケルのFather Figureもいい。曲の終わりのブレイクでとどめが刺され、til the end of time…って歌が重なる。ぎゃーっ!🤣シビれた♪

見どころである長回しのアクション場面は、活劇を超えてもはや本気の暴力。それだけ主演女優も出演者も身体で演じてる。そしてラストで明かされる人間関係。あーそうきたかっ!ある意味想定内。でもなかなか痛快。それまで登場人物が口にしてきた言葉が別な味わいになっていく。

半分以上音楽の話でごめんなさい🙏。通勤中にネーナとティルチューズデイを聴いてましたっ♪🎧


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋が来るとき

2025-06-04 | 映画(あ行)


◼️「秋が来るとき/Quand vient l'automne」(2024年・フランス)

監督=フランソワ・オゾン
主演=エレーヌ・ヴァンサン ジョジアーヌ・バラスコ リュディヴィーヌ・サニエ ピエール・ロタン

新作が毎回楽しみなフランソワ・オゾン監督。今回はおばあちゃん2人を取り巻く人間模様。これまでのどの作品とも似ていない。それなのにオゾン作品だと納得させられる。それは登場人物を見つめる視線の確かさと温かさが貫かれているからだろう。「秋が来るとき」はほのぼのとした映像なのに、そこには不安や疑念や後悔といった、とても穏やかではいられない感情が隠れている。穏やかなのにスリリングな物語。先が見通せない面白さ。

本作の主人公である80歳のミシェルは、ブルゴーニュの田舎で一人暮らし。近くで暮らす長年の友人マリークロードと会っておしゃべり、時折娘ヴァレリーが孫のルカを連れてやって来る。森で採れるキノコを使った料理を作ったが、それが原因で娘が入院。もともとミシェルの過去が原因でギクシャクした関係だった母と娘。マリークロードの息子ヴァンサンは、娘と疎遠になったミシェルを不憫に思い始める。

よかれと思ってしたことが裏目に出ることもある。でもよかれと思うことが大切。 

この言葉とエピソードがじんわりと心にしみる。年齢をそれなりに重ねてくると、ままならない経験や失敗、素直になれなかったこと、過去について後悔の念を抱くこともしばしばある。あの時はありがとう&ごめんね行脚をあちこちしたいくらいだ。でも失敗はやり直せないし、最期まで口にできないこともあるのが現実。

以前に「20センチュリーウーマン」を観て、「その時にベストだと思う選択をしただけ」という台詞にすっごく共感。そして「秋が来るまで」に出会えたおかげで、「あのときよかれと思ったんでしょ?」と赦しを得たような気持ちになった。映画って時々生きる糧をくれる。観るのをやめられない。

娘を育てるために必死だったミシェルの過去。事件の捜査を担当する妊娠中の女性刑事は父親はいないと言う。このひとり親の対比も面白い。またマグダラのマリアが話題にあがるのもストーリーにちょっとだけ含みをもたせるいい仕掛けの一つになっている。

主役二人のお婆ちゃんもいいキャラクター。娘ヴァレリーはオゾン監督作には久々の出演となるリュディヴィーヌ・サニエ。個人的に気になったのは女性刑事を演ずるソフィー・ギルマン。オドレイ・トトゥの「愛してる、愛してない」や「倦怠」で印象に残ってたので、オゾン作品で再会できたのはちょっと嬉しい。

落ち着いた色調の映像に癒されながらも、サスペンス要素で目が離せない緊張感。そしてちょっとファンタジー要素もスパイスになっている。オゾン監督が子供の頃の経験から着想を得た作品と聞く。大学生になったルカ君にヴァンサンがバックミラー越しにウインクしてた気がするがそれも経験?w。深読みのしすぎか。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウディ・アレンのザ・フロント

2025-05-13 | 映画(あ行)


◼️「ウディ・アレンのザ・フロント/The Front」(1976年・アメリカ)

監督=マーチン・リット
主演=ウディ・アレン ゼロ・モステル マイケル・マーフィ アンドレア・マルコビッチ

東西冷戦下の1940〜50年代に、共産主義者であったり、その疑いをかけられた映画関係者がブラックリストに載せられ、仕事を干されたり、仲間を売ることを強要されたり、政治が介入する出来事があった。いわゆる"赤狩り"である。当時の様子は「真実の瞬間」や「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」(この副題どうなん?💢)として映画化され、ジム・キャリーの「マジェスティック」(秀作!)でも物語の背景となっている。本作は、マーチン・リット監督や脚本のウォルター・バーンスタインなど、実際にブラックリストに載った面々が関わっている。日本では劇場未公開。

赤狩りで仕事がなくなった脚本家が、飲食店で働く主人公ハワードに名前を貸して欲しいと申し出る。その脚本は評判となり、冴えない日々を送ってきた主人公は、新鋭脚本家として世間の注目を集めることになる。本当は身代わりの存在なのに。他の脚本家の作品も彼の名前で出されることになり、急に金回りも良くなったハワード。生活も派手になり、テレビ局で製作に関わる女性との恋も。そんなハワードに非米活動委員会が目をつける。

赤狩りに翻弄される人々を描いてシリアスなムードの作品なのだが、ウディ・アレンだけは自作と同様に飄々と軽口と口説き文句と身勝手な自信を口にする。されどリストに実際に載った監督たちにとっては恨みつらみを吐き出すような題材。ウディのコメディ演技は映画のムードから浮いてるように思える。クライマックスの委員会場面では屁理屈をこねて質問をけむにまこうとするが、この応酬がなんとも情けない。身代わりをしたダメ男の悲喜劇を狙ったんだろうが、喜劇俳優の飛び降り自殺の後ではさすがに笑えない。マーチン・リットの演出あってのことだろうが、普段通りを貫いたアレン先生にはちと気の毒な出演作という気もする。それでもこうした出演作もあると知れたことは価値がある。

仲間をかばったことでハワードが英雄視されるラストシーンは台詞もなく軽妙な印象を受ける。そこにかぶさるクレジットには、スタッフや俳優の名前と共に「blacklisted in 1951」と実際の出来事が添えられる。このどちらともつかない微妙な空気。笑っては失礼…じゃなかろうか。

喜劇俳優ヘッキーを演じたゼロ・モステルも、ブラックリストにかつて載った一人。当局の追及にタジタジになり、やっと見つけた仕事も少ないギャラしかもらえない。表情が曇っていく演技は、迫真というよりもかつて自身が置かれていた状況なんだろう。政治がエンタメに過剰に介入するとろくなことがない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

It's Not Me イッツ・ノット・ミー

2025-05-05 | 映画(あ行)


◼️「It's Not Me イッツ・ノット・ミー/ C'est pas moi」(2024年・フランス)

監督=レオス・カラックス

レオス・カラックス監督作はいわゆるアレックス三部作を観ただけで、その後の長編復活作もミュージカル映画「アネット」もまだ観ていない。本作はカラックスに依頼していた展覧会が中止されたことから、その代わりとして製作された42分の映像。それはカラックス自身が考える自分の世界を映像化したエッセイのような映像のコラージュ。

綴られるのはカラックスの家族、身の回りの出来事から、亡くなった盟友への気持ち、留守番電話に残されたジャン・リュック・ゴダールからのメッセージ、自身の監督作の振り返り、さらに歴史や世界を揺るがした独裁者たちへの意見まで実に幅広いテーマに及ぶ。

ゴダールも似た作風のシネマエッセイがあると聞くが、到底僕には理解できないだろうと最初から観るのを諦めている。本作がそれっぽい映画と聞いて、大丈夫かな?と心配にもなったが、彼の監督作「汚れた血」がお気に入りなのでこれは挑むべきと心に決めて1週間限定上映の映画館へ。

断片的な映像がテーマも変えながら目まぐるしく示される。だが、それらはどこか連想ゲームのようなつながりを感じさせる。友達と会話している時に、「そういえばさぁ」という無敵の連結詞を挟んで突飛な方向に話題が展開されるのと似た感覚。

黒子が操る人形が、デビッド・ボウイのModern Loveをバックに画面右に向けて走る場面にちょっとワクワク🥰。でも「ポーラX」や「アネット」を観てたらもっとわかる部分があるのかもなぁ。

映像表現に触れる場面で、カメラが主人公の目線になる「主観ショットを使ったことがない」とカラックスは述べた。しかしすぐにそれを撤回して「一度だけ使った」とひと言添えて、「汚れた血」のジュリエット・ビノシュの表情が時間をかけて映される。「ポンヌフ」撮影後に破局を迎えた元カノであることを知っていると、ジュリエットが映るこの美しい数秒がすごく愛おしいものに思える。それは主人公アレックスの主観じゃなくて、カラックスの主観なのだ。

映画は私的な話題も含まれ、カラックス自身を表現したものだが、タイトルはそれを拒絶。"それは僕じゃない"と題されている。文章でも映像や動画でも形にしてしまうと、自分から切り離されたことのように思えて客観視しまうことってないだろか。タイトルはカラックスの照れ隠しなんだろう。

人間にはまばたきが必要。そうしないと目が乾いて視力を失う。だが芸術は一瞬たりとも見逃されることを望まない。だから"この世界の美はまばたきを求めている"。

これはこの映画の締めくくりの言葉。僕らが目にする様々な物事を、"見逃さないために時々目を閉じろ"とカラックスは言っているのだろう。ついていけるのか不安に思った42分は、好奇心をくすぐってくれる不思議で素敵な時間となった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いちご白書

2025-03-13 | 映画(あ行)


◼️「いちご白書/The Strawberry Statement」(1970年・アメリカ)

監督=スチュワート・ハグマン
主演=ブルース・デイヴィソン キム・ダービー ボブ・バラバン ジェームズ・クーネン

カンヌ映画祭で受賞したが、アメリカでは興行的に成功とは言い難い作品と聞く。日本では、この映画と青春の終わりを歌ったユーミン作の「『いちご白書』をもう一度」が歌い継がれている。映画を観たことはなくても、ユーミンが着目したくらいだからあの時代の青春を象徴するような映画なんだろう、と格上の青春映画の先入観が僕ら世代にはある。

主人公サイモンが通う大学構内に、軍人の訓練課程が設けられ、新校舎建設に反対する学生たちが校舎に居座って抗議活動を続けていた。ベトナム戦争への反戦ムード、人種差別を問題視する学生たち。授業は行われず、騒ぎは長期化していた。活動に熱心な女子学生リンダと知り合ったサイモンは、活動に次第に深く関わるようになる。

反体制的でハッピーエンドではない、いわゆるアメリカンニューシネマの一つとされる本作。本作もまさにそうした特徴を持つ映画だ。警察と州兵が立てこもる学生排除に乗り込むクライマックスの悲壮感。Give Peace a Chanceを歌いながら輪をつくる学生たちが次々に連れ出されていく。殴られる者もいれば、引きずり出される者もいる。ラストのストップモーションが鮮烈な印象を残し、オープニングにも流れたThe Circle Gameの明るくも切ない歌詞が乗ったメロディが再び響く。

学生運動が激しかった時代を知らないずっと後の世代だから、当時の学生運動についてどうこう述べることはできない。本作はボーイミーツガール映画だと僕は受け止める。だだ今と違ってキャンパスが騒がしかった時代だったということ。もっと違う出会いもできたかもしれないけれど、活動に身を置いていたからこそお互いに共感できたこともあったし、一緒に過ごす理由にもなったのだ。それだけにラストが切ない。

食料調達にリンダとサイモンが街の食料品店を訪れる場面。店主を演ずるのはジェームズ・ココ。高校生の頃に観たクリスティ・マクニコル主演「泣かないで」にも出てたなぁ。もっかい観たい。リンダを演ずるのはキム・ダービー。ジョン・ウェインの西部劇「勇気ある追跡」の勝気な少女が忘れられない。当時のフォーク、ロックが多数使用されている。Thunderclap Newman のSomething In The Airが好き。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィークエンド・シャッフル

2025-03-08 | 映画(あ行)


◼️「ウィークエンド・シャッフル」(1982年・日本)
監督=中村幻児
主演=秋吉久美子 伊武雅刀 泉谷しげる 池波志乃

高校時代に叔父からもらった「湯布院映画祭」のパンフに載っていた本作。当時の最新作として上映されていた。筒井康隆の映画化をふと観たくなってセレクト。

筒井康隆が描くドタバタ、落語のようなオチ、修羅場、乱交、悲喜劇はとにかく刺激が強い。中坊の頃に初めて筒井康隆に夢中になって、授業中に机に文庫本隠してショートショート読んでた。文章がもつテンポに乗せられてしまう。

だが一方で、淫らな性やバイオレンスの描写満載の作品には、正直嫌悪感を感じていた。筒井康隆を映像化することなんてできるんだろか。エログロばかりになっちゃって、文章から伝わるドタバタした面白さが薄れてしまうんではなかろうか。生意気な中坊(わたくし)が当時そう考えていた頃に映画化されたのが本作「ウィークエンド・シャッフル」。原作の短編は未読。

この年齢になって初めて観た。確かにカオスな群像劇としては面白いけれど、中坊の頃から今まで自分が思っている筒井康隆流ドタバタの面白さはやっぱり伝わってこなかった。

子供が誘拐されたいう電話を受けて困り果てたヒロイン。訪問販売を装った泥棒に押し倒された彼女は錯乱状態に。そこに彼女の短大時代の友人3人が尋ねてくる。夫と間違えられた泥棒、女性たちはお互いへの本音が暴かれ、やがて狂乱の宴となる。ここに買い物に行った夫、チリ紙交換と子供が始めた誘拐騒ぎ、ヤクザの夫婦、養豚業の夫婦、警察官たちが入り乱れて大騒ぎになる。

女優陣がムダ脱ぎを面白がって演じているのはよくわかるし、チョイ役の小朝師匠や美保純など楽しい。だけど、泉谷しげるが秋吉久美子をレイプするギラギラした場面や覚醒剤中毒のヤクザ夫婦のエピソードには嫌悪感を感じてしまった。泥沼の結末はこうやって映像にされると、笑っていい話とは思えない。

狂気や錯乱とのワードが出てくる筒井康隆作品って、目の前のことがうまくいかずに焦りからヤケクソになる主人公が出てくる。その焦りが狂気に変わるのが面白いと思うのだ。本作の泉谷しげるはまさにその役割。だけど映画はそこに迫ることもなく、家の中で起きている乱痴気騒ぎを引いたカメラで捉え続けるだけ。これをクールと評する方もあるのかもしれないけど、僕にはそうは思えなかった。

「終わったのよ」と微笑むラストの秋吉久美子は美しいが、ちっとも微笑ましい風景ではなかった。でもこの狂気の沙汰も筒井康隆ワールドの一つではあるのよね。

ジューシィフルーツが歌う「夢見るシャンソン人形」のカバー。核戦争後でも止まらない恋心を歌う日本語詞が好きっ🎸♪








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛を耕すひと

2025-02-24 | 映画(あ行)


◼️「愛を耕すひと/Bastarden」(2023年・デンマーク=スウェーデン=ドイツ)

監督=ニコライ・アーセル
主演=マッツ・ミケルセン アマンダ・コリン シモン・ベンネビヤーク メリナ・ハグバーグ

マッツ・ミケルセンを知ったのは「007」の悪役。その後の出演作は数本しか観ていない。イケオジで人気があるから、本作「愛を耕すひと」もそうした人気で公開されたものだと勝手に思っていた。しかしながら、これはなかなかの秀作。予想以上に引き込まれてしまった。ともすれば暗い空気で救いのない地味な映画になりそうな題材だが、細部にまで配慮されたつくりと、複雑なのにすんなり受け止められる工夫が感じられる。ナメてました。すみません🙏

原題のBastardenは、デンマーク語で"私生児"を意味する。英題はThe Promised Land(約束の地)、邦題は「愛を耕すひと」。それぞれに主たる視線が異なるのだ。普段なら邦題を悪く言うことが多いのだけど、この映画をそう名付けたそれぞれの意がじんわりと響く気がする。

主人公の退役軍人ルドヴィ・ケーレンは、貧しい生活を送っていたのだが、デンマーク北部に広がる荒地(ヒース)を開墾する先駆けとなり、その見返りに貴族の称号を得たいと考える。誰も成し遂げたことのない開拓だったので許可した政府も半信半疑。ところがその地域の裁判官を務める貴族シンケルが、王領でなく自分の土地と主張し、ケーレンに度重なる嫌がらせをする。これが徹底した悪として描かれ、スクリーンのこっち側の僕らは怒りに震える。さらに王をとりまく政府の面々も頼りなく、ケーレンは苦難に立ち向かっていく。

原題の目線は主人公ケーレンの出自からきている。彼は貴族の下で働いていた母親が弄ばれて生まれたのだと劇中語る。婚姻外のいわゆる私生児。それ故に世の中での成功の証として、貴族の称号を得たいと執着する。

ケーレンが家事係を任せたアン・バーバラはシンケルの下から逃げた使用人だ。苦境に耐えかねて次々に人が去る中で、夫をシンケルに殺されたアン・バーバラは一人ケーレンと共に残る。そして心の距離が次第に近づいていく。アン・バーバラもケーレンと同じような出自だと知り、南方の異民族の子供アンマイ・ムスと共に擬似家族のような関係になっていく。

妻のように振る舞うアン・バーバラに貴族の女性が「家事係なのに」と言われる場面。また異民族を不吉だと嫌う入植者との対立。当時の階級社会、人権意識の乏しい状況が描かれていく。

同じベッドで暖をとっていた二人が、"お互い別の人を思いながら"と前置きした上で身体を重ねる場面は印象的だ。貴族に弄ばれた母親から生まれた者同士という共感点はあっても、主従関係にも似た雇用関係にある二人。ケーレンにしてみれば、実の父が母にしたことと形としては変わりはない。関係性が素直に人と向き合うことを阻害する。それだけにラストでアン・バーバラの下に向かうケーレンの姿は感動を呼ぶ。それまでの関係を超え、大切に思う人に気づいた瞬間。その場面には台詞すらない。もはや言葉ではない。あまりに簡潔な演出なのに胸に響く。このラストシーンは素晴らしい。

世間から取り残された3人が暮らす日々は、この映画の中でも唯一ほっこりできる心温まる場面だ。英題の"約束の地"は開墾するヒースそのもの。また、天国や楽園の意味もある。擬似家族から始まった3人の絆と安心できる場所は、開拓地をめぐる変遷と共に形を変えていく。成長したアンマイ・ムスの旅立ちがまた泣かせる場面。

自分の野心と執着のために突っ走ってきたケーレンが、相手を思うこと、立場を超えた大切な存在を知る。それは無骨な男が愛を知るまでの成長物語でもある。邦題はそこに着目した。いろんな意見はあると思うが、僕はそんなに悪くない邦題だと思う。耕す≒育(はぐく)む と受け止めると多少の違和感はあるけれど、不毛の大地を切り拓く中で主人公は愛を見つけたのだから。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インターステラ5555

2025-02-13 | 映画(あ行)


◼️「インターステラ5555/Interstella 5555: The 5tory of the 5ecret 5tar 5ystem」(2003年・日本=フランス)

監督=竹之内和久

フランスのバンド、ダフト・パンクが松本零士ファンであったことから、新曲のプロモーション映像を依頼。東映アニメーションで製作された本作は、カンヌ映画祭でも上映された。2024年に復刻上映されたが、上映館が生息地から遠くて行けず。宅配レンタル📀にて鑑賞。

全編台詞は全くなく、ダフト・パンクのアルバム楽曲が流れる中で、ストーリーが進行する。単にSFぽいイメージ映像ばかりだろうと思って見始めた。フランスアニメって、ルネ・ラルーの時代からSF好きだもんな。しかし、これがなかなかしっかりとしたストーリーと世界観があり、しかも他の松本零士作品に共通する要素が見え隠れして予想以上に引き込まれたし、楽しめる作品だった。

主人公4人のメンバーがライブ演奏している会場に突然現れた宇宙船と黒服の戦闘員。メンバーは連れ去られ、その星の風土に合う肌の色と服装に変えられ、記憶も書き換えられてしまった。演奏する楽曲はヒットするが、その裏にはある陰謀があった。

スレンダーな女性キャラ、ハーロックのような風貌の男性たち、四畳半シリーズに出てきそうな小柄な男性と、キャラデザインはいかにも松本零士らしくて楽しい。連れ去られた星は地球ぽく、悪徳プロデュースによって楽曲とアーティストが使い捨てにされる悪事が描かれる。ダフト・パンクのメンバーが脚本を手がけている。音楽業界への皮肉が込められているかのようだ。

遠く離れた2つの惑星で同じ曲で人々が踊るラスト。音楽に国境はない。そして、ポップカルチャーも国境を越えることをこの作品は示してくれるのだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いとこ同志

2025-02-11 | 映画(あ行)


◼️「いとこ同志/Les Cousins」(1959年・フランス)

監督=クロード・シャブロル
主演=ジェラール・ブラン ジャン・クロード・ブリアリ ジュリエット・メリエル

ヌーヴェルヴァーグとカテゴライズされる映画監督たち。ゴダールやトリュフォーはそれなりに観ているけれど、クロード・シャブロルは不勉強で、観たのは「主婦マリーがしたこと」と「愛の地獄」のみ。という訳で代表作「いとこ同志」をNHK BSの録画で鑑賞。

法律を学ぶために田舎からパリに出てきたシャルルは、いとこのポールが暮らすアパルトマンで同居生活を始める。遊び人のポールを取り巻くのは怪しげな友人たち、魅力的な女性たち。フロランスに惹かれたシャルルだが、その恋路はポールとその友人に阻止されてしまい、フロランスが加わった奇妙な同居生活が始まる。そして目標としていた試験が迫ってくる。

声がデカくてああしろこうしろ指図するポールには、ファーストシーンから嫌悪感。シャルル、とっとと家を出ちまえと思いながら観ていたが、田舎から出てきたばかりで居候してる身で引け目もあっただろうし、ことあるごとにシャルルが口にする母との約束がかなりのプレッシャーだったのは間違いない。フロランスとの一件で傷ついたのもあるし、本屋のオヤジから「女は二の次、勉強だ」とアドバイスされたから、試験勉強に打ち込むシャルルがもう痛々しくって。勉強してるシャルルの背後で、壁一枚挟んで一緒にシャワー浴びてるポールとフロランス。シャルル寄りの目線で観てしまうと、もう残酷以外に言葉が浮かばない。

そんなキツいストーリーの一方で、映像と音楽の使い方が他のヌーヴェルヴァーグ代表作と比べて、ずば抜けてカッコいい。オープンカーの座席にカメラを据えて街に繰り出す撮影は、シャルルにとって初めてのパリを華やかに印象づける。ゴダールも「はなればなれに」で同じことをやっていたけれど、「いとこ同志」は編集もよくてカメラがストリートに出たことの躍動感が感じられるのだ。さらにポールの部屋での乱痴気騒ぎ場面では、カメラが360度回って部屋の人物たちをくまなく映し出す。浮かれ騒いでいる者、そうでない者、ワンカットで見せてしまう。フロランスが日光浴する場面の光の加減とか見とれてしまう。撮影はアンリ・ドカエ。

ポールがレコードをかけるモーツァルト、ワーグナーの使い方が見事。「地獄の黙示録」でも印象的なあの曲が流れる場面は、シャルルを精神的に追い詰めるかのようだ。ミシェル・ルグラン楽曲をズタズタに切り裂いて使うゴダールとは違い、音楽の使い方に愛とセンスがある。衝撃的なラストシーンでも音楽の使い方が素晴らしい。ターンテーブルにカメラが寄っていくカッコいい幕切れにはシビれた。

登場人物それぞれにイライラさせられたが、映像と台詞と音楽には大満足。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする