Some Like It Hot

お熱いのがお好きな映画ファンtakのつぶやき。
キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

シークレット

2024-06-17 | 映画(さ行)


◾️「シークレット/Secret」(1971年・イギリス)

監督=フィリップ・サビル
主演=ジャクリーン・ビセット ペール・オスカルトン ロバート・パウエル

中坊の頃。初めて買った映画雑誌に、その年に公開された映画のチラシ画像がズラリと並んでいる特集記事があった。へぇー、こんなのあるんだ。地方都市在住だとお目にかかれない映画もあれこれ。

ジャクリーン・ビセットは「料理長殿ご用心」や「ロイ・ビーン」をテレビで観て、綺麗な人だなぁーとマセガキながらに思っていた。本作「シークレット」もチラシ画像が載っていた。なーんか煽情的なコピーと共に気になった。
「あのジャクリーン・ビセットが全裸で挑む人妻の性!!」
感嘆符2個‼️ですよw。こんなんに出演してたのか😳。マセガキ君は(ちょっと)ドキッ💓としたのでした。ウン十年経って初鑑賞。製作は1971年で日本公開は80年。それで初めて買った映画雑誌に載ってたのか。ふむふむ。

平凡な日常に囚われて精神的に参っている夫婦。夫アランは就職試験に臨み、妻ジャッキーは娘を連れてコインランドリーに出かける。頭痛に襲われたジャッキーは公園に足を向けるが、そこでロールスロイスに乗った中年男性ラウルに声をかけられ、彼の家を訪れる。アランは試験中に妻とのことを考え続けていたが、面接対応をしてくれた女性と二人きりに。娘はランドリーで会った年上の少年の家に遊びに行く。三者三様のその日の午後。それぞれに言えない秘密ができた日になった。

もっと淫らなお話かと思ってた(マセガキの妄想?🤣)。確かに不倫話ではあるのだが、収まるところにきちんと収まって、しかもそれぞれの気持ちを見つめ直す時間と経験になりましたというお話。

娘は寝る前に父親に本を読んでもらうのが習慣なんだろう。いつものように父親が娘にキスしようとすると顔を背ける娘。それは少年との午後の記憶がよぎったからに違いない。

長回しのワンカットが多用されている。オープンカーから通りを渡るヒロインを追うカメラの目線が右往左往する場面は、おいおいと思う。けれど、ラウルとジャッキーが抱き合う場面はなかなか。脱ぎ散らかされた衣服、壁に飾られた亡き妻の肖像、鏡越しの二人がチラチラ見えて、やがて映像は二人をデーンと捉える。濡れ場に至るまでのラウルの気持ちが映像からにじんでいるようにも思える。マセガキ時代にこの場面を見ていたら絶対早送り⏩してただろなww。

少女が少年にもらった鉢植えを見つめる映像からつながるエンドクレジット。印象的で綺麗な幕切れ。
「コンピューターの仕事にはホームズよりもワトソンの方が向いている。」
なるほどなるほど。



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ジョン・レノン 失われた週末

2024-05-24 | 映画(さ行)


◾️「ジョン・レノン 失われた週末/The Lost Weekend」(2022年・アメリカ)

監督=イブ・ブランドスタイン リチャード・カウフマン スチュワート・サミュエルズ
出演=メイ・パン ジョン・レノン オノ・ヨーコ ジュリアン・レノン

熱心なジョンのファンに怒られそうだが、このドキュメンタリー映画で描かれる70年代半ばのジョンについて、特にこの"失われた週末"と呼ばれた期間については予備知識がとても乏しかった。偉そうなレビューは書けないので、ご容赦ください。

ジョンとヨーコの個人的なアシスタントであった中国系アメリカ人メイ・パンがジョンと過ごした日々。映画は、当時の楽曲、プライベートショット、交流があったアーティストたちとのエピソード、そしてヨーコとの関係が、生々しい証言と温かみのあるアニメーションやジョンの落書きと共に示される。気を抜くと置いてかれそうなハイテンポで映画は進行する。興味という欲望があるから、映画に引きずられているみたいだった。

言い訳がましくなるが、僕がジョンに真剣に興味を持ち始めたのは「ダブル・ファンタジー」からだし、ダコタハウスの惨劇の後だった。だから当時僕が目にしたのは、音楽的な偉業と、美談として語り継がれそうなラブ&ピースなエピソードばかり。

だからこの映画で語られるのは、よく知らなかったことが多い。ヨーコと離れてある種の安らぎを得たこと、メイと愛し合った日々、そしてヨーコとメイとの間で揺れる心情。エルトン・ジョンやデビッド・ボウイと共演していたのは知っていたが、スティービー・ワンダーとセッションした話にはびっくり。

ヨーコのインタビューこそ挿入されるが、基本はメイ・パン側からの証言で構成されている。かなりヨーコの印象が悪くなるような内容ではあるが、それも彼女の一面なんだろう。

失われた週末と呼ばれた18ヶ月、ジョンが悪ガキだった頃の無邪気さで音楽に向き合っていた様子が心に残った。
I too play the guitar, sometimes play the fool.
(僕もギターを弾くし、時々バカをやる)
と、ジョンはBBCライブのアルバムの冒頭で喋る。他のメンバーが担当楽器と名前を手短に自己紹介する中で、一人だけふざけたことを言うジョン。


この映画で登場する、フィル・スペクターや気心の知れたメンバーで自作曲なしのアルバムを製作する場面は、とても音楽を楽しんでいるのが伝わってワクワクした。それはまさにバカをやってるジョンだった。

そして、息子ジュリアンとの関係には心温まる。子供の頃のジュリアン、最強の美少年っぷり。メイがみんなをつないでくれていて、果たした役割の大きさがよくわかる。音楽を介した人と人のつながりは強いし、時に大きな啓示を与えてくれる。ヨーコとメイがジョンにもたらしたものは、どちらもジョンを形造る大切なものだ。

無性に#9 Dreamが聴きたくなった。




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ジョーズ2

2024-05-23 | 映画(さ行)


◾️「ジョーズ2/Jaws 2」(1978年・アメリカ)

監督=ヤノット・シュワルツ
主演=ロイ・シャイダー マーレイ・ハミルトン ロレイン・ゲイリー

成功作の後を追う映画は、ビジネスだから製作されてしまうもの。だが柳の下に2匹目のドジョウはいない。むろんサメ🦈もだ。しかしこの第2作がスピルバーグ監督の前作と同じプロデューサー、キャスト、ジョン・ウィリアムズの音楽もつけて製作されて、そこそこの成功を収めたことは、後に数々の類似品を産むことになる。そしてサメ映画というジャンルが形成されたと言っても過言ではない。

アミティに再び巨大なサメの脅威が訪れる。前作同様に、サマーシーズンの稼ぎ時を逃したくない人々とブロディ署長のまっすぐな正義感が対立する構図。その対立ドラマは前回以上に激しく、市長や町の実力者たちに都合の悪いブロディは排除される事態に発展してしまう。そんな父に息子たちのドラマも絡んで人間模様が色濃く出た映画になっているのは前作との大きな違いだ。普通ならストーリーに起伏を与えて盛り上げる要素になるところだが、これがどうも煮え切らない印象に終わる。それは話が陸で進んでいるせいだ。

前作は観客も登場人物もただひたすらにサメに気持ちが向いている映画だった。登場人物もサメに執着する漁師、サメの魅力に取り憑かれた海洋学者も交えた濃いキャラクターばかり。そしてストーリーは海の上、船の上で進行する。(予算という事情もあるだろうが)閉鎖された舞台で話が進むから、観客も気持ちの逃げ場がない。そこが脚本の巧さだし、観客を巻き込むスピルバーグの巧さでもあった。「ジョーズ2」のクライマックスは確かにハラハラするけれど、ヨットの上の少年少女と、追いかけるブロディ、港で夫や子供の身を案ずる人々、ブロディを信じなかった人々、と様々な顔がチラついて、観客は感情移入する先が絞り込めない。だって、観客はサメを楽しみたいんだもの。家族愛の物語を期待して「ジョーズ2」は選ばない。

監督のヤノット・シュワルツ(※英語読みじゃなくて、フランス人監督なのでこの表記にします)は、傑作「ある日どこかで」を撮ってるくらいだ、決して下手な人ではないと思う。ヨット遊びの楽しさ、太陽を浴びた水面の美しさは綺麗に映し出されているだけに、それを脅かす出来事が強く印象づけられる。また、前作では自分にできることが定まらずに迷いっぱなしだったブロディが、本作では行動に迷いがない。家庭以外では堅い表情を貫くロイ・シャイダーの演技もいい。ジョン・ウィリアムズの音楽も迫る恐怖を盛り立てるあのメロディに加えて、「スターウォーズ」の惑星エンドアで流れそうな軽やかな楽曲もいい。サメもヘリコプターを襲う大活躍。それぞれの良さがある映画だと思うのだが、なんか惜しい気がしてならない。



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ジョーズ

2024-05-19 | 映画(さ行)


◾️「ジョーズ/Jaws」(1975年・アメリカ)

監督=スティーブン・スピルバーグ
主演=ロイ・シャイダー リチャード・ドレイファス ロバート・ショウ ロレイン・ゲイリー

小学校高学年の頃。観たことないくせに、すげえ映画を撮るスピルバーグって監督がいる、と既に意識していた。強烈なインパクトがある「ジョーズ」や「未知との遭遇」のポスターを眺めながら、どんなんだろ?と心惹かれていたのだ。数年後の1980年には新作公開され映画館に出かけた。僕の初スピルバーグ映画は、幸か不幸か「1941」w。その年に「未知との遭遇 特別編」を映画館で、「激突!」をテレビで観た。大出世作「ジョーズ」を初めて観るのはその翌年の冬、家族が寝た後、地上波の深夜映画だった。「1941」の冒頭でセルフパロディにした、「ジョーズ」のオープニングシーン。浜辺を走り、服を脱いだ彼女は海へと泳ぎ出す。これがオリジナルなのかっ!怖っ!すげぇ!少年は映画を賛美する言葉をテレビに向かって発してしまいそうになる。
「ハーリウーーッド!」
※「1941」観ればわかります

いやはや、噂には聞いてたけど、そこらのホラー映画よりも怖いのにめちゃくちゃ面白くって、恐怖にドキドキするのに、次の展開が待ちきれなくてワクワクしてしまう。こんな映画があったのか。少年はブラウン管テレビの前、クッションを抱きしめながら最後まで観た。いや、すげえもんを観た。興奮気味の少年は眠れなかった。夢にサメが出てきそうだったのもあるが(笑)。2024年5月、あの頃と違って眠れなくって、BS12を録画していた吹替版で久々の再鑑賞。更年期なんだろか💧

スピルバーグの見せ方のうまさ。今観てもまったく色あせない。簡単にはすべてを見せずに、間接的に恐怖を煽ってくる。噛み切られて浜辺に打ち上げられた手、海底に落ちていく足、血に染まる水面。そして何よりも水中から海水浴する人々を見上げる主観移動ショットが見事。ユニバーサルホラーの傑作「大アマゾンの半魚人」を観て思いついたと聞く。サメが迫ってくる恐怖を、観客をサメの視線にして感じさせる斬新な発想。そんな少しずつ迫るものを見せていき、ジワジワと怖がらせていく手法は、後の「ジュラシックパーク」でさらに巧みになっていく。僕ら世代は、スピルバーグがビッグネームになっていく様子を同時代的に追っかけられた。それはいち映画ファンとして素敵なことだ、と今にして思う。

初めて観た時は印象に残らなかったが、改めて観てグッときた場面がある。ロバート・ショウ演ずるクイントが、戦時中にサメに囲まれて仲間が次々と死んでいったと語る場面。歴史上の出来事や科学と結びつけることで、映画を観ている自分たちとどこか地続きの話だと認識させて恐怖を高める演出は、様々な映画で使われる。隕石が地球にぶつかる話にしても、核実験で怪獣が目覚める話にしても。「ジョーズ」に挿入されたこの場面では、戦時中に原爆を運ぶ極秘ミッションに携わった帰路に体験した惨劇が語られる。観客の受け止め方によっては、その挿話が大量破壊兵器に関わってしまった呪いであるかのようにも思えてしまうかも。また、クイントにとって今回のサメ退治は逃れられない復讐なのだと、僕らに納得させてくれる。部屋にかけられたサメのアゴの骨が、過去に取り憑かれた男だったことを物語るのだ。そのアゴ骨のフレーム越しに出航するオルカ号が映される。ちょっとしたショットなのに、すごく意味深に見える。

そしてクライマックス。ブロディが一人で立ち向かう場面は、海の上では役に立たなかった男がことを成し遂げる。これも一つのカタルシス。巧いよなぁ。




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ショック療法

2024-05-16 | 映画(さ行)


◾️「ショック療法/Traitement de choc」(1973年・フランス)

監督=アラン・ジェシュア
主演=アラン・ドロン アニー・ジラルド ミシェル・デュシューショワ 

小学生低学年の頃だったか。親に親戚の家に連れて行かれて、大人たちが話し込んでいる間、テレビがつけられた部屋で待つことがよくあった。そんな日に限ってトラウマ級に記憶に刻まれる番組が放送されていることがあって、何じゃこりゃ😰と思いながらも見入ってしまったものだ。(「何がジェーンに起こったか?」のレビューも見てね)。

ある日、遅い時間になっても大人たちの話が長引いて帰る気配がない。なんちゃら洋画劇場が始まる時間帯に。その夜の作品は「アラン・ドロンのショック療法」。怖いやつなのかな…。少年はとりあえず観ることにした。

都会から離れた海辺にある病院。失恋の痛みを癒すためにヒロインがゲイの友人とやって来る。そこは若返りの治療が施される施設で、セレブたちが滞在して治療を受けていた。

少年の心に強烈な印象を残したのは、映画前半、海草が敷き詰められたサウナの場面。テレビ画面の端から端まで横たわる男女の裸、裸、裸。そのシーンに流れていたウクレレめいた音色の劇伴まで記憶に刻まれた。

なんかすごいもの見ちゃったな😨

と思っていたら、突然男性の一人が「海へ行こう!」と叫ぶのね。「裸で?」と聞く女性にみんなが当然!という顔をして、裸の男女の群れは海へと走り出す。水しぶきがあがり、テレビ画面には不自然な雲のような汚れが見えたり消えたり。え?何これ?初めて観たボカシはこれだった。

そこにやって来たのが、アラン・ドロン演ずるデブリエ院長。彼も服を脱ぎ捨てて海へと向かう。画面の汚れ(ボカシ)が増殖。

おっ、大人ってこんなことするのか!😫
少年の心にとんでもない誤解を植え付けた。そこから病院内で不可解な死が続き…と怖くなったところで、親が「帰るぞー」と戻って来たので、その先を知らないまま。

そして数年後、大学生になった少年は地上波の深夜枠で再び「ショック療法」を観ることになる。
デブリエ院長、あんたって人は…!😰

小学生の頃に全編観なくてよかった。初めてのアラン・ドロン映画がこれだったら(いや、事実上本作なのだが💧)、とんでもない先入観を持つことになっていたろう。榊原郁恵のヒット曲「アル・パチーノ+アラン・ドロン<あなた」を聴いても怖い奴の歌だと信じて笑えなかったかもしれないw。それだけファーストインプレッションは大事ってことなのだ。ちなみにちゃんと観た初めてのアラン・ドロン映画は「ブーメランのように」です。




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ジョニーは戦場へ行った

2024-03-16 | 映画(さ行)


◾️「ジョニーは戦場へ行った/Johnny Got His Gun」(1971年・アメリカ)

監督=ダルトン・トランボ
主演=ティモシー・ボトムズ キャシー・フィールズ ジェイソン・ロバーツ マーシャ・ハント ドナルド・サザーランド

恥ずかしながら今回が初鑑賞😓
観る機会はそれなりにあったくせに。
映像が使われたMetallicaのPVもリアルタイム世代のくせに。



要するに、僕はあらすじと噂だけ聞いて怖気付いてたのだ。

ダルトン・トランボが1939年に発表したこの小説は、反政府文学とみなされて戦争が起こると絶版、終わると復刊を繰り返したと聞く。映像化された本作、これまで観た反戦映画とは全く違う、強烈なメッセージと描写と衝撃がある。

触覚以外の五感を失った男性が、両手両足を失い、脳の大部分にもダメージを受けながらも生きている。首だけは動かすことができるが、神経的な反射だと捨て置かれてしまう。映画は客観的な室内での描写に、ジョニー本人の意思がナレーションとして重なる演出。ジョニーの気持ちとそれに反する周囲の行動や処置が強く印象づけられる。映画前半はこうしたベッドの上の主人公を人間として扱わない冷たさがモノクロームの映像で表現される。

それと対照的なのは、色彩がついた回想やジョニーの想像による場面だ。出征前夜に恋人カリーンと抱きあう場面、過酷な戦場の場面、カリーンが出てくる舞台劇のような幻想的なシーン、生ける肉塊と化した自分が見せ物にされる想像。中でも印象的なのは、ジェーソン・ロバーツ演ずる父親とのやりとり。お気に入りの釣竿への愛と民主主義を守るべきと語る一方で、「どの主義も変わらん。若者に殺し合いをさせるだけだ」と言い放つ。

映画後半、新しい看護婦がやって来てから物語が少し動き出す。胸の上に彼女の涙が落ちる場面。クリスマスの夜に彼女が指で書いたMerry Ciristmas。わずかながら通じ合える瞬間に涙があふれる。そして、モールス信号を使う名場面がやってくる。繰り返される"Kill Me"に込められた気持ち。

もう映画としてどこがいい、どこが物足りないとか語ることが無意味に思える。ここで描かれていることが全てだ。どう感じるかは人それぞれだろうが、戦争がもたらすことについて考える貴重な2時間になるのは間違いない。

(蛇足ながら)
これをもし今リメイクしたらどうだろう。分かりやすさを重視する現代ハリウッドなら、最新映像技術を駆使して生ける肉塊となったジョニーの姿を描き出してしまうかもしれない。リメイク版「ロボコップ」(2014)で生身のマーフィがどこまでなのかを、生々しく見せた場面を思い出した。けれど、そんなビジュアル表現はこの物語に必要ない。物語自体の強い力がある。それでも、これは映像化しないと観客に伝わらないというセンスのない映画人が世に出て来たら、僕は間違いなくそいつの作品をボイコットする。





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ストップ・メイキング・センス 4Kレストア

2024-02-22 | 映画(さ行)


◾️「ストップ・メイキング・センス 4Kレストア/Stop Making Sense」(1985年・アメリカ)

監督=ジョナサン・デミ
主演=デビッド・バーン クリス・フランツ ティナ・ウェイマス ジェリー・ハリソン

トーキングヘッズを初めて知ったのは、1985年のアルバムLittle Creatures。名曲Road To Nowhereなど強烈な個性を感じるけれど、旧作を真剣に聴くほどハマったバンドではなかった。たぶん"ニューウェイブ"やら"ノーウェイブ"とカテゴライズされた音楽に、どうも苦手意識があったせいだと思うのだ。ちゃんと聴いてたのはメジャーなブロンディくらいで、アート・リンゼイとか坂本教授がいかに褒めても「わからん」としか思えなかった。トーキングヘッズもそんな流れで、デビッド・バーンの強烈な個性とパフォーマンスを当時の僕はカッコいいとは思えなかったのだ。

「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミ監督がトーキングヘッズの1983年12月のコンサートを記録した映画「ストップ・メイキング・センス」。噂には聞いていたけど、苦手意識から避けていて、4Kレストアによる今回の再上映で初鑑賞。84年以前のトーキングヘッズはほぼ曲を知らないのが不安要素だったけど…

観てよかった!😆

普通のコンサートを記録した映画とは撮り方が全く違う。最後の方まで観客が映像に映ることがない。冒頭、ラジカセとアコギを持ったデビッド・バーンがステージに向かう足元から映画が始まる。アコギ一本のPsycho Killerから、曲ごとに一人一人メンバーが加わっていく演出。

通常、コンサート会場の臨場感を表現するために、映画は僕らを観客の一人にする。そのために前にいる聴衆の頭がフレームインしたり、踊り狂う人や歓声をあげる女の子が挿入されたり。そのアーティストがいかに観客を熱狂させているのかが描かれる。ライブエイドの完全再現がすごかった「ボヘミアン・ラプソディ」。クィーンを演じた人々は確かにすごいのだけれど、声出しオッケーの応援上映までしちゃうのは、あの場にいられたらいいのに!という気持ちがあるからだ。アーティストへの憧れと同時に、Radio GAGAで手を天に突き上げるオーディエンスの一人になりたい!という気持ちがあるのだ。

だけど本作はパフォーマンスを観ることだけに集中させてくれる。これ以上にない特等席に招待されたようなものだ。巧みな編集で、アイコンタクトを交わすメンバーたちの表情まで生き生きと捉えられている。デビッド・バーンの痙攣ダンスにこっちまで緊張させられるが、ティナ・ウェイマスの笑顔が挟まるだけでなんかほっこりしてしまうw。

ステージで起こっていることの全体像を見せる曲もあれば、演出過多のPVみたいにデビッド・バーンの芸を見せる曲もある。また、カメラがステージにいるのに、演奏する手元を過剰に撮らないのも印象的だった。演奏テクニックを見せつけるようなコンサートではないからだ。楽曲への理解があっての演出と言えるのでは。

観客の姿が見られるのはクライマックスとも言えるTake Me To The Riverのあたり。オリジナルの演奏はどこかおどろおどろしい感じすらある曲なのに、なんだこの盛り上がりは!😆♪。映画「コミットメンツ」でもパワフルなステージが印象的だった曲だが、このシーンの盛り上がりに、思わず立ち上がりそうになる。

繰り返し観たくなる気持ち、よーくわかりました。84年以前のトーキングヘッズ、ちゃんと聴きます!😆




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ジャッキー・チェンの秘竜拳

2024-02-18 | 映画(さ行)


◾️「ジャッキー・チェンの秘竜拳/少林門」(1975年・香港)

監督=ジョン・ウー
主演=レオン・タン ジェームズ・ティエン ジャッキー・チェン サモ・ハン・キンポー

Filmarksでフォローしている方が書いていたテレビの映画番組育ちのルーティン。
「新聞のテレビ欄でその日の映画をチェックして、赤ペンで丸をつける。その夜が楽しみだった。」
同世代には、まさに映画ファンあるあるだと思うのだ。それに触発されて思い出したことがあり、本作を配信で再鑑賞。何故って、当時テレビ放送という機会がないと、その映画に出会えなかったからだ。

ジャッキー・チェンがブレイクした80年代初頭。出演した未公開作が、"本邦初公開"として、テレビで放送されることもしばしばあった。本作は「ジャッキー・チェンの秘竜拳」のタイトルで、ある日のテレビ欄に名前が挙がった。しかしそれは、野球中継が雨で<中止の時>という条件付きだった。
🙏「うおーっ。今夜××球場付近は雨になりますように!」
結果、雨天のため中止!やたっ!!😆

…と記憶している。

※調べてみた。Wikiに83年3月20日月曜ロードショーで初放送との記述があるが、20日は日曜日。また、月曜ロードショーの放送記録を記したブログによると21日(月)は別の映画を放送している。20日のナイター中止枠?

少林寺の修行僧だったシーが絶対的な力を手にする為に、武術を弾圧する清朝の役人と組んで、武道家を次々に殺害していた。少林寺は武術に優れたユン・フェイを下山させる。シーの野望を阻止することはできるのか?

ジャッキーはユンに協力する若者役で、主演ではない。兄の復讐の為に日々を耐えてきたストイックな役を演じている。悪役の一人を演じているのはサモ・ハン・キンポーで、武術指導も担当する大活躍。脇役にユン・ピョウ、そして監督はなんとジョン・ウー!今の目線で観るとなかなかのメンバーなのだが、ビッグネームになる前の作品なので、なかなか貴重。

初期の作品だし、ジョン・ウーらしさは感じられないかなと思っていたが、愛した女が死んだ為に剣を抜かなくった剣豪が出てくるのは「狼 男たちの挽歌最終章」を思わせる。お約束の白い鳩は出てこないが、二丁拳銃ならぬ二刀流の剣士が背面ジャンプして切りかかる場面が出てくる。これを「男たちの挽歌Ⅱ」の、二丁拳銃で背中から階段落ちする場面と重ねるのは深読みのしすぎだろうか?ww。

今回再鑑賞したが、当時はジョン・ウー監督なんて全く知らなかったし、サモハンも意識して観てなかったので、よい再発見ができた。何にせよ、ジャッキーやブルース・リー以外が主演の王道カンフー映画を観たのはこれが初めてだったし、この年は他にもジャッキー未公開作がテレビで放送されたので、ますます興味が高まったのでした。



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千年女優

2024-02-11 | 映画(さ行)


◾️「千年女優」(2001年・日本)

監督=今敏
声の出演=荘司美代子 小山茉美 折笠富美子 飯塚昭三 津田匠子

パプリカ」に満点つけておきながら、今敏監督の旧作を観ていなかった。昨年リバイバル上映で「パーフェクト・ブルー」を観て、演出と表現の凄さに圧倒された。そして未見だった「千年女優」が、再びFilmarksの上映企画で映画館で観られるありがたい機会が。

しかし、なかなかレビューをまとめられずにいた。一つの理由は検索してネタバレ考察の数が尋常じゃなく多いことだ。それだけ多くの人を考えさせた映画である。論客になる気はないし、自分が感じた「すげえ」をうまく言葉にできない気がしたのだ。もう一つの理由は、2024年新年早々に観たせいだ。関東大震災の年に生まれ、大きな地震の度に何らかの転機が訪れた千代子の人生。そのインタビューの真っ最中にも再び地震が起こる。スクリーンのこっち側で元日に起こったばかりの地震災害を思うと、心穏やかではいられなかった。映画は楽しんだけれど、地震の場面の度に現実に引き戻されてしまう。

そんなこっちサイドの事情こそあるが、この映画は自在に時空を飛び回り、そのイマジネーションに圧倒される。千代子が子供の頃に出会った"鍵の君"に憧れ、彼にいつか巡り合いたいとどれだけ思い続けたのかが、彼女の半生と共に描かれる。

「パプリカ」も映画愛なしに語ることのできない作品だったが、本作も然り。映画の撮影現場で起こった出来事が語られる一方で、千代子が演じた歴代のヒロインが"鍵の君"を追いかけ続ける。いつしかインタビューしに来た立花源也も映画の中に入り込んでいく。幾度も千代子の出演作品を観て、現場も知っている源也だから、インタビューしながら、場面を再現して会話しているのが現実なんだろう。

けれどそのやり取りが千代子の映画世界とつながるイメージになることで、二人の思い入れが伝わってくる。千代子が時代劇からSFまで演じた歴史と時代から、その年月は千年に達する。なんて壮大な恋絵巻。他の映画で感じたことのないトリップ感がある。映画館で観られて本当によかった。

千代子に千年長寿の酒を飲ませる老婆は「蜘蛛巣城」を思い出させる。また老婆が回す糸車が場面転換に用いられるのは、「無法松の一生」で同様に使われた車輪のイメージに重なる。映画の中で映画に入り込み、そこに現実世界の映画が重なる。地震というリアルがなければ、僕ももっとのめり込んで観ていたに違いない。

実績のある声優陣もいい仕事。脇役ながら、鍵の君役の山寺宏一と、彼を追い続けた官憲役の津嘉山正種。このイケボ二人は強い印象を残してくれる。音楽は本作で今敏監督と初めて組んだ平沢進。「パプリカ」同様に素晴らしい独自の世界を響かせる。

ここまで綴ってみると、繰り返し観て考察したくなる人の気持ちがわかってきた気がする。でも解釈は人それぞれ。千代子の最後の台詞「だって私、あの人を追いかけてる私が好きなんだもん」じゃないけれど、解釈を頭の中で楽しんでいる自分が好きなのかもしれない。




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サン・セバスチャンへ、ようこそ

2024-01-23 | 映画(さ行)


◾️「サン・セバスチャンへ、ようこそ/Rifkin's Festival」(2020年・アメリカ=スペイン=イタリア)

監督=ウディ・アレン
主演=ウォーレス・ショーン ジーナ・ガーション ルイ・ガレル エレナ・アナヤ

アレン先生の新作が映画館にかかる幸せ。ハリウッドでのバッシング(自業自得ではあるけれど)から、出演を拒む人々もいるし、出演者からもよく言われない昨今。製作の場をヨーロッパに移して撮った本作は2020年の作品だけど、映画館にかかってよかった。観られないかと心配していた。いろいろあっても、作品は作品で楽しみたいもの。

本作を観て思った。アレン先生、ある意味やっぱり懲りてない(個人の感想です)。主人公モートを演ずるウォーレス・ショーン、撮影当時70代後半。彼を主役に据えて、妻の浮気に悩みつつ、旅先で会った女医さんにほのかな片思いをする主人公を演じさせるんだもの。90歳に近づいたアレン先生だが、自分の分身である主人公像にまだまだそういうキャラクターを登場させるのは元気な証拠かも。おっさんの片恋と言えば日本人には「男はつらいよ」だけど、最後の方は寅さんも恋愛最前線から退いていた。その頃渥美清はまだ60代だったんだから。

本作はスペインの観光映画としても良いだけれど、映画ファンをニヤリとさせる描写が素敵だ。妻の仕事で嫌々映画祭を訪れた主人公が、毎夜ヨーロッパの名作映画の中に自分が登場するモノクロームの夢を見る。ウェルズ、フェリーニ、ゴダール、アレン先生のお手本イングマル・ベルイマンなどなど名作がパロディとして示される。「市民ケーン」のパロディ場面では、ちゃんと窓の向こうにもピントが合っているパンフォーカスも再現する芸の細かさ。クラシック好きにはたまんねぇ…♡と思ったけれど、知性をひけらかす主人公と重なって、観る人によっては嫌味に感じてしまうかもしれない。かつて映画を教えていた主人公モートは、さらに日本映画の知識まで披露して、場を白けさせてしまう。

そう言えば、前作「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」でも、エル・ファニング嬢に黒澤明やビットリオ・デ・シーカについて語らせたりしていたな。アレン先生の趣味嗜好なのだろうが、もしかしたらこれは現代ハリウッドに対する皮肉なのかも。いや僕の深読みかもしれないけど、
👓「これこそが映画だぞ。」
と言ってるように僕には感じられた。だって、「勝手にしやがれ」のパロディ場面とか、すっごく楽しそうだったんだもの。

妻スーを演じるジーナ・ガーションの衰えぬ美貌、ゴダールを演じたことがあるルイ・ガレルが新進監督の役。男と女のドラマ、まだまだ撮れるぜ、というアレン先生の心意気が感じられた。それしか撮れねぇじゃん、という感想も聞こえてきそうだけど。でも、男と女の話を、ちょっと笑えてちょっと切実に、安心して観られるレベルで撮ってくれるのはアレン先生しかいないもの。
👓「これが男と女だぞ。いろいろあってちょっと懲りたけど…いや、やっぱり懲りてねぇぞ。」
とアレン先生は、スペインの太陽の下で笑ってる気がした。




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