羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

介護二年生

2012年04月10日 | Weblog
介護という言葉にはなじみがなかった。
介助者、なら長女の障害者手帳利用の時に活用した。
(手帳所持者と介助者は乗り物や公園が安くなるので)

介護二年生となって思うことは、「立ち場の逆転」にいかに慣れるか、
という事だ。
これまで「絶対的権限者」「お小言提言フル回転」という印象だった母親が、
ある日を境にしーんと静かになる。
わたしは唐突に母の「保護者」のようになってメチャクチャ戸惑った。
戸惑いながらの一年生だった。
あれほどにつよかった母。いつも監視されているかのようなうっとうしさ。
いいトシをしていつまでもわたしは母の「娘」だった。
比較的元気だった頃も外出を好まず社交的とは縁遠く父に依存していた母は
家内へといつも目が行きいつも家族(孫含む)に気を配り心配していた。

掃除しなさい、片付けなさい、庭の草取り、あれやこれやといつも言われ続けていた。
ある日玄関に履き慣れた靴が見当たらない。
どこを探してもなくてふと裏庭に行ったらゴミ置き場に捨てられていた。
他のいろいろと一緒だったのでくたびれていたショートブーツはさらに傷つき、
もうはけないかもしれないという状態だった。
母に抗議すると「あらそう?まだ履くんだったの?あんたがなかなか片付けないからよ」・・。

わたしは仕事をして、長女の病院に通い五人家族の家事をどうにか
(手抜きしながら)こなしていた。
余裕は全くなく買い物する時間も自分にかけられる時間もなく、
生協で購入したその靴はたった一足の(安物の)ショートブーツだった。
「他のゴミの下敷きになってたからもう履けない」と母に言ったとたん涙があふれた。

つい一昨年までは母も体調を崩しながらもいやすぐれないからよけいに、
わたしの携帯電話にしょっちゅう電話してきた。
パンがないから買って来て、から駿が鳴いてウルサイけどどうするの?まで、いつも。
たまに気分転換に夜、次女と夫と三人でぬかりなく出かけると
帰宅したとたん「こんなに遅くまで遊んで、わたしがどうなってもいいってことだね?」
と怒られたりもした。

こう書くと母がすごく嫌な性格のひとみたいだけどそんなことはない。
穏やかでおとなしい。文句を言う相手はわたしひとりに限られていた。
(例えば孫の所業でも気にいらない時は必ずわたしだけに進言した)。

去年、母が家計簿を捨てると言って処分を任されたときふと中を見てみたら、
案の定、日記欄にはわたしの行動が全部記されていた。
これは正確で便利だと思ったくらい、。もちろん他の記録もきちんと書いてあった。

それほどに「支配」されていた感覚が強かったのでこの逆転は戸惑いの連続だった。
最初の頃は、手をつなぐことあえ照れもありサッとはできなかったと思う。
それはきっと母も同じかもしれない。
今はもちろんぎゅっとわたしの手や腕をつかんですこしずつ歩く。

言いたいことが山のようにあるのではないかと内心ヒヤヒヤしている。
山のように降り積もった不満を口に出せなくなって(立ち場が弱くなって)、
母を気の毒だと思う。
本人の胸のうちはわからない。
でもあれほどに文句の多かった母がわたしに何も注文をつけず怒りもしなくなったのは
あるていどはわたしの接し方を認め受けいれているからかもしれない。
文句全開のパワーが消失した母をわたしは口数も少なく「介護」している。
やさしい声かけはまだあまりできない。

だけど時間と気持ちの余裕はすこしだけできた。
母が言いたいだろうことを察知して掃除も片付けするつもりではいる。
介護二年生、まだまだ模索と試練は続く。