まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

泥のように眠る

2016-12-01 | 暮らし

泥のように眠った。チョムには悪いが仕事がある。資料をプリンターでコピーをしていたら、インクがまたもや切れて、そうこうして寝たのは1時過ぎだった。いつもなら、遅く寝ても途中で起きるのに、よほど疲れていたのか、目覚めたら8時だった。天気が良くて光が差したら必ず目覚めるのに、わたしは泥になっていたのだ。泥という生き物だ。

実家の母が、杉の木林に埋めてもいいと言ってくれた。その旨を娘たちに言うと「本名は吉四六やからね。」で、あった。そうだった。わたしたちは、焼酎の名前をつけたのだった。でも、墓石に彫るわけではない。単に確認しただけだ。

朝食もそこそこに小屋へ行くと、婆さんがチョムの段ボールに毛布を掛けて、菊の花を添えてくれた。

母は、杉の木立のいい場所を選んでくれて、穴を掘ってその中に入れると、まだ生きているような顔をしている。土をかぶせるとき、また涙が出た。チョムは本当の泥になってしまう。猫は寝るのが好きなので、本当に泥のように眠りにつくわけだ。

土の上に毛布を置いて、その上に切株を置いて花を置く。

その後、父の病院へ母を連れていき、父の髭をそって帰る。

チョムの餌を片付けた。猫のトイレも片付けて昼になって気づいた。

歯医者の予約があったのだ。がーーん。いろいろありすぎた11月。入院の時に予約を断って、やっとこの前新しく予約を入れたのに。婆さん「不幸がありましてって言えばよかったのに。」と、その通りだけど、先に言わなくちゃいけないよね。

実は仕事も替わることになったので、わたしにとって11月は次から次と出来事があったわけだけど、12月になって落ち着くかと思ったら。はぁ。


ドラゴンナイト

2016-12-01 | 暮らし

4年のkouに、「ドラゴンナイトは、テンポがいいけど、なんか物悲しいんやけど。」と、言うと「あれは、終わりのない戦いの休戦やから、楽しい曲ではないと思うわ。」だと。「あなたは、賢いねえ。」あんまり歌詞が聞き取れないので、よくわからなかったが、よく聞くとそうだ。だんだん悲しい気持ちになる。

家に帰ると、婆さんが小屋の前でわたしを待ち構えていた。いつもなら、横の玄関の街灯をつけて、テレビを観ているのに、何かあった様子だ。

「チョムが死んで、二階におるんやけど、下ろせんし。」と、言う。チョムは、小屋の二階の毛布の中で眠っているように見えた。抱くと、すでに硬直していて、用意した段ボールに入れるときに、足が伸びているのでひっかかってしまった。タオルを敷いた段ボールに入れる時、けっこう臭いもした。すぐに線香を焚いて、娘達にメールした。

線香を焚くのはこういうことなのだと分かった。臭い消しだったのだと思う。ドライアイスなどない昔、亡くなった人の周りで線香を焚く。悲しみより、線香の意味を考えていた。わたしは、その後、夕ご飯の用意をしながら、先日撮った写真をみて、チョムも年をとったなあと思ったことを思い出した。チョムはそういうあんたも十分ふけたね・・と、言うような顔してたっけ。娘に拾われて14年この家にいて、一番可愛がってくれていた殿がいなくなって、時々探すように部屋を回ったりする。

夕飯の支度の時に、必ずウッドデッキのところから、ガラス越しにニャアと泣いて呼ぶ。夕方カーテンを閉めるときにすり寄ってくる。今日は、カーテンを閉めても来ない。当然だが、その時泣けた。

なぜか、タブレットでドラゴンナイトを聴いた。葬送曲のように思えた。この声がせつないのである。この人は心から笑うのだろうかと思った。なんだか目が寂しい。わたしは、この後、ずっと世界の終わりを、ぼおっと聞いていた。道化のように踊っていても寂しく見える。流れる曲がみんな悲しく聞こえる。「炎と森のカーニバル」も、やたら淋しい歌詞じゃん。

そして、我が家の唯一の雄がいなくなったことを、改めて寂しいと思った。

なんだか置いてけぼりをくったみたいだ。