Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

敢えての五輪返上論

2016-05-15 18:07:00 | 時事
都知事選が視野に入る中で話題になっているのが、2020年東京五輪への影響です。
新知事が「お・も・て・な・し」をするのか、というような生暖かい話ではなく、候補者の中には五輪返上を公約に掲げてシングルイシューで戦う人が出てくるのでは、という話です。

特に左派系の候補はその可能性が高く、選挙戦の展開次第では次期都知事になる可能性を否定できません。
そうなると1995年の都知事選の再来であり、当時の青島知事はシングルイシューの都市博中止を本当に実行しました。

まあ国内の地方博覧会と五輪ではその位置づけも中止の意味合いも影響も段違いですから、そこまでするか、という声もありますし、そうなったら日本の信頼に関わるという批判もあります。まあなんだかんだといって「勝ち取った」五輪を返上すると公言したら、「一般庶民」がどちらに動くか読めないわけで、案外総スカンを食う可能性もあります。

五輪開催をめぐっては、2016年開催の招致運動からして経理書類の紛失などカネにまつわる疑惑があったというのに、今回2020年開催の招致活動でも裏金疑惑が発覚して、関係者が火消しに追われています。
まあ招致委名義で不正資金を送金する馬鹿もいないでしょうから明らかなクロではないでしょうが、当初の対応と後出しの弁明を見るに、「言えないお金」であることに間違いは無いわけで、こうした「コンサルタント料」は税務調査が入れば真っ先に否認される「常識」を踏まえると、税務上使途不明とすることはあっても、内外に与える印象というものが気になります。

敢えて言えば、2020年の東京五輪は開催を返上するということを真顔で考えるべきでしょう。
我が国では「ケチがつく」という表現をよくしますが、まさに「ケチ」がつきまくっているのが今回の五輪です。メイン会場の新国立競技場をめぐるゴタゴタ。当初案の設計者が急逝するというこの上ない「験」もあります。エンブレムはいったん公表した後での撤回、再選定。そして今回の裏金疑惑と、ケチがつく、というレベルを超えています。

まさに「ご破算で」心機一転としたいところですし、裏金疑惑というコンプライアンスに関係する問題も出てきているわけです。それでも五輪の精神を守って開催に向けて全身全霊を、というのであればまだしも、聖火台の位置を決めていなかった、という、何のために新築するの?というようなお粗末な事態も発覚するわけで、やる気も無いのか、という状況です。

前々から指摘しているように、東日本大震災の復興事業と資機材、人材の取り合いとなり、復興のコストをいたずらに押し上げるリスクがあるなかで、熊本地震です。この復旧、復興も供給サイドで重なります。近世以前であれば熊本地震は五輪開催に対する天の意思だ、となるでしょうが、そこまでは言わないとしても、五輪とはいえたかだか「スメ[ツイベント」をそこまでごり押しすべきなのか、ということはあちこちで聞かれるのです。復興に五輪と建設、土木に目一杯資源を投入した挙句、ほぼ同時期に需要が終了するというリスクもあるわけで、需要の先食いという意味では、未曾有の新規需要の後に国内市場、生産が壊滅した地デジ導入よりも悲惨な結末が想定されます。

経済効果にしても、既にキャパオーバーで破綻しているインバン需要への対応も、建設関係と一緒で需要の先食いに過ぎず、2020年以降のリバウンドがここでも懸念されます。放映権等のソフト面での経済効果は欧米メディアに握られており、過度な設備投資をしてようやく得られる経済効果に過ぎません。
さらに言えば、気象庁も地震に関しての分析についてお手上げと言わしめた熊本地震ですが、2020年五輪の舞台である東京には直下型、海洋型両方の地震被災リスクが付きまとうわけで、そのリスクを払拭できないまま、あるいは、「復旧」「復興」と重なるような状態で開催を迎えるのでしょうか。

次回冬季五輪のように手を上げたけど出来ませんでした、となりかねない状況での返上ではなく、コンプライアンスを前面に押し出せばダメージも小さいでしょうし大義名分も立ちます。副次的効果としては招致活動を中心に批判されているIOCの体質、五輪をめぐる利権問題を見直す契機になることは間違いないわけで、「正義」という正面きって批判できない旗印を掲げて、経済的なデメリットを回避するということは、思い付きではなく「戦略」です。

返上論への批判の中には、アスリートが、子供たちが可哀想、というものもありますが、相も変わらずの「弱者」を盾にした議論です。アスリートも子供たちも、可哀想と盾にするのではなく、こういうときにはあきらめないといけない、という厳しい現実と、モラルを教えるのが先決です。
1979年のソ連軍アフガン侵攻を受けた1980年のモスクワ五輪ボイコットの際に、それが西側主導ということで当時の東西冷戦と、東側の行為は総て善、という立場の左派系メディアの声が大きかったこともあり、同じような批判が叫ばれましたが、1936年のベルリン五輪はそのシンボルであり、そして2008年の北京五輪でも亡霊のように蘇ったように、五輪開催は国威発揚と不可分であり、開催を認め、参加することはその国の体制や行動を容認することにつながります。

そして今回のようなケースでは、開催することは、これまでの体制、問題を肯定することを意味するわけです。
日本はその批判に耐えられるのか、あるいはその汚名を背負っていけるのか。五輪開催に伴う「名誉」「利益」はそれらを跳ね除けるだけの価値があるのか。所詮はスメ[ツイベントであり、国家の名誉と天秤に鰍ッるようなものではありません。モスクワ五輪ボイコットについては今なおそういう整理にしている国士様御用達新聞あたりが、そういう議論を提起しないのも不思議ですが、国家の名誉や利益よりも、メディアが吸う甘い汁が重要なんでしょう。賭博などの問題を全力で隠して通常通りのプロ野球開幕を是とした姿勢と相似形です。

足下のリスクは、2020年までの間にこれ以上の疑惑、不祥事が発生することです。
そしてそれが完全に排除できないなかで、予定通り開催することのリスクを見積もるべきなのです、



次の都知事をめぐる暗澹

2016-05-15 17:00:00 | 時事
東京都知事の公金横領疑惑は、「事務処理ミス」ということで幕引きを図っていますが、そんな子供の言い訳のような回答で通るとでも思っているのでしょうか。豪華外遊や公用車での別荘通いはまだ意識の問題や解釈の余地がありましたが、私的費用の付け替えはアウトです。メディアの中には外遊に比べるとつましい内容だとかピント外れの擁護を口走るコメンテータもいますが、巨額の外遊費用は許される可能性もありますが、私的費用の流用は1円でもアウトです。公費の費目違いと、そもそも請求してはいけない費用では性格がまったく違います。

年金問題で過去に流用した役人を、その組織のトップでありながら反省より前に泥棒呼ばわりして牢屋に入れと言っていたご本人が、トップ自らの流用についてはミスでした、テヘッ、で済ませる気なのか。権力の甘い汁はよほど甘いと見えますが、それにしてもあの発言から10年も経たないでこれではあきれ返って物も言えません。

さて、さすがに窮地に立っていることは誰の目にも明らかなんですが、事ここに至ると、「次」が取り沙汰されてきます。そうなると、前回の知事選の候補者の面々を並べ立てて、都知事批判もいいけど、じゃあ共産知事でもいいの?とか言い出して、暗に批判を戒める動きが目に付きます。

確かに主要候補だけ見ても現知事のほかは、共産系、「殿」に先日政治資金の杜撰な管理で逮捕された元航空幕僚長という面々では、1995年の青島知事誕生の悪夢が過ぎるのもわかります。
しかし一方で、現知事を担いだのは政権与党であり、首都のガバナーに斯様な人材を担いだ責任が問われる一方で、責任ある候補者の擁立は政権与党としての義務でしょう。政権与党がまともな候補者を擁立できないのであれば、有権者(首都として、都民だけでなく全国の)に対する裏切りです。まともな候補者がいないことを懸念する前に、まともな候補者を出すことを促すのが有権者の「圧力」であり、現知事を叩くなというのはお門違いです。

もっとも、新聞辞令では頭を抱える動きしか出てこないわけで、都民を、そして国民を政権与党は馬鹿にしているのか。前の大阪市長の名前が挙がるにいたっては、2万%ありえない事態であり、汗をかかない、苦しくなったら逃げ出して新しい敵を作って誤魔化すという、安物の改革屋が首都のガバナーとは書くだけでもおぞましい話です。

まあ前回選挙でも改革屋のシンボルが反原発、脱原発を訴えて「殿」を擁立して票を集めていましたし、前大阪市長が「闇将軍」として支配する政党に、元祖改革屋とでも言うべき政党の元代表が合流するという流れを見ると、政権与党が対応を間違えると、改革屋の知事が誕生し、引っ掻き回して都政を混迷の極に陥れる懸念が強まります。
そう、改革屋がガバナーになれば、かつての美濃部知事に匹敵する「弊害」として歴史に名を残すでしょうね。

それにしても、まともな候補を擁立できない政権与党も大概ですが、国民も改革屋に何回騙されたら目が覚めるんでしょうね。口当たり、耳あたりの良いことだけ言って、汗はかかない、苦しくなったら敵を作って攻撃して目をそらさせる。要は改革を泥臭く全うさせることはせず、というか、出来ないから途中で誤魔化して逃げ出す。破綻寸前で逃げ出して同じ手口で小金持ちを騙すネズミ講の残党と手口は一緒です。そういう意味では小金持ちが何回も騙されるのと同様、有権者も改革屋に何回も騙されるのでしょうが。

改革を全うするのではなく、自分がのし上がるのが目的なんですよ。あるいは自分や仲間への利権の付け替え。
今回知事候補に名前が挙がっている前大阪市長は前者の典型で、政令市があって権力、権勢を振るえないとみるや府知事から市長に鞍替えし、中央に名前を売ったら国政に転じようとしたわけです。つまみ食いされた府や市の「改革」はどうなったのか。強引な手法で反訴されて負け続けたツケを払っているのが現実です。今回合流した元祖改革政党の元代表もその一種です。
ちなみに前回の知事選で「殿」を担いだ改革屋のシンボルは後者で、既得権益ガー、と叫びながら、お仲間、お友達の政商が甘い汁を吸っているわけです。既存体制をぶっ壊す、というのは甘い汁を吸うために邪魔になる旧体制をぶっ壊すということでした。

おそらく、政権与党は前回も名前が挙がった元ニュースキャスターのような、ちょっとインテリが入った知名度頼みのタレント候補を探すに留まるでしょうし、あるいは一発逆転を狙って中堅の女性議員を候補にするのでしょうか。
野党は左派系が共産候補に相乗りして、右派系が改革屋を推す。うまくいけば三つ巴で、おそらく与党候補と改革屋の一騎討ちでしょうか。

政権与党が大臣、党三役クラスの「大物」を担ぎ出して「本格政権」を打ち出せば話は別ですが、そもそもそんな人材が枯渇しているのが今の政界だけに期待できませんが。



JRE新型改札機の表示は「欠陥」である

2016-05-15 16:05:00 | 交通
JR東日本が導入した新型改札機の残額等の表示箇所が手前過ぎて見えないと言う批判が導入当初から絶えません。
これについてネットでも議論になっていますが、どうも「故意に」あの位置にした、と言う推測もでています。

手前にあるモニターで確認できるように改札機にタッチする、という「癖を付ける」目的があるとか、奥まで行かないことでエラー発生時のリカバリーがやりやすくなり、結果としての滞留時間が減る、と言う理由です。

しかしそもそもそういうメリットが大きいのであれば、他社はなぜ導入しないのか。あの表示方法はJR東日本の特許や実用新案なので真似出来ないのです、と言うことはないわけで、同じように新型にリプレースしたJR東日本以外の各社で奥に表示をしなくなった例は無いのです。

もっともらしい理由として、奥にあった当時は前の人のデータが良く見えており、個人情報の問題、極端なケースではチャージが多いICカードをひったくる被害も懸念される、と言うのまで出てきています。
しかし実際に利用していればわかるように、手前のモニターに前の人のデータが表示されるのを目にするわけで、どっちも目にするのであれば、自分のデータが見づらくなった新型のほうがメリットが小さいわけでしょう。

会社の入館証のようにタッチ→開く、という単純な作動であればモニターを見るというような動作は不要です。
しかし交通系ICカードの場合、通過の可否だけでなく、引き落とし金額の確認と言う動作が必ず必要になります。つまり、モニターを適時適切に見れないと意味が無いわけで、そこに難がある新型改札機のデザインは問題、と言う単純な結論しかないはずです。

実は改札機は多種多様なメッセージを発信しており、モニターをいちいち見なくても大丈夫、ということになっています。定期券利用とチャージ引き落としでは「ピッ」の回数が違うとか、チャージの残額や有効期限が一定の限界を超えたら鳴り方が変わるといった機能ですが、そんな符牒をいちいち覚えないといけないものなのか。それこそモニターを見れば済む話です。

交通系ICカードでその場その場でのモニター確認がなぜ必要なのか。
要は引き落とし金額におけるエラーが多いからにほかなりません。紙のきっぷのルールのほか、ICカード特有の計算方法もあり、紙より相当安いケースもある中で、正しく引き落とされたのかを確認しないと、1回で数百円の損になることもあります。

入場記録エラーも多発していますが、上記のような特殊な計算は入場記録で経路を見分けるケースも多く、そのあわせ技で遠くのノンラッチ駅経由となって損をさせられてしまうリスクがあるのです。
こうしたエラーの発生頻度は、機械やシステムに通常発生する頻度とかけ離れて多いわけで、そういうシステムを導入しておきながらエラーの確認ができないと言うのは論外です。

そもそも奥の表示に前の人の残高が、と言うのであれば、次のタッチ(あるいは磁気券挿入)と同時に表示をクリアすればいいだけです。次の人がタッチ可能、すなわち進入可能なタイミングでなお奥のモニターにたどり着けない、と言うケースはよほどのことであり、まず無いと見ていいでしょう。
あるいは自分の残高は改札機中央部に表示する。見やすいように斜めに向けて表示すると言った工夫も有効でしょう。

外国の改札機やビルの入退場ゲートのように、細身のスリムな改札機を賞賛する向きも少なくないですが、このエラーの問題が多発する限り、モニターを適切な位置に設置しないと利用者の不利益が増えそうです。



大楠公に何を学ぶのか

2016-05-15 15:20:00 | ノンジャンル
公共心を忘れた日本人、と言うのは国士様系が喜ぶフレーズで、国士様御用達新聞も3日と空けずにそのフレーズを多用しています。

で、最近そのフレーズとともに楠木正成、尊称で言えば大楠公を賞賛している連載があるのですが、これ、わかって掲載しているんでしょうかね。

確かに当時の武士は「御恩と奉公」のフレーズの通り、「公」の精神どころか、相応の恩賞が無ければ奉公しない、という「私」の権化のような存在です。まあその時点で、中近世の武士を精神的支柱にして足下の個人主義を批判することがいかに愚かしいかですが、その程度の「歴史認識」で歴史教育に対して大上段から批判しているのがああいう勢力です。

それはさておき、確かに当時の主流派に対し、大楠公の発想は「七生報国」の辞世に代表されるように、主君への忠義をまず置いており、その意味では個人主義ではなく忠臣愛国の美しい国にふさわしい思想だ、という面もあります。

しかし、その「報国」はどうだったのか。もともと大河ドラマ「真田丸」の昌幸のように、正々堂々と言うよりもゲリラ戦で数々の戦果を上げた戦略、戦術家であり、尊氏に押されてくる朝廷側にいろいろな献策をしているわけです。手段はどうであれ勝つことが大事、というのもかなりアレですが、では献策をことごとく退けられ、このままでは座して死を待つだけ、と言う状況で討って出たのが湊川の合戦ですが、これとて大阪夏の陣の幸村のように敵の総大将の本陣を脅かしたような「一発逆転」には程遠く、稀代の戦略家が犬死した格好です。

それでも忠義を尽くすのが正しいのか。君主の条件に血統を第一とし、徳目など能力を優先しなかった我が国の伝統には則っていますが、21世紀の今日に道徳の教材として使うにふさわしい思想なのか。
極端な例を出せば、敵の砲列が縦横に敷かれている敵陣正面にバンザイ突撃をするようなものです。そしてそれに異を唱えたり、逃げることなく見事に死ね、というのでしょうか。

公共心にしても、愛国心にしても、そういうものではないでしょう。
江戸時代の諸藩では、主君が「暴走」したら家臣が「押し込めて」家督相続を迫ると言ったケースが多々あったわけですし、それこそ大楠公の時代でも、書物に「主上御謀反」の記述があるように、「藩」などの公共に対する忠誠心は、その「藩」などがとる行動が正しいかを判断した上での話なのです。

そう考えると、大楠公を持ち上げてもいいのですが、最後は批判しないと「道徳」になりません。
そこまでわかっての連載なのか。まずわかっていないだけに、暗澹とします。