また飲酒運転による痛ましい事故がありました。
飲んだら乗るな、乗るなら飲むな、と飲酒運転を戒める標語はそれこそ世界共通なんですが、なぜなくならないのか。法解釈の問題というわけでもなく、酒を飲んだら運転しない、運転するなら酒を飲まない、と子供でも分かるような単純な基準がなぜ守れないのか。
結局、「飲酒」という行為が人間の感情を著しく歪める、ということでしょう。やってはいけないこと、と刷り込んで、一発取消とか厳罰で威嚇してもなお無くならない。飲酒の魅力は運転すると分かっていても抑えきれない、そして飲酒の結果として運転してはいけないという最低限のモラルすら失わせてしまう。
アルコールは「薬物」であり、飲酒は禁止あるいは厳重に規制すべき、という主張があっても否定できないでしょう。酒飲みの一員としてそれは勘弁願いたいですが、実際にロードサイド店で一人客がビールを飲んでいるのを見ると、モラルが期待できないのであれば禁止するしかない、という極論も否定できません。
これ、Covid19での酒類提供の自粛要請にも共通する話でしょう。なんだかんだと理由をつけても、突き詰めれば飲酒運転をするドライバーと一緒で、酒の魅力の前に感染拡大予防といった社会的要請を考えなくなるわけです。店で飲めなければ意地汚く路上飲みだなんだとあたりかまわず飲み始めるというモラルの無さもそう。
文化人や酒造メーカー、飲食店が「酒は文化」と言っても、文化の欠片もなくただ酔えればいい、飲めれば社会のルールやモラルなんか知ったこっちゃない、という人が一定数(というか数多く)存在し、それによる弊害が実際に発生しているわけです。飲酒運転による事故然り、BBQだなんだでのクラスタ発生然り。そうそう、都内で河川敷でパーティーをして酔った双子の兄弟が片割れを川に突き落として水死するというやりきれない事件がありましたが、これもアルコールの「弊害」でしょう。
だからと言って「禁酒法」はさすがに嫌です。であればどうしたらいいのか。
結局は酒を飲む人に問題の大半は帰結するわけで、どうすればモラル無き飲酒が減るのか。
それが線引きできなければ、飲酒行為はリスク行為として禁止、あるいは厳重な規制が必要であり、酒飲みや飲食店などに配慮して飲酒を容認することによる、飲酒起因の事故事件を社会が容認できるのか。同じ自動車事故でも、運転そのものであれば自動車という手段を封印することによる社会的損失の方が大きいから、といえますが、飲酒の場合はそれで得られるメリットって?というレベルでしょう。自動車は無ければ生活が成り立ちませんが、飲酒は無くても生活が成立しますし。
「酒は文化」とかお高く気取って飲酒を正当化するよりも、警察が強権的に規制しても撲滅できない現状にどう直面するか。それともタバコのように「飲酒はあなたの・・・」と飲酒運転事故の現場写真を酒瓶や缶にプリントしましょうか?禁止したいけど止む無く認めている、ということを忘れるな、というような扱いで。
飲酒という行為でモラルがマヒするわけです。であれば身体で覚えさせるしかないでしょう。
許容されたレンジを外れたら厳しく摘発する。飲酒運転のみならず迷惑行為その他飲酒起因の行動を許さない、許されないということを、言っても聞かない手合いに刷り込むのです。
一方で本来現行の体制でもそれが可能なのに手抜きし放題という問題もあるわけです。
上記のようにロードサイド店で一人客に酒類を提供する店。またハンドルキーパーを確認しないで「グラスは人数分でよろしかったでしょうか」という店。あるいはそうしたロードサイド店周辺で取り締まれば入れ食い状態のはずなのに絶対に手鰍ッない警察。これもまた飲酒する側同様に厳しく処罰しないといけません。
地方では店に飲みに行くということ自体が原始的不能、というケースもあり、タクシーや代行を手配しないと居酒屋すら行けない、というビハインドは確かにありますが、それは飲酒運転を正当化し得るものではありません。行政も補助を出すとか公共交通を用意するといったそこへの目配りくらいはしてほしいものですし、一つ一つ飲酒運転の萌芽、正当化を潰す必要があります。
「酒も飲めないなんて」と、これはダブルミーニングですが、自分に関しては飲酒が出来ない事態を憂い、他人に対しては飲酒文化(習慣)の減少を憂う、という人も少なくないでしょうが、既に飲酒習慣のある人はこの20年ほどを見ても若年層を中心に激減しているわけで、「酒を飲む」という行動そのものを正当化できない、理解を得られない社会が口を開けているのかもしれないわけで、いつまでたってもなくならない飲酒運転事故や、図らずも今般のCovid19感染で露呈した飲酒へのモラル無き執着は、飲酒そのものを容認しない不寛容を惹起するかもしれません。
とはいえ「禁酒法」は20世紀の一時期、戦間期の米国における施行と失敗が有名で、その実効性を疑う人も多いでしょうが、飲酒そのものへの不寛容が定着した時、その「偉大な先例」は先例足り得るのか。「ビール離れ」「日本酒離れ」を憂いていた時代が可愛いものだった、と回顧する時代がこないためにも、飲酒する側の不行跡を撲滅していく必要があります。
飲んだら乗るな、乗るなら飲むな、と飲酒運転を戒める標語はそれこそ世界共通なんですが、なぜなくならないのか。法解釈の問題というわけでもなく、酒を飲んだら運転しない、運転するなら酒を飲まない、と子供でも分かるような単純な基準がなぜ守れないのか。
結局、「飲酒」という行為が人間の感情を著しく歪める、ということでしょう。やってはいけないこと、と刷り込んで、一発取消とか厳罰で威嚇してもなお無くならない。飲酒の魅力は運転すると分かっていても抑えきれない、そして飲酒の結果として運転してはいけないという最低限のモラルすら失わせてしまう。
アルコールは「薬物」であり、飲酒は禁止あるいは厳重に規制すべき、という主張があっても否定できないでしょう。酒飲みの一員としてそれは勘弁願いたいですが、実際にロードサイド店で一人客がビールを飲んでいるのを見ると、モラルが期待できないのであれば禁止するしかない、という極論も否定できません。
これ、Covid19での酒類提供の自粛要請にも共通する話でしょう。なんだかんだと理由をつけても、突き詰めれば飲酒運転をするドライバーと一緒で、酒の魅力の前に感染拡大予防といった社会的要請を考えなくなるわけです。店で飲めなければ意地汚く路上飲みだなんだとあたりかまわず飲み始めるというモラルの無さもそう。
文化人や酒造メーカー、飲食店が「酒は文化」と言っても、文化の欠片もなくただ酔えればいい、飲めれば社会のルールやモラルなんか知ったこっちゃない、という人が一定数(というか数多く)存在し、それによる弊害が実際に発生しているわけです。飲酒運転による事故然り、BBQだなんだでのクラスタ発生然り。そうそう、都内で河川敷でパーティーをして酔った双子の兄弟が片割れを川に突き落として水死するというやりきれない事件がありましたが、これもアルコールの「弊害」でしょう。
だからと言って「禁酒法」はさすがに嫌です。であればどうしたらいいのか。
結局は酒を飲む人に問題の大半は帰結するわけで、どうすればモラル無き飲酒が減るのか。
それが線引きできなければ、飲酒行為はリスク行為として禁止、あるいは厳重な規制が必要であり、酒飲みや飲食店などに配慮して飲酒を容認することによる、飲酒起因の事故事件を社会が容認できるのか。同じ自動車事故でも、運転そのものであれば自動車という手段を封印することによる社会的損失の方が大きいから、といえますが、飲酒の場合はそれで得られるメリットって?というレベルでしょう。自動車は無ければ生活が成り立ちませんが、飲酒は無くても生活が成立しますし。
「酒は文化」とかお高く気取って飲酒を正当化するよりも、警察が強権的に規制しても撲滅できない現状にどう直面するか。それともタバコのように「飲酒はあなたの・・・」と飲酒運転事故の現場写真を酒瓶や缶にプリントしましょうか?禁止したいけど止む無く認めている、ということを忘れるな、というような扱いで。
飲酒という行為でモラルがマヒするわけです。であれば身体で覚えさせるしかないでしょう。
許容されたレンジを外れたら厳しく摘発する。飲酒運転のみならず迷惑行為その他飲酒起因の行動を許さない、許されないということを、言っても聞かない手合いに刷り込むのです。
一方で本来現行の体制でもそれが可能なのに手抜きし放題という問題もあるわけです。
上記のようにロードサイド店で一人客に酒類を提供する店。またハンドルキーパーを確認しないで「グラスは人数分でよろしかったでしょうか」という店。あるいはそうしたロードサイド店周辺で取り締まれば入れ食い状態のはずなのに絶対に手鰍ッない警察。これもまた飲酒する側同様に厳しく処罰しないといけません。
地方では店に飲みに行くということ自体が原始的不能、というケースもあり、タクシーや代行を手配しないと居酒屋すら行けない、というビハインドは確かにありますが、それは飲酒運転を正当化し得るものではありません。行政も補助を出すとか公共交通を用意するといったそこへの目配りくらいはしてほしいものですし、一つ一つ飲酒運転の萌芽、正当化を潰す必要があります。
「酒も飲めないなんて」と、これはダブルミーニングですが、自分に関しては飲酒が出来ない事態を憂い、他人に対しては飲酒文化(習慣)の減少を憂う、という人も少なくないでしょうが、既に飲酒習慣のある人はこの20年ほどを見ても若年層を中心に激減しているわけで、「酒を飲む」という行動そのものを正当化できない、理解を得られない社会が口を開けているのかもしれないわけで、いつまでたってもなくならない飲酒運転事故や、図らずも今般のCovid19感染で露呈した飲酒へのモラル無き執着は、飲酒そのものを容認しない不寛容を惹起するかもしれません。
とはいえ「禁酒法」は20世紀の一時期、戦間期の米国における施行と失敗が有名で、その実効性を疑う人も多いでしょうが、飲酒そのものへの不寛容が定着した時、その「偉大な先例」は先例足り得るのか。「ビール離れ」「日本酒離れ」を憂いていた時代が可愛いものだった、と回顧する時代がこないためにも、飲酒する側の不行跡を撲滅していく必要があります。