Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

急に加速した復旧

2018-07-31 23:32:00 | 交通
8月を前にJR西日本から広島地区の復旧が大幅に繰り上がる獅ニ、代行輸送開始、さらには区間運転再開のお知らせが出ました。

本線の三原#虫sが10月中に繰り上がり、この時点で本線は全通します。呉線呉″竓ヤは9月中の復旧となり、この時点で広以西が全通します。本線は瀬野までが8月18日、八本松までが9月中の復旧。呉線は坂までが8月2日で、後述の通り区間再開があるのであわせての全通です。なお坂までの再開で、呉線直通分が増える格好で海田市までの輸送力不足も解消されそうです。ざっくり倍増のイメージです。

特筆すべきは本線の白市#ェ本松間が8月21日、広′煌ヤが8月20日に復旧すること。両端が不通のままでの離れ小島での再開ですが、不通区間がつながるまで1ヶ月程度という見込みが経ったことで、虜になっている編成を使った運転をしても検査までに復旧できる目途がついたということでしょうか。八本松に仮設ホームを設けるそうですが、中線があるのでそこに仮設ホームを設置するのでしょうが、ならば開通が1ヶ月ほど遅くなる見通しの本郷にも設置して三原から延ばしてほしいですね。

1年以上と見込まれていた中国山地のローカルも繰り上がり、備後落合℃O次と府中♂亦ャは2019年1~3月の復旧とアナウンスされました。木次線は長期運休見込みのままですが、NHKが8月上旬再開を報じており、これは大幅な繰り上がりです。券・熕V見%件驍ェ9月上旬、東城#纓詩№ェ9月中と、まさかの順でまさかの早期再開です。

代行バスも、8月11日に三原″L間、三原#虫s間が白市以西の区間再開にあわせて8月21日からの運行開始です。まだダイヤは出ていませんが、三原#虫s間はr33が寸断状態で、本線が復旧するタイミングでは復旧すると思われますが、足下は無理でしょうから、三原*{郷#虫sと白市%・・河内で系統分割でしょうか。呉線代行バスがかなり柔軟に設定されたので、本線もそうなるかと。

気になるのは八本松$」野間。圏zバスが細々と走らせていますが(7月23日にR2復旧に伴い再開)、代行バスがありません。白市#ェ本松の区間運転にあわせて設定が欲しいところですが、どうなるのか。現時点では先に呉線経由で代行がつながるという桃ヤです。
なお呉関係では、中国JRバスの西条線が、7月25日から西条°ス原までと、賀茂医療センター口′烽ノ分割してつながりました。後者は道路寸断のため、東広島呉道経由になっています。

ここにきて急に加速した感じで、ここは素直に称えたいですが、やればできるというか、早期にアナウンスしていたらもっと励みになったわけで、ちょっと残念でしたが、まあ一安心です。



貧すれば鈍するにならないために

2018-07-29 15:26:00 | 交通
くま川鉄道で朝一の人吉行きが3連で130%の詰め込み状態になっているという記事が先日出ていました。
車両がなく、3連が限界で、観光用車両まで繰り出すため詰め込みも限界。さらに高校再編で沿線の高校が募集停止となり利用が急増し、閉校となる来春以降はさらに増加、という絶対絶命の状況です。

くま川鉄道というと確かJR直通もしていて、朝はその車両が輸送力列車になっていたはず、というのは昔話で、今は線内折り返しのみ。分断時に輸送力確保で譲渡されたJRキハ31も今はなく、手持ちの車両でやりくりするだけです。

くま川鉄道といえば、エロゲメーカーとのタイアップ切符を巡る騒動が記憶に新しいですが、観光車両を導入し、増収策を図る努力をしても経営は苦しく、定期比率も上昇しているのが現実です。
沿線高校の閉校も入り込みが減り、逆に人吉への通学増となるため、片輸送の度が増すという問題になるだけに苦しいです。

とはいえ利用者増に対応できないのではそれこそ鉄道の意味がなくなります。バスで補完したら鉄道の意味がないと会社側では言っていますが、利用減に喘いでいながら増加したら対応できませんではいったい何をやってんだかの世界です。
10年以上前に北海道の留萌線で、高校の生徒が増えたとたんに積み残しを出して問題になりましたが、こういうことをしていたら鉄道の信頼を損ない、ますます使ってもらえなくなります。

三セク鉄道ですから地元が経営に責任を持っている中で、地元の高校再編に対応できませんでした、というのは経営の体をなしていないわけで、県を中心に予算を確保して車両を確保するのが先決でしょう。それこそ中古でいいんですよ。朝の輸送力列車に対応するための増結車です。トレーラー(キサハ)扱いでもいいから手当てできないのか。

詰め込みで対応する方策を探るのでしょうが、そういう貧すれば鈍する対応では中長期的に地元の信頼を失います。
利用が横ばいだから投資ができない、と言っていますが、実態は漸減で通学輸送比率が上がることで収益も減りますが、鉄道を維持するのであれば投資が必要です。

しかし実態は厳しいのが現実で、当該列車は実は朝の始発。人吉に着くのが7時過ぎですが、八代方面への接続は2時間以上待った特急で、それは3番列車から接続しています。並行するバスも湯前発は遅く、あさぎり駅でしか交換できない設備が全体を律するあたりも留萌線に似ていますが、人吉に出るしか使えないようなダイヤで地元にアピールも何もありません。
それこそ設備投資の話になりますが、生き残るために何をしたらいいのか、中長期的視野で、地元に鉄道を残すという選択をするのであれば、よく考えるべきでしょう。

あるいは産交バスに任せるという手はありますが、3連で130%という輸送量をどう賄うのか。さすがに3次転換対象路線であり、鉄道でどうしたらいいかを考えるべき路線といえますし、バスでとなるとBRTなどの投資を伴う高度化が必須でしょう。




恵方巻ほどのロスはなかったが

2018-07-29 14:32:00 | ノンジャンル
今年は土用の期間内に2回丑の日がはいるため、二の丑があります。
一回目の丑の日には相も変わらずウナギ狂騒曲が全国で繰り広げられていましたが、絶滅危惧種のウナギをテーマに恵方巻の時のようなフードロスが大量に出るのか、と危惧していたら、さすがに出荷を絞っていたようです。

恵方巻の時に盛大に破棄していた大手スーパーでは「う」のつくものを、という戦略に転換してウナギ以外のメニューを売り込んでいましたが、これとてじゃあウナギ以外をという人がそんなに多いわけではないので、こちらにフードロスが移行した懸念はありますが、ウナギの破棄だけは免れています。
ただゼロになったかというとそうではないわけで、弁当や加工品にやたらウナギ関係が見られた丑の日の後の数日間はそうした「再生」に懸命になっていたと思われます。さすがに店頭に出たものは再利用していないでしょうが、在庫があるはずですから。

ちょうどデパートや高級スーパー、大手スーパーをはしごしたんですが、デパートの4千円くらいする長焼きは夕方の段階で残りわずかといい売れ行き。高級スーパーも売れており、大手スーパーは上述の通り、と恵方巻のような悲劇は見られませんでした。
アッと思ったのはデパートで、やはり「相応のもの」は売れるんですよ。ハレの日にはしっかりしたものを買う。結局マグロにしてもそう。中途半端なものを大量に並べて、スーパーの普段使いの価格帯から外れているから値引きしてようやく捌く、捌ききれない、という大手スーパーが、数をこなそうとして大量にロスを出す。デパートで売れているといっても大手スーパーのような大量売りじゃないのですから。

そのウナギの消費についてネットでユニークな記事が出ていました。
現役世代はあまり買わず、高齢者が爆買いしている、というものですが、これ、決定的にダメなのが金額で評価しているということ。
2012年はウナギ生産量(輸入量)も激減しており、その相関性が認められますが、2000年代の消費額に対し足下が低いというのは、価格そのものが上がりすぎて「庶民の口に入らない」というのが実情でしょう。

「丑の日」にこだわりを持たない現役世代が高騰したウナギを諦める反面、高齢者は高騰しても購入する。爆買いというと高齢者がウナギの消費量を増やしている錯覚を与えますが、高齢者の増加もあるわけで、量目でみたらどこまで増えているのか。金額で評価するとそこを見誤ります。







自由と束縛、個人と家族

2018-07-29 13:47:00 | 時事
どんな主張でも言論の自由は守らなければならない。それは本来普遍的価値、基準として順守すべきであり、それが「よくない主張」であるというのであれば、言論で対抗すべき、というのがあるべき姿です。

一方で「よくない主張」まで自由を保証すべきではない、という意見も根強いわけですが、じゃあ何をもって「よくない」というのか。
主観的基準で「言葉狩り」や「人民裁判」になるのがいいのか。いや、法律で定義すればいいのか。ということですが、前者は結局それが「ただしい」ことを担保できないわけで、声のでかい人(勢力)が勝つわけです。そして後者は権力が決めることに危うさを感じます。

ましてや実力行使などは論外ですが、ヘイトスピーチを過去にしてきた団体だから公的施設の貸し出しはケシカラン、とピケを張って開催を阻止した事件をさも良いことのように報じるメディアが実際にあるわけです。そして今回、LGBT問題で議論を呼んでいる議員に対する「殺害予告」を議員に非があるかのように扱ったり、無視するメディアは、自分が言論の自由という普遍的価値のプラットフォームがあって初めて活動できていることを忘れたようなこうどうをしているのは、ご都合主義にもほどがありますし、恥を知れとしか言いようがありません。

さて、件の議員ですが、じゃあ言論の自由を否定し、殺害予告を受けて当然、という「人権無視」も致し方がない、というのでしょうか。確かに「生産性」という言葉は響きも悪く、デリカシーに欠けていますが、それを補正しての議論すら許されないというテーマなのか。

今回一番気になったのは、LGBTの団体による反論の中にあった、性的嗜好ではなく性的指向、というもの。
それはそれで正しいとは思うのですが、じゃあ多様性を認めろという中で本人の意思で変えられない性的指向の多様性はLGBTだけではなく、ペドフィリアやフェティシズムなどはどうなのか。かたや公的保護を当然と訴え、かたや犯罪者や変態とされる。そのボーダーは何なのか。

これ、LGBTPZN(P=ペドフィリア、Z=動物性愛、N=死体性愛)として一括りにすべき、というLGBTの地位を相対的に貶めようとするカテゴライズもあるわけですが、ボーダーを引きたい向きからは、対象が弱者であって自己決定権がない状態での性愛対象であるPZNは別物、としています。しかしPはその通りだとしてもZはどうなのか。ペットとして飼育する行為は許されるのか、という話や、またタブーとして排除されている近親愛はどうなのか。これは「弱者」でもなんでもないですが、タブーとして排斥されていますが、合理的なボーダーを設定できるのか。

カテゴライズもさておき、「性的指向」とした瞬間に、自分では決定できない性格となるわけです。だから尊重しましょう、認めましょう、というLGBTの理論は受け入れられて、PZN、特にPは「生まれながらの性犯罪者(予備軍)」として「二流市民」として扱われるのか。欧米での性犯罪対策では児童ャ泣mを購入しようとしたことが判明しただけで一生レッテルが貼られて就職差別などを受けるわけですが、本人が選べない「性的指向」で、あるロジックでボーダーを引いて、その指向が保護対象となるか、一生人権が剥奪される状態となるか。主観的基準で決まるとしたら、「殺害予告」に対する対応とどこか相似形すら感じます。

そもそも件の議員による問題提起は、「結婚」という法的、経済的特権の適用をどうするかという問題になるわけです。
伝統的価値観から見たらLGBTは究極の個人主義であり、イエ制度との対極にあるはずですが、それが伝統的な「家族」の枠組みによる庇護を求めている、ということをどう評価するか。ちなみに戦国時代は性愛とイエ制度の両立を図るために多くの戦国武将が「B=バイセクシャル」だったというのは注意すべきャCントかもしれません。

LGBTに対する保護を容認したとして、じゃあ同性異性を問わずパートナーがいればなぜ優遇されるのか。パートナーを持たない自由はないのか。個人をベースにした憲法の規定とどう折り合いをつけるのか。
結局そこに合理的理由を設けるとしたら「子供を産み育てる存在として」の家族です。
自己決定権がない、自分では生活できない子供を育てるために家族という単位を認め、保護する。子供ができて初めて保護するというのも難しく、合理的線引きが難しいことから、異性の成人カップルのみ優遇する。同性異性を問わずパートナーを設けるのはだれも否定しないし否定できませんが、「家族」という権利義務を伴う法的な単位にはならない。非常にコンサバティブですが、合理性を追求したらそれしかありませんし、じゃあ子供を産み育てる「家族」という単位を否定したら、独裁国家のように独裁者の子供、として育てられるような体制になります。

子供を産み育てるだけでそんな区分を、というかもしれませんが、持続可能な社会の大前提は次の世代が育つことです。
年金など社会保障、社会福祉の担い手は次の世代の納税が原資です。年金制度にしても、既に自分が払い込んで運用して受け取る、というスキームではなく、次世代の払い込んだ原資を支給する世代間扶養のスキームになっています。
そういう意味での「生産」であれば、響きは悪かろうが事実であり、「生産」が可能なカップルは何か、と考えた時、「生産性」を持ち込めばああいう結論になります。

あるいはそれすら否定するのであれば、人は生きるためにはパートナーと家庭(子供の有無は問わない)を築くべき、という価値観の強制であり、伝統的価値観もびっくりの話になります。