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Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

「主上御謀反」と言わざるを得ないのか

2025-09-01 21:00:01 | 歴史
残念ながら「南北朝」になるのでしょうか。しかも片方は「正統」ではない自称「皇位」として。

成年式を迎えられる悠仁親王殿下ですが、儀式で使用する艤装馬車が久々に登場といった話題になると必ず割って入るように天皇家の話題が報じられます。ニュース性のない動静レベルの話題をぶつけてくるのはどういう意図なのか。
そして今回、成年式に愛子内親王殿下が出席されない意向、という報道が出てきました。勤務先のトップが議長を務める会議体への出席という「ご公務」だそうですが、よしんばそれが勤務先である日本赤十字社の名誉総裁というような立場であっても成年式を優先しないのはあり得ない話です。増してや自社や政府の重要会議でもないのですから。

当然その意向は侍従経由で宮内庁に上がってくるでしょうが、侍従の段階、最悪でも宮内庁が止めないといけない話です。
事実上の皇位継承順位筆頭の親王殿下の成年式に出席しないという意味を考えているのか。こういう話が出た時点でメディアの憶測記事であっても終わりといえますし、宮内庁の責任は重大です。

いかに天皇家の直系長子であっても皇位継承の対象外です。「未来の天皇」から見たら従妹に過ぎず、佳子内親王殿下よりも「遠い」存在になります。成年皇族で勤務もされているのですから、学業優先といった言い訳もできません。そもそもこのはっきり言ってしまえば「非常識」な話を両陛下が認めたのかという話になるわけです。

そして両陛下に無断で計画することもないでしょうから、両陛下が容認していると考えざるを得ません。「未来の天皇」の成年式を軽んじるということを。神武朝として連綿と受け継がれてきた皇位を何と心得るのか。少なくとも継体天皇以来確実に続いてきたわけです。男系継承は。その正当な継承者である悠仁親王殿下の成年式を欠席という非礼があり得るのか。

よしんばその意向が示されたとしても侍従や宮内庁は全力で止める、諌止しないといけません。我が国においては伝統的に「主上御謀反」という言葉があるわけで、それは英米法体系の「法の支配」が確立するより前に成立していました。
先に「馬の骨」派が皇位継承で重要なのは天皇の意向である、後継者がいなかった称徳天皇も血統以外を指名した、と歴史上皇位継承の危機として、そして伝統が優先することが確立された事態として歴史に刻まれた事件における道鏡への譲位を「正当化」するという意見が臆面もなくネットメディアに出てきましたが、今回の行動はそれに匹敵する事態といえます。というか、いよいよ「馬の骨」が取って代わる最終段階のようです。称徳天皇正当化はフライングでしょうね。

愛子内親王殿下は神武朝男系の内親王ですが、次代は旧皇族から「皇配」を迎えて子孫を残さない限り、別王朝になります。有史以来王朝交代がない我が国にいるとピンとこないでしょうが、それが国際標準です。歴史を紐解くと、男系継承を維持し、かつ疑義がある場合は確実な「本流」に戻す、という動きになってきたことは偶然ではないでしょう。まさにこの称徳天皇は天武系でしたが、天智系の光仁天皇に系統が移り、さらに男系どころか女系でも天武系の血統が入っていない桓武天皇に移行しています。また血統に疑義が生じていた後小松天皇は実子の称光天皇で血統が途絶え、伏見宮家の後花園天皇に移行していますが、これらの事例は明らかに正当な継承という意思が働いています。

別王朝が成立した場合、神武朝の正当な皇位継承権者は当然「正統」を主張するでしょう。改革屋政権が皇室典範を改定して王朝交代を目論んだ際、秋篠宮両殿下は悠仁親王殿下を儲けられたのですから。南北朝にもならない勝負あったの状態ですが、それで「皇位」「皇統」と言えるのか。それとも旧皇族を皇配として迎えて子孫を残すのか。それであっても「廃太子」という異常事態となるわけで、「歴史に名を残す」ことになるでしょう。

天皇家と秋篠宮家の「対立」を煽り、皇位、皇統の危機を招くのは誰か。そして令和の和気清麻呂は出てくるのか。
はっきり言えば、「天皇」と皇族は神武朝という日本の歴史と共に歩んできた存在だから許される「特権階級」であり、「馬の骨」がそれになり替わることを認め得るものではないのです。日本国憲法が厳然と存在するわけで、皇位はその例外ですが、誰もがなれるものではありません。そして歴史を失った皇位にどれだけの価値があるのか。当然それを推す勢力は「権威」を地に落とすことを目論んでいるでしょう。





もう一回宇佐八幡に行くか

2025-08-31 11:09:09 | 歴史
「馬の骨」による皇位簒奪の動きが露骨になっていますが、いよいよ本音を隠さなくなったようで、皇統への皇位継承に拘る必要はない、と言い出しています。神武朝が男系継承を続けてきた伝統を否定しようとして、皇統でない系統への継承を過去には目論んだケースもある、というわけですが、それが孝謙(称徳)天皇だったときました。

いやいや、それって皇位継承の原則を確認した日本史上の一大エポックであり、まさかそれを「馬の骨」継承の根拠とするのはよほど歴史を知らないか、あるいは「神武朝」否定の最終段階なのか。

そう、独身の女帝で直系継承が出来ないということもあって後継者に「指名」したのが例の道鏡ですが、当代の天皇の意思であっても「天壌無窮の神勅」に反する継承が否定されたわけです。
もちろん宇佐八幡のご信託ということになっていますが、それを伝えたのは「臣下」である和気清麻呂です。だからこそ天皇は怒って清麻呂を流罪にしたわけですが、天皇の崩御後、天皇の「遺志」は無視され、光仁天皇から桓武天皇と、天智天皇の系統に戻って皇位は継承されています。

これは天武系としての男系継承が出来なければ他の継承方法で継続するのではなく、あくまで原則通りの継承が可能な傍系継承を選ぶという原則の確立にもなっています。そうそう無い事態ですが、室町期の後花園天皇(伏見宮家)、江戸期の光格天皇(閑院宮家)という継承はその原則に従っています。

後世潤色された爛れた関係の真贋はさておき、孝謙(称徳)天皇に対する戦前の評価は散々だったわけです。まがいなりにも皇位にあった人を批判できないので道鏡が「皇位を狙った」大悪党とされて矢面に立ってきましたが、遣唐使による本場の戒壇の導入期に「破戒僧」が大手を振って存在し得ないという批判もあり(唐から高僧を招いてもいる)、純粋に道鏡の能力や人柄を評価しての判断だったのでしょう。その意味では易姓革命を肯定する(徳ある系統への禅譲を理想とする)中華的発想の到達点であり、中国びいきだった女帝らしい決断です。


そしてその「野望」を打ち破ったのが和気清麻呂です。皇位を守った英雄として皇居前に今も銅像が立ちます。
そうなると「馬の骨」王朝が成立したら真っ先に破却されるでしょうね。



手柄を横取りしてでも定信推し

2025-08-25 20:30:46 | 歴史
吉原を舞台に「攻めた」描写が話題の今年の大河ドラマですが、天明期を扱うことで奇しくも「コメ問題」を描くことになりました。歴史上「天明の大飢饉」として知られる時期ですが、今回打ちこわしの舞台となった時期は、実はそれなりにコメが収穫できていた時期でした。東北を中心に全国的な大減耗となったのは浅間山や岩木山の噴火が重なった1783年から1784年で、1784年から1785年に市中に出回るコメが全国的に激減したことに拠ります。

一方で打ちこわしが起きた1787年に対応する1786年の作柄は実は悪くなかったというのが通説です。全国的に見ると不作でしたが、数年前の大飢饉の記憶も新しい各藩がコメの出荷を停止したり、コメをかき集めたことで特に大坂や江戸といった大消費地にコメが入荷しない目詰まりを起こした結果のコメ不足でした。

こうなると奇遇というよりも恐ろしいまでの一致すら指摘できるテーマですが、コメの確保(提供)に消極的だった幕府の無策がまず大坂での打ちこわしを招き、江戸での対応も遅れて打ちこわしとなっています。それだけでなく、全国からコメが集まる大坂からの出荷を止めたことで京都でもコメ不足となり、市民が御所に「お百度参り」をする事態となり、朝廷が救済を申し出て幕府に促すという江戸時代を通じてあり得なかったというか「ご法度」の事態が起こりましたが、幕府も混乱を恐れて朝廷の主張に応えたため、朝廷の発言力が回復基調になった原因となりました。その意味では朝廷の権威回復という明治維新に向けた流れの最初ともいえる事態ですが、そうした力関係の変化が、当時の光格天皇による「尊号一件」となった原因でもあります。

ドラマでは松平定信と田沼意次の確執と絡めて演出されていましたが、大坂などからの回米を引き当てに救済するという田沼派の対応を定信派が回米を阻害することで妨害した格好になっていました、これもなかなか意味深ですが、コメの取り扱いを自由化してコメをかき集めるという田沼派の施策が裏目に出て新規参入業者が買い占め、売り惜しみに走ったことが目詰まりになり、コメが暴騰どころか店頭にない状態になったという歴史的事実に至っては「歴史は繰り返す」の典型です。


などドラマの方はけっこう史実を勉強しており、大坂の打ちこわしが暴動と略奪に走ったことに対し、江戸のそれは略奪を戒めて整然と行動したと記録が残っており、実際に鎮静化したのちに奉行所が「犯人」として捕縛した数は少なく、しかも刑も軽かったわけです。暴動であればコメ商人と庶民の「喧嘩」であり両成敗(公儀は関与しない)という整理です。大義を記したのぼり旗とかもあったそうですし、挿絵などでお馴染みの幕末の打ちこわしとは一線を画しています。

この時代のフィクサーとされるのが御三卿の一橋治斉ですが、吉宗が御三家のうち紀州系で将軍家の血筋を独占すべく設立した御三卿で、さらに一橋家で独占しようと積極的な血縁政策で乗っ取ったことは有名です。田沼意次と組んでのちの松平定信を田安家から追い出して将軍継承権者から外すと、今度は定信と組んで意次を追い落とし、田安家へは一橋家から養子を入れるという権謀術数の権化でした。

そして御輿に乗る格好の定信は「寛政の改革」で名高いですが、近年の再評価で「大したことがない」という評価が出てきており、それどころか追い落とした田沼意次のほうがよほど有効な政策を打ち出してきた、という逆転すら出ています。
まあ田沼の悪評もその多くが失脚後に書き連ねた定信の著書が根拠となっており、朱子学的発想といい、商社による歴史の書き換えと言い、当時知識人が憧れた中華思想への親和性が高かったです。

なおそうした再評価を気に食わないのか、必死になって定信アゲ、意次サゲを実行する人が歴史学会などには多いようですが、まあおそらく再評価をしたら「江戸時代の三大改革」というような定説が崩れて学会の地図が書き換わるとか、学会のボスの主張に反してしまうという、というようなアカデミズムあるあるなんでしょう。学生時代にそういうアカデミズムの頂点とされる大学の学部に通う友人に、田沼時代こそ「天明の改革」というべきものでは、と問うと、烈火のごとく否定された経験があります。しかも論理的な根拠は一つも挙げずにです。そうそう、そういうアカデミズムは治済黒幕説も否定しますよね。

田沼再評価の否定にしても、歴史的事実としての施策があるわけです。意次ではなく部下が賢明だったとも言われますが、幕府の政策として実行に移せたのは老中首座である意次の判断ですから。東大寺を作った人は、と聞かれて「大工さん」と答えるのと同じレベルです。そして実際に実効性がある、封建体制の中では先見性のある政策を否定できないからか、「寛政の改革」は田沼時代との連続性があると成果の横取りまで図る有様です。結局は封建体制の復活を図っただけで、文化面でも停滞を招くなど、どこが「改革」というもので、水野忠邦の「天保の改革」の理念すらなかったと言えます。まあ徳川宗家を継ぐという夢を田沼(と治済)に打ち破られた恨みがあるように、吉宗の孫というブランドによるプライドが高かったわけで、当時の川柳や狂歌でもそれを皮肉ったものが目立ちます。

そうそう、天明の大飢饉で白河藩では餓死者を出さなかったという定信の「白河仁政録」にしても、同じ親藩の会津藩にコメの立て替えを依頼して回米したとか、江戸や大坂で雑穀や保存食などを買い漁って送ったというのが実態で、見方を変えれば「自分さえよければ」の典型です。特に打ちこわしを招いた後半の大飢饉では、自藩優先でコメを囲い込んで消費地に送らなかったことが原因ですから。将軍として天下を治ることを望むのであれば、全国的視点で考えるべきですけどね。



近年の史料検証を受けたアップデートが出来ていない

2025-08-22 20:47:27 | 歴史
いわゆる南京事件に関して長老格の評論家女史が「無かったことは証明されている」と発言したことが議論を呼んでいます。かつては「大虐殺派」「中間派」「まぼろし派」とか分類されていた本件の評価ですが、今世紀に入り史料分析が進み、中国側が主張する事象としての各種行為はほぼ疑いのない事実として認識を共有しています。これは暗殺された元首相の時代に日中間で歴史共同研究として相互の研究を照合、検証する格好で進められたことも大きいです。

共同研究も事象としては疑いのないものとして、犠牲者の数が合意に至れるレベルの証拠がないことから両論併記としたものとなっていますが、注目すべきは日本側の結論としても最低ラインを5万人程度としており、これはかつての「中間派」ですら認識が甘いというレベルになったことでしょう。

既に日本側の証言類の史料検証の段階で「出るわ出るわ」の状態であり、1980年代から続いた初期の論争が消し飛ぶような状況です。特に平成になって皇族方の「証言」も明るみになっており、秩父宮、三笠宮という昭和天皇の弟宮である直宮から、参謀総長を務めた閑院宮といった皇族ですら、少なくとも南京攻略時の軍規が相当問題であったことを記録に残しています。そして旧軍幹部の親睦団体である偕行社により「南京戦史」がその編纂過程で事象を否定することが出来ないと判断した格好で刊行されたことは象徴的な出来事でしょう。刊行されたのが1989年で、編纂作業は昭和末期であり、1937年の南京陥落当時の従軍者がまだまだ存命だった時期の一次証言ですから、中国側のプロパガンダとか言って否定することはもはや不可能な状況です。

そうなると論点のすり替えがでてくるわけで、「無かったこと」とは中国側の主張である「30万人の大虐殺」は無かったという主張でしょう。人口増減や殺害方法から30万人は不可能という主張ですが、上記の主張もそうですが、「事件はあったが30万人は盛り過ぎ」という主張ではないわけです。事件を否定していると批判したら「30万人」を否定しているだけ、と反論するわけですが、しかし「事件はあったが30万人は盛り過ぎ」とは一切言っていないわけです。これは典型的な「ご飯論法」ですが、暗殺された元首相がその典型の矜持も何も捨て去った政治家との共通性が見苦しいまでに見て取れます。

あるいは数でも「勝てない」と思ったのか、便衣兵だから、ということで戦闘行為での「戦死者」の一部のように見せかける動きもありますが、便衣兵は軍人としての処遇を受けられず戦場の犯罪者として処断され得るとはいえ、じゃあ現場の即決で殺害していいのか。犯罪者として処断する、という決定が必要なのは言うまでもなく、それがなされるまでは市民なのか便衣兵なのかはそれこそ紛れる目的だけに判断不可能なはずで、それで即決処断はいかな根拠か。

戦場でそんな悠長な、と言いますが、事件があったのは南京陥落後の掃討戦のなかであり、どちらかというと占領して治安回復を図る中での出来事です。当然「占領軍」には余裕があるわけで、いみじくも「まぼろし派」が持ち出す「陥落直後から人口回復」「庶民がにこやかに交流」という状況であれば、各種法規や命令に則った処断が可能でないとおかしいです。見事な矛盾といえます。

もちろん今に至るまで「ニセ写真」を振りかざす勢力がいるのも問題ですが、既に「事象」を否定できない段階まで研究が進んでいるという情報のアップデートができていない人が多すぎます。その典型が都城連隊にまつわる事象で、朝日新聞が写真と日記を大きく報じた際、写真は「ニセ写真」だったためほら見たことかと批判が沸き起こりましたが、結局日記は本物という判断で終わったことにつき批判者はだんまりを決め込んだのです。(戦後編纂された連隊史の根拠資料だった)

日中両国のプロパガンダとは一線を画して進められてきた研究の結果はいわば相互検証の体裁となっており、学術的にも批判に耐えうるものとなっていますが、プロパガンダの世界に生きている人にとっては面白くないし否定したいんでしょう。
私自身、かつては正当な軍事行動の結果を大虐殺呼ばわりされてきた、と考えていましたが、史料検証の結果を否定する力はないわけで、それを受け入れるしかないのです。事象はあったが中国側が言うような数ではない。しかし想像以上に多い人が犠牲になった、というものとして。


陛下は間違いと指摘できないチキンの叫び

2025-08-19 20:40:07 | 歴史
今年は戦後80年というキリ番の年であり、戦争経験者の大半が90代以上と当時のことを直接聞ける最後のチャンスともいえる年だけに、メディアもいつになく特集を組んでいました。そういう中でやはりNHKのそれは質量ともに群を抜いていたわけで、「公共放送」としての矜持と使命を十分に果たしたそのスタンスは、やはり民放とは全然違うと視聴者に思わせています。

その戦争が終結した8月15日の戦没者追悼式典の式辞で首相が13年ぶりに「反省」のフレーズを復活させました。
それが気に入らない勢力はかねてからいますが、参院選で例の政党が大躍進したこともあり、臆面もなく日本が何か悪いことをしたんですか、という人が例年になく大手を振って表に出てきています。

ちなみに天皇陛下がお言葉を述べられていますが、そこには「反省」の言葉が当然のようにありますが。さらに今後も語り継ぐことを新たに宣言していますよね。そもそも陛下が「反省」しているのに政府が「反省」を省くというのがおかしいわけです。まさか政府は建前としての「統帥権」に隠れて反省すべきは「大元帥」というのでしょうか。例の政党の憲法草案も天皇に意思決定をさせる仕立てですが、それを是とするのであれば、「反省」を示すように責任を負うのは天皇であり政府でない、というつもりなのか。

暗殺された元首相の二回目の時から「反省」が消えていますが、それを称賛するネトウヨレベルの支持者の底の浅さ、歴史に学ぼうとしない姿勢には呆れます。ちなみに上皇陛下が常に示していた「忘れてはならない4つの日」もわかっていないというか、他人事、相手が悪い、という発想なんでしょうね。

一方で左翼勢力がわめく「靖国ケシカラン」も大概で、戦争への反省、戦死者への追悼を本心から思うのであれば、靖国と千鳥ヶ淵に両参りする、そして静かに祈る1日であるべきで、賛成だろうが反対だろうが政治的スタンスで主張することは本来ご法度です。8月6日に毎年繰り広げられる「騒動」に現地は辟易している意味を考えていないからでしょう。

反面やはり避けては通れないのが靖国の「A級戦犯合祀」で、死者に鞭打つ風習が無いのが我が国の美徳ですが、一方で「殉難者」として合祀されている戦犯は「戦死」ではないわけで、この時点で賛否が分かれます。しかも戦後というか「独立」後しばらく経っての合祀ということもあり、ある時点で基準が変更されたわけです。


それが国民(遺族)のコンセンサスであればまだしも、意見が分かれているうえに、そもそも「英霊」が神となり天皇の御親拝を受けるという究極の追悼でありながら、その御親拝が絶えてないという問題があります。かつては御親拝していた昭和天皇がある時点から取りやめた。それは本人の明言こそないが様々な記録からいわゆるA級戦犯の合祀に反発しての対応ということが通説となっており、素直に戦没者の慰霊を行うという場所と行為を靖国神社自身が歪めた格好です。

政府が「反省」とするのは過去の国家、政府としての過ちに対してであり、その責任主体はそれこそ「A級戦犯」でしょう。文官であった広田元首相も「A級戦犯」として処刑されています。なお、文官であり戦死者でもない広田元首相の合祀に関しては昭和天皇が名指して批判したという記録もありますね。この合祀さえなければ神道形式をとるものの戦没者の追悼施設である、という主張を押し通せただけに、いらぬ摩擦やいちゃもんを招いたという意味でも問題です。

その意味では、政府として、国家として靖国神社を無視することはできないし、無視すべきでもありません。終戦の日に国家として追悼をすべきですが、そこで問題となる「A級戦犯」を「反省」ということで意識し続けるということも必要でしょう。各地の史跡、資料館(史料館)などで戦死者の遺言などが掲示されていますが、そういう「無名戦士」の追悼を前面に押し出すのであれば、その死に責任を負うべき指導者層の責任に向き合うべきです。これは決して「死者に鞭打つ」ではなく「歴史の審判」に属する検証であり、そうした積み重ねをすることで政府として、国家として靖国神社の英霊を誰憚ることなく追悼することが可能になります。

まあ例の政党御支持者などネトウヨレベルの自称保守、似非保守は靖国参拝自体が目的化しているわけです。
だから時の首相が参拝すればそれだけで満足するわけで、政権与党もそういう勢力を支持者とすべく工作しています。
でも「利用する側」は心から追悼の意を持って参拝していません。その典型が元祖改革屋の参拝で、参拝して近隣諸国のクレームに毅然とした対応を見せれば称賛の嵐ということになっていましたが、賽銭をスラックスのポケットにむき出しで入れた小銭をつまむとそのまま賽銭箱に投じましたよね。そんな参拝作法のイロハもないような無礼千万な参拝を称賛するような低レベルの支持はいくら積み上がっても意味がないのです。

最近ではネトウヨ芸人とか大きな顔をしていますし、「オールドメディア」によるネットでのこたつ記事で重宝されているようですが、では「先の戦争で日本は悪くない」とか「昭和天皇以下歴代天皇は間違っている」と堂々と言わないのか。それは言えないチキンが百万遍垂れ流しても、世間への阿りにすぎません。