Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

進退窮まった銚子電鉄

2013-08-29 00:18:00 | 交通
今朝の朝日(千葉版)に、銚子市が28日の市議会全員協議会で2017年度にも「破綻」する可能性が高い事を報告したという記事が出ていました。
財政調整基金も今年度末で枯渇し、このまま行くと夕張市のような事態になると言う見通しです。

年初に自主再建を断念して、県や市に支援を求めている銚子電鉄の命運もこうなると全く極まったわけで、基本的な行政サービスすら最小限、我慢できるものは我慢という財政再生団体の「掾vを考えれば、銚子電鉄へ市が出融資することなどありえません。
銚子市への入り込みが回復し、鉄道利用の増大と濡れ煎餅の売り上げ増になれば、内野屋時代の不祥事が尾を引いての補助無し時代のように、なんとか濡れ煎餅の上がりで収支を償えるのですが、そのビジネスモデルが入り込みの減少で崩れている現状では絶望的な状況です。

一方で、いすみ鉄道への「手厚い」県の支援を考えると、銚子電鉄とのバランスが気になります。
いすみ鉄道への支援でやっていることは、いすみ鉄道でなくても出来るようなことです。いすみ市や大多喜町といった地元夷隅郡市の経済にどれだけ還元されているかと考えると、甚だ疑問です。

それに対して銚子電鉄はどうか。地元利用はかなり厳しいものの、観光利用が太いわけです。
銚子電鉄自体が目的と言う面も否定しませんが、犬吠埼など銚子観光の一部として機能しており、銚子電鉄と言うツールは地元銚子市の経済に確実に寄与しているのであり、もしここに県の補助を投入したとしても、いすみ鉄道のように事実上のワンスルーにはならないでしょう。

銚子駅から犬吠埼まで観光客をどう輸送するか、というテーマもあるわけで(岬巡りバスの設定もあるが、メ[トタワー経由で時間がかかる)、県を代表する観光地の一つである犬吠埼観光の根本にかかわる問題が生じかねない難しい問題を抱えています。

銚子市の「破綻」が現実味を帯びる中、市の再建を考えると、やはり観光業の立て直しは重要な対策であり、早期の再建と言う観点からも、銚子電鉄の取り扱いはやはり議論の対象とすべきです。
そうなると、県としていすみ鉄道とのバランスをどう考えるのか。税金を投入しての現状を見ると、優先順位が違う気がします。


素直な客を求める真意

2013-08-29 00:11:00 | 交通
いすみ鉄道の社長が自身のブログで、いわゆる「団塊の世代」を歓迎しない趣獅フ記事を掲載したことが波紋を呼んでいます。
確かに現役世代が苦しい中、逃げ切って年金を十二分にゲットし、旅行など悠々自適の生活を送っている様子が目立つのみならず、やたら騒々しいとかマナーが悪いとか、芳しい話を聞かない世代でもあるわけで、「よく言った」という評価も目立ちます。

記事で批判されている様子など、まさに膝を打つ部分も多く、私自身も旅先や街中の飲食店などで辟易することも少なくないだけに、きちんと声を上げることの意味は大きいです。

しかし、それで溜飲を下げるだけでいいのでしょうか。
「団塊」に対する一般論として語ったのであれば、相当毒はありますが、逆に「敢えての正論」と言う評価になります。
しかし、自社の環境、自社のイベントに絡めて語った今回の記事は、経営者が自社に関係した内容で発信した内容として考えたら、かなり問題と言えます。

自社の「イタリアンランチクルーズ」が舞台ですが、確かにそこに薀蓄を垂れまくる団塊が押しかけたら、挙句の果てにケチだけつけておしまい、他の参加者も気分を害してしまいかねない、という話です。
でも、そこで批判すべきはあくまで「手がかかる」までにとどめるべきでしょう。空気が読めずに雰囲気をぶち壊す、と言う批判もありでしょう。

しかし薀蓄云々はどうか。これ、「団塊は本物を知らない」と決め付けているわけです。もしくは、目や舌の肥えた団塊が来ると鬱陶しい、つまり、ごまかしがバレる、と言っているに等しいからです。
せっかく本物を知らない30代、40代を騙そうと思ったのに邪魔になるから、と言うようにも読めますよ。あの書き方は。

ついでに言えば、バブル期のように高い=上等、と思い込んでいるのが団塊、と決め付けていますが、そんなに底が浅くないのです。
それこそ「安くておいしい」というような「隠れた名品」こそが薀蓄の源泉です。団塊向けの「大人のナンタラ」という雑誌の特集を見れば分かるように、段階の興味の先はそういう希少価値の発掘にシフトしているのです。

そう考えると、余計に「いすみ鉄道プロデュース」の底が知れることを恐れてオミットしました、と白状しているとしか言いようがありません。開拓したいのは40代以下の素直なお客様、というのも、比較するだけの尺度を持ち得ないから騙しやすい、御しやすい、ということでしょう。

ここまで書いて気がついたのは、人気の国鉄型気動車も同じコンセプトだということ。
木原線には、とか、千葉気動車区には、と言うような薀蓄は邪魔なのでしょう。
大糸線時代の内装で、「国鉄型でござい」というやり方は、実は山スカにヘッドマークをつけて「『白い砂』でござい」というのと本質は一緒で、それで満足するお客がいるのだからそれでいい、という良く言えば割り切り、悪く言えば騙しです。

そして、それなりに評価を受けている団塊批判も経営者としては「失格」でしょう。
開拓したいとする40代以下の客層の消費に対する余力の小ささを考えたら、収入を抑制するような経営方針が本当に妥当なのか。
オーナー社長で成功しようが失敗しようがオーナーの懐具合次第、というのではなく、税金が投入されていて、それでも厳しい状況にある会社です。

税金で「道楽」を重ねた上に、収入に寄与する可能性の高い客層をオミットするのは背任でしょう。
地域の公共交通を維持するために、申し訳ないがオンボロ気動車を購入させてください。それで生み出す観光需要で経営を楽にすることで、日常輸送を維持できるのです。という立場ですから、本来土下座して、靴の底を舐めてでも団塊(など観光客)を呼び込むのが仕事です。

ネットで集客すればいいのかもしれませんが、ガイドブックなどの観光関連の出版物に勢いがない中、旅行関係の記事が目立つのは、それこそ団塊向けの「大人のナンタラ」と言うジャンルくらいです。
もちろん「いずれいなくなる世代」というか、いち早くいなくなる世代ですから、生きている間に搾り取ると言う焼畑的な対応ではなく、将来を見据えた持続可能な施策として考えたら団塊のオミットも意味はあるものの、そこまで客を選べる余裕がない現状を弁えるべき、と言う厳しい現実に向き合っていないように見えます。

折り紙つきの無能総長

2013-08-28 23:57:00 | 時事
国連事務総長による日本の歴史認識に関する批判ですが、ほとほと呆れ返るというか、就任時から強く批判されている「資質」の欠如をまたぞろ露呈した格好です。

国連事務総長を「世界大統領」と意訳するお国柄ですから、事務総長就任により、全世界に号令できる、とでも勘違いしているのでしょう。
確かに事務総長のリーダーシップが必要な局面はありますが、それはあくまで国連という組織の運営であり、国連としての意思決定をどう導き出すかと言うことに過ぎず、事務総長が勝手に走ることはありえません。

言うならば議会の議長職であり、議会運営におけるリーダーシップを発揮するということで存在感を見せますが、内閣における首相のように、権力を主体的に行使するものではないということが分かっていないようです。
かの国においては司法府における法治主義の概念の欠如が露見しているのですが、立法府に擬すべき組織のトップのあるべき姿を理解していない、と言うことは、三権分立、いや、三権そのものの概念も理解していない、近代国家の体をなしていない状態であり、そのような国から国連事務総長を出すと言うことは悪い冗談であり、総会で解任、と言うような「前代未聞の措置」を取るべき「前代未聞の人物」でしょう。そもそも本件がなくても就任直後から無能の誉れ高かったのですから。

政府の対応も手ぬるく、イスラエル高官の「放言」の時もそうでしたが、こういうケースでは初動が肝心です。国連の発言、行動として極めて不穏当として国連をつるし上げないといけません。あくまで「国連」としての行動を咎めているのであり、「韓国」は咎めていない、と言えば、かの国は手詰まりです。韓国として容認し難い、と騒ぐのであれば、国連事務総長が韓国、いや、母国の立場を代弁したわけで、一方当事者の側に立ったということで資質どころかその地位の正当性すら問われる事態です。まあ最近の反日行動は理性も合理性も欠いていますから、事務総長が身びいきをした、と言うあってはならない前提になっても騒ぎそうですが。

さて、事務総長の「批判」をそれこそ「世界大統領」的な存在が批判したと騒ぎ立てるメディアもあるわけです。
日本人が「国連」を神聖視しすぎることがこういう為にする批判を招くわけですが、もともと、いや、今でも「連合国」であり、敵国条項がある国連に対して距離を置くべき、という知恵を身につけるべきでしょう。
無能な事務総長の愚かな発言はその好機です。分担金の拠出を停止するといった実効性のある対応でもいいですが、まずは国連への「不信感」を前面に押し出してみましょう。

実はたいした組織ではない、という認識が普及すれば、国連と言う組織との付き合い方も変わってくるでしょう。


朝日の裏返しに過ぎない

2013-08-28 23:00:00 | ノンジャンル
「はだしのゲン」に対する産経のイライラが見ていて痛々しい件については前にも書きましたが、閲覧制限撤回を受けた27日の紙面は、結局やっていることは朝日の裏返しに過ぎない、という「馬脚」です。
制限に対する批判や、同書に対する評価は「一部」と印象操作を図り、保守系の被爆者団体のコメントを大きく取り上げ、子供向けのQ&Aでも「騒いでいるのは特定の人で、内容は問題なんだよ」とあらゆる手段を総動員しているわけです。

保守系の被爆者団体があるのもおかしくはないですが、あの田母神サンの広島講演を仕鰍ッるKYな団体です。そういう団体の性格はともかくとしても、私自身としては左翼系の平和団体への疑念は尽きないわけですが、それでも左翼系の団体がメジャーであるという「事実」は否定するものではないわけで、「少数派」の声を大きく取り上げるやり方は、左翼系がよくやる「数多くの団体が抗議!」という手法と同根です。

さすがにダブスタを意識してか、27日の社説(「主張」)では、一般の図書館で閲覧制限をすることは問題、と船橋市西図書館事件を引用して論じていますが、前にも述べたように、描写の残虐性を理由にすることは、それによって事実がオブラートに包まれるリスクがあり、描写の偏向性を理由にすることは、特定の思想に基づいた制限となる、ということで、今回の制限は無理筋ですから、針の穴を通すように学校図書館での対応として肯定するには、よほど慎重かつ慎重な理論構成が求められるところ、あんな杜撰な筋書きでは話にならないのです。

さて、産経を中心として、「はだしのゲン」と言う漫画を崇める必要な無い、平和教育にふさわしい「書物」があるだろう、と言う「反論」があるわけです。一見もっともらしいのですが、まずそこにあるのは漫画と言う表現手法に対する蔑視であり、それこそ産経抄が馬脚を現した「ハレンチ学園」を巡って、当時ケシカランと騒ぎ立てたPTAや「識者」と同じ発想と言えます。

はっきり言えば、それこそ「平和教育」という目的が滲み出ている作品はあるが、被爆当時、また、その後の広島の様子を素直に書いた書物はどれだけあるのか。「はだしのゲン」が左右問わず評価されるのは、この一点に尽きるわけです。「反天皇」や「日本軍の残虐行為」と言った描写はありますが、それはあくまで脇役です。政治的主張を色濃くするのであれば、平和団体に入り、平和の伝道師として活躍する、というようなそれこそお花畑の世界にすれば子供たちを洗脳できるのでしょうが、そんな安っぽいストーリではないのです。

淡々とした描写、という意味では、柳田邦男の「空白の天気図」は、原爆投下前から被爆、そして9月の枕崎台風までの様子を広島気象台を舞台に述べており、イデオロギーのかけらもない良著ですが、これも江波というやや離れた地点からの、気象台という集団からの視点でしか書いていないわけです。
「はだしのゲン」である必要は無い、というのであれば、どういう書物がふさわしいのか、具体的に提示すべきですが、出来ないのでしょう。


低レベルな批判では逆効果

2013-08-26 20:35:00 | ノンジャンル
「はだしのゲン」の閲覧制限問題は、松江市教委が撤回したことでいちおうの区切りを見せました。
この問題、特定の勢力の主張に従ったとしか言いようが無い格好で「制限」をしたことが問題であり、あの本は反日だから、というレベルで制限を肯定していると、それがブーメランになって返ってくることに気づくべきでしょう。

「閲覧制限」という本筋の議論の場合、表現に問題あり、と言う場合、思想的変更を理由にした場合、それは特定の思想に立脚するから「偏向」に見えるのでは、と言う批判をクリアできません。そして搦め手とも言える残酷シーンを理由にした場合、オブラートに包んでどうする、という批判をこれもクリアできないわけで、「書評」ではなく「閲覧制限」と言う実力行使はそもそも無理筋と言えます。

そのせいか保守派からの擁護が今回は広がりを見せないわけで、前も指摘しましたが、立ち位置を間違えると船橋市西図書館事件とのダブスタになりかねない危険性を認識しているのでしょう。

そういう意味では、出遅れ感もある中で持論を展開した産経は痛々しいとしか言いようがありません。
「極言御免」とエクスキューズしているとはいえ、特定の政治的主張に基づいた作品を学校におく必要は無い、という政治部記者の囲み記事は、天に唾すると言うか、ならば特定の政治的主張に基づいたオピニオンが満載の産経新聞も、子供の目に触れる機会が多い宅配でとる必要があるのか。と言う話になります。

次いで出てきた産経抄も、まさか「ハレンチ学園」と同列視するとは情けないの極みですが、物議を醸した「ハレンチ学園」が「表現」「規制」をテーマにストーリーを展開したという事実をどうやらご存知ないようで、二重の意味で醜態を晒した駄文です。
なんとか「はだしのゲン」を貶めたい、という歪んだ根性が滲み出ているのが、読者アンケートで下位に低迷、と強調しているくだりですが、人気至上主義の「ジャンプ」において、編集部が意図的に継続させたという「歴史」も同様にご存じないようで、聞きかじったネガティブ要素をちりばめれば貶めることが出来る、という勘違いが痛々しいです。

ついでに言えば、「ジャンプ」掲載分(汐文社版だと4巻まで)まではいいが、それ以降は左派系の雑誌に掲載され、後年になって単行本化されたから、内容のひどさを知らない、と言う指摘がありますが、これも汐文社版が出るまでの間、早い時期に「第二部」とされる部分の前半については単行本化されており、学校図書にもなっているため、「第二部の内容を知らないから」という批判は必ずしも当たらないといえます。
(表紙タイトルが、「は」の字の左の縦棒が足型になっているバージョン)

いずれにしても、神聖化して持ち上げる左派系も大概ですが、それを批判する側も低レベルすぎるのです。それがこのような情けない議論につながっているといえます。