Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

ANAの値上げ

2010-01-31 23:59:00 | 交通
さて4月からのANAの特割の変更ですが、発表された体系を見て愕然です。
旧ビジネス特割区間や羽田発だと秋田、庄内、富山、小松、高松など新幹線競合区間は前日購入可のままで残ったのは唯一の救いですが、運賃設定が最悪です。

特割C→B→Aとくる最終のAを見ると、東阪は最低14000円、朝夕は15000円がデフォルトです。
例外は朝のNH013が12000円、NH411が13000円ですが、これもNH013で1000円、NH411に至っては2000円の値上げです。神戸線は最終のNH416が14000円になったことで1000円の値上げ。NH412、NH415は15000円ですから1000円の値上げです。

で、肝心な「空席の状況に応じて...」のCとBですが、要は500円ずつ安くなる程度で、特割Cが現状です。何のことはありません、購入時期に応じて(早く購入することでC→Bの順に埋まりますよね)500円ずつ値上げしただけで、NH411はさらに1000円の値上げと酷いもんです。

こうなるとビジネスリピートとの価格差もほとんどない感じです。ビジネスリピートやビジネスきっぷへの移行を狙っているんでしょうが、新幹線との価格差が決定的になるわけで、そうなれば「航空機利用禁止」に雪崩を打って移行することも現実味を帯びてきました。

これは価格差と言い時間差と言い、かつての「のぞみ利用券」時代の「ひかり」「のぞみ」の関係と同じです。当時「のぞみ」利用は禁止もしくは特別申請がデフォルトでしたから、「のぞみ」の利用は今一つでした。それでも与えられた回数券に差額を自腹、と言う選択肢があっただけマシで、そもそも利用を容認しないとなると、選択の余地がないわけで、航空離れが深刻化どころか決定的になる危険性があります。

4月からは同時に機内サービスの簡素化も発表されていますが、航空機のメリットの一つがホスタビリティにあるのに、それは簡素化で、運賃は値上げでは話になりません。

新幹線競合区間で無理に競争をしないと言うつもりかもしれませんが、やり方次第で団体で空席を埋めることもなく、「最悪でも」特割で乗ってくれるという単価的には悪くない利用が期待できるのもこうした競合区間です。

一方で旅割やスーパー旅割は東阪でも思い切った運賃設定になっているのを見ると、ヘビーユーザーを失い、安い客を増やすという一見有り得ない方向性が見てとれるわけで、これは巷間いわれる殿様商売では説明がつきません。

このあたりはサイトのほうにまとめるつもりですが、いずれにしろ春からの出張事情につき、出張をしなくて済むように仕事のやり方を変えると言う選択肢も含めて、予算管理者の立場で考える必要が出てきました。もうすぐ年度予算の時期ですが、値上げに追随して経費を増額すると言う選択肢などありませんから。









そして初場所

2010-01-31 02:04:00 | ノンジャンル
さて手順が前後しましたが、初場所の感想です。

優勝は朝青龍でしたが、白鵬にまたも本割で苦杯と言うのは残念である半面、やはりこれから絶頂を迎える横綱には勝てないという限界というものが冷徹に出たといえます。

ただ、朝青龍を素直に褒めるべきなのは、今場所は取り口が変わったということ。先場所までは全盛期の出足一気の相撲を取り、それがなかなか通用しなくなっていることがはっきりと見て取れたのですが、今場所は考えた取り口、力が衰えた以上、それを技や感覚で補うしかないのですが、その変換を見事に成功させた印象です。

その象徴が稀勢の里戦と把瑠都戦でしょう。ともに白鵬が苦戦、そして敗れた相手ですが、稀勢の里はうまくいなしてから切り返しで簡単に捌き、把瑠都は相手の力を殺し、宙に舞わせた下手投げで仕留めるなど、力任せではない巧さが光る相撲でした。(某女流脚本家は稀勢の里戦の「変化」におかんむりでしたが、前日の白鵬戦で示された稀勢の里の出来を見たら、あの程度の「変化」は十分許容範囲です)
返還後の今後が楽しみだったのですが、それが見納めになるとしたら悲しいですね。

一方の白鵬も先場所に続き取り口に「強さ」が加わって盤石とみられたんですが、把瑠都に力負けしたのはともかく、日馬富士の注文相撲にはまってからの連敗はいけません。
これでは双葉山になぞらえるなんてまだまだですし、精神の糸が切れたような連敗を見ると、双葉山が安激m海に70連勝を阻まれたとき、師と仰ぐ安岡正篤に「未だ木鶏たりえず」と精神の未熟さを恥じた電報を打った故事をきちんと勉強すべきでしょう。

後は千代大海の引退でしょうか。
そもそも今場所に引きずったこと自体が間違いのような気がしましたが、協会のほうも初日の結果を見て、3日目に魁皇を当ててきましたが、これはどう見ても「この日で決めろよ」という圧力でしょう。
千代大海は陥落して関脇ですから、3日目に大関と当たってもおかしくはないですが、それでもこの取り組みはどう見ても因果を含んだとしか言いようがありません。

千代大海が引退に追い込まれた直接の原因はひじの故障ですが、これは久々に優勝がかかった2007年九州場所、2敗の相星で並んだ白鵬との対戦でとったりを決められた時の怪我です。
結局これが最後まで祟ったわけですが、身体に恵まれた大器がせこくとったりにでたうえに、結果として千代大海の土俵人生を左右したことは不問なんですよね。旭国のように小兵ながら大関を務めるような異能力士がとったりを得意にしていたのとはわけが違います。

同様に互助会暮らしが長い魁皇ですが、こちらは微妙です。
こちらは白鵬にとったりの奇襲から久々の白星を挙げていますが、小手投げや極め技のようにどうも自身の破壊力を考えてか控えている技があるように、あの怪力はまだまだ三役クラスの相撲は取れるだけのものであり、そこが千代大海との違いといえます。

把瑠都はいつの間にか来場所が大関獲りと言う話ですが、今場所も12番のうち1番は不戦勝ですし、はたしてうまくいくかどうか。その次点の大関候補が見当たらないと言うか、どれも期待外れというのは情けない限りです。

これで来場所朝青龍がいなければ、どういう土俵内容になるのか。
品格だなんだと朝青龍にケチをつけてきたのを逆手にとって、神事、伝統券\としてイメージチェンジを図ったほうがいいかもしれません。実力不足の番付を揃えるくらいなら。









飛んで火にいる朝青龍

2010-01-31 01:27:00 | ノンジャンル
初場所が無事終わり、と思いきや、朝青龍がまたとんでもないことをしでかしたものです。

まあいわゆる好角家やメディアはこれ幸いといつもの居心地のいい朝青龍叩きに全力投球ですが、さも良心の権化のような口ぶりで朝青龍の所業を非難するのであれば、その基準は他の(お気に入りの)力士たちにも公平に適用しなければいけないということを肝に銘じるべきですし、どうせダブスタで対応するであるときにはそういう連中を厳しく指弾すべきです。

事件のほうはなんともはやで、いかなる場合でもプロの格闘家が手を出してはいけません。
今回は「夜の街」での諍いのようで、前にもお笑い倹lが大立ち回りを演じて逮捕されましたが、その背景が明らかになると多分に同情の余地があるとしか言いようがない事態だったのですが、だからといって手を出して良いものでもありません。

朝青龍のケースがどういう事情かははっきりしませんが、現行犯逮捕されたり被害届が出ると言うことが無かったこともあり、単純な傷害事件として見るにはどうも無理があるようですが、朝青龍はプロの格闘家です。相手が凶器でも持っているというような正当防衛が成立するような事態でもない限り、殴られても手を出しては負けです。

そういう意味では厳しい処分は不可避ですが、なまじ前回の「仮病疑惑」で2場所の出場停止と言う重罰を科してしまっただけに、残る処分は土俵を去るくらいしかないわけです。
前回の「疑惑」自体が一部メディアによる病的なバッシング(今回もそのメディアグループの発信がなぜか群を抜いて多い)と、それに乗っかった一部理事のタッグによるフレームアップというのに、あんな処分を科したばっかりに、今回の落とし所とも言うべき処分のカードを切ってしまったうえに、今後はこれが基準になる、ならなければ、朝青龍追放のためには手段を選ばないお手盛り処分として永遠の汚名を背負うことになります。

事ここに至ってしまったのも朝青龍の久嶋海なみの脇の甘さでしょう。
普通の力士なら不問どころか褒められるような事態でも朝青龍ならバッシングの対象になる、そうした目で協会もメディアも虎視眈々と陰険につけ狙っていることが分かり切っているのに、トラブルもトラブル、警察沙汰を犯したわけです。

しかも事情を正直にいえばまだ救いようもあったのに、事実を隠蔽しようとしたわけで、これではいけません。飛んで火にいるなんとやらです。
せっかく優勝して陰湿につけ狙う連中を見返したと言うのに、情けない話です。





さて、こうなってしまった以上、どうケリをつけるかを考える時期に来ています。
逆に、座して処分を待つべきかどうか、という議論も可能です。そもそも「解雇」となれば、リンチ殺人の時津風部屋や、薬物力士と同じであり、今度は逆に横綱まで務めた人物の、いちおう立件されなかった事件への対応としては過酷に過ぎるとしか言いようがありません。

そうなると、落とし所は「引退」でしょう。
立件されていない以上、「罪」を理由にすることはできません。逆に、横綱としての品格と責任に疵を付けたとして、自ら引退する。まあ「切腹」ですが、それが横綱への「処分」として最低限の礼儀でしょう。
以前双羽黒がおかみさんを殴って部屋を出奔した事件の際には、「廃業」という落とし前をつけましたが、暴力と言う部分は一緒でも、部屋から出奔と言う前代未聞の無様な行動はしていません。ならば「引退」として横綱に対する礼を尽くすのが道です。

逆に朝青龍も、早いうちに自らそれを申し出るべきでしょう。
今回の事件で朝青龍が角界を去ることになったとしたら、これ幸いと協会やメディアは朝青龍を「黒歴史」のように扱うのが目に見えています。
よしんば今回罪一等減じられたとしても、今にも増してのバッシングを繰り返すことは火を見るよりも明らかです。

そうした状況でまともな相撲が取れるのか。そう考えると、25回目の優勝を果たした今こそが引き際であり、優勝力士が引退と言うこれ以上はない責任の取り方を示すことで、今度はその横綱をいびりぬいた協会やメディア、さらにはいわゆる好角家にボールを投げ返すときなのです。

母国政府の要請でたまたまチャリティサッカーに出たという本来取るに足らない話を騒ぎ立てたうえに、精神が病むまで追いつめたというある意味陰湿さを通り越したバッシングはどうなのか。
「心の病」に理解をというその口で朝青龍の精神疾患は仮病と言いたげな報道を繰り返したメディアの二枚舌はどうなのか。

長年の一人横綱で角界を支えてきた功績を無視した対応は、功労者、そして最高位である横綱、日下開山に対する尊敬のかけらもない対応です。

尊敬どころか、初場所後の横審で、退任する某女流脚本家のごときは、「人として認めない」という最大限の侮辱、というか、およそ公の場で私怨に基づいてそのようなことを発言すること自体が品格と見識、いや、それこそ人間性の根幹を問われる発言をしました。(メディアは言い直した「横綱として認めない」の部分だけをピックアップしてましたが、テレビでは確かに「人として」と言ってました)

また、某漫画家のように、リンチ殺人と言う言語道断の不祥事に対する委員のはずが、朝青龍のお目付け役のようにふるまった挙句、本来監察すべき対象のほうはトカゲのしっぽ切りのような対応でおしまい、というのもあったわけで、よほどみんな朝青龍が憎かったのでしょうが、そうした対応の中で綱を張り、優勝を重ねてきたという事実もまた記憶に残したいものです。

さて朝青龍がいよいよ「土俵際」ということで、いわゆる好角家の中からは、これで日本人大関、横綱が、という見当はずれな期待をしている声も聞こえてきています。
優勝力士がいなくなるわけですから、番付が空いて、勝てない相手もいなくなるからそういう皮算用に走るのでしょうが、なんとも情けない話です。

ロートルの大関にもなかなか通用しないような日本人の「若手」の実力不足に苦言を呈するのならまだしも、目の上のたんこぶがいなくなって昇進を期待するようではいけません。よしんば昇進が実現したとしても、「朝青龍がいれば昇進の星に届いたか...」というような「ャcダム真打」のような昇進では困ります。

横綱らしい横綱と言えた朝青龍をいびりだした後の角界に見るべきものがあるのか。
居心地のいいバッシングが取り返しのつかない事態を招いたと気がつく日はそう遠くないかもしれません。






「ゼロ年代」

2010-01-30 23:57:00 | ノンジャンル
国立国際美術館(大阪・中之島)で4月4日まで開催されている展覧会のャXターです。



別にこの展覧会に行ったという話ではありません。
印象的な奈良美智のこの絵も目を惹きましたが、「絵画の庭」というタイトルに添えられたコピーに一瞬考えさせられたのです。

「ゼロ年代日本の地平から」

最初何のことか、と思った次の瞬間、そうか、と思わずつぶやきました。
これまで80年代、90年代と呼び習わしてきた10年区切りの時代は、2000年を回り、00年代、つまり「ゼロ年代」になったのです。

もっとも、これはさすがにどうか、ということなのか、100年前の10年間は、1900年代と言うことも多く、それが100年間を指さないように、1910年代、1890年代と表現していますが、これは歴史としてその時代を見ているときであり、1800年代も話の流れの中ででてくることもあるから、100年単位も特定できるようにしているのでしょう。

そういう意味では同時代として00年代を語るようになるのは、まさに今であり、特に「10年代」に入り、前の10年間を振り返るようになるこれからなのです。
100年前のならわしなど誰も知らない中、「ゼロ年代」と言う表現を目にするようになったわけですが、今後どういう風に呼び習わされていくのでしょうか。

一事不再理

2010-01-30 23:45:00 | 時事
明石市の朝霧駅歩道橋での将棋唐オ事故で、不起訴とされた当時の警察署幹部に対して検察審査会が繰り返し起訴相当の決定をだして、再び不起訴と言う繰り返しだったのが、法改正により強制起訴になるため、起訴されることが決まりました。

あの事故はちょうど神戸に引っ越した直後で、池田小事件や唐櫃台での女子小学生死亡ひき逃げ事件(まだ解決してないんですよね...)と近場で重大事件が相次ぎ、関西メディア特有の煽るような報道もあって印象に残っています。

痛ましい事故であり、群衆整理に問題があったことは間違いなく、実際、組織としての県警は民事訴訟で賠償責任を負う判決が確定していますし、現場の警察官を含む個人も刑事訴訟での有罪が確定していますが、幹部の刑事責任となると、気持ちはわかるものの、罪刑法定主義の建前を考えると、そこは非常に難しい部分があることは認識しないといけません。
そういう意味では、今回の強制起訴により、きちんと刑事裁判のプロセスの中で、刑事罰を科せられるかどうか、感情論ではない判断が問われます。





ただ、今回気になったのは「3回の起訴相当の議決」、いや、今回の起訴議決を含めると4回目の議決ということです。
我が国の、いや、近代法治主義国家においては、「一事不再理」の法理が定着しています。これは刑事事件の裁判で確定した判決がある場合には、その事件について再訴することは許さないとする原則であり、我が国では憲法39条で保証されています。

これが無いと、何回も同じ事件で刑事訴訟が起こされ、その都度有罪判決を受け、重畳的に刑に服する危険性があるからです。もちろん不起訴処分もその事件に対する司法処分の確定ですから、本来は不起訴処分になったものも一事不再理の対象となります。

もちろん確定判決後、それを覆すに足る新事実が発覚しての再審請求はありますが、それはあくまで被告側の権利です。これは被告側の有利になる変更であり、例外として認められています。

そこで検察審査会ですが、これは不起訴となることで法廷の場での討議がなされないため、検察の力が非常に強いとして、異議申し立てを認める制度なのです。
しかし、これも何度も申請を認めると一事不再理の原則と照らし合わせてもおかしいですし、公訴の時効までの間は不起訴処分になっても事実上確定しないのでは、「無罪」なのにあたかも執行猶予の様な期間を科せられるという効果を生んでしまいます。

そこで検察審査会法は第41条の8で、「検察官が同一の被疑事件について前にした公訴を提起しない処分と同一の理由により第41条第2項の公訴を提起しない処分をしたときは、第2条第2項に掲げる者(引用者注:告訴もしくは告発をした者、被害者とその相続人)は、その処分の当否の審査の申立てをすることができない。」として、ここでも一事不再理の法理を働かせています。

法律で明確に定義されているのに、なぜ3回も検察審査会で審理されたのか。
この事件は不起訴にすべきか否か、と言うレベルの話ではありません。法律に基づく手続きが法律に従っていないのではないか、しかも刑事訴訟法の根幹、いや、憲法にかかわる疑問です。

実は2度目の申し立てへ、と報じた神戸新聞(2005年2月24日付)によると、「遺族側の弁護士によると、現在の検察審査会法では、同一事件の再審査の申し立てはできないとされているが、静岡検察審査会で二度の申し立てを受理したケースがある。また、インターネットなどを通じて事故の負傷者に協力を呼び鰍ッ、業務上過失致傷罪のみを問い、元署長らの不起訴不当を申し立てるという。」とありました。

関係者が多ければ、申立人を変えることで同一事件での再請求が可能なのかどうか。事件は一つであり、申立人にかかわらず罪は一緒ですから、再度審理することはできないと解するのが普通の感覚でしょう。上記の記事では業務上過失致傷でだめだったから業務上過失傷害とするようにも読めますが、同じ条文(刑法211条)での罪であり、これもどうなのか。

さらに気になるのは、事件後の2004年5月に成立、2009年5月施行の検察審査会法の改正による、2度目の議決による強制起訴と言う部分です。
事件が起きたのは2001年7月です。最初の議決が2004年4月ですが、2009年5月施行の法律が適用されると言うのは、事後法ではないのでしょうか。

我が国においてはこの事後法の禁止、つまり法の不遡及についても憲法39条で明確に保証していますが、本件に関して一事不再理と法の不遡及の原則との整合性はどうなっているのか。
変な話ですが、不起訴処分もしくは検察審査会の議決があっても再度不起訴になれば「無罪」になる、という法律に基づくプロセスが事件当時あった以上、それの不利益側への変更は事後に刑法を改正して事後法で罪を重く問うのと変わりません。

今回のプロセスは「どうせ悪い奴なんだから」ということで気にかける人も少なく、私のような指摘に対しては、悪人をかばう気か、と指弾する人も多いかと思います。
しかし、なぜあえてこういう指摘をするのか。それは法律の適用、運用と言う法治国家の根幹の部分を歪めかねない運用が通ってしまうと、いつ何時それが自分に降りかかるか分からないからです。

おりしも刑法上の重大犯罪に対する公訴時効の延長、撤廃案が強制起訴が決まった同日付の新聞に大きく出ていましたが、検察審査会への申し立てが許されるのは公訴時効の期間内と言うルールと合わせ技になると、無限に申し立てを受けるリスクを負うことになります。

もちろんそのような濫訴の類は審査会段階で不起訴を肯定するから問題がない、となるでしょうが、一般人の場合はそういう訴訟沙汰に巻き込まれるだけでもリスクなのです。そして何かの間違いで起訴された場合、刑事被告人となるとその人が属する組織では何らかの懲戒対象となることが多く、社会的に終わってしまうリスクと直結します。

極端な話、「あいつも共犯だ」と告発されたら、どこまでそのリスクを負わなければならないのか。何度でも申し立てができ、時効が延長、撤廃されると、そういう事態が無いとは限らないのです。

重ねて言いますが、この事件がどうのと言う問題ではないのです。
検察審査会法の運用がどうなっているのか、と言う問題なのです。
最近では検察審査会と言うのは生殺与奪の権を握る検察の門戸をこじ開ける「正義の味方」のような印象を持っていますが、裁判開始から20年かかってようやく無罪が確定した「甲山事件」が、当初検察が不起訴とした被疑者を検察審査会が「不起訴不当」の議決をしたところから長い捜査、裁判となったという事実もあることは忘れてはいけません。