ネットで優先席を譲れという老人と若者の口論の一部始終を記した動画が話題になっていますが、若者側がアップしたこの動画、恣意的に切り取った疑いが払拭できないとはいえ、頑として譲らない「確信犯」の若者側に一定の支持があるわけです。
こうなると世も末、というのが「政治的に正しい」姿勢なんですが、現実の世界では「そうなってしまうのも致し方なし」と思わせる出来事が結構目につくのです。
折も折、私自身今週に入っての帰宅時に、「老人」の傍若無人とまでは言いませんが、およそ「弱者」の振る舞いとしてどうか、というケースに連日遭遇しただけに、思わされるところが大きかったです。
平日夜の通勤電車で何とか座れた、あるいはダメだった、という悲喜交々が毎日電車ごとに繰り広げられるシーンの中で、列の最後方からどやどやと乗り込んできた高齢の女性の集団、疲労の色が顔にありありと浮かんでいます。
優先席に行けばいいのに、と渋々譲る人が出る、のではなかったのですが、まあそれは当然でしょう。デパートの買い物袋を提げての帰り道と思しきケースですら「渋々」なんですが、この集団はそろってリュックを背負っており、ハイキングの帰りとみられる集団だったからです。
足下も覚束ないように疲労の色を顔に浮かべて、と取り繕っても、遊び帰りで、しかもハイキングとはお元気な、というしかないわけで、「家に帰るまでが遠足」じゃないですが、目的地まで頑張ってね、としか言いようがありません。
朝の電車でもこれからハイキングや街歩き、という集団を目にするわけですが、そういう集団に限って始発電車に並ぶこともせず、発車間際に乗ってきて、あわよくば席を譲って貰おう、という態度がありありですから始末に負えないわけです。途中で運よく席が空くと「ナントカさん!ここここ!」と仕切り人が周辺の空席に集団を座らせるわけで、目の前の人が座るという暗黙のルールもなんのその、「年寄りだから」と弱者ぶっても、だったら遠くまで遊びに行くな、と言いたくなるわけです。
あるいは始発電車もある駅でわざわざ座れない直通電車に乗ってきた高齢の男性。
鵜の目鷹の目で席を探しても空いているわけがないのですが、吊革にぶら下がって、肩を落として背を曲げて、さも「疲れました」という感じでいますが、乗ってくるときには座る気満々で身のこなしも軽やかだったのを見逃していません。
こちらの老人は少し離れた席が空いても、目の前に立つ人を押しのけて座るような図々しさはありませんでしたが、たまたま途中で目の前の席が空いて座れました。それはよかったんですが、そこからがいけません。
夕ラッシュ時の混みあう電車なのに、足を投げ出してくるわけです。曲げられないというわけではないのは、足を投げ出しっぱなしではなく、畳むこともあることから明白なんですが、まあ基本的なマナーもご存じないようです。
こうした世代は、年齢的にいわゆる「団塊」周辺なんですが、戦前、戦中派の老人の頑固だけど行動は確かだった姿とのギャップが、最近特に「老害」の言葉とともに問題になっています。
たまたまなのかもしれませんが、例示した2つのケースともに、明らかに弱者を「演じている」としか見えないように、かつての老人が過剰なまでに持ち合わせていた公共性や遠慮というものがすっぽり抜け落ちていることが、足下の「老人批判」が発生している源泉と言えます。
こうなると世も末、というのが「政治的に正しい」姿勢なんですが、現実の世界では「そうなってしまうのも致し方なし」と思わせる出来事が結構目につくのです。
折も折、私自身今週に入っての帰宅時に、「老人」の傍若無人とまでは言いませんが、およそ「弱者」の振る舞いとしてどうか、というケースに連日遭遇しただけに、思わされるところが大きかったです。
平日夜の通勤電車で何とか座れた、あるいはダメだった、という悲喜交々が毎日電車ごとに繰り広げられるシーンの中で、列の最後方からどやどやと乗り込んできた高齢の女性の集団、疲労の色が顔にありありと浮かんでいます。
優先席に行けばいいのに、と渋々譲る人が出る、のではなかったのですが、まあそれは当然でしょう。デパートの買い物袋を提げての帰り道と思しきケースですら「渋々」なんですが、この集団はそろってリュックを背負っており、ハイキングの帰りとみられる集団だったからです。
足下も覚束ないように疲労の色を顔に浮かべて、と取り繕っても、遊び帰りで、しかもハイキングとはお元気な、というしかないわけで、「家に帰るまでが遠足」じゃないですが、目的地まで頑張ってね、としか言いようがありません。
朝の電車でもこれからハイキングや街歩き、という集団を目にするわけですが、そういう集団に限って始発電車に並ぶこともせず、発車間際に乗ってきて、あわよくば席を譲って貰おう、という態度がありありですから始末に負えないわけです。途中で運よく席が空くと「ナントカさん!ここここ!」と仕切り人が周辺の空席に集団を座らせるわけで、目の前の人が座るという暗黙のルールもなんのその、「年寄りだから」と弱者ぶっても、だったら遠くまで遊びに行くな、と言いたくなるわけです。
あるいは始発電車もある駅でわざわざ座れない直通電車に乗ってきた高齢の男性。
鵜の目鷹の目で席を探しても空いているわけがないのですが、吊革にぶら下がって、肩を落として背を曲げて、さも「疲れました」という感じでいますが、乗ってくるときには座る気満々で身のこなしも軽やかだったのを見逃していません。
こちらの老人は少し離れた席が空いても、目の前に立つ人を押しのけて座るような図々しさはありませんでしたが、たまたま途中で目の前の席が空いて座れました。それはよかったんですが、そこからがいけません。
夕ラッシュ時の混みあう電車なのに、足を投げ出してくるわけです。曲げられないというわけではないのは、足を投げ出しっぱなしではなく、畳むこともあることから明白なんですが、まあ基本的なマナーもご存じないようです。
こうした世代は、年齢的にいわゆる「団塊」周辺なんですが、戦前、戦中派の老人の頑固だけど行動は確かだった姿とのギャップが、最近特に「老害」の言葉とともに問題になっています。
たまたまなのかもしれませんが、例示した2つのケースともに、明らかに弱者を「演じている」としか見えないように、かつての老人が過剰なまでに持ち合わせていた公共性や遠慮というものがすっぽり抜け落ちていることが、足下の「老人批判」が発生している源泉と言えます。