Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

ジャーナル2013年4月号

2013-03-31 13:46:00 | 書評
5月号が出て久しいですが、4月号です。

特集は国鉄型車両の力走、と、どこの煽り雑誌か、というテーマで、成美堂になって営業を強化したがゆえという印象も受けますね。
ただ、慣れない?ことをしたせいか、若干「旬」の時期を逸しているわけで、「最後の輝き」の時期にはもう遅く、いよいよ終焉、という時にはちょっと早いです。

というわけで巻頭が485系改造の183系800番台の北近畿方面特急という地味なテーマ。ただ種々雑多なタネ車の掘り起こしもあり、飽きさせない工夫はあります。長大編成だがグリーン車の位置が「特別急行」の伝統で編成端部に寄っていた東北特急時代の要請で普通車の乗務員室を置いた中間車600番台の話は今では知らない人も多いでしょうし、その設備が今も活かされているというのもちょっといい話です。


(貫通路付200番台からの改造車。貫通路は埋めたけど愛称表示は原寸のまま。2006年、城崎温泉)

しかしモノ持ちがいいJRWとはいえ、あからさまにやっつけ仕事の183系800番台を結局26年半も使い唐キとは思いませんでした。381系を30年以上使っている紀勢線や伯備線のように外観や塗装を含めて手を入れているわけでもなく、2011年に「こうのとり」になるまでは愛称も地味でした。一時期「しらさぎ」から転じた編成が併結運用についていた頃がピークでしたが、最後は登場時のような使われ方に戻っています。そして287系に置き換え、じゃなく、それを日根野に投入して浮いた381系で置き換え、という国鉄チックな手法というのも、数奇な運命をたどった国鉄型車両にふさわしいでしょう。


(瀬戸内色、非ユニット窓がまだ元気に)

そして遂に新車投入がアナウンスされた広島地区と、岡山、下関の115系、113系。こちらは奇しくも旬の話題になりました。塗装変更のほか、アコモの改造、外観の改造などの有無で、ニュータイプ、偽タイプ、嘘タイプなどと酷評されていますが、どれも「末期色」になるとその見分けもつきません。


(中身はこんな魔改造)

中には「カフェオレ」タイプになる前の旧塗装もありますが、岡山のそれは原型セミクロスとはいえ300番台ですから見た目はしっかりしています。ところが下関のそれは「素晴らしく」、原型を良く保っているというか、分散式クーラー付きとかバケットタイプの車内とか、魔改造の度合いがすごいです。岡山と下関の117系を無視して、さらに言えば国鉄型ということでは103系、105系や213系もありますが無視して、改造履歴の羅列だけで6ページ充ててもまだ足りない勢いですが、新車投入を控え、ある意味貴重な記録です。


(昨年7月にようやく退役した折り畳み前提の乗務員室仕切りを保つ車両)

続く信越線も千葉支社からの211系転入で大きく変わります。「撮り鉄」を巡る騒動で妙な格好で有名になったしなの鉄道の169系ですが、保安装置に関する省令改正によりJR線への直通が出来なくなり、そのまま線内閉じ込めから引退です。
ここは211系に押し出された115系を導入するということで、169系への改造を見送ったそうですが、相対的には新しいとはいえ、有料列車にも充当されるというのに原型をとどめる115系というのも、台所事情がそうさせたとはいえやりきれないです。クロスよりロング、日常利用が大事、という「社会派」の大合唱が聞こえてきそうですが、時間はおろか料金面でも互角の新幹線が相手ですから、日常利用こそ差別化も必要でしょうに。


(千葉から退役した211系)

「北しなの線」区間についても言及されていますが、新幹線開業時に用意された「妙高」も縮小が進み、「JR SKI SKI」からも見捨てられた格好という現状は厳しいです。


(快速でもなく「普通」)

会社が変わり、運賃体系も変わることで、新幹線から直通バス、という商品形態になるのは必至ですし、県境区間で日常利用は少なめ、冬場の豪雪は半端ない、というなかでどう将来像を描くのか。佐久平と小諸の関係が例示されていましたが、特急が各駅停車のように止まっていた在来線時代から、新幹線駅にクルマで横づけ、という利用形態へのシフトが鮮明になる中、並行在来線の存在意義というものを見直すべきだったかもしれません。


(見た目は往年の「あさま」)

特集関連でしょう、183系、189系の記事もありますが、183系1000番台の投入にあたり、「あまぎ」への投入は1000番台がスタンダードになっていたから、という説明ですが、汎用車である183系は幕張区所属の初期車ですら「あずさ」で大糸線に乗り入れていましたし、冬季は「新雪」で石打まで行っていました。


(1981年頃。8時ちょうどの...は大糸線延長もあり幕張区の9連)


(1981年頃。スキー臨の定番「新雪」も幕張区)

田町区の183系は「あまぎ」と「白根」に運用されており、「新雪」を視野に入れると1000番台が妥当です。


(1981年頃。田町区の「あまぎ」)


(1981年頃。TS-M-Mを抜くと「白根」に)

あとは駆け足(苦笑)
ロンドン地下鉄の記事ですが、やるからにはとことんやる英国人気質というか、地下鉄にSLを「復活」するとはさすがです。ただ、1995年に訪英した時には駅での撮影禁止と書かれていましたが(まあ観光客のスナップ程度は散見されて黙認状態でしたので撮りましたが)、今回はさすがに「公認」なんでしょうね。ドイツあたりだと禁止しそうですが...


(1995年の「チューブ」)

島原鉄道「南目線」跡のルモヘ、廃止からもう5年という想いとまだ5年なのか、という想いが交錯します。
ただ、地元の意識にもあるように、普賢岳噴火がなかったにしても遅かれ早かれ廃止問題が浮上していたわけで、バス輸送への一本化による公共交通の維持、と考えれば、島原以北と共唐黷フようになって消える可能性も否定できなかっただけに、まだマシだったのかもしれません。



山電踏切事故現場を見る

2013-03-31 13:11:00 | 交通
2月13日にあった山陽電車荒井駅の踏切事故ですが、カーキャリア運転手の単純ミスという他に、現地の特殊性にも原因があるという話もあるので、神戸に行った折に遠征して現地を見てみました。

当日は東二見の車庫にまだ事故にあった車両が留置されており、さすがに大破した先頭車両などは証拠品ということもあって別置きのようですが、後ろ4両がありました。事故の衝撃で破損した窓の目張りが痛々しいです。


(東二見車庫。左手の窓は目張りされている)

そして荒井駅。運転再開はしたものの、電車が削ってしまった上りホームは仮設で復旧しました。


(荒井駅下りホームから踏切方向。上りホームの一部は仮設)

直通特急停車に合わせて延伸された部分で、下り線は道路、上り線は民家が迫り、人1人分がやっとという感じの狭いホームは何かあったら逃げ場がない感じです。


(実際に立つとかなり狭い。黄色い線の内側がないエリアも)

直特通過時間帯なら無用のエリアなので人的被害は出ませんでしたが、万が一を考えると浮「ですね。


(直特停車時間帯はけっこうな人が。垂水よりも乗降者数が多いです)

間隔が広い上下線をひと跨ぎする架線柱もなぎ唐ウれたため、電柱だけは立てて、ロングスパンではなく上下線別のシンプルなビームにした仮設状態です。沿線の民家、電車が削ってしまったベランダはそのままです。


(仮設のビームが立つ)

荒井駅前に降り立つと、海側、あらい浜風公園の案内が。国鉄高砂工場や三菱重工高砂製作所などの工場群しかなかった浜側ですが、国鉄工場の撤退後、一部は公園化され、山電山側に集中していた道路交通の分散化を図る目的もあり、事実上工場群への専用道路だった当該踏切が「一般道化」された経緯があります。実際、事故現場の踏切は神戸製麹mサ製作所への「神国O」踏切ですし、姫路寄りに続く2つは「タクマ」「キッコーマン」と名称からしてそれぞれ踏切の先にある工場専用に近い状態です。(一般車は後述する貨物線転用道路で抜けられる)


(あらい浜風公園の案内)

会社や納入業者も含めて「勝手知ったる」踏切ゆえ事故もなかったのですが、「一般道」となると知らない人も多く通るわけで、信号と踏切の間は12mといいますが、イメージ的には4トンロング1台でいっぱいいっぱいです。(約9mありますから、乗用車1台分の余裕もない)


(4トントラックでいっぱいいっぱい)

これで前にクルマがいるのに踏切に入ったカーキャリアは無理もいいとこです。止め方によっては普通の乗用車でも2台目となると逡巡する空間です。


(ワゴン車でもこの通り)

踏切の先の信号もややこしく、踏切側が黄色点滅なんですが、交差側は赤点滅ではありません。
時間がくると黄色点滅→黄色→赤になり、交差側が青になるという変則です。黄色点滅は注意して進め、という前提なのに、普通の信号同様に黄色から赤になる運用というのも、知らない人には惑わせる材料です。

いっそ踏切手前に停止線を置けばいいのですが、踏切手前に貨物線を転用した道路があり、後述の通り線路山側の道が西行き一通ということもあり高砂市内方向との行き来が多く、この道路の出入りの処理が出来なくなります。


(この道路が結構使われている)

あと、工場群側が片側2車線なのに、踏切手前で1車線になるため、時間帯によっては渋滞が目立つようです。踏切の先の信号で交差する道路は西行き一通で、大半のクルマが山側、R250や宝殿駅方面に向かいますから。


(極力この高架に誘導したい)

ただし南北方向は高砂駅側には立体道路もあり、工場群に関係ないクルマはそちらに誘導すべきでしょう。


(注意喚起は最低限の対応に過ぎない)

現地を見て見ると、事故そのものはやはりカーキャリア運転手の「プロ」にあるまじきミスであることが大ですが、踏切や交差点の構造、さらに広域的な流動処理の問題など、再発防止策としては看板を立てるだけに終わらない工夫が必要に感じました。







あの手この手の再稼働阻止

2013-03-29 22:39:00 | 時事
原子力規制委の「活断層探し」に対し、人類の歴史以上のスパンで探す意味があるのか、活断層だけでなく火山の噴火とか自然災害リスクは他にもあるのに、なぜ活断層だけ血眼になるのか、と批判していますが、まさか火山の噴火も真顔で考えるとは思いませんでした。

全国の活火山につき、半径160km圏内は噴火リスクがあるとして安全評価が必要、と言い出したのですが、規制委が求めるリスク対応は、一体どのレベルを目指しているのか。科学的合理性を欠き、「安全神話」以上のリスクフリーを求めるような「非科学性」の対応になっていないか。この次は隕石や地殻変動、気候変動による海面変動とか、地球の歴史規模での対応を問う勢いです。

もう絶対に再稼動はさせたくない、と言う姿勢がありありですから、その基準もむちゃくちゃです。
活火山を対象として、過去1万年のスパンで噴火リスクを見ているのに、影響範囲は約9万年前の阿蘇カルデラ噴火で想定という、規制する側にとってのイイトコドリは、科学的合理性を欠きます。

活断層の判定では、「かもしれない」とレッテルを貼る「変動地形学」により、悪魔の証明を要求しているわけですが、おりしもその手法で「活断層」と断定した立川断層において、コンクリート柱を断層と見間違えるという話にならない「鑑定」能力を晒しているわけです。いみじくも「活断層があると考えていたから...」と先入観で活動していることをゲロしたわけで、客観を装う主観バリバリの行動での判断を一から見直すべきでしょう。その先入観に「再稼動をさせたくない」というものが濃厚ですから。

もうこうなったら、地震国であり、火山国である日本では原発は無理です、とはっきり言い切ってしまえばどうですか。
しかし我が国がやらなければいけないのは、そういう国土の特性、リスクの上で、どうすれば発展していくのかを考えることであり、「無理です」と思考停止することではありません。

エネルギーの確保をどうするのか。需要にどう対応するのか。節電すればいい、という成長抑制は論外です。
「無理です」ではなく、どうやればリスクを極小化できるのか、でしょう。地震、津波、そして噴火対策として何が必要なのか。国土が壊滅するようなカタストロフィに対応することまで求めるのか。

やればやるほど「先入観」に基づく「再稼動阻止」があからさまになっている現状を放置することで、年間5兆円の国富流出が続くのです。1日137億円、1秒間15万円の無駄が、無能で、主観で動くアカデミズムによって生み出されているのです。



白けた春場所

2013-03-27 23:37:00 | ノンジャンル
春場所は白鵬9度目の全勝優勝で幕を閉じました。
日馬富士と大関陣が早々に崩れてしまい、中盤には2番手が星2つの差になり、しかもそれが平幕となっては興味も失せます。

ちょっとひどいのが白鵬の全勝の次が平幕の隠岐の海と宝富士の11番で、大関稀勢の里、関脇豪栄道、小結栃煌山、平幕北太樹が10番という体たらく。横綱は日馬富士が9番、大関は鶴竜と琴奨菊が8番で琴欧洲は途中休場。関脇は把瑠都が9番、小結安美錦は7番で負け越しと、荒れる春場所とは言いますが、上位を喰っても勝ち越せないなど、風雲児がいなかったのです。
そういう意味では「新鋭」の台頭が見られなかったといっていいですし、上位陣も白鵬(越えられない壁)日馬富士以下...となってしまってます。

豪栄道、栃煌山も定着はしてますがブレイクスルーにはまだ遠く、ここ数場所目が離せなかった妙義龍も上位に通じず後半に帳尻というのではいけません。隠岐の海は実力はあると思ってましたが、来場所に旋風を吹かせられるかでしょう。
あとは把瑠都。先場所10番はなりませんでしたが、今場所も勝ち越して関脇を守っており、陥落するとズルズル、とならないあたり、上位にとっては嫌な存在でしょう。

元大関と言うと雅山の引退がありましたが、十両に二度落ち、今場所は幕下陥落必至の成績で引退しましたが、晩節を汚すと言う評価よりも、御曹司から大関までの順風満帆な人生からの転落の中で、泥臭く生き抜いてきた努力を素直にほめたいです。

来場所は三役の入れ替わりも少なそうで、これで場所が今場所のようにしらけると大変です。
千秋楽の直接対決で負けた妙義龍は西の2枚目で1点の勝ち越しに終わり、東の7枚目で7点の勝ち越しとなった隠岐の海が小結になりそうで、1つしかない空きを巡る明暗を分ける大きな一番でした。

話題としては豊真将でしょうか。初場所は平幕5枚目で全休、今場所は十両筆頭で全休と、土俵上の怪我ではなく肩の手術後の回復遅れでの初場所以降の休場だけに、公傷制度があったとしても適用はなかったでしょうが、九州場所が小結で、そこから1場所で平幕、十両と逆向きのスピード陥落でさらに幕下か、と懸念されていました。
十両中下位で幕下陥落候補は雅山を入れて4人だったので、さらに豊真将が加わるのか、と注目していましたが、番付編成会議の結果は新十両と再十両が4人だったので、かろうじて残りそうです。

「一人別枠」否定が間違いでは

2013-03-27 23:35:00 | 時事
「一票の格差」の問題ですが、はっきり言えば諸悪の根源は2011年に「一人別枠方式」を違憲とした最高裁判決でしょう。
一連の訴訟はこの判決を判例として下敷きにしているわけですが、「法の下の平等」「総ての国民の代表」という憲法の規定の解釈を妙な形で定めたことで、地方のことなんか知ったこっちゃない、という司法府の判断が確立しているのです。

「総ての国民の代表」は、特定の地方などの代表者、代弁者ではなく国のために働くことを意味する、というのも解釈としては正しいですが、それはあくまで「国益を考えて行動」することを定義したものでしょう。

一方で、異なる文化、風土を持ち、高度な自治権は持たないものの、地方自治の建前がある中で、それぞれの生活圏、経済圏がある我が国において、「総ての国民の代表」というのは、そうした異なる基盤にある地方から満遍なく代表者を選ぶという趣獅ェ入らないとおかしいわけです。

地方自治の体制があり、さらに地方分権を国も推進し、道州制など自治権の拡大が検討されている中で、その体制を決定する国権の最高機関のメンバーが、結果として特定の地域に偏重する、場合によっては特定の地域から全く出てこない、という状態が果たして「国民主権」として正しい姿なのか。最高裁判決は、参政権の手法の部分である平等に拘りすぎた挙句に、国家における参政権の意義を見失っているのです。

もちろん「一人別枠方式」は小選挙区導入時の激変緩和措置なんですが、それまであった国政への発言力をいきなり失うということは、参政権の重さ云々ではなく本質を損なうものとして評価すべき対応であり、本来はそこから人口での平等だけに偏重せず、地域的な公平をミックスした、地方自治のうえに立脚する中央政府の立法府としてのあるべき姿を追求すべきでした。

結局は「中央」が地方をどう見ているかであり、「中央」を構成するメンバーの個性を尊重するか、それはあくまで便宜的な区割りに過ぎない、と無視するかです。最高裁判決に代表される足下の議論は後者に偏重していますが、前にも例示した国連総会は1国1票ですし、アメリカの連邦議会も過疎の州でも一定の議席を割り当てているため、60倍を超える格差が生じています。

もちろん調和させる策はあるわけで、地方にも一定の議席を割り当てたうえで、それに基づいた人口比例の議席配分を積み上げるのです。しかしそうなると衆議院の定数が減らして480になったのが、元の512どころかそれ以上に膨らみますし、地方の過疎、都市部の集中が進めば総議席数は増加します。

もし定数を維持するかさらに削減する前提であれば、地方部の定数を削減して都市部に回すしかありませんが、地方に割り当ててそこから積み上げる方式と違い、全体を先に決めてしまうと、割り当てが1人を切る、地方の声が聞けなくなるという弊害が不可避です。

定数の増加がイヤなら、地域的な平等と人口の平等の両立は不可能ですから、それは統治行為に属する部分として憲法議論の枠外にすべき部分と考えるべきです。

そして、各地で相次いだ高裁判決を支持する人々に聞きたいのは、人口が集中した地域なんだからそれに応じた偏重は「公平」である、と本当に言えるのかどうか。特に関西圏、大阪は、「東京一極集中で東京のニュースが全国ニュースだと思っている」というように、東京「偏重」に不満をぶつけていますが、一極集中なんだから当然、と甘受できていないとしたら、この問題で地方の声は聞かなくて当然、と言うが如き結論に賛成することは出来ないはずです。

この議論で、一部メディアや野党から聞こえてくる議論として、「一人別枠方式」は地方に強い自民党のための制度だ、というものがあります。確かにそういう傾向は否めませんが、それはあくまで結果としての議席独占です。「政権交代選挙」においては地方でも民主党などの旋風が吹き荒れたわけで、そこまで言うのは地方の有権者を馬鹿にしています。
そして結果を恐れてその地方からの選出と言う機会を封じるというのは、党利党略で国民の「主権」の行使を制約するに等しいわけですし、都市部に配分を厚くなることでメリットがあるのは「1人1票」を強く主張する都市型政党です。

そう考えると、どっちが党利党略で物を言っているのか、よく考えるべきでしょう。