Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

下には下がの詭弁

2006-04-28 17:36:47 | 時事
26日の参院行革委で、「格差社会」を問われた小泉首相が、日本の格差はいつの時代もアメリカや中国よりも少ない、と述べたそうです。

だから今の流れも大したことは無いと言うのでしょうか。為政者として最低の発言です。
アメリカの格差社会がどうなのか。中国はどうなのか。
中国は比較するまでも無いでしょう、そもそものレベルが低かったところに、「赤い資本主義」で戦前や帝政時代のように階層格差が広がっています。
アメリカにしてもひどいものです。
不法移民のような安い賃金で肉体労働をこなす層がいなければ経済が成り立たないのが現実です。

そういう国々を例にとって、「お前等はそれよりマシだろ」というのがいかに不適切か。
下には下がいるんだから大丈夫、と言われて、はいそうですか、と受け容れるのはよほどおめでたいですね。
国民の生活を向上させる、国を富ませるのが政治家、為政者の存在意義ですが、「下には下が」で国民を煙に巻こうとするその志やいかに?としか言いようがありません。

尾道異聞

2006-04-25 01:14:42 | ノンジャンル
24日の大阪朝日夕刊で、大林宣彦監督が、地元の尾道で公開されている戦艦大和の原寸大セットを批判しています。
このロケセット、拙サイトでも訪問記を書きましたが、大ヒット映画「男たちの大和」のロケ終了後、公開されたものです。期間限定といいながら大人気となり、GW明けまでの公開延長が決まっています。

不景気で冴えない中、久々の明るい話題ともいえるロケセットの盛況への批判、同じ映画人としての鞘当てかと思えば、映画自体は評価しています。しかし、そのロケセットを残し、金を取って公開することに対しておかんむりのようです。

これだけ聞くとさすが監督、と騙されそうですが、尾道に縁があったり行ったことがある人がこれを聞くと、「はぁ?」と思わざるを得ません。
確かに大林監督はお金を取ってまで自分の映画の展示をするのを良しとしないのは、市の「尾道映画資料館」に大林作品の展示が一切無いことからもわかります。
しかし、朝日の記事にあるように、「僕の自慢は尾道に映画の記念碑やセットを残していないことだ」というのであれば、「おいおい、ちょっと待ってよ」となります。

市役所前からの尾道渡船で向島に渡ると、そこに小洒落た兼吉バス停があります。
これこそ何を隠そう大林作品「あした」で呼子浜港待合室だった建物なのです。無償供与され、公共施設になっているからといっても、看板その他、映画の時そのままの佇まいでの再利用をしておいて「記念碑やセットを残していない」とは良くぞ言ったものです。
他のロケ地にしても、このシーンはこの場所で、というようにガイドブックが刊行され、事実上の記念碑となって「巡礼者」を集めていますが、これもどうでしょう。ご自身の関係でも好ましくないというのであれば筋は通っていますが。

結局は「戦争を商売にしている」という手垢のついた思想に基く反感に過ぎないのです。
確かに「大和」は呉で建造され、呉を母港にしているため尾道とは無縁です。とはいえ尾道でロケを行った映画の中からこの作品関連だけを指弾するのは適当ではないでしょう。

尾道ゆかりの映画監督というと小津安二郎がいますが、このほかもともと文学の街として、尾道を舞台にした作品で知られる志賀直哉、林芙美子の作品と、坂と寺の街と言うのが観光の目玉でした。
しかしいつまでも志賀直哉では飽きが来るわけで、そこに登場したのが大林監督であり、尾道の観光もまた息を吹き返しました。

けれども歴史は繰り返します。いつまでも大林宣彦と言うわけには行きません。だからこそ尾道市も映画の街として各種ロケの誘致に力を入れ、それが花開いたのが「男たちの大和」であり、実はその趣意で大林監督も協力しているのです。
そう考えると、「次の世代」の巡礼が始まったともいえるわけです。そしてひょっとしたら古くからの文激tァンからは「大林ブーム」すら、大林監督による大和批判のように批判されていたのかもしれないわけです。

大和のロケセットは日立造船の工場「跡」にあります。尾道の主要産業は造船でしたが、今は見る影も無く、観光が貴重な産業でもあります。坂と寺の街という旧市街も、裏を返せば狭隘かつ急勾配の路地が入り組む老朽化した街であり、将来の展望となると厳しいです。
まず映画が当たり、評価されないとロケを誘致しても効果が出ないと言う悪条件の中、ようやく掘り当てた金脈である大和は、不況に喘ぐ尾道にとって干天の慈雨であることくらい、地元出身ならばよく分かっているはずでしょう。

そうした地合いにも思いを馳せると、今回の「批判」は賛同できません。

補選

2006-04-24 18:56:46 | 時事
千葉7区の補選、民主党の女性議員が辛くも逃げきりました。
当選したほうが元キャバクラ嬢で雑草チックなイメージを出せば、実はお嬢だのと批判があるし、落選した与党候補も元官僚で埼玉県副知事とはいけ好かないという批判に対し、実は苦学生だったという弁護もあるわけで、場外戦の火花もユニークでした。

まあ順当にいけば与党候補なんでしょうが、元官僚というよりも落下傘候補というのが印象を悪くしたんでしょうね。これが全く地縁の無い県からだったらまだしも、隣りの埼玉ですから、「なんで隣りの副知事を代表に選ぶんだ」という反発心があったのでは。
そしてなぜ与党が負けたのをかを考えた時、都市部にありがちな与党批判、というよりも、東京近郊のベッドタウンを主たる票田とする千葉7区においては、「小泉改革」により生活が悪くなっている中産階級がメインと言うことも見逃せないでしょうね。
「格差社会」が喧伝されているわけですが、本来その層の厚みが国力の源でもあった日本の「中流」が、この「改革」の中で疲弊させられています。大都市近郊のベッドタウンというのはまさにこうした階層の本丸なんです。

かつて自社が競った時代、野党が逆立ちしても政権が取れないと分かっている状態では、「中流」はお灸の感覚で野党に票を投じたりしてましたが、県知事選のように一騎討ちになると、不思議に「右ばね」が働いて革新自治体にはなかなかならなかったわけです。
そういう本来中道保守的な階層だった中流が、どうも動きを見せています。逆に与党がターゲットにしているのが、いわゆるノンャ鰍ナ、劇場型政治がいちばん効果的な層とされています。

数を頼みとする民主主義においては、誰が投じても一票ですから、与党の戦略は当たったわけです。
しかし、支持層を見ると、どうもねじれが生じてきているのではないのかと思います。
ただ、そうした不満の受け皿になり得るだけの政党がないというのがこの国の不幸なんでしょう。以前は自民党の中に様々な流派があって幅広く受け容れていたのに、今は総裁の主義主張一色に染めあがっています。とはいえ野党はまだまだ話になりません。
おかずが色とりどりの幕の内弁当が食べたいのに、最近ではおかずが豪華だけど1種類の特殊弁当しか置いていない。その横で、ご飯物が食べたいお客を前に昔ながらのハムサンドを必死になって売ってるようなものでは、買うに買えません。


なんとか書いてますが

2006-04-24 14:26:59 | ノンジャンル
週末は金曜日に深酒をしたせいもあって体調が優れませんでした(苦笑)

積み残しているネタのうち、北海道関係をようやく書きはじめましたが、アップしないうちに銀河線が廃止になってしまい、些かタイミングを逸してしまいました。
連休になれば何かしらネタを仕入れるはずなので、早く滞貨一曹ニならなければいけないのですが。

そんなズボラな管理人ですが、アクセスのほうは9200件を超え、1万アクセスが視野に入ってきました。自分でも信じられないペースで、せめてそれまでには北海道分だけでもアップしないと...(汗)



高校生の叛乱

2006-04-22 00:41:30 | 時事
東京の法政一高で、校則強化に反対する生徒が示し合わせて始業前に校庭に集合して座り込みデモをしたそうです。
昔懐かしい(笑)学生運動の変形のようでもあるのですが、まあそのまま徒党を組んで校長室に押しかけるでもなくと言うのが今風というのでしょうか。

このご時世にそこまで生徒を駆り立てたのは、というと、校則が在学中に改正されたからです。
茶髪やピアスの禁止に、「高校生らしい服装」という「ドレスコード」が追加されたとのことですが、まあ茶髪やピアスをこれまで許していたということのほうが驚きで、学校公認だから最近の高校生は妙な格好をしているんだということでしょう。

ただ、結果的に行動に駆り立てたのが「高校生らしい」と言う抽象的な規定。
「まだ高校生なんだから高校生らしいお付き合いをしなさい」と不純異性交遊(古ッ!)を戒める往年の生徒指導を彷彿とさせるフレーズですが、「清潔感」とか「人に不快感を与えない」というような抽象的に見えて客観的尺度がある程度確立している基準ではないだけに、規則としては適当を欠くものであることは否定できません。
この生徒たちの行動をメディアが好意的に取り上げた反面、眉をひそめる向きも多いことは確かです。
生徒に規則を決める自由はないという制度論、まず署名や交渉の申し入れではないか、と言う実力行使に訴えたことへの批判などですが、おかしいと声を上げること自体を否定するのは独裁肯定であり、そういう従順すぎる生徒が社会に出ては却って問題です。特に今回は在学中に変更されたわけで、嫌なら入学するなということも言えません。

また、手段への批判にしても、じゃあ生徒会を通じて校長に意見具申、と言っても、いちおう「民主的」な建前を整備しているそういう制度がどこの学校にもありますが、それが本当に機能していうかというと、「んな訳ないだろ」というのが大多数でしょう。
署名にしても、確かに受け取るでしょうが、意見具申と同様、形式的に「ご意見承りました」でなしのつぶてというのは火を見るより明らかです。

そういう意味では今回の手段は始業前の時間を利用し、数の圧力を見せると言う意味では非常にスマートであり、昔の学生運動のようにいたずらに対立を煽るようなやり方と一線を画しているところには感心させられますし、それが従来型の学生運動が盛んだった法政の系列校で発生したことは歴史の皮肉を感じます。

今回の事件、そしてそれを巡る議論を見ていて思い出すのは、中学校の時にあった「事件」です。
生徒会活動の内容で揉めたのですが、まあ今よりも「リベラル」な時代であり、先生の側が「民主的」なルールに熱心で、活動案及び予算案を生徒会での承認ではなく、生徒総会での承認を手続きにしていたわけです。
問題になったのは些細な話だったのですが(私自身忘れてしまうほど)、「なんかおかしくねーか、これ」という話が燎原の火のように生徒の間に広まってました。

そして生徒総会当日、体育館に集められた全校生徒による起立採決の瞬間、誰も立ちません(笑)
当然否決です。採決による承認ですから、否決されればおしまいと言うのは民主主義のルールです。
その瞬間、鳩が豆鉄砲を食らったような感じだった先生側はやがて怒り出し、これでは学校活動が何も出来ないがいいのか、と脅す脅す(苦笑)
全校生徒をその場に残したまま、生徒会のメンバーと先生があれこれ協議して、生徒会側も生徒を説得しようとしてますが、「帰れコール」の嵐です。

思わぬロングラン総会になり、2時間くらいの後に結局は生徒側が折れて再採決の結果承認されましたが、まあその時の教訓としては、先生側の「民主的」だ何だと言ってることは、あくまで自分に都合の良い時だけの話だった、と言うことでしょう。
そう書くとお前の行ってた学校はさぞやDQN校だろといわれそうですが、公立ですが偏差値が70はあるとされる県内の上位校や都内有名私立に学年の1割以上が進学し、偏差値60クラス以上になると1/3は下らない進学実績があった中学なわけで(偏差値70は上位5%、60は16%を示す)、別に荒れてもなく、真っ当な学校でした(笑)