Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

風が吹けば桶屋が儲かる

2011-06-29 23:18:00 | 時事
2004年に今治市の小学校でゴールを外れたサッカーボールが前の道路に飛び出し、それを避けようとして転唐オ、入院してその後死亡した事件で、遺族がボールを蹴った子供の親の監督責任を問うた訴訟がありましたが、このほど判決がありました。

で、死亡との因果関係を認め、5000万円の請求は認めませんでしたが1500万円の支払を認めたそうです。

なんとも目を疑う判決です。
「風が吹けば桶屋が儲かる」を地で行くような因果関係の認定です。だから裁判員裁判が導入されるんだ、といわれるのも当然でしょう。

例えば飛び出したボールが直撃したのであればまだしも、それを避けようとして転唐ナすから、まず適切な回避行動を取ろうとしたのか、という妥当性が問われ、そこで普通は操作ミスという過失を相当数認定すべき事象です。

そもそも校庭でサッカーをすることで、そこまでの結果予見性を小学5年生に負わせるのが妥当なのか。親の管理責任と言っても、大人が「風が吹けば桶屋が儲かる」のレベルまで気を配る義務を課すのであれば、学校に通わすことも出来ませんね。

百歩譲っても、ゴールをその場所に置いたことが問題であり、子供が置いたのであれば、子供が結果を予見することは無理ですし、その場合の管理監督者は学校側であり、ここにゴールを置いたら表を通る老人が唐黷ト死ぬかもしれないから止めなさい、と注意する義務があります。

だいたい、注意義務という意味では、公園や学校のそばでは子供の飛び出しに注意、という義務を運転者に課しているわけです。ボールを追って子供が飛び出してくるかもしれない、という注意は「飛び出し注意」の看板にあるように定番ですが、ボールが飛び出してくるのはその前段として十分ありえる事象として予見すべき、いや、「子供の飛び出し」の注意啓蒙を鑑みれば、十分予見可能といえますから、それに対応できなかった過失がまずあります。

今回の判決が「正当」であれば、学校や公園から子供が飛び出してきて轢いてしまっても、子供が悪いとなるわけで、轢いた側に損害が発生すれば親が弁償すべき、となります。
今回の判決での賠償金の減額は老人側の過失でなく、死亡への因果関係の度合いとされていますから、過失を認定することでこんな無茶な結論にはなりえません。

今回の訴訟自体、遺族の提訴とはいえ、愛媛・今治での事故を大阪地裁で起こし、被告側に十分な態勢を取らせないようにしているなど(弁護士を遠隔地の法廷に派遣するなど負担が大きすぎる)、おかしな点が目に付きます。

そして結果がこんなトンデモ判決です。
こんな判決がまかり通るのであれば、校庭を上空も含めてゲージで覆わない限り、ボールその他を用いた運動を子供にさせることはできません。いや、運動だけでは無いでしょう、悪ふざけをして何か外に転がしただけでも同じ結果になりますから、学校にも浮ュて通わせられません。
それで学校が責任を取らず、子供に一生かかっても払えないような賠償を課せられるのですから。

以前仙台でキャッチボールの軟球が逸れて他の子供に当たり、心臓震盪で死亡した事件の訴訟で、キャッチボールをしていた子供の責任を認めた判決があり、結局高裁で一審内容を受け入れた格好で和解しましたが、キャッチボールが禁止されていなかった公園でこれで、今度は学校での「正当な活動」でもこうなるのであれば、子供に何をしろというのでしょうか。

亡くなった方には申し訳ないですが、過失を認めるにしても、もう少し常識的な範囲に限定しないと、当たり前の生活すら出来ません。仙台の事件も含めて、これらの「事件」というか「事故」の事象を極めて狭く捉えて、因果関係だ何だという法律論に拘泥すればこういう結論になるのかもしれませんが、司法関係者の常識というものを強く疑います。

そもそも「一般常識」として、公園ではキャッチボールだってやってるだろうし、学校では球技をしているだろう、そして飛び出してくることだってありえる、という「ありえる話」「お互い様」の話という認識を持っていないほうがおかしい、という「歯止め」をかけないといけないのです。

これが公園で砲丸投げをしていたり、校庭で道路を向いて挙ケをしているのなら、そんな認識など持つはずが無いとして責任を問うのは当然ですが、行為自体が一般常識の範疇で、ボールがぶつかる、転がるという結果が死に直結するという認識を通常は持たないという二重の意味で一般常識があるなかで、それを無視して法律論をこね回されては、逆に子育てや学校生活に「風が吹けば桶屋が儲かる」レベルの注意を払わされるという不利益を課すことになります。

有名な「踏んだり蹴ったり判決」は、法律上は規制されていない有責配偶者からの離婚請求を一般常識に照らして「法はかくの如く勝手気侭を許すものではない」と却下しましたが、最近はこうした一般常識という尺度を使えない人間が増えたのは大いに憂えるところです。


NHKの暴走?

2011-06-29 23:16:00 | 震災・災害
今回の原発事故とそれにより見直しを迫られているエネルギー問題について、メディアの「暗躍」が目立ちます。事実を報道し、ではどうしたらいいかというプランの紹介はいいのですが、そこにバイアスがかかった論理の飛躍が目立つわけです。

気に入らない方向性には印象操作を駆使し、無関係なデメリットでレッテル張りをして、イノベーションの織り込みは認めない。逆にお気に入りの方向性にはその逆と言うやり方は、実は到るところに見られるわけで、余談ですが交通論の世界でも自動車交通と軌道系交通の比較において多用されていることに気付くはずです。

その中でも最近特に「悪質」なのがNHKです。
反原発、脱原発側からは、「最近吹っ切れて『御用報道』をしなくなった」と評価が高いですが、要は煽り報道に舵を切っているとしかいえないのです。
先日も静岡県知事が噛み付いていましたが、確かに危機感だけ煽る杜撰な報道は風評被害の最たるもので、「天下のNHK」にこういうことをされてはかないません。まああの県知事は昨今増えているャsュリズム型首長だけに、噛み付き方が稚拙というか、オレ様ルールにしか見えないところがせっかくの抗議を台無しにしていますが。

なかでもひどいのが21時のニュースで、「報ステ」も真っ青な言い逃げ型のコメントを吐いていたキャスターが替わったので安心していたのに、女性キャスターの質が悪く、解説があっても「でも危ないんでしょ」「よく分かりませんが危ないんでしょ」と思い込みで聞く耳持たないスタンスです。

28日もトップで10分近くゴミ焼却施設での放射性物資検出を大事だと煽ってましたが、コメントを寄せた学者が、各地で清曹キることで除去された汚染物質が焼却施設に集まり、捕捉されると言うのは合理的な対応と評価気味のコメントをしていたように、実は地域の除染が進んでいるという評価も可能なのに、23区の処理場でどんどん検出、と煽るだけに終始しました。

理解しない、理解する意思もないのに、与えられた情報を否定し思い込みの結論に固執する態度は見苦しく、自分の理解不足を棚に上げての煽りは害悪ですらあります。


セミプロと火事場泥棒

2011-06-28 23:32:00 | 時事
前回節電対策として大相撲と高校野球の中継を批判しました。

大相撲については「東北のお年寄り」をダシにして通常開催を主張する声も大きいのですが、やはり八百長問題の解決がトカゲの尻尾切りそのもので曖昧に終わっている段階でのなし崩し開催に対し、貴重な電力を浪費する中継はいかがなものか。「公共放送」として二重三重の心得違いと言えます。

さて問題は高校野球です。
主催者の朝日は早くも被災地の各チームの「奮闘」ぶりを取り上げて、復興大会とでも言わんばかりの盛り上げを狙っています。

そして被災地の各チームの動向をこれでもかと取り上げていますが、なんか腑に落ちません。
原発事故で避難を余儀なくされているなか、高校生は各地にちりぢりになっていますが、そうした中で野球部員は野球が出来る環境を求めて集まっているとのことです。

高校というのは高等教育を施す場所であり、野球をやる場所ではありません。避難を余儀なくされたり、高校が被災したりといった事情で勉強自体が出来ないという高校生が数多くいる中、「副業」「余暇活動」であるはずの野球のために「特別扱い」をしているのでしょうか。

高校としてまとまって授業をするため、生徒を集めて寮生活を送らせるというのならわかりますが、野球部だけ、というのはいかがなものか。どうみてもセミプロの集団と化した状態ですが、そこまでして「お涙ちょうだい」の地方大会から甲子園を開催しなければいけないのか。

確かに甲子園を目指して頑張ってきた心の支えを奪うのは忍びないですが、野球どころか学校自体が、という高校生が数多くいる中、そのバランスが取れていません。

まあそれでも逆境にめげず頑張っている姿は心を打つのですが、一方でとんでもない不祥事が看過されているのはどういうことでしょうか。
先日関西の強豪として名高い天理高で部内の暴力事件があったとして出場を辞退しましたが、その一方で東北の強豪として期待される仙台育英の不祥事は出場OKとして看過されたのです。

確かに天理は部内での傷害事件であり、口裏合わせまで図られた悪質性がありますが、その暴力行為自体には「いじめ」その他の違法性のある原因ではなく、練習態度を巡る問題であり、暴力に訴えなければ問題は起こらない話です。

しかし仙台育英は、部員が集団で震災で閉店中の店舗に侵入したと言う完全無比な犯罪行為です。たまたま窃盗行為をする前に捕まっただけで、未遂か既遂かの段階というのに「盗む気はなかった」とは冗談も休み休み言えというところであり、所管の警察も甘すぎます。一般家屋と違い、商品がある店舗への侵入はその時点で実行の着手があったと解すべきであり、それでも「やる気はなかった」といえば無罪放免になるなんて信じられない厚遇です。

もはや侵入盗に何の正当化できる理由などあろうはずがなく、しかも集団ですから、個人犯罪と言うよりも野球部にそうした体質が蔓延っていたといえますし、「余罪」を追及すべき事象です。
しかも「被災地」とされる仙台の高校で、人一倍被災地の復興に汗を流しているのならまだしも、「火事場泥棒」ですから人間としての資質が問われます。
「万引きは窃盗です」といいますが、そんな生易しいものではなく被災地で火事場泥棒とは、人としてあるまじき行為であり、まさに高校の教育そのものが問われる事態です。

もはや地方予選出場云々よりも、学校の存続自体を云々すべき事態なんですが、厳重注意でOKというのは、甲子園出場である程度活躍出来る学校だから「がんばろう東北」として「お涙ちょうだい」のタネが必要な「営業政策」としか思えません。

そしてそうした胡散臭い予選を勝ち上がってきた大会を、貴重な電力を垂れ流して中継することも、「公共放送」として相応しいことか問われます。



世界遺産への幻想

2011-06-28 23:30:00 | 時事
小笠原が世界自然遺産に、平泉が世界文化遺産に決定されました。
暗いニュースが続く中、久々の明るいニュースですが、地元の喜びの声などを聞いていると、ちょっとした違和感も感じます。

そもそも各地で世界遺産への指定熱が高まっている目的が、観光への起爆剤といった「まちおこし」への期待が前面に出ている時点で、「世界遺産」の本質とズレが生じているのです。
世界遺産に指定される、ということは、今後時代が、文化がどう変わろうと、保存すべき対象を守らなければならない。つまり、遺産の門番と言うか墓守の役を代々指定されたということです。

ですから、今の文化を享受して、観光によるまちおこしの成果を享受するという目論見であれば、それは大きな間違いです。
尾瀬や上高地のようにマイカー規制だけして、実入りの良い団体バスはどんどん受け入れ、住民、観光業者はクルマが活用できるといった「なんちゃって自然保護」のように甘いものではありません。
自然や文化の保護のため、一般人の上陸を禁止している離島がいくつかありますが、世界遺産への指定というのは、ストイックに考えればまさにそういう「固定化」が主眼なのです。

住民の利便性は二の次であることは、先日も新宮市で世界遺産に指定された熊野速玉大社所有の山林を「日当たりが悪い」という声で森林組合が伐採したところ、文化財保護法や森林法違反に問われたとか、ドイツ・ドレスデンでエルベ川への架橋のため世界遺産登録が抹消されたケースなどがあるわけで、一部の観光業は儲かるでしょうが、街全体はどうなのか、長い目で考えたいものです。

特に小笠原の場合、これで空港建設はかなり厳しくなったと言えます。
東京都は空港建設予定地は世界遺産の範囲外として建設は可能としていますが、建設や営業による「影響」の捉え方次第でドレスデンの二の前になります。実際、ドレスデンが指定されたとき、申請書の内容に建設位置を誤記するミスがあったものの、現地視察の段階では橋の建設予定地を視察しており、橋の建設を織り込んでの指定と理解していたのが、結局抹消になったのですから。

都知事は空港建設に否定的ですが、小笠原諸島に空港が一つも無いということは村にとって、いや、国家レベルでも重大な問題を孕んでいます。

現在小笠原へのアクセスは海路しかなく、東京・虫ナから26時間の定期船のみです。燃料問題で就航が頓挫したテクノスーパーライナーでも17時間かかるわけで、南西諸島や先島諸島の離島が空港を持っていることを考えると、本土とのアクセス時間が丸1日違うといっても過言では無いでしょう。

アクセスが便利になると観光地化して、という俗耳に入りやすい理由で空港建設にネガティブな人も多いですが、問題はそんなことではなく、緊急にアクセスを要する場合への対応です。つまり、急患の発生から、自然災害、有事等による住民保護、領土保全の必要が生じた時にどうするのか。

現在は硫黄島からヘリを飛ばして、硫黄島の空港から固定翼機で輸送するか、岩国の基地から飛行艇を往復させるしかないのですが、それで一朝有事の際に間に合うとは思えません。
荒唐無稽と言われるかもしれませんが、着土侵攻があった場合、もしくはその恐れがある場合でも、現状では有効な対応がとれないのです。(空挺団による軽装備の兵力派遣か、輸送艦による輸送を待つしかない)

有事がピンとこなければ、例えば火山の噴火が差し迫り、緊急に住民を島外に避難させる必要が生じた場合はどうでしょう。輸送機を急派して輸送することが出来ませんから、船舶を急派するしかありませんが、日単位の話になってしまいます。硫黄島とのヘリのピストン輸送にしても距離が約300kmあるわけで、大量輸送は出来ません。

こうした「現状の固定化」を覚悟したうえでの指定であればいいのですが、何年か経って、「こんなはずでは...」という恨み言が出てこないことを祈ります。
特に、今地元と一緒になって喜んでくれている人々は、地元の生活がどうなろうと知ったこっちゃ無い、というスタンスでしょうから、もしそうなっても世界遺産維持が最優先で動くでしょう。

ドレスデンの抹消の際にも、架橋反対、世界遺産維持の運動がありましたが、大半が域外、外国の人たちだったとドレスデン市から批判されていたことも記憶しておくべきかと思います。


エネルギー問題を考える

2011-06-27 23:41:00 | 震災・災害
一刻も早くお引取り願いたい現政権があれこれ新政策を打ち出し、それの対応をしなければ、という姑息な延命策に振り回される状況は国家自体の末期的症状とも言えますが、そういう政権を「押し込め」に出来ないのも民主主義の辛いところです。

その政権延命策の一環?として浮上しているのが再生可能エネルギー法案ですが、そもそも本当に有利か、問題は無いか、という疑念があるものをこのような拙速と言うか、どさくさ紛れで推進すべきでは無いでしょう。

今朝の朝日は1面で「電力利権」にまみれたエネルギーよりも、再生可能エネルギーがいいですよ、という印象操作に余念が無いです。また偏見を、というかもしれませんが、原子力との比較が斑目、もとい、デタラメで、再生可能エネルギー優位の部分だけを重み付けしないでピックアップしており、安定供給やエネルギー安全保障といった重大事は載せない、また、他の瑣末なメリットで「数」を多く見せると言う書き方はそう言われて然るべきです。

そもそも問題が多いことは隠せないので、問題があることは書いていますが、まだそれが解決していないのに「今後の課題」「今後改善」というようにそれが克服されることを規定事実のように書きますが、出来ないケースもあるわけです。

こうした「今後は...」ほど怪しい、危ないものは無いわけで、構造改革に伴う産業構造の変換による雇用問題は今後急速に伸びるIT産業が吸収する、という「バラ色の夢」を見聞きしてから10年も経ったかどうか。その結果がどうなったは言うまでも無い話で、また同じ轍を踏むのか。

そもそも再生可能エネルギーがクリーンなのかどうか。
事故が起こると破滅的な原発に比べれば、という批判も多いですが、事故が起きないようにする、事故が起きても破滅に至らないようにする、という対策を踏まえたうえでの破滅的な事故の発生はどの程度か。福島第一の事例は「無対策」だったに等しいのです。

一方で再生可能エネルギーの導入がもたらす「環境破壊」は、原発事故と違い、「必然」として漏れなくついてくるのです。

例えば太陽光発電で、広大な土地にソーラーパネルを敷き詰めたとして、ではその分だけ地上に「永遠の日陰」を生み出す影響はどうなるのか。
古民家の床下を見ると、日照も雨風も届かず、乾ききって草も生えず、蟻地獄の巣が転々としているのですが、ソーラーパネルを敷き詰めた下にはそうした空間が広がるのです。緑は消え、雨水を吸い込まない大地が激増して、環境はどうなるのか。

また、風力発電も、低周波公害もさることながら、吹いてくる風を発電エネルギーとして消費したら「風下」はどうなるのか。
海岸や洋上で風を受け止めてしまうと、風下、内陸はどうなるのか。ベイエリアの巨大開発で風が通らなくなってヒートアイランド化したと言う話を聞きますが、風が吹かなくなってしまう、弱まってしまうと気温の上下だけでなく、「風通しが悪くなる」ことで基本的な自然が変わってしまうケースが懸念されます。

実績があり比較的問題の少ない地熱発電にしても、汲み上げた温泉水や火山性ガスの処理はどうなるのか。日本中が「殺生河原」状態にならないのか。

そして自然エネルギーの「老舗」である水力発電は、ダム建設に伴う環境破壊に加え、発電用取水のせいで川の流れが死んでしまうわけです。

こうした疑問がついてまわるのですが、それに対して明快な回答を出してこないところに、再生可能エネルギーの「胡散臭さ」があるのです。


さて、批判だけですとなんですので、原発以外でまかなうにはどうしたらいいか。
まず最有力なのは天然ガスですが、東シナ海のガス田の開発が急務です。中国による「盗掘」対策との一石二鳥になる話であり、自主エネルギー源の確保と言う計り知れないメリットもあります。
「脱原発」で語られるデンマークが、北海油田と言うエネルギー源を確保し、余剰分を販売することでエネルギー源の確保と「鉱業」による収益があっての話ということを考えれば、東シナ海や尖閣周辺海域の開発を「遠慮」している現状は理解不能です。

次いで有望なのはゴミ発電です。
RDFのように前処理をするケースもありますが、焼却炉の廃熱利用としての単純利用を考えるべきでしょう。
現状はカロリー不足で燃料をつけて燃やしていますが、炉の耐久性を高めて「何でも燃やせる」炉にすることで、ペットボトルなどの石油化学製品を「助燃剤」として高いカロリーを取り出せれば効率が上がり、かつ廃棄物の体積を減らせます。
(現状は「リサイクル」ということでこういったカロリーの高いゴミを燃やさないため、重油など燃料を使っているが、1度使った石油製品を燃やさずに、1度も使っていない石油をそのまま燃やすのは無駄という批判もある)
リサイクルに必要なエネルギーを考えると、燃やして熱エネルギーを取り出すほうが合理的です。

そして需要側の対応としては、エネルギー浪費型社会からの変換です。
これも現状は歪みすぎているわけで、酷暑の中エアコンを使わないのが正しいと言うような命に関わりかねない自己犠牲を強要したり、省エネルギー型への転換として設備投資を強いるのはおかしいのです。

要は使う必要の無いものは使わない、使う必要が無いようにする、という当たり前の対応をまず進めること。電球をLEDにするよりも、こまめに消すほうが有効ですし、特に最近の集合住宅に多い採光性の悪い間取り(特にトイレや台所)やそのドアなども改善すれば外光による照度確保が可能になります。
間取りの話では、風が抜けるような構造にすることで扇風機すら不要になるケースも多いです。

常に通電することが前提の地デジ対応テレビなんかも見直しの対象ですし、パソコンも常時接続が一般化していますが、これも見直すべきでしょう。このあたりは常時通電を前提にした機能やサービスを見直すことも必要です。

あとは需要側の話と言いながらサプライ側の話でもあるのですが、無駄なサービス提供をやめる。
特に家庭での電力消費に直結するメディアの対応は急務です。オイルショック時の深夜放送中止や日中の休波がなぜできないのか。また7月9月の大相撲中継、8月の高校野球と、電力ピーク時にかかり、かつ電力消費を大幅に増やす番組の休止も効果的です。特に大相撲は問題先送りで八百長などの問題が解決してませんし、高校野球は特に関西ではNHKとABCが同じコンテンツを同時に中継するという無駄がありますし。

現状はやるべきこと、出来ることを放置して、海のものとも山のものとも、というものに手を出す状態です。