いろいろお騒がせの阿久根市の「ブログ市長」ですが、理念はある程度理解は出来るものの、その手法はかなり、というか極めて問題があるようです。
ワンマン社長や独裁国家の元首ならまだしも、法治主義国家の自治体の首長としては不適格と言っていいくらいです。
「正しい」と信じての行動なんでしょうが、行政のトップはまず法律などのルールを遵守するところからはじまります。
行政を縛るのが法律であり、法律を判断するのが司法であり、法律を作るのが立法であり、立法府である議会の構成員を直接選挙で選出する、これが主権在民であり、三権分立となる我が国の基本的なルールです。
そう考えたとき、この市長の行状はどうでしょうか。正しければ何をやってもいい、と言うレベルも超越したいわゆる「斜め上」の発想に見えます。
今日も、市長が貼り出した市職員の給与額の張り紙を剥がした職員を懲戒免職処分にしたそうですが、掲出物を勝手に剥がした、という部分だけ「ルール」を適用し、懲戒の是非や軽重を判断する組織に付するとか、非行の程度に応じて懲戒の軽重を決定するといった部分においては「ルール」を無視しているわけで、これでは法律や条例を運用する行政のトップとして資質が厳しく問われます。
昨日は職労訴訟で出廷を拒否したわけですが、その理由が「裁判官は自治労と同じ公務員の仲間。負けると分かっている裁判に税金を無駄遣いさせるつもりはない」というわけで、自治労が嫌いなのは市長であっても個人の自由ですが、司法手続を無視するどころか、司法府の人間を侮辱するが如き発言を公の場で行うことは、行政による司法批判と言うような振りかぶった批判など勿体無い低レベルな発言と言えます。
こう言うと、市長は正しいんだから批判はけしからん、お前は自治労の味方か、と言うのでしょうが、正しければ何をやってもいいのか、と言う話です。
もちろんリコールと再選挙を経てきた「民意」を背負った市長ですから、異を唱えることは民意を無視する、民主主義を無視するのか、と言う批判もあるでしょう。
しかし、民意が市長にあり、民主主義国家である我が国ですが、民意の反映、発動は正しい手続に則る必要があるのです。ャXターを剥がしたら懲戒免職としたいのなら条例を変えてからにするべきですし、懲戒処分に関して市が勝手に決められない上位規程が存在するのなら、それを改正するに足るだけの意見を糾合した上で、県条例なり法律なりを改正してからでないと実行できません。
そして裁判官が信頼できないと言うのなら、我が国の司法制度を根本から変えれば良いわけです。
「ブログ市長」として人気があるのですから、裁判官は公務員ではない、というような司法システムになるように憲法や裁判所法を改正するように運動すればいいわけで、それが叶わないのなら今のルールに従うしかないのです。
そう、市長に欠けているのは近代国家の根幹である法治主義への理解であり、民意に名を借りた人治主義に過ぎないのです。「人民の敵」のレッテルで「死刑だ」と大合唱して処刑台に送り込んだ人民裁判は法治主義と程遠い代物ですが、民意だけに頼るのはまさにそれと相似形です。
ちなみに、民意だけを絶対視することが正しいのか。
民意が常に「正しい」選択をしない限り、「神の視座」から見たら誤った選択をする可能性もあるわけです。4年前の総選挙で酔いしれた「小泉劇場」も圧涛I多数の民意に支えられて実現したのですが、それが正しかったのかというと、必ずしもそうとは言えないのが事実です。
ただ、よしんば間違った選択であっても、最終的にその誤った選択による責任と損害を選択した共同体が負うという責任の帰結、帰属に筋が通っていること。また多数決による選択ということで誤りが比較的起こりにくいという相対的な優位性で民主主義が優れているだけにすぎないとも言えるのです。
そして民主主義プロセスは時に破滅的選択もするわけです。
ヒトラーが政権を奪取したのは軍事力ではなく、選挙の積み重ねだったことは歴史的事実です。
逆に1932年の二度にわたる総選挙でナチスが第1党になったにもかかわらず、翌33年まで半年にわたりヒトラーに組閣の大命を降下させず、民意に反したいわゆる「大統領内閣」を2代にわたり任命したヒンデンブルク大統領は、民主主義の原則からすると「反民主主義」ですが、見方を変えれば「あの」ヒトラーの政権奪取に最後の抵抗をしたと言えるわけで、民主主義が必ずしも「正しい」結末を招くとは限らないということは歴史が示しているのです。
ワンマン社長や独裁国家の元首ならまだしも、法治主義国家の自治体の首長としては不適格と言っていいくらいです。
「正しい」と信じての行動なんでしょうが、行政のトップはまず法律などのルールを遵守するところからはじまります。
行政を縛るのが法律であり、法律を判断するのが司法であり、法律を作るのが立法であり、立法府である議会の構成員を直接選挙で選出する、これが主権在民であり、三権分立となる我が国の基本的なルールです。
そう考えたとき、この市長の行状はどうでしょうか。正しければ何をやってもいい、と言うレベルも超越したいわゆる「斜め上」の発想に見えます。
今日も、市長が貼り出した市職員の給与額の張り紙を剥がした職員を懲戒免職処分にしたそうですが、掲出物を勝手に剥がした、という部分だけ「ルール」を適用し、懲戒の是非や軽重を判断する組織に付するとか、非行の程度に応じて懲戒の軽重を決定するといった部分においては「ルール」を無視しているわけで、これでは法律や条例を運用する行政のトップとして資質が厳しく問われます。
昨日は職労訴訟で出廷を拒否したわけですが、その理由が「裁判官は自治労と同じ公務員の仲間。負けると分かっている裁判に税金を無駄遣いさせるつもりはない」というわけで、自治労が嫌いなのは市長であっても個人の自由ですが、司法手続を無視するどころか、司法府の人間を侮辱するが如き発言を公の場で行うことは、行政による司法批判と言うような振りかぶった批判など勿体無い低レベルな発言と言えます。
こう言うと、市長は正しいんだから批判はけしからん、お前は自治労の味方か、と言うのでしょうが、正しければ何をやってもいいのか、と言う話です。
もちろんリコールと再選挙を経てきた「民意」を背負った市長ですから、異を唱えることは民意を無視する、民主主義を無視するのか、と言う批判もあるでしょう。
しかし、民意が市長にあり、民主主義国家である我が国ですが、民意の反映、発動は正しい手続に則る必要があるのです。ャXターを剥がしたら懲戒免職としたいのなら条例を変えてからにするべきですし、懲戒処分に関して市が勝手に決められない上位規程が存在するのなら、それを改正するに足るだけの意見を糾合した上で、県条例なり法律なりを改正してからでないと実行できません。
そして裁判官が信頼できないと言うのなら、我が国の司法制度を根本から変えれば良いわけです。
「ブログ市長」として人気があるのですから、裁判官は公務員ではない、というような司法システムになるように憲法や裁判所法を改正するように運動すればいいわけで、それが叶わないのなら今のルールに従うしかないのです。
そう、市長に欠けているのは近代国家の根幹である法治主義への理解であり、民意に名を借りた人治主義に過ぎないのです。「人民の敵」のレッテルで「死刑だ」と大合唱して処刑台に送り込んだ人民裁判は法治主義と程遠い代物ですが、民意だけに頼るのはまさにそれと相似形です。
ちなみに、民意だけを絶対視することが正しいのか。
民意が常に「正しい」選択をしない限り、「神の視座」から見たら誤った選択をする可能性もあるわけです。4年前の総選挙で酔いしれた「小泉劇場」も圧涛I多数の民意に支えられて実現したのですが、それが正しかったのかというと、必ずしもそうとは言えないのが事実です。
ただ、よしんば間違った選択であっても、最終的にその誤った選択による責任と損害を選択した共同体が負うという責任の帰結、帰属に筋が通っていること。また多数決による選択ということで誤りが比較的起こりにくいという相対的な優位性で民主主義が優れているだけにすぎないとも言えるのです。
そして民主主義プロセスは時に破滅的選択もするわけです。
ヒトラーが政権を奪取したのは軍事力ではなく、選挙の積み重ねだったことは歴史的事実です。
逆に1932年の二度にわたる総選挙でナチスが第1党になったにもかかわらず、翌33年まで半年にわたりヒトラーに組閣の大命を降下させず、民意に反したいわゆる「大統領内閣」を2代にわたり任命したヒンデンブルク大統領は、民主主義の原則からすると「反民主主義」ですが、見方を変えれば「あの」ヒトラーの政権奪取に最後の抵抗をしたと言えるわけで、民主主義が必ずしも「正しい」結末を招くとは限らないということは歴史が示しているのです。