Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

デュープロセス

2009-07-31 01:29:00 | 時事
いろいろお騒がせの阿久根市の「ブログ市長」ですが、理念はある程度理解は出来るものの、その手法はかなり、というか極めて問題があるようです。
ワンマン社長や独裁国家の元首ならまだしも、法治主義国家の自治体の首長としては不適格と言っていいくらいです。

「正しい」と信じての行動なんでしょうが、行政のトップはまず法律などのルールを遵守するところからはじまります。
行政を縛るのが法律であり、法律を判断するのが司法であり、法律を作るのが立法であり、立法府である議会の構成員を直接選挙で選出する、これが主権在民であり、三権分立となる我が国の基本的なルールです。

そう考えたとき、この市長の行状はどうでしょうか。正しければ何をやってもいい、と言うレベルも超越したいわゆる「斜め上」の発想に見えます。



今日も、市長が貼り出した市職員の給与額の張り紙を剥がした職員を懲戒免職処分にしたそうですが、掲出物を勝手に剥がした、という部分だけ「ルール」を適用し、懲戒の是非や軽重を判断する組織に付するとか、非行の程度に応じて懲戒の軽重を決定するといった部分においては「ルール」を無視しているわけで、これでは法律や条例を運用する行政のトップとして資質が厳しく問われます。

昨日は職労訴訟で出廷を拒否したわけですが、その理由が「裁判官は自治労と同じ公務員の仲間。負けると分かっている裁判に税金を無駄遣いさせるつもりはない」というわけで、自治労が嫌いなのは市長であっても個人の自由ですが、司法手続を無視するどころか、司法府の人間を侮辱するが如き発言を公の場で行うことは、行政による司法批判と言うような振りかぶった批判など勿体無い低レベルな発言と言えます。

こう言うと、市長は正しいんだから批判はけしからん、お前は自治労の味方か、と言うのでしょうが、正しければ何をやってもいいのか、と言う話です。
もちろんリコールと再選挙を経てきた「民意」を背負った市長ですから、異を唱えることは民意を無視する、民主主義を無視するのか、と言う批判もあるでしょう。

しかし、民意が市長にあり、民主主義国家である我が国ですが、民意の反映、発動は正しい手続に則る必要があるのです。ャXターを剥がしたら懲戒免職としたいのなら条例を変えてからにするべきですし、懲戒処分に関して市が勝手に決められない上位規程が存在するのなら、それを改正するに足るだけの意見を糾合した上で、県条例なり法律なりを改正してからでないと実行できません。

そして裁判官が信頼できないと言うのなら、我が国の司法制度を根本から変えれば良いわけです。
「ブログ市長」として人気があるのですから、裁判官は公務員ではない、というような司法システムになるように憲法や裁判所法を改正するように運動すればいいわけで、それが叶わないのなら今のルールに従うしかないのです。

そう、市長に欠けているのは近代国家の根幹である法治主義への理解であり、民意に名を借りた人治主義に過ぎないのです。「人民の敵」のレッテルで「死刑だ」と大合唱して処刑台に送り込んだ人民裁判は法治主義と程遠い代物ですが、民意だけに頼るのはまさにそれと相似形です。

ちなみに、民意だけを絶対視することが正しいのか。
民意が常に「正しい」選択をしない限り、「神の視座」から見たら誤った選択をする可能性もあるわけです。4年前の総選挙で酔いしれた「小泉劇場」も圧涛I多数の民意に支えられて実現したのですが、それが正しかったのかというと、必ずしもそうとは言えないのが事実です。

ただ、よしんば間違った選択であっても、最終的にその誤った選択による責任と損害を選択した共同体が負うという責任の帰結、帰属に筋が通っていること。また多数決による選択ということで誤りが比較的起こりにくいという相対的な優位性で民主主義が優れているだけにすぎないとも言えるのです。

そして民主主義プロセスは時に破滅的選択もするわけです。
ヒトラーが政権を奪取したのは軍事力ではなく、選挙の積み重ねだったことは歴史的事実です。
逆に1932年の二度にわたる総選挙でナチスが第1党になったにもかかわらず、翌33年まで半年にわたりヒトラーに組閣の大命を降下させず、民意に反したいわゆる「大統領内閣」を2代にわたり任命したヒンデンブルク大統領は、民主主義の原則からすると「反民主主義」ですが、見方を変えれば「あの」ヒトラーの政権奪取に最後の抵抗をしたと言えるわけで、民主主義が必ずしも「正しい」結末を招くとは限らないということは歴史が示しているのです。






景気か環境か

2009-07-31 01:06:00 | 時事
景気対策もいまや環境対策を絡める時代というわけで、エコャCントやエコカー減税・補助金で経済的メリットを訴えたところ、けっこう当たっているようです。

もちろんまずは景気対策ですから、消費が伸びなければ意味が無いわけですが、どうもそこのところが理解できていないというか、環境対策がメインだと勘違いしているかのような論調が目につきます。 

最たる例がいわゆる「1000円高速」で、クルマの交通量が増えると環境に良くない、と言う反論が必ずセットになっています。穿った見方をすれば、メディアをはじめとする政府与党の政策だから否定したい向きにとって、経済対策として文句なしのヒットとなってしまったため、環境問題で批判するくらいしか手が無いのでしょう。

とにかく消費が伸びないと経済が回らない。そういう意味で需要のシフトではなく喚起とならないと意味が無いのです。「1000円高速」にしても明らかに需要喚起であり、鉄道などからのシフトはあるにはありますが、その多くは「高速が安いから遠出をしてみよう」と言う需要であり、この対策がなければ家に引きこもっていた可能性が高いのです。

エコャCントやエコカーもそう。需要の先食いという面が大きく、反動が心配されますが、何もしなければ景気が回復するまで我慢していた需要を前唐オにしたわけで、回復が定着して好況期ならば若干の需要が減少しても耐えられると考えれば、いい意味での平準化ともいえます。

さらに需要を喚起する目的で経済的メリットを付加したわけですが、そのメリットをさらに消費に回せば乗数効果的なサイクルに乗れるわけで、こういった積み重ねが景気回復につながります。

ところが環境に軸足を置くとこの流れが「問題」というわけです。
上記のように「1000円高速」のヒットでクルマの走行距離が伸びればCO2の排出が増える、とするように、エコ製品であってもその商品を多くの人が選べば購買数が増大して結果的にCO2の排出が増えるとか、エコ製品で浮いたお金が消費に回って、生産や輸送に関連する新たなCO2の排出を招くというのです。

環境関連の専門家はこれを「リバウンド効果」と言って警鐘を鳴らしているのですが、要は経済対策として期待される効果に悉く水を注すが如き評価としか言いようがありません。

突き詰めて言えば、生産、消費の拡大は必然的に環境への負荷増大を伴うのです。
ですから、エコャCントやエコカー減税等と言ってもそれは一種の罪滅ぼしであって、ある程度経済が回復するまでは目を瞑るしかないと割り切るべき性格です。
逆に言えば、究極の環境対策は生産や消費を必要最小限にとどめる、大量消費生活を見直す、というわけで、経済対策とは相容れない性質なのです。

これでは景気が回復傾向を見せ始めた途端に財政規律を訴えて消費税率を上げて致命的なダメージを与えてしまった橋本内閣の「失政」と同じです。
さらに言えば、このリバウンド効果の理論では、生産や消費活動においてCO2の排出がゼロ以下にならない限り、景気の回復、さらには好況期は環境にマイナスと言うことになるため、極端な話をすれば、環境と景気が対立関係になります。

景気が回復、拡大することを前提に、環境負荷をどれだけ下げられるかと言うのがあるべき環境対策でしょう。にもかかわらず専門家から語られるリバウンド効果への懸念や批判を見る限り、景気が減速しても構わないと言う感触を感じます。それでも環境が大事、というのでしょうが、個人的にはそこまでいくとイデオロギーや宗教の世界であり、「正しさ」を客観的に担保出来ないと思うのです。



突然の辞職

2009-07-30 00:34:00 | 時事
横浜市の中田市長が辞職を表明しました。
来年4月までの任期を10ヶ月ほど残しての辞職には様々な憶測が飛び交っていますが、この時期の辞職については、任期満了まで勤めた場合、9月以降に行う来年度の予算編成を退任が決まっている市長が行うのはどうか、と説明しています。

確かに一理あるとはいえ、そうなると現在「統一地方選」は4月に実施されていますが、遍くどの自治体も同じ問題に直面するわけで、ひとり横浜市だけの問題ではなく、全国規模の問題であると発信して対応を促す問題であり、自分が辞める理由付けだけに使う問題ではないはずです。

見方を変えれば、「統一地方選」でもその「問題」が論点にならないあたり、新任者は既に決まっている予算を粛々と実行し、どうしても問題であれば予算の見直しをすればいいだけで、そんな大上段に構える話でない、というのかもしれません。
そもそも行政には連続性が求めらるのであり、首長の個性がある程度反映されることはあっても、予算の割り返しと言った行政の断絶とも言える事態は好ましくないのです。




その中田市長が民放の朝のニュースショーで持論を滔々と語り、一方的な演説状態にキャスターに遮られると言う一幕もありました。
それもどうか、と言う感じですが、その「演説」を聞いてどうも首をかしげたことがあります。

ここからは非常にセンシティブな話題になるわけですが、上記の通り三選はしない、退任が確定している首長がいくら旗を振っても、退任間近になると新しい首長の登場をにらんで適当にやり過ごす、という弊害が不可避です。
要は「死に体」なんですが、その部分の説明に中田市長が再三再四「レームダック」と言う言葉を使ったのです。

「レームダック」は米国由来のスラングとまでは言いませんが俗語であり、意味は退任が決定して影響力が無い状態として、もっぱら政治家に対して使われます。
転じて役立たずといった、どちらかと言うとネガティブな比喩として使われることがもっぱらです。

一種の「外来語」なんですが、字義通りの意味を見ると「足の悪いアヒル」となるわけで、非常に微妙な比喩であることが分かります。
ですからスラングとしての意味は説明しますが、言語の字義通りの意味はあまり紹介されないことがほとんどですが、米国での政治用語として確立していることもあり、日本でも米国同様の意味合いで使われています。

「レーム」の和訳は押し並べて「足が不自由」であることを示す言葉になっており、日本ではこれをメディアや公の場で使用することが憚られる風潮にありますが、横文字になるとタブーが解けるのかメディアや公人が普通に使うのです。

こういった身体的障害を表す言葉については、本来状態を示す言葉であり、それ自体には差別的要素はなく、言葉自体をパージするのはまさに「言葉狩り」と言えます。逆に差別的意図を持ってこういった言葉を使う手合いは、「言葉狩り」で言い換えられた言葉に今度は差別的意味を持たせて使うわけで、極端な例を言えば本来意味も持たない記号でもなんでも、その対象となる存在を特定する形で使用することで意味を持たせることが可能であり、「言葉狩り」は事の本質の解決にはなっていないのです。

さらにそのあおりを受ける格好で、本来的意味である「状態を示す」修飾や比喩として使われている慣用句も道連れでパージされてきたわけですが、そういった言葉は状態の比喩ですから何の差別的意図どころかネガティブなイメージすら持っていないことも多いです。

「日本語」に関してはここまで形式基準でパージしてきており、その先頭に立っていたのがメディアであることは間違いないでしょう。まったく差別的意図も持たず、修飾や比喩としての慣用句で使っても、「ただいまの内容で不適切な表現が...」と言うシーンを何度見てきたことか。

ところがそれが横文字になるとかくも違うわけです。
私が見ていた番組でも「不適切な表現」などといわれることは全くありませんでした。
しかし、「レームダック」の字義通りの意味と本当の意味を比較すれば、状態を示すどころじゃないわけです。「足が悪いアヒル」=「影響力が無い」「役立たず」です。「アヒル」と言う言葉だけがこうした状態を指すわけは無いですから、「足が悪い」がもっぱらこの意味の形成に寄与しているわけです。

これはどう考えてもアウトでしょう。
状態から来る比喩ではなく、その状態にネガティブな意味を持たせた慣用句ですからたちが悪い。

一方、日本で「言葉狩り」にあった慣用句の多くは、若干のネガティブイメージはあるにしろ、基本はその状態を比喩に用いたわけで、意味もその状態に必然的に付帯する帰結としてのマイナス面をベースにした客観的な状態に関する比喩といえます。
今回は敢えて例示としての表記もしませんが、代表的な慣用句の「状況が分からない状態に置かれる」とか「内容を確認しないで判子を押す」と言う意味は、確かにネガティブな意味はありますが、その状態が招く直接的なデメリットを客観的にトレースした範囲での比喩である慣用句と言えます。
※後者に関しては「いい加減」という意味もあるので「レームダック」に近いともいえますが。

そう、「足が悪いアヒル」の場合、足が悪ければどうなるのか。進みが遅い、というような、その状態が招く結果をベースにした比喩としての意味であれば許容範囲でしょう。
それが「影響力が無い」「役立たず」というのはその状態に対する主観的評価に基づく比喩であり、よしんば実際にそうであっても言ってはならない評価を意味とする、本来避けるべき言葉と言えます。

そもそもそのような状態の政治家を示すときに「レームダック」以外の表現ができないと言うこともないわけで、勝負は付いていないが結果は変わらない、と言う意味である「死に体」という相撲由来の言葉がまさに当てはまるので、敢えて問題を孕む言葉を使う必要もないのです。(そもそも「死に体」は「レームダック」の説明に用いられることが多い)
※「死に体」は、土俵を割ったり土が付いて勝負が決まった状態ではないが、つま先が上を向いて唐齊nめたり、土俵外の空中に体が舞うなど、土俵内で残る見込みが完全に潰えた状態を示す相撲用語。


言葉狩りをする傍らで、「レームダック」を無検証で使用するようなスタンスは、何が問題で何を改めないといけないのか、という検証を欠いた、形式だけ注意すればいいと言うありがちな対応であり、それでは問題の本質的な解決には縁遠いです。

こうした形式と本質の主客転唐ヘ、この手の問題に限らず、あらゆる場面で見られる話であり、我々が日々注意していかないといけないことなのです。




船橋市民まつり

2009-07-26 22:32:00 | ノンジャンル
ふなばし市民まつりに行ってみました。
船橋在住の頃は習志野台会場はよく行ってたんですが、メイン会場に行くのは実は初めてです。

最近まで「産業まつり」と実に渋いというか、市のメインとなるお祭りとしてはある意味全国屈指のネーミングだったのですが、改称されて早や6年。とはいえ昔からの伝統なのか「めいど・いん・ふなばし」と題した市内事業所による事業紹介コーナーや、食品コンビナート内企業による試食コーナーが出自を強く主張しています。

大神宮と漁村という伝統があり、北部や三山の伝統行事も地味に有名とはいえ、そうした伝統行事に関しては他地域に比べると盛り上がりに欠けるのがベッドタウン船橋の泣き所。そう考えたら、「産業まつり」の方向性は悪くはなく、どうせならもっと大規模に事業所紹介や試食コーナーを充実させた方がいいのかもしれません。

結局「めいど・いん・ふなばし」を除けば地元のお神輿と食傷気味の「よさこい」くらい。オープニングのパレードもちょっと期待したのですが、県警や消防局の音楽隊、ボーイスカウト、高校や地元のマーチングクラブあたりが「パレード」として鑑賞に堪えるレベルで、あとはなんか幟を持ってただ歩いてるだけ。かつて神戸まつりのパレードを見てがっかりしたことがありますが、あれががっかりならこっちは、というレベルでした。


(先頭はガールスカウト。そのあとに県警音楽隊)

参ったのはオープニングの市長のあいさつ。メイン会場のあちこちに設置されたスピーカーから、となりの人との会話も聞き取れないレベルの大音響で降ってくるのですが、それがまたなんというかの長広舌。もう少し内容と長さを吟味してほしいものです。

パレードも、県警音楽隊の次に市長や市議会議長、商工関係など市の幹部連が歩くというこれも「独特」なスタイルですが、まあ幹部連ですから初老のオッサンたちでパレードの華に欠けるというのは致し方がないとして目をつぶるとして、真ん中で歩く市長のそのスタイル、一応浴衣なんですが、ちょっとその地が地味過ぎて着流しみたいだし、帯の位置や裾の高さもなんか微妙でした...


(市の幹部連。中央が市長)

紅葉マーク見直し

2009-07-26 22:31:00 | 交通
高齢者運転者標識、いわゆる「紅葉マーク」ですが、デザインへの不評が後を絶たず、改められることになりました。

登場当時から「紅葉」とはいえ結局は、ということで、「枯葉」だの「落葉」だのと揶揄されてきたこともあり、当の高齢者からの評判が非常に悪かった事実があります。確かに人生の有終を迎えなんとする世代にとってはそういう比喩は不快でしょうし、一方で周囲のそういう微妙な世代への配慮もまた足りないわけで、ちょっと前に後期高齢者向け保険料の通知を出すにあたり、通知の種類によって宛名欄に色分けした縁取りをしたまではいいのですが、それが黒枠だったという冗談にしても程があるようなことを平気でやってしまう自治体があったように、その辺の機微は必要です。

ただ、その反発が「まだまだわしらは衰えてはおらん」という類だったらちょっと待ったというところです。
法の趣獅ヘ自分たちの衰えを自覚してもらう意図と、そういう技量がどうしても下がらざるを得ない世代への配慮を求めるという二面性があるわけで、高齢者の技量低下としてか思えない事故や、ヒヤリハットが多発しているのが現実である以上、自分たちがどう思おうが、初心者マーク同様一定の枠にはめることは必須です。

で、最初に戻ってデザインの問題ですが、デリカシーの問題なのかの知れませんが、じゃあ「鶴亀」とか「寿」とでもしたらいいのかという話です。実際、神戸市の敬老パスがIC化された際に、扇に「寿」の文字を入れたマークをデザインしましたが、それはそれで「めでたくすればいいんだろ」というようなやっつけ仕事的なものを感じます。

変にデザインにするから揣摩憶測を招くわけで、だったら法の趣獅オ格に解し、法の目的を明快に実現できるように、「老」一文字のマークでもいいわけです。そうしたら今度は「危」マーク同様の扱いか、という批判が出るかもしれませんが、「危険物運搬車」の識別と同様、「高齢者運転車」の識別です、といえば済む話ですから。