Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

自治体の宣伝

2012-03-30 00:56:00 | ノンジャンル
香川県と言えばいまや何をおいても「さぬきうどん」と言う感じで、香川県自体が自らを「うどん県」と称するなど、何でもありの状態になっています。
その流れに乗ったのか、JR四国が高松駅の愛称を「さぬきうどん駅」と発表しましたが、交通機関による「うどん」便乗は、フットバスによる「うどん県行き」が既にあることもあり、ああまたか、と言う 感じでした。

それがこじれたのですから判りません。高松市長が高松はうどんだけではない、と噛み付き、JRも悪乗りが過ぎたと思ったのか、「さぬき「高松」うどん駅」とシールを上張りして「配慮」し、あわせて「うどん県」のシールにもその下に「それだけじゃない香川県」とシールを貼ったそうです。

そもそも香川県が「うどん県」と悪乗りしたのが発端であり、金比羅さんほか全国区の名所名物があるのになぜ「うどん」か、という地合いに、「四国の玄関口」のプライドがある高松が「うどん」ではさぬきうどんほどの腰もないと感じたのでしょう。

観光対策と言うことは否定しませんが、自治体の悪乗りと言うか悪ふざけも度が過ぎると辟易します。
知事があの手この手で自分の県を売り出すというのは宮崎県の東国原前知事がその典型でしたが、あれは必ず「宮崎」「みやざき」を売り込んでいたわけで、香川県ほどの悪乗りはなかったのです。

そういう意味では自治体の悪乗りと言うか、自治体の宣伝の押し付けも辟易するものがあるわけで、首長などの会見時に、背後に金屏風ならぬ宣伝ボードが置かれて、自治体の宣伝がこれでもかとかかれていることがめっきり増えました。

これも直近のイベントや名所名物、名産であればまだいいんですが、スローガンやキャッチフレーズの類になると、なんであそこのしょーもない主張を見せ付けられないといけないのか、という反発すら感じます。
これは大阪府が今の大阪市長が知事時代に多用するようになった手法ですが、ひときわメッセージ性の強い言葉がならぶボードにモザイクをかけて欲しいと何度となく思いました(苦笑)

自治体、特に都道府県というのは国家に次ぐ規模の行政組織であり、公の代表格の一つといえます。
公のあるべき姿、と大上段に振りかぶるつもりはありませんが、公による「宣伝」というのはいかがなものでしょうか。「さぬきうどん」のように度が過ぎるケースや、会見場のように便乗が過ぎるケースを見ると、自重が望まれます。

文明批判に覚悟はあるか

2012-03-30 00:55:00 | 時事
リビジョナリズムに勤しんでいたプロメテウスの罠はようやく正常化しましたが、足下はむつ小川原開発と六ヶ所村の原子力施設に対する批判になりました。

まあ技術的確立が覚束ないとか、見込み違いで大赤字という問題は確かに深刻ですが、では基調にあるように、貧困からの脱出と言う目論見に罠があった、という発想はどうでしょうね。
はっきり言ってしまえば、「近代化から取り残された」コミュニティであったほうが良かった、と胸を張っていえるのか。というか、その状態を受容できるのか、と言う覚悟の問題でしょう。

一昔前のようにそれぞれの生活圏で物流も情報もある程度完結していた時代と異なり、日本中どこにいても情報は入ってくるわけです。豊かな生活、最新の流行と言うものをメディアを通じてリアルタイムで目にしながら、それが手に届かないところにある。自分たちの生活の水準を相対的にも、絶対的にも思い知る時代に、それが幸せと誰が言えるのか。

直近の回では、鹿島臨海工業地帯の開発で農民は幸せになっていない、としていますが、ではあの工業化がなかったらあの地域はどうなっていたのか。
鹿島線が1970年にようやく開業し、大洗鹿島線は1985年に開業と、高速交通どころか鉄道の開業が極めて遅く、それすら鹿島工業地帯の開発が本決まりになってようやく計画されたという状況です。
ですから工業地帯抜きで10分おきに東京行きの高速バスが走る街が成立するわけがありませんし、それどころか交通網からも取り残された地域になっていた可能性すらあります。

前にも言いましたが、福島第一のある浜通りにしても、関東地方の続きのような位置付けにあるいわき市までは栄えていますが、そこから仙台までの間、それこそ原発をのぞけばめぼしい産業は農林水産業、鉱工業ともあるかどうか。

この4月8日に常磐道が南相馬¢株n間で開通しますが、原発事故がなかりせば常磐富岡%・株nとともに開通していたはずです。
しかし、原発があっても2012年にようやく浜通りの多くをカバーできたと言う現実は、原発がなかりせばどうなっていたのかを強く感じる出来事でしょう。鉄道にしても、特急街道の常磐線にありながら、 30分~60分ヘッドで走るいわき以南に対し、4連もしくは7連に切り落とした編成が約1/3、5.5往復が走るのみで、さらにはE657系の本格投入時にはいわきで系統分割することが公式にアナウンスされていました。

文明批判も結構ですが、ではそういう人たちが憧れる日々に戻ったとして、その生活に耐えられるのかどうか。もしそれが出来ないのなら、出来もしないことを他人に強制しているという身勝手を自覚すべきでしょう。あまつさえ自分は安全圏から語っているとしたらこれほど罪深いものはありません。

テレビが白黒で、電話もなかった、という生活が当たり前にあった最後の時期をおぼろげながらでも知っている側としては、高度成長期の真っ只中ですらそういう生活が当たり前にあったというのに、さらに時代を遡るような生活レベルを受容できるとは到底思えないのです。
ましてや実際にそうした生活レベルで喘いでいた住民が、原発に未来と繁栄を託してきたことを誰が責められるでしょうか。よく考えたいものです。

これは足元の「脱原発」にもいえる話で、経済の発展を優先するとは云々、と原発無しのエネルギー確保で構わないと言う向きは、それによって遡る生活レベルの退歩を受容できるのか。
原発があった時の生活格差はそうは言っても同じ国内ですから高が知れてますが、今後は国内全体が原発によるエネルギーで支えられてきた繁栄から転げ落ちることで、過去の日本が辿ってきた発展のカーブを逆戻りどころか、より下回って逆戻りするかもしれないのです。

そう、普段我々が遠い世界のこと、テレビの中の話としてみてきた途上国の生活。貧困に喘ぎ、人間が簡単に死ぬ世界と同じレベルになるかもしれないのです。
産業がなく、経済水準が低下するということは、そういう国々と同じ水準になると言うことに他ならないのです。

そう考えた時、我々は原発をどうするべきなのか。中途半端な対応と合理性を欠いた感情論の噛みあわない議論の狭間に置いておくべきなのか。
どこまでのリスクを想定し、覚悟しながら付き合うべきなのかを評価して、その範囲で最大限の対応をとると言う前向きな議論に至っていない現状は、砂山に首を突っ込んでめいめいが身勝手に騒いでいる駝鳥といえましょう。

ピーチの重大インシデント

2012-03-29 00:12:00 | 交通
今月初めに就航したばかりのピーチアビエーションがトラブルで欠航便を出しています。
扉扱いの不手際で非常脱出装置が作動したのですが、その修理に時間がかかっているとのことで、少ない機材を効率的に運用するLCCにおいては、1機がトラブルと尾を引くと言う典型でしょう。

鳴り物入りで就航した日本版LCCですが、機材トラブルが欠航に直結するウィークャCントであると言う認識があれば、まずはそのリスクを重点的に潰すはずです。スカイマークなどの「新興航空会社」はその点就航直後のこの手のトラブルは出していないはずで、そういう意味では詰めが甘いと言うか、初手から甘さが露呈しています。

さて、今回の事故は非常脱出装置の「誤作動」とメディアは報じていますが、正確ではありません。
非常脱出装置は「正常に」作動したのであり、間違えたのはその取扱いなのです。

乗客の搭乗終了後、乗客数と名簿上の乗客数に不一致があったということで、客室乗務員が地上側に向かおうとした際、ドアモードが既にアームドになっていたため、ドアを開けた瞬間にそれは不時着、不時着水となって非常脱出装置が作動したわけです。

飛行機に重大な事態が起こった前提で作動する機構ですから、すぐに折りたたんで、と言うわけには行かないようです。というか、「正常に」作動した際には、折りたたんですぐに就航する、という前提がありえないのです。

そういう意味では非常にお粗末な事故ですし、大事故につながる可能性も否定できない重大インシデントともいえます。
つまり、ドアがアームド、つまり飛行中のモードであるのにドアを開けたわけです。ドアモードを確認しないうえに、危険側の状態にあるのに開けてしまったわけです。
もちろん構造上上空でドアを開けることは難しいでしょうから、事故は地上でしか起こりえないのかもしれませんが。

なお、ドアモードがアームドの時は開けると非常脱出装置が即座に作動するように、非常事態においては最低限の手数で安全側に働く手順になっていますから、今回のような軽率な客室乗務員が誤作動をしてもアラームが鳴ると言うような「ワンクッション」は無理です。

欠航が3日続いたことよりも、ドアモードの確認が出来ない客室乗務員が搭乗していると言うことのほうが深刻でしょう。
事業所での話としてみたら、命札を無視して機械を操作して、労災にこそならなかったが機械がトリップしたようなものであり、重大ヒヤリですから。




春場所は終わったが

2012-03-29 00:11:00 | ノンジャンル
春場所が終わりました。
白鵬が鶴竜を決定戦で制して22回目の優勝となりましたが、あの面子で2番も落とすのはどうでしょうか。横綱が13勝で優勝というのは、1人横綱の重圧はあるでしょうが、相手は全員大関以下ということを考えたら胸を張れない内容です。

負けた鶴竜も13番の成績は文句なく、またもや新大関誕生ということで、夏場所は興業としての(大)相撲では史上初となる6大関となります。一方で把瑠都は後半大きく星を落として10勝5敗。綱取りは白紙に戻りました。

把瑠都の綱取り失敗はある程度予想がついた結果とはいえ、結局は「萎縮」もあるでしょう。
相撲内容にケチをつけられて迷いが生じたんでしょうね。横審得意の「神経戦」で外国人イジメという構図です。
残る4大関は不甲斐ないと言う形容詞がぴったりで、琴欧洲8勝、琴奨菊9勝、稀勢の里9勝、日馬富士11勝は、日馬富士以外はひどいですね。これで6大関になってもどうなることやらです。

そういう意味では新大関おめでとう、と言うべき鶴竜も懸念材料が多く、日馬富士レベルがせいぜいというところでしょうか。稀勢の里も白鵬キラーぶりは十分に発揮していますが、星数といい内容といい、正直言えば関脇レベルです。

そういうと評価が辛いかもしれませんが、幕内中位で大勝ちして関脇(小結)に上がったはいいが、全く通用しなくて大負けして戻っていく三役が定番になっている現状がおかしいのであって、三役にはそれなりの実力を求めるべきでしょう。関脇でいえば古くは信夫山、長谷川。近くは栃赤城、逆鉾、琴ヶ梅あたりでようやく、という感じ。大関でも優勝が望めないレベルだと関脇でいるほうが地位相当でしょう。

大関陣の不甲斐なさとともに目立つのが中堅、若手の人材不足。
今場所こそ豪栄道、豊真将、豊ノ島が上位で大勝ちしましたが、何度となく裏切られるうちにベテランの域が近くなってるわけで、来場所も、というと期待が出来ません。ご当地の勢は話題先行でしたし(そもそも25歳ですし)、十両も皇風が活躍しましたが、あとはどうか。八百長問題などで吹き溜まりのような十両の風通しが良くなり、せっかく若手台頭のお膳立てが出来たのに、活かしていません。

そういう意味では例年であれば年間でいちばん渋い大阪場所なのに、満員御礼が平日にも出たというのが信じられませんでした。


コスト上昇を見ない駝鳥

2012-03-29 00:08:00 | 時事
東電の「値上げ」問題で、「機械的な値上げは許されない」と経産相が噛み付いています。
確かに庶民感情、国民感情からすれば、「あの」東電が易々と値上げして利用者に付け回すことはまず受け入れられない話ですが、一方で発電コストが尋常でないレベルで上がっていることは厳粛な事実であり、それを転嫁することの一切を許さないのであれば、電気事業そのものが成立しません。

あの夏の日も電気は足りた、東電管内の原発が全停止したが電気は足りている、という「事実」が電力不足に対する危機感を大いに薄れさせていますし、その「事実」を持って東電に余力があるように感じる人も多いです。

しかし電力不足となっていない「前提」はどうなのか。駝鳥の平和のように現実を見ていないのでは話になりません。コストを度外視して効率の悪い小規模発電設備を数多く配備したり、老朽施設の再稼動により発電量を確保し、さらに燃料費はうなぎ上りの状態のなか、急な需要ゆえ価格のヘッジも出来ていない状態でスャbトで、つまり、売り手の言うがままで購入して、ようやく確保した発電量です。

震災前のコストで電気が来ていると思っているのでしょうか。確かに東電の対応は不誠実で不届きですが、正当なコスト転嫁を否定することはどうなのか。まだまだ身を切れる、という主張も説得力が「一見」ありますが、これも「駝鳥の平和」の変形であり、資産を切り売りし、固定費を極小化しつくした後は、実際のコストとの逆ザヤ分は誰が負担するのか。

東電は「打ち首獄門」で、発送電分離で新体制だ、という経産相あたりの発想は庶民感情には受けるでしょうが、発電コストはびた一文負かりません。電力事業というある意味安定的な収益事業、しかも首都圏をマーケットにする美味しい事業に与れるという、新規参入者にとっては垂涎の事態ですから、庶民感情を焚き付けているわけですが、お先棒を担いでいる「庶民」にとっては何も変わらない、いや、かえって悪化することすらありえるのです。

おりしも深刻化した財政問題を立て直ししつつあるイタリア首相が来日していますが、政党のしがらみがなく、大胆に財政改革を実施していく手腕が賞賛されています。我が国においてはいろいろなしがらみや思惑の中で消費増税問題が紛糾していますが、問題を直視し、先送りしないイタリア首相の姿勢に対し、コストが転嫁できないのは明白なのにそれの負担を拒む姿勢と、それを後押しする経産相は、まさにャsュリズムといえます。

原発の再稼動と経済発展、電力料金は密接に関連する問題であり、原発抜きで経済が発展して、安い電気を享受することは不可能ですが、足下の流れはあたかもそれが出来るような印象を持たせています。
確かに庶民感情は安ければ総てが解決するような認識ですが、それは絶対的な無理があるのです。激安ブームとなり安くなった、とはしゃいでいたら、収入を得る側も「激安」見合いになっていて、デフレスパイラルの渦中で沈没した経験からまだ何も学んでいないのでしょう。

確かに東電はケシカランでしょうが、正当なコストを転嫁することを所管大臣が「許さない」というのは尋常ではありません。自由経済の国としてあってはならない話でしょう。

経済原則を無視して、はじめに適正価格ありきという理論はありえません。
収入は震災前並みで、暴騰した燃料費を賄え、というのでは算数も出来ないのか、と言う世界です。
江戸時代の経済を理解していない幕閣が、需給バランスやコストを無視して物価はこうあるべし、と蕎麦の値段から豆腐の切り方まで命令を幾度となく下しましたが、その結果は惨憺たるものでした。

感情論と峻別して現実にどう対応するか。それを忘れてはいけません。