Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

その観戦は電力依存では

2012-07-30 23:59:00 | 時事
先週末はひどい暑さでした。「暑い」という感覚を通りこし、目の前に熱源があるような感覚でした。
休日で事業所需要が無かったからまだ電力需給は持ったようですが、まだ7月、今後が心配です。

このように、綱渡り状態が続く電力需給ですが、そういう事情を考えると、高校野球に加え五輪を無邪気に放送するのはどうなんでしょうね。

もちろん4年に1度の国家レベルのイベントという建前はありますが、電力需給を逼迫させてでも再稼働は許すまじ、と、電気エネルギーに依存した生活、経済活動を否定して、新しい生き方が求められる時代だ、と大見えを切って脱原発(反原発)を説くのであれば、のうのうとTVを付けて五輪に高校野球観戦というライフスタイルもまた改めるべきでしょう。

たかが電気、と収入の前提である雇用を実現している現下の経済状況を否定してでも脱原発、ということは、国民が路頭に迷っても構わない、と言うに等しいわけですが、国民の生活を極限に追い込むことを辞さない運動をする一方で、娯楽、余暇活動に過ぎない五輪観戦や高校野球を電気を消費してお楽しみ、ということへは無批判というのは筋が通らないというか、一種のダブルスタンダードと言えます。

同時に我々国民も、脱原発を支持するのであれば、率先してライフスタイルを改めるべきであり、五輪や高校野球のTV観戦を楽しめた時代は終わった、とまず自ら襟を正すくらいでないといけません。


物言いの一番

2012-07-30 23:56:00 | ノンジャンル
ロンドン五輪の柔道、海老沼の「誤審」は馴染みのない「ジュリー」制度もあり、話題を呼んでいます。
しかし基本は「誤審の撲滅」であり、海老沼が新制度により正しく判定された、ということが総てです。

こうした制度変更は世紀の誤審となったシドニー五輪100kg超級決勝での篠原の「銀」が一因であることは間違いなく、国際化、スメ[ツ化を否応なしに受け入れざるを得ない以上、こうしたジャッジメントの公正さ、正確さも同時に担保しないといけません。そういう意味では馴染みがないからと「ジュリー制度はおかしい」といったトンチンカンな批判まで出てくるのです。少なくとも正確性を担保する効果はジュリー制度のほうが優れてますから。

しかし、畳の外の審判委員の設置、ビデオを使った検討と差し戻し権の行使、というのを見ると、いかに大相撲が先進的かというのがよくわかります(苦笑)
これまで3人の行司で判定したのを、勝負審判を置き、ビデオで検討して「物言い」を付ける、と言えばジュリー制度もあっという間に馴染みが出てきますよね。

強いて言えば、「物言い」がついた場合、協議終了時に「只今の協議についてご説明申し上げます。審判は青方に旗を上げましたが、白方が優勢ではないかと物言いがつき、協議の結果、白方の勝ちと判定したします」というように説明をすればいいのですが。

日本由来の柔道が、同じ日本由来の伝統競技である相撲のシステムを取り入れました、といえば、より理解も増す?でしょうか。

さて、「行司差し違え」となったのですが、21時のNHKニュースがちょっと変でした。
シドニー五輪の「世紀の大誤審」の映像を流し、今回の監督がその篠原本人という因縁話まであるのに、なぜか相手選手のことばかり慮っているのです。

じゃあ海老沼は誤審を受け入れるべきだ、とでも言うのでしょうか。篠原の悲劇を繰り返してはいけない、ようやくその効果が出た、と評価すべきなのに、ジュリー制度がおかしいとでも言わんばかりの論調はどういうわけか。

こういうとネトウヨの妄言と言われかねないのですが、相手が韓国選手というのが影響していないか。
技をかけ、取り消されたとはいえいったんはャCントを取った海老沼は、場内のブーイングを待つまでもなく優勢であるはずなのに、真逆の判定が出た。そもそもフェアプレー精神というのは、誤審を受け入れるのではなく、私が劣勢でした、と素直に認めることでしょう。

際どくもない状況で、何が「納得いかない」でしょうか。誤審が覆り、正しい姿になったという至極当然の話なのに。
特にあの出来の悪い女性キャスターが執拗に韓国選手を慮る様子には、不自然さすら感じました。



「歩く風評被害」に公的支援?

2012-07-29 18:42:00 | 震災・災害
ここ数日、いわゆる母子避難者への対応についての記事が朝日に出ています。
要は仕事などの関係で離れられない父親を置いて、妻子が疎開している人たちなんですが、基本的な問題として、その「避難」に合理的根拠があるのかという問題があります。

要は政府や「御用学者」が喧伝している放射線量は信じられないから自衛するんだ、ということなんですが、こういう人たちを公費で支援するのであれば、その基準は厳格に設定すべきですし、「ちょっと不安なので」というレベルも何もかも認めることが社会通念上妥当かどうかは言うまでもないでしょう。

逃げてきた現地には子供ともども住んでいる人も多いですし、少なくともこうした人たちが喧伝して来た「急性期の症状」は出なかっただけに、安全に関する政府等と避難者の主張のどちらに合理性があるかを考えたいものです。

不安だから、といって逃げた人の中には、沖縄や海外に逃げた人も少なくないですが、では我が家が「不安だから」(千葉県もホットスャbトとかで大変ですよね)と海外移住を決断したら公共は支援してくれるのか。言うまでもなく一蹴されるはずですが、それとのボーダーラインがグレーなケースを大勢救済しかねない流れと言えます。

今回の一連の記事で気になったのは、母子避難者の「母親」によるコメントで、看過できない「風評」が無批判で垂れ流されています。
つまり、事故直後にネットを中心に広まった、「福島の子供に放射線障害が多数出ている」の類の話が書かれているわけです。

鼻血が出た、口内炎になった、顔がヒリヒリする、といった「症例」を出し、だから大変だと思い避難しました、というのがお決まりのパターンですが、その症状が原発事故と関係があるのでしょうか。
これはこうした人たちの「デマ」と斬って捨てるだけに留まらず、事故から1年半近く経って福島に対する風評被害を与える重大な問題記事と言えるのです。

これは放射線と関係あるんです!と言い張るんでしょうが、科学的、疫学的に認められた相関が無い以上は、それを原発由来と主張することは「根拠がない話」であり、ましてや新聞がそれを掲載することは非常に問題です。

厳しいことを言えば、鼻血も口内炎も顔のヒリツキなら私もありますが、原発事故の前後で有意に差はないですし、原発由来以外の理由を説明が出来る症状であり、それを結び付けるのは想像力が豊かではありますが、論理的ではありません。

以前、沖縄に避難していた母子避難者が、沖縄で青森の雪を使って雪遊びをするイベントを中止に追い込んだ(結局復活実施しましたが)ことを厳しく避難しましたが、こうした「歩く風評被害」の害が顕著という客観的事実を考えると、政府や社会、メディアのすべきことは、科学的根拠のない避難を止めるように促し、また、避難を正当化するために自分達が風評被害をふりまいているという現実をきちんと指摘すべきでしょう。

二重生活などする余裕もなく、雇用から何から不十分な東北各地で頑張っている被災者の人たちに対して、逃げるだけの経済的余裕があるわけです。ならば公的支援はどっちにあるべきかは言うまでもないでしょう。






ウナギに代打は送れるか

2012-07-29 11:19:00 | ノンジャンル
未曾有の高騰と言う大逆風の中で迎えた今年の土用丑の日ですが、やはりというか盛り下がってましたね。中国産どころか世界中のウナギをロンダリングして国内産の看板を鰍ッていると報道されていることもあり、これってどこのかな?とつい邪推してしまいましたし。

消費者の自衛が利きすぎたのか、夜になるとスーパーは投げ売りを始めており、結局昨年の正札並みで買えたというオチはあるのですが、家族で敢えて2種類の産地を混ぜたところ、味のほうは「これってどこの?」というのが混じっていました(苦笑)

まあ「恒例行事」とはいえ自衛されてしまうようなレベルですから、シラスウナギの取引も含めて冷静になった方がいいでしょうね。どんなに高くなっても日本人はウナギを食べる、というのは実は少数なんですから。

一方でウナギがダメなら、と言う商戦が目立ちましたが、これもどうだかの世界です。
土用丑の日のウナギと言うのが、単に盛夏にスタミナ食を食べる、という事象であれば、「う」の字つながりで「うし」のステーキとか、その他の獣肉や魚肉による蒲焼風でもいいのかもしれませんが、そこは「行事」の行事たるゆえんを分かっていない話でしょう。

「ウナギ」を食べるのに意味があるのであって、それこそアナゴやドジョウでも意味がないのです。秋にマツタケに憧れるがお値段が、というと、シメジやシイタケもおいしいのに、と言う人がいますが、それと一緒で季節にまつわる「記号」としての食材と言うことに意味があることが分かっていません。

もちろん土用丑の日にウナギを食べるという風習が、江戸中期の平賀源内のキャッチコピーが由来と言うことは有名で、ゆえに伝統でも歴史でもないとは言えますが、少なくとも恵方巻よりはしっかりした伝統でしょう。余談ですが、「節分」は立春だけでなく立夏立秋立冬もあると、流通業界が年4回恵方巻を売ろうとしていますが、土用丑の日のウナギですら諦める家庭が多い中、流通業界の売らんかな感が強い恵方巻がある年突然消えない保証はありません。

話を戻すと、こうした「記号」としての特定の食材、商品が「不調」の時に、安易に「代打」を出す、「代打」がある、という向きがありますが、赤福事件もそうでしたが、記号性のあるそのものズバリの商品に意味があるのです。
このあたり、「代打」に意味がないという日本人の感覚をもう少し理解してほしいですし、消費者の側も安易な「代打」に飛びつくくらいなら、全く別の「主役級」にスイッチすべきでしょう。






件pへのリスペクト

2012-07-29 10:46:00 | 時事
もう少しこの問題を続けて見ましょう。
実は私自身、文楽に明るいかと言われればそうではなく、外題程度しか知らない物が大半ですし、見てきたと言えるほどでもありません。これはオペラや歌舞伎も同じですが、では自分に馴染みがないから、とか、自分に合わないからという理由で否定したり、あまつさえ自分好みに変えるべしという僭越な発想は思いもよりません。

件pと言うのは難解ですが、それが理解されて今日の評価につながっています。そういう評価の確立したものに対しては半可通がケチをつけることは愚かですし、普通なら分からないなりに見ていれば何か自分なりに感じるものがあるわけで、それが評価の源泉といえます。
今回大阪市長があれこれ批判しているのは、「権威」が作った虚像と言う筋立てで、自分は「王様は裸だ」と叫んだつもりなんでしょうが、馬鹿には見えない衣装は本当に存在したというところです。

まあそれにしても文楽(人形浄瑠璃)で曾根崎心中を批判と言うのは肝が太いというか、ナントカ蛇を怯えずという感じです。ご存じ物は筋立てから台詞回しまで周知のものであり、それを演者がどう演じるかを楽しむものでしょう。これを勘違いしたのが石坂浩二の水戸黄門で、史実に近づけて却って不評だったのも、ご存じ物がなぜご存じ物かを理解してない演出だったからであり、今回の的外れな批評もそれと類似です。

曾根崎心中の要は近松の美文。お初、徳兵衛の道行を読んだ荻生徂徠が、心中など肯定も出来ない儒学者でありながらこのくだりには絶句、脱帽したというエピソードがある位です。
文楽は見たことが無くとも、古典(古文)その他で読んだ人は多いはずで、文楽での曾根崎心中が初見なら、名高いこの場面を実際に見るのが楽しみになっておかしくないですが、全く気付かずに終わったのでは話になりません。

ちなみにこの曾根崎心中が1955年版ということで伝統を否定している人が多いですが、江戸期は幕府の政策で上演禁止となり、明治期は江戸文化を否定して西洋化に流れていた時代です。歌舞伎に対する「新派」、さらには「新劇」と、江戸文化は因循姑息とされてきた時代です。
加えて大阪では工業化が他に先駆けて進行したことで、軽くて肩の凝らないお笑いが好まれるようになったわけで、これが吉本の発達と文楽や落語の衰退を招いたとも言えます。

大正デモクラシーの時代も含めて日本の伝統文化は低く見られ、国粋傾向が出てきた昭和戦前は世話物のような軟弱な舞台回しは時局に合わないわけで(谷崎の「細雪」も連載中止に追い込まれた)、戦後、占領が終わり、これは翌1566年ですが「もはや戦後ではない」と宣言できるようになって文化を顧みる余裕が出来て「復活」したのです。


文楽そのものは見たことが無くても、それくらいの背景は「関西の王」を目指すのなら当然の教養として持ち合わせないと、京都などを率いることなんかできませんね。

ネット上では自身の下ネタ騒動と絡めた批判も出ていますが、曾根崎心中も当時の事件を題材にした世話物、ということで、「脚本が古臭い」と言う批判にも応えてみましょうか。

「大坂代官閨の諍い」とでも題して、茶屋遊びが過ぎた代官が、奥方にやり込められるというショートストーリー。
見どころは茶屋遊びのシーンで、茶屋女の衣装がどんどん変わるという趣向。

まあ、最後は冗談というか軽口ですが...