Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

メ[タルの「ニュース」について

2016-01-27 18:44:00 | ノンジャンル
ようやく寒波が去りつつありますが、普段寒さに慣れていない九州では、水道管の破裂など後遺症が続いています。まあ台湾のように暖房器具がそもそも無くて低体温症で亡くなる人が続出、と言うことに比べればマシとはいえ、普段経験したことが無い事態は想定外の結果を招きます。

さて、今回の寒波ですが、確かに南九州などでも大雪となり、沖縄本島で史上初、奄美では115年ぶりの雪(みぞれ)が観測されるという未曾有の事態でした。それだけの寒波ですから事前の備えや警戒も必要なんですが、にしてもちょっといかがなものか、という事例が散見されました。

今回の寒波に関する情報は、ネットのメ[タルに掲載される「ニュース」にも多数掲載されていましたが、目を惹いたのは、今回の寒波は未曾有の寒波であり、食料を買い込んで籠城すべし、という気象情報会社のものでした。
物流が途絶する可能性を指摘しての話ですが穏やかでない話で、注目度の高いメ[タルサイトへの掲載だけあって、実際に行動に移した人も少なくなかったようです。

ただ、物流が数日間途絶する、と言うような事態になったかというと微妙であり、あったとしても地域、規模とも限定的なものだったわけで、特に地域を限定しないで推奨していたことから、小売の在庫が消えた地域や規模はそれをはるかに上回ったと思われます。

東日本大震災のあと、余震に怯えて食料を買い込む傾向に苦言を呈する傾向が見られましたが、地震という明日起こるかもわからない災害に備えての行動に対し、時期も規模も想定がつく「雪害」に備えてそこまでする必要があるのか。急を要するとはいえ、「今日の今日」での話はどう見ても煽りすら感じる内容であり、相当な違和感を感じました。

このあたり、メ[タルサイトへの採用と、それに伴う宣伝効果(&広告料収入)を計算して、記事を過激にしていないか。特に競合サイトとの「差別化」を妙な格好で図っていないか。
ちなみに今回の配信元である気象情報会社は、公的機関よりも木目細かい、そして時には正確というのを売りにしているわけですが、今回の「情報」はどうなのか。公的機関が情報統制しているけど、本当は大変な事態になるはずだった、と断言できるのであれば、ああいう記事もありでしょうが、公的機関がそこまでのリスクを考えていないのに、そこまでの判断をした理由は何か。一歩間違えれば小売の店頭で奪い合いになるといったパニックになる危険性もあるだけに、表現方法に問題は無かったのかの検証が必要でしょう。

メ[タルサイトのほうも、その掲載基準をもう一度見直すべきでしょう。
一定のヘッドラインを並べる必要があるとはいえ、玉石混交でもあり、事業者の公式に掲載されていない情報が見出しになって独り歩きをしているケースもあります。URLが引用されて拡散する場合も、まずメ[タルサイトのニュースコーナーとしてのURLが出るわけで、よく見ると元ニュースの識別が出来るが、SNSの場合は短縮形でもあり、元の掲載母体次第で読者も心構えが出来るのにそれが出来ない状態です。

特にYahooのように個人の評論をニュースの体裁で並べるのは、ある意味誤認を誘いかねないわけで、真実が担保できない(「報道機関」が担保できない)記事は決して「ニュース」ではありません。


世間も会社も動いていると言う現実

2016-01-26 21:45:00 | ノンジャンル
首都圏は降雪のたびに交通機関が混乱するのですが、こうしたコンディションでも何が何でも通勤する、ということ自体への批判があります。
自宅待機を命じたり、在宅勤務にすると言った会社側の対応や、個人の側でもフレキシブルに休めばいい、という主張ですが、なかなかそうは行かないのが現実です。

そもそもの話として、こういう気象「災害」で社会の活動は停止しているのでしょうか。米国では大雪で非常事態宣言が出ている、といいますが、では経済活動は停止しているのか。ブルーンバーグの記事がヒットしたのですが、一つのベンチマークとして2012年のハリケーン「サンディ」でNYSEが2日間休場したと言うケースがありますが、大雪では1996年の取引時間短縮がある程度です。

なかにはBCPを持ち出す人もいるようですが、その多くは覚えたての言葉を使ってみましたレベルでしょう。BCPを持ち出すのであれば、それこそ「災害」が過ぎ去った後の復旧が肝要であり、社会インフラが可及的速やかに復旧し、各業界も息を吹き返す、という前提ですから、社会インフラに属する事業者が復旧に手間取ると言うことはそれこそBCPを阻害するものです。

それはさておき、地震、水害といった災害による支障が長期間にわたることが想定される際の対応がBCPであり、やり過ごして回復次第平常に復帰できるレベルでBCPを持ち出すのは牛刀で鶏を割くようなものです。同時に、その程度であれば社会の活動、経済活動は動いているわけです。東日本大震災のように、法令で期限が定められていたものに対する猶予が認められるようなモラトリアム(モラトリアムの最たるケースが決済の猶予です)が発動するレベルの災害であれば、経済活動も止まります。上述の「サンディ」襲来時がそうでしょう。

そこに至らないレベルの場合、これは「いつもより早く出ました」「ホテルを取りました」という個人レベル、あるいは会社の対応で乗り切らないといけない、ということです。もちろん在宅勤務で対応できればいいですが、そうは行かない部分も多いわけです。
ちなみに大雪や台風は予測がつく災害ですから事前に準備も可能ですが、地震のように予知できない災害は対応が無い状態からスタートします。東日本大震災の後最初の営業日となった3月14日、計画停電がスタートし、政府が出社を控えるように呼びかけても出社しようとした人が多かったのも、対応そのものを発動させるためには出社しないとどうしようもない面が大きかったからであり、一定数の通勤流動は大災害直後であっても発生するのです。

にもかかわらず、出社するほうがおかしい、と単純な発想で批判するのは、それが世間に疎いのであれば致し方がないですが、企業に身を置いている、特に経営に携わっている人が軽々にそういう発言をするのを見ると、それはビジネスを継続する手配をしたうえでの批判と同一視されやすいですが、全く別物であり、従業員の「努力」も見えていない問題発言の域といえます。


「日本人」でいいじゃないか

2016-01-25 23:01:00 | ノンジャンル
さて、琴奨菊の優勝に際し、「日本出身力士」という奥歯に物が挟まったような表現が横行しています。
日本国籍を取得している旭天鵬が優勝しているため、「日本人」の優勝としてカウントすべきというクレームがでたからなんでしょうが、あまりにも形式主義と言うか、「日本人」というと「ナショナリズム」云々にくわえ、国籍という形式で揚げ足を取る気満々のクレームにおびえたというか、そもそもメディアがクレームをつけそうな勢力のシンパというオチもあるためか、一種のャ潟eィカルコレクトネスとしてこういう妙な表現が出回っています。

ボクシングの「日本のジム所属」も微妙な表現ですが、これもャ潟eィカルコレクトネスの世界であり、「特別永住者」などの扱いを考慮したものですが、カテゴライズをそうしたために、日本のジムに外国出身ボクサーを所属させたケースも含まれることになり、違和感を覚える人も少なくありません。

要は「日本人」をどう捉えるのかですが、国籍という形式的基準ではなく、出身も考慮した「一般的な」認識にあわせればいい話です。
逆に出身は日本でも、国籍を離脱しているケースをどうするか。ノーベル賞受賞者に対しては明らかに「日本人」としているわけで、日本出身で米国籍は「日本人」として、外国出身で日本国籍も「日本人」は基準が一定でないですね。

ドナルド・キーンの名著に「私が日本人になった理由」があるじゃないか、と言われそうですが、世界基準で言えば「アメリカ系(欧米系)日本人」でしょう。米国でも統計上は出身で細かくカテゴライズしてるわけで、逆に「米国人」というカテゴリーはそれこそ戦時とか「国家」を強く意識する時や、政治や社会保障に関する場合を除けばそこまで意識されず、意識するのは「中国系」「イタリア系」といった出身です。

じゃあ「日本出身」でいいじゃないか、という批判が出てくるでしょうが、言い換えである「アフリカ系米国人」「ネイティブアメリカン」と言ったャ潟eィカルコレクトネス絡みを除けば、「系」は「人」と概ね扱われるわけですが、中国籍を持っていないのにチャイニーズはおかしい、という人はいるでしょうか。

そう考えると、「日本人」ということに何か不都合があるのか。「日本出身の日本系」を日本人と呼ぶことに遠慮をするほうがおかしいわけで、「広義」「狭義」とか、「法律上」といった状況でカテゴライズが変わるものだ、と柔軟にとりたいものです。


初場所が終わり

2016-01-25 23:00:00 | ノンジャンル
初場所が終わりました。
日本出身の力士としては栃東以来10年ぶりとなる琴奨菊の優勝となりましたが、琴欧州と把瑠都も優勝していたんですね。モンゴル勢が全部だと勘違いしていました。
今場所の琴奨菊は見違えるような取り口でしたが、押し相撲(厳密にはがぶり寄りですから四つ相撲ですが、出足一気の馬力相撲なんで押し相撲に近いでしょう)特有の「波に乗る」感が今場所は特に強かったですね。
往年の琴風や荒勢ほどの「型」はないですが、いかにも「お相撲さん」らしい取り口の快進撃は見応えがありました。

琴奨菊に完敗した3横綱ですが、特に白鵬の相撲ぶりがおかしかったですね。14日目の稀勢の里戦がその典型ですが、あれは痛くもない腹を探られてもおかしくないでしょう。栃煌山戦で先場所の猫だましに続いての注文相撲は大ブーイングでしたが、あんな「余裕」をかましたような注文をする反面、終盤の気合のなさは遺憾です。ただ14日目は控えに入るタイミングが非常に遅く(中継でも言及あり)、痛めている肘になにかあったのかもしれません。

ちなみに琴奨菊は豊ノ島の取ったりを喰ったのが唯一の黒星になりましたが、下位の奇襲なんですよ。あるいは小兵の業師。決して体格に恵まれた「大横綱」が多用するものではありません。

大関陣は豪栄道が大敗で来場所カド番。稀勢の里もクンロク。三役陣も嘉風がようやく勝ち越しただけ。平幕を見ても目立つのはそれこそ最後まで優勝を争った豊ノ島くらいでしょう、活躍が目立ったのは。そういう意味では面白味に欠けた印象です。
ちなみに注目していた勢ですが、初めて横綱を喰いましたし、白鵬戦もいい感じだっただけに、星は大きく負け越しましたが成長は見えました。あとは正代でしょうか。来場所中位から上位に当たる位置でどうなるか。

さて、今場所というか、かねてからの持論ですが、公傷制度を復活すべきでしょう。メディアも指摘していますが、遠藤が怪我を庇いながらの相撲も限界で休場し、十両陥落が確実になったこと。他のスメ[ツ、特に格闘技で怪我に対して救済もなく無理を押して出場することを事実上強いられる競技は無いわけで、中途半端な相撲で負け越しを少しでも少なくするというセコい相撲にならざるを得ないのでは、プロスメ[ツとして観客に対しても失礼でしょう。

休場といえば今場所はインフルエンザで行司や審判までが「休場」しましたが、不戦敗と合わせて2日や3日で再出場しているのはどうか。
学校だとそれ以上の登校停止になるわけで、「感染源」になっている可能性もありますし、なによりも観客への感染リスクも指摘できます。
公傷とあわせて、傷病休場の基準を設けて、プロとして見せるに足る状態を確保すべきでしょう。

あと、今場所指摘したいのは審判の質の低下、いや、劣化でしょう。
差し違えが続出したのですが、その審判団の判定に批判が集中しており、審判部は「流れは」と強弁していますが、ならばビデオは要らないでしょう。ビデオ判定が導入されるきっかけとなった大鵬ー戸田戦の「世紀の誤審」に対する世間の批判に対し、時の理事長が「ビデオなんて当てにならん」と言い放ったそうですが、今場所の対応はそれに近いものがあるわけで、14日目も中継のアナも解説者もあからさまには言いませんでしたが、審判がおかしいと言いたそうな口調になるシーンがありました。

完璧を期すのもいいですが、確認目的で物言いをつけることでその都度進行が止まるのもいかがなものか。しかも手を挙げるタイミングが遅く、勝ち名乗りを上げかけて慌てて手を挙げるケースが目立ちました。特に初日の天覧相撲でそれが連発したのは不細工の極みであり、これが相撲通の昭和天皇なら「ひとこと」あったかもしれないような事態です。



「当たり前」は付加価値ではない

2016-01-23 19:23:00 | 交通
モーニングウィング、朝のTJライナーと相次いで登場してくることで、メディアが「有料着席サービス」マンセー記事を垂れ流しています。今日の東京朝日夕刊がまさにそうでしたが、確かに需要はあるし、自分自身総武快速線のグリーン車をちょこちょこ使っていますが、それでも「有料着席サービス」を全面的に是とすることには違和感を覚えます。

着席を「サービス」と考えること自体がずれているわけで、当たり前の状態をサービス、あまつさえ「付加価値」というのが公共交通であれば、それを使うことを「強制」するモビリティマネジメントなんかは、いわゆる「社畜」よりもマゾヒスティックな対応を強いるわけで、「当たり前の状態」が提供できていない状態に対して異を唱えていかないと、世の中は良くなりません。

かつての「アクティ」、今の京急A快特のように、ラッシュ時の有料車両を日中は一般列車として提供するのであればまだ許容範囲ですが、専用車両という位置づけになると、日中遊ばせるわけにはいかない、ということで、本来可能なはずの座席提供を絞り、有料サービスへの誘導を図っているとしか思えない状況が実際に起きているだけに、パブリシティ記事のマークを付けるべきと言えるマンセー記事の行き着く先は、「座りたかったら別料金」という世界でしょう。実際、最近の通勤型はバリアフリー対応を錦の御旗に立席スペースを大幅に増やしたり、優先座席を増やしていますから、一般の座席提供数は相当減っています。

「当たり前の状態」が「サービス」になってしまうのは、独占状態だから、というのは自明の話です。競合が常にある飲食店で、「箸や食器を別売りにすれば儲かる!」という発想をする間抜けがいないのも、競争原理の下ではそういう客から搾り取るという発想は不可能だからです。あるいはLCCのように必ず発生する代金支払いに手数料を取るというのも「当たり前」に金をとる発想ですが、こちらは「本体」をそれ以上に勉強しているわけです。

こういう記事には、成熟化して乗客が増えない鉄道会社は料金収入に頼るしかない、というコメントをもっともらしく述べる「専門家」が湧いてきますが、こういうときだけ「民間企業」「営利企業」の論理を振りかざして「当たり前」に「追加」を払うことを正当化していますが、そういう「専門家」は往々にして「公共交通は公共の補助がないと無理」とか、公共性を前面に出して公的支援を正当化しているわけで、常に事業者目線で立場や論拠を使い分けているわけです。

まず一般車両の混雑緩和を図る。そこで事業者の手に負えない部分は「公共交通の輸送改善」として公費を積極的に投入する。事業者と公共はまずその「王道」を進まないといけません。時世時節に応じてあるべきサービスは向上、進化するわけで、それに応じて負担増をお願いすることは否定してはいけませんし、新規需要が見込めないからと向上、進化を止めることは許されません。それができるのは独占状態だからであり、向上や進化は本来自由競争が原則なのに独占が認められることの対価として事業者が負担すべき部分です。
その意味で、安い運賃を守るために、という理由で3/4の減車というサービスの切り詰めを行った新京成は、安かろう悪かろうに安住することを良しとしない利用者からは非常に評判が悪いのです。

公費の投入としても、通勤ラッシュの改善というのは最大多数の最大幸福になる費用対効果の高い事業です。
「あるべき姿」「最小限の水準」が充足できていない状態の改善です。マイナスからのスタートです。それを考えると、「交通の維持」と言いながら、バスでも可能な対応に対して過剰な軌道系交通を導入することに公費を投入するのであれば、限られた財源をどう配付すべきなのか、という議論も可能でしょう。社会派諸氏の中では、公費を投入して(過剰な)軌道系交通を推進することと、(あるべき姿のはずの)着席サービスを付加価値とすることは両立するようですが。

あらゆる分野で、過去よりも高性能なものが提供されており、かつ物価指数等を考えたら消費者の負担は悪化していない。というのが世間の常識でしょう。然るに独占状態を約束されている公共交通においては、そうした既存マーケットに対する「改善」が何故止まるのか。公共とともに汗をかき、利用者も「付加価値」ではなく全体の底上げとしてのコストアップを理解する。あるべき姿に対して「いびつ」であり「異常」なのが足下の流れである、ということを考えていかないと、公共交通はますます「悪かろう」の暗黒面に堕ちていきます。