Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

仕分ける側の資質

2010-10-31 22:57:00 | 時事
第3回目の事業仕分けが終わりました。特別会計に斬り込むとの触れ込みでしたが、成果は乏しく、3回目ともなると飽きも来たのか関心もかなり低くなっていました。

事業仕分けに関しては常々批判しているわけですが、その発想自体は悪くは無い、というか、民間では事業の見直し、棚卸しということで当たり前の話であり、有効な仕鰍ッなんですが、いかんせんそれを運用する政府与党の人材に難があるわけで、いかに良い仕組みであっても、運用がまずければ有益どころか有害になるというのが「事業仕分け」の反面教師的結論と言えます。

今回も本番に先立ち与党のチームが空港特会の現場を見るとでもしたのでしょうか、赤字幅の最も大きい新潟空港を視察したニュースを見ましたが、流れていた仕分け人の与党議員の発言に、こりゃダメだ、と嘆息しました。

確かに無駄を省くという視点は必要であり、新潟空港が過剰な用地を持っているのは事実でしょうが、ではその用地を「転売して宅地にしないのですか」という発想をする仕分け人ってどうよ、というわけです。
空港隣接地を住宅にしてどうするんですか。いかに便数が少なくとも、日に20往復以上が発着するわけで、騒音だって少なくないですから、こうした非常識な発想が出てくる時点でドッチラケなわけです。

そしてやはり気になるのが「仕分けの女王」でしょう。
舌鋒鋭く切り込むパフォーマンスは長けていますが、その資質に大きな難があるわけです。

そもそもこういった見直し、削減といった「痛み」を伴う施策を行う側には、通常以上に自らを律する姿勢が求められます。企業でも経理や監査といった部門には、全社レベルの行動規範とは別の厳しい行動規範が義務付けられているところが少なくありません。

そうした視点で見たとき、彼女の行動はどうか。
仕分け対象の反論、言い訳、理由に一切耳を貸さずに結論ありきで押しつける一方、息子のマジコン疑惑、そして自身の国会内撮影の問題における見苦しいまでの言い訳、言い逃れと、決して非を認めようとしない姿勢はどうなのか。

この手の業務に就く人間に絶対にあってはならないのがダブルスタンダードであり、それがあるとすべての信頼性を失うのですが、彼女の対応はまさにダブスタを地で行くというか、人に厳しく自分に大甘という救い難い状態です。

上のなすところ、下それに倣う、じゃないですが、一事が万事の喩えもあり、こうした仕分けをする側の資質が、この政策に対する信頼性を大いに損ねていると言えます。



中国にも劣る姿勢

2010-10-31 22:54:00 | 時事
「地球生きもの会議」は最終日の未明に何とか名古屋議定書を採択して閉幕しました。

今回の議定書は京都と違い努力目標であり、義務は負わないので万が一の時の実害は少ないですが、それでも採択したことの責任は残ります。
また、陸上及び海洋の保護区域の設定についての規定がありますが、「極東の小国」と思われがちな我が国は、排他的経済水域に関しては米国、豪州、インドネシア、ニュージーランド、カナダに次いで世界第6位の「大国」であり、そこでの経済活動を縛られかねないということの意味と影響を真剣に考えたのでしょうか。

環境相は議長国の責任を果たせたと満足していますが、そこに「国益」という視点が抜け落ちていることは京都と全く同じであり、そもそも参加していない米国、そして日米を足を引っ張って引きずり降ろす政策のEU主導という本会議に無邪気に乗っかる様子は非常に危険です。

このあたり、「議長国」という名誉に目がくらみ、義務を果たそうと必死になる日本人の悲しい性を逆手に取られる傾向があると言ったら言い過ぎかもしれませんが、国益よりも会議の取りまとめを優先して必死になる環境官僚の姿を見ると、ものの見事に嵌められている気がします。

さて、「先輩格」の京都議定書関連で興味深い話を聞きました。
中国がここにきて国内で民生向け電力供給の突然の停止をしているそうです。
漏れ聞こえてくる理由としてはCO2削減目標の数字が整わないことから、無理やり発電量を絞ることで石炭火力を中心とする発電所からの排出量を抑えているとのことです。

一党独裁の中国らしいやり方と言えばそれまでですが、そこには中国らしいしたたかさが見え隠れします。

国際会議、条約における義務については絶対に譲らず、自国不利になる義務を対外的には負わない姿勢を貫きながら、対外的にアピールできる実績を貪欲に作りに行ってるわけです。これにより「中国はCO2削減を達成した」と声高にアピールするつもりでしょうが、自国経済に不利が発生しない範囲で、対内的には強権的と言える手法を使ってでも数字を作るという姿勢、あまり賛同はできませんが、国益という観点で見れば上手なやり方です。

ひるがえって我が国を見れば、自国経済を破壊してでも守らねばならない国際公約に縛られ、何の数字も残せないという中国と正反対の結果では、ため息が出るばかりです。




京都の次は名古屋?

2010-10-25 22:22:00 | 時事
COP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が名古屋市で開かれています。
メディアは「地球生きもの会議」と銘打って報道しており、なんか牧歌的な雰囲気を醸し出していますが、本質はそんなに甘くありません。

というよりも、例の京都議定書と同じ危険な香りがするわけで、「地球生きもの会議」と名付けて取り仕切るのはこれまた同じく環境省、官僚の名にも値しないような国益ガン無視の連中が何をしでかすのか、十分注意して見ていく必要があります。

そもそも生物の多様性といいますが、本当にそれを守ることがいいことなのか。人為的というのも結局はある「種」が優勢に立つことで変化してきたこれまでの地球環境の一環でもあるわけで、不自然に棹差すことではないのでしょうか。

何十億年の地球の歴史の中で、弱肉強食の世の中で絶滅に追い込まれてきた生物はそれこそ数限りないはずでしょう。捕食による絶滅も「人為」と同じ類のはずですが、なぜ人間の所為だけ殊更に論うのか。

結局そこにあるのは、人間の所為は認めない、反文明の思想であり、普遍的な真理ではなくイデオロギーに基づいた主張なのです。

そして「生きもの」を活用することに対する利益配分の話になると、まさにそれは国益の衝突であり、「資源」として金になる流れが見えてきた以上はドロドロとしたせめぎ合いが続きます。

そういったイデオロギーの介在や、国益の問題がある中で、会議が膠着状態に陥っているわけですが、ここで我が国は京都議定書の失敗を繰り返そうとしているように見えるのです。

つまり、ホスト国なんだから会議を成功させたい、という官僚的な功名心だけが先走り、国益を損なうような結論に我が国を嵌めようとはしていないか。
京都議定書がいかに不公平で、我が国にきわめて不利な結末になって当面祟ろうとしていることを考えると、今回の「名古屋議定書(仮称)」が再びその愚を犯す可能性は非常に高いです。

「生きもの会議」と牧歌的なイメージに騙されていると、この結果が、穀物等の基礎的食物や、畜産等の飼料として不可欠なものの国際貿易に大きく影響を及ぼすことに気がつかず、議定書を結んだあとで絶望的な事態になることも十分考えられます。

そう、京都議定書はそれでも産業の発展を縛る「だけ」ですみますが、「名古屋議定書(仮称)」は、我々の食料確保そのものを揺るがす危険性があるのです。

「ぼくたちのちきゅう」は確かに大切ですが、現実は「地球市民」的発想のお花畑ではありませんし、そのようなお花畑の所為で日本人だけが不当に犠牲を払うような結果は絶対に認められません。
京都議定書で我々を陥れた環境官僚が仕切っているだけに、どうしてもその懸念が消えません。








無能な外交?

2010-10-24 17:48:00 | 時事
中国の反日デモは甘粛省に飛び火して収まる様子が見えません。
とはいえ全土で燎原の火のように多発する様子でもないあたり、全国民的運動でも、官製運動でもない感じです。実際、最初の発生となった成都でも、翌日にヨーカドーが開店した際、しっかり中国人買物客が開店を待って並んでいるわけですし。

そういう意味では政府も庶民も「別に?」というようなスタンスの中で突出した感のある運動がいったい何を意味しているのか。きっかけは何でもいい、という感じの「お祭り騒ぎ」にも見えます。

さて、今回の事件で中国方の反応を注意深く見ていると結構慎重な様子すら見えます。
原理原則論を声高に言って押し通す、という感じでもなく、原則は曲げないけどだからそれで事を荒立てるつもりはない、という印象すら受けます。

その原因の一つはビデオの存在であり、どうも疑心暗鬼になっているのでしょうか、下手に騒いでビデオで中国にとって致命的な内容が出てきたらどうしよう、そういう迷いが見て取れます。
そう考えると、腰抜け外交の極みと言われているビデオ非公開の方針も、おそらく民主党政権にそこまでの策士などいるわけもないでしょうが、結果として好結果になっているのかもしれません。

その民主党政権に対する「不信」も足元の「冷静な」対応に表れていると言えます。
国交相の発言に対する批判をした中国政府ですが、その一方で日本政府の窓口が見えない、腰が据わっていないという当惑があるという英字紙の報道を見たことがあります。

要は強く言うにしても言って利く相手か分からない、言って損するのでは、という思いが根底にあるということです。これでは事態の解決も収拾も出来ないわけで、普天間を巡る迷走で米側の信頼を失墜させたのと同様、今回は中国の信用も失わせる、というか呆れられる結果になるのかもしれません。

もちろん相手の信頼を得るために媚を売る必要はありません。
問題なのは喧嘩をするにしても仔細が分からないのではやり様がない、という絶望的な状況にあるのです。



リバイバルと動態保存

2010-10-14 23:29:00 | 交通
ジャーナルの書評から派生した議論ですが、JR九州のリバイバルトレインってどうよ、と言う話です。

残り少ない国鉄型車両を使い、塗装を当時のものにしてヘッドマークをつけて一丁上がり、と言う感じですが、残存数が少ないと言う決定的な理由があるにしろ、短編成と言うのがなんとも寂しく、名列車の復活と言うよりも晩節を汚してしまう印象を持ちました。

特にブルトレの「復活」が厳しく、確かに最末期にはあったとはいえ4両編成の姿は痛々しいのです。
実際に4連だった「彗星」は閑散期減車ですが、カニ込みで5連だった「出雲」の末端区間が凋落の象徴のように扱われていたことを思い起こすと、さびしい短編成で「名場面」と評価するのはなんとも無神経な感じがしました。

時代考証も結構いい加減で、キハ67系に準急時代の「あさぎり」のマークを掲出したり、47年前の災害迂回の1例のみだった肥薩線にブルトレが進出したりと、どうなんでしょうね。

このあたりは一時期のJR東日本が「なつかしの...」シリーズを乱発していたことを思い出させますが、あの時も国鉄型の「在庫」を生かしていたわけです。まあ毎日が「なつかしの...」だった千葉支社の存在が大きかったわけですが。

しかしあの時は首都圏と言うこともあるとはいえ、実際の列車でもあったレベルの編成長(ただしグリーン車は消えていたのでモノクラスですが)で、走行区間も概ね当時に忠実でしたから、「名場面」と呼ぶに相応しかったことは確かです。

JR東日本のときも感じましたが、色さえあってれば若いファンは誤魔化せる、撮り鉄は珍しければ飛びつく、といったやっつけ感と言うか商魂が前面に出ており、本来リバイバルでは重視してほしい歴史の再現と言うものが等閑になっているのです。

さて、歴史の再現、保存と言う意味では、消え行く国鉄型車両の保存が進んでいないわけで、特に高度成長期以降のいわゆる「新性能車両」がここ数年どんどん消えていますが、保存はされているのでしょうか。

一方で蒸気機関車はかなり手厚く保存されているわけです。
梅小路での動態保存を筆頭に、JR東日本、西日本、九州では本線運転が可能な車両を所有しています。
また公園や学校などの保存展示品も多く、中にはその状態から動態保存化されるものもあるわけで、ストックの厚みを感じます。

このアンバランスをどう見るのか。近い将来、鉄道の歴史を振り返るにあたり、保存車両がろくにない時代が出来る危険性があります。

ただストックが多い蒸気機関車も心配事は多いわけです。
経年劣化はどうしても避け得ない宿命ですが、にもかかわらず本線走行などで「酷使」しているのです。

そもそも蒸気機関車の本線走行において、「貴重な産業遺産」の現物でを酷使する必要はあるのでしょうか。
経年劣化もありますし、空焚きで壊してしまったというトラブルもありましたね。
あくまで本物に拘る姿勢と、上記のようなご都合主義ともいえるリバイバルを比較すると、スタンスは逆でもいいのではとも思います。

JR九州の8620も元々復活にあたってボイラや動輪の新製をしており、その後の大修理で台枠まで新製していますから、8620を現代に新造したともいえるわけです。
それを一歩進めて、D51のレプリカ、C62のレプリカでもいいのではないか。「蒸気機関車が走行している」と言うシーンを見るだけなら、本物に忠実に製造されたレプリカでもいいはずです。

逆にリバイバルトレインのほうは、もう少し時代に忠実な再現が必要です。
そしてそれが可能なレベルでの保存があってほしいものです。
維持コストが、と超現実的なことを言われそうですが、鉄道を文化として次の世代に引き継ぐ意思があるのであれば、それくらいは必要でしょう。