Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

反クルマだからだんまりでいると

2018-08-30 21:37:00 | 交通
旧盆帰省で惨ドラに悩まされた話をしましたが、「あおり運転」がにわかにクローズアップされて「ボクあおり運転の被害者なの」というウルトラ勘違いが多発しています。ご丁寧にもSNSなどにアップして、そりゃお前車両通行帯や退避義務違反や、と炎上するケースも後を絶たないわけで、惨ドラの道交法違反による「妨害行為」が炙り出されたのは唯一の救いです。

これと横断歩道での歩行者保護義務が最近の取り締まりのトレンドですが、親の仇のようにクルマ排除を主著する向きからは手放しの称賛を受けているこのトレンド、常識で考えたらあってはならない話です。

道路交通法という法律の「一丁目一番地」には何が書いてあるのか。

第1章総則の第1条は「目的」として、「この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする。」とあるわけです。

確かに弱者保護は重要ですが、明示的に保護されているのは「目が見えない者、幼児、高齢者等」です。それが拡大解釈されて歩行者>クルマのヒエラルヒーを絶対視していることは、「交通の安全と円滑」「障害の防止」を実現するのか。甚だ疑問ですし、歩行者や自転車は故意の違反行為を黙認している現状は、罰則がある刑事法規としての性格が強い法律の運用としてあってはならない状況です。

刑事法の大原則として、「罪刑法定主義」があるわけです。これの対極が「罪刑専断主義」であり、近代市民法体系に移行する中で排除されてきたはずですが、20世紀に一時もてはやされた社会主義体制の中では「人民の敵」という名の下に形を変えた罪刑専断主義が復活し、20世紀末期の民主主義革命で排除されずに生き残った「赤い資本主義」諸国では今でもこの概念が生きています。

余談はさておき、刑事罰を課すには法令による定義が必要、というのが罪刑法定主義の原則です。どこが違うのか、という批判はありますが、適応範囲を広くとらえる拡大解釈までは許されますが、似たようなものだから、という類推解釈は排除されます。「脱法ドラッグ」が成分を変えて生き残るのもこのせいなんですが、じゃあ網を広く、となると、何でも適用できる余地が出てきて、でも全部適用すると収拾がつかなくなるから適用範囲は「お上」の主観で決まるのでは罪刑専断主義にほかなりません。だから庶民感情ではなんで取り締まれないのか、という疑問があっても、もっと大きな話でおかしくなるリスクを排除しているのです。

じゃあ足下のトレンドの「あおり運転」「横断歩道の歩行者保護」のどこが関係するのか。「あおり運転」かどうかを客観的に判断する基準がありますか、「横断歩道を渡ろうとしている」かどうかを客観的に判断する基準がありますか、という話です。現状はそれがなく、現場の警官が主観的に判断しているわけです。

上記のSNSじゃないですが、「あおられました」と110番通報をしたらどうなるか。客観的基準がないままに、実は「あおられた」側の法令違反が原因であっても摘発される可能性が高いです。
横断歩道はもっとひどいわけで、夜間荒天を問わず信号がない横断歩道に差し鰍ゥったら横断しようとする人がいないか注意、いや、注視しないといけないわけです。単に車道に並行に歩道を移動しているのか、立ち止まっているだけなのか、それを見分けないと道交法違反です。

あるいは横断が頻繁にある横断歩道はどうなのか。1人でも渡ろうとする人がいたら通れません、としたら、永遠に車は通れなくなる横断歩道が全国各地にあるわけです。横断歩道で商業施設と駐車場、駐輪場を結んでいるようなケースがざらにありますが、まず通れませんよね。これまではクルマが通り、途絶えたら歩行者が渡り、途絶えたらクルマが、という「譲り合い」で機能していたのに、足下の運用では待っている人がいるのに渡ったらアウトですから。

横断歩道あるあるですが、青信号になってもぼんやりスマホに見入って立ち止まり、点滅しだして慌てて渡る、とか、渡るでもなくぼんやり立ち止まるとか、そういうケースはどうなるのか。クルマを降りて「もしもし、渡るのか渡らないのかはっきりしてください」と尋ねないと大変なことになるわけです。

またより危険性が高い夜間や大雨のような荒天時と言った視界が悪い時にどう把握するのか。道路わきに常に注意、注視して運転しないといけないのか。「一丁目一番地」からどんどん乖離していますが、基準がなく警官の主観に委ねている状態ではどうしようもありません。

「取り締まり」「刑事罰」という非常にセンシティブな話につながるというのに、主観的基準という論外の対応がなぜ許されるのか。「あおり運転」は「あおられている」側に問題どころか法令違反すら認められるわけで、青信号で進行中信号無視のクルマが直前を横切り停車したので咎めたらなぜか被害者のはずが逮捕された、というシチュエーションとどこが違うのか。
「横断歩行者保護」も警察がそうあるべしとしている原理主義的な基準ではクルマが進めなくなるわけで、およそ公平な差配とは言えません。

こういうとよくわかっていないのだから大目に見ようとか、クルマは強者、歩行者は弱者とか、実に頭の悪い擁護が定番ですが、一定の知識と議了を具備している事が前提の国家資格取得者が理解していないというのであれば免許返納を強制すべき話ですし、何でもクルマが悪い、で片づけるのも、「やっぱりタバコは浮「ね」とうそぶくどこぞの病院長と同じレベルです。

そんな極端な話ばかり持ち出すのはアンフェア、常識的に運用するでしょ、という批判が想定されますが、「常識的に運用」に委ねることは刑事法では絶対に排除すべき事象という大原則が見えていません。もちろん該非がデジタルに決まることは少ないですから、グレーゾーンをどう扱うかは「常識的に運用」ですが、該非そのものを委ねることはあり得ません。




「止める」だけなら誰でもできる

2018-08-24 23:36:00 | 交通
関西を直撃した台風20号の影響でJRが大きく乱れました。
特にJR神戸線が尼崎以西で昼過ぎまで見合わせ、JR宝塚線も宝塚以北が同様に昼過ぎまで運休となり、神鉄が大池付近での築堤崩落で運休となったことから三田方面は孤立しました。
以前は須磨付近の高波で垂水方面が孤立、というのが定番でしたが、最近は三田方面の孤立も目立ちますね。

さて、物理的に動けなくなった神鉄以外の私鉄各線は一部混乱はありましたが基本的に動きました。その混乱もJRの不通による乗客集中であり、要はJRの「一人負け」です。

ここのところこういうケースが目立ちますが、まあ予防運休などの対応を絶賛する社会派諸氏やアカデミズムはひきこもりかなにかか、というわけで、明らかに過剰反応としか言いようがない事前の運休と、復帰努力が全く見えない収束への時間の空費は、社会インフラとしての責務を果たしているとは到底言えません。

少なくとも予防運休をしているのであれば、計画的に止められている電車は台風が過ぎ去れば順次計画的に復旧できるはずです。
ところがそうでないわけで、準備に時間がかかったという言い訳は本来あり得ない、とツッコミを入れないといけないのです。

暴風雨になっても動かせ、というのではありません。私鉄並みに動かせ、というだけです。今回16時には早くも半分以下の間引き(例えばJR神戸線の場合、普通が半分ですが、新快速や快速の運休と合算すれば2割程度しか走っていない勘定)というのは何とも早いわけで、間引き情報に慌てて退勤しても時すでに遅しで、間引きで大混雑というわけです。このあたりはJR西日本に限らず首都圏でも同様で、自分たちの間引きや運休予告につられて退勤を繰り上げるというのですから、本来は間引きまでは輸送力を増強しないといけないはずですがそれがない。東急や京急で一部対応しているのがせいぜいというところに闇があります。

JRが間引くことで帰りの足が奪われる、これが百貨店などの閉店繰り上げの主因です。従業員をリスクに晒せないから早く店を閉める。神戸市内の主な百貨店が15時半で閉めたのですが、退勤時に食料を買おうと思っていた人にとってはまさかの事態であり、スーパーやコンビニすら占めてしまう状況は、暴風警戒というよりも従業員対応としか言いようがないわけで、これも社会インフラとしての鉄道の早仕舞いが与える悪影響でしょう。

レーダーで位置も捕捉され、風や雨の様子も把握されているわけです。そんな中で16時の早仕舞いはどうなのか。私鉄各社が20時頃になってフェードアウトしたのがあるべき姿ですし、それが出来ないというのは判断能力がかなり低いです。

翌朝の運休はさらに問題でしょう。明るくなってからラッシュ時までのわずかな時間が勝負であり、そこで確認して再開の判断をする。私鉄各社は始発前にそれをしているのに、JRはなぜできないのか。
少なくとも基幹路線であるJR神戸線が全滅というのはあり得ない話であり、豪雨による地盤の緩みは確かにあるにしても、阪急、阪神、山陽の復旧と比べると絶望的に遅いです。

こう批判するとJRは広域で路線延長ガー、と頭の悪い擁護が続々湧いてくるわけですが、広域で路線が長いのであれば保守維持要員をその分多く抱えるだけでしょう。「雨15」の目視確認と同レベルで「あるべき姿」「あるべき要員」が足りていないからこうなるわけで、そこでコストダウンしていることは乗客軽視、いや、安全軽視ともいえます。




見えすいた「逆張り」

2018-08-24 22:56:00 | ノンジャンル
夏の甲子園は初の初夏連覇2回目の大阪桐蔭の優勝で幕を閉じましたが、やはりなんといっても金足農旋風が総てでしょう。
判官贔屓の国民性のツボにはまったブームは、熱中症問題などで100回目の節目の大会に漂う暗雲を吹き飛ばしてくれたわけで、メディアも話をそらすために必死に盛り上げていました。

まあ第1回大会では秋田県勢が準優勝というのも意外でしたが、農業系高校の準優勝となると台湾の嘉義農林以来というのも驚きで、地元中学出身のチームというのも大阪桐蔭に対するアンチテーゼとなって人気を集め、盛り上がったのでしょう。

ところが突然巻き起こった金足農旋風に対し、流れに乗るのではなく「逆張り」で金足農批判というか大阪桐蔭擁護を始める流れには呆れますね。世間の話題に乗りたいけど、尻馬に乗るようでみっともない、じゃあ敢えて金足農批判をすることで「時流に流されない」「俺ってクール」と勘違いしたのが評論家から倹lまで出るわ出るわ。

実力者を揃え、さらに伸ばす、勝つべくして勝つことを素直に評価しよう、というのは確かに正論ですが、じゃあ今回いっちょ噛みのように出てきた勢力がかねてから主張していなかったわけで、もっともらしいことを言っていても、要は逆張りで名を売ろうとしてるだけなんですよ。

まあ私のこの雑文も同じなんですけどね(爆)