Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

記憶に残る悪路 その2

2006-06-30 01:57:57 | 交通
シリーズ第2弾です。

ご紹介するのはR352。なんだ、国道か、とお思いでしょうが、これがなかなか凶悪です(笑)
新潟から栃木まで関東山地を横断する国道ですが、一般には北側からの尾瀬へのアプローチとして有名です。

このR352を走ったのは1993年の秋。尾瀬ハイクを志し、それも沼山峠からの尾瀬沼一周を考えました。
そこでむくむくと天邪鬼な精神が首をもたげ、沼山峠への起点となる尾瀬御池を通るR352、往復とも桧枝岐から塩原経由というのもおもしろくなく、往路は小出から入ろうと考えたのです。

さすがに遠距離で、ハイキングの時間も必要なので、深夜に関越道を走り、SAで仮眠。早朝に小出から山に分け入りました。ダートで名高い枝折峠経由はさすがにパスして、電源開発奥只見ダムの専用道路を開放したシルバーラインを行きますが、長大トンネルとわずかな明かり取りシェルターが連続し、R352に接続するトンネル内の分岐をやり過ごして奥只見湖へ。
ダムを眺めて、トンネル内分岐を銀山平に取り、ようやくR352に入ります。

ここからがなんともという区間。尾瀬方面に向けて渓谷を埋める奥只見湖に沿って進みますが、無数の谷筋を真っ直ぐ架橋せずに、ある程度、いや、相当先まで遡上して、小さな橋で越えてまた本流まで戻ります。中には路上河川(道床を固めて水が路上を流れるようにしている)もあり、全線舗装とはいえ狭隘かつ谷筋を一つ一つくねくねと辿る行程には息を呑みます。

息を呑むのは道の姿だけでなく、ちょうど紅葉のシーズン、渓谷と紅葉の美にも見とれます。あまり見とれると奥只見湖の藻屑に消えるので程ほどにしましたが。



この山峡のリアス式海岸のようなルートは延々と続きます。尾瀬観光の新ルートを上越新幹線の浦佐駅に求めた際、R352のあまりにものヘロヘロぶりに、シルバーラインで奥只見ダムにバスで出た後、なんと奥只見湖が果てるところまで湖上を船で行き、そこからバスというユニークな継走になりました。
その船着場まで来ると湖が果てるだけあって峡谷もおしまい。あとは高原の趣の道を御池に向かいます。

ただ、当時から沼山峠はマイカー規制で、御池に駐車しないといけません。ところが満車で、さらに進んで片峠を下った七合に行くか、手前に路駐するかという選択肢です。結局1kmほど戻り、まず大丈夫であろう場所に停めました。なにせ山間部ですから転落や落石に警戒するとともに、上述のバスが通るから、バスにとっては一杯一杯の幅員、邪魔にならない空間を探すのは案が骨が折れました。

この銀山平から御池、特に尾瀬口船着場までの区間は観光ルートからも外れた秘境です。
凶悪な悪路かというと、そうでもないですし、ある意味秀麗なルートですが、いやになるほどの谷筋越えの隘路では、楽しい「悪路」でしょう

出生率激減の陰

2006-06-30 00:23:55 | 時事
出生率が急激に落ちているそうです。少子高齢化の度合いも先進国で最悪だそうで、人口バランスが悪い老大国になりそうです。

その原因の一つというか、産婦人科の減少も気になります。自分の子供の時には気にも留めなかったのですが、その後のここ2、3年で激減しているそうです。
リスクが高い、激務だということですが、少子化の改善はまず産まなければ始まらないというのに、これでは話になりません。かつては価値観の違いという理由で晩婚や高齢出産、少子化が語られてきましたが、今になってあからさまに将来不安を理由にした出産意欲の減退が増えています。
そうした状況で、根本である出産そのものが出来ない、というのでは、来るべきものがきたという感じです。

さて、産科医の激減の原因に上がっているのが激務と訴訟リスクです。
医師は一人前になる途上で自分で診察科を決めるわけですから、医師の定員をよしんば増やしたとしても、低リスクで稼ぎのいい科目に流れてしまうでしょう。先日誘拐事件があった「セレブ」も美容外科で、1時間に100万円も稼ぐとあっては、だれがきつくて苦しくて訴えられる科を選ぶでしょうか。
とはいえ地域と科がバランス良く配分されるべき業種であり、国民の健康と生命を維持するという意味では治安維持や安全保障と同じ性格とも言えるのに、そこに自由を認めることに根本的な問題があるのともいえます。

ちなみにこの訴訟リスクですが、医師の間からは無知な司法関係者が勝手に有罪にするからやってられない、という批判が強いです。中には医師は医療事故、医療過誤でも免責にすべきという意見を堂々と開陳する人がいますが、業務においてミスであっても正当業務行為としてすべて免責されることはあり得ないわけで、明らかに思い上がった主張は国民の支持を却って損なうでしょう。

確かにプロのやることは尊重すべきです。100%がありえないことも事実であり、失敗イコール罪というものではありません。しかし、だからといって常に免責されるということはありえず、そのミスの度合いによってはプロであっても責任が問われる、これが世間のルールであり、医師以外のプロはそのルールにのっとって職務を果たしているのです。

とはいえ現実は医師に対して厳しい結果という流れになっています。それは事実です。
しかし、なぜそういう結果になっているかを考えた時、本来プロがそのミスに対する責任を取る取らないについて、自ら世間一般のルールに即して自立的に決めていればこういう結果にならなかったとしか言いようがありません。
「ミス」なのか止むを得ない「失敗」なのか、そこを曖昧にしてきた、さらには明らかなミスですら庇ってきた。こういう自浄能力や意識の著しい欠如がある限り、世間の基準で裁かれることを免れることはありえません。

医師は自分たちの基準に任せよといいますが、現実はどうか。
慈恵医大青戸の事件では、10ヶ月も経って逮捕されて初めて病院が陳謝しましたが、それでも基本的には彼らがあの術式を取り組んだこと自体は正当化するスタンスです。事件から4年以上経って有罪判決が出てもまだ争う姿勢を見せているわけです。医道審でも免許剥奪にはなっていません。

最近では千葉県循環器病センターで2年前に静脈に刺すべきカルーテルを動脈に刺してしまい、大量出血で意識不明になり、先日そのまま亡くなったという事故がありました。刺し間違い自体は直接見て措置をするものでもないのである程度あり得る事態ですが、亡くなるまで「医療事故」があったという届出をしていなかったのです。2年間も植物状態にしていたのに、死んでようやく事故扱い、というわけです。

こういう事例がぼろぼろ出てくるのはなぜか。まず医師側が、医療ミス、事故、過誤における公明正大な責任基準をつくり、世間が納得できる対応を積み重ねない限り、訴訟リスクを理由にした診療忌避など100年経っても理解されないでしょう。
こういう事例に対し、まず真面目な医師が非を鳴らすようになって初めて世間は、訴訟リスクを正当な理由として見てくれるのです。

宴の後

2006-06-25 17:30:35 | ノンジャンル
ワールドカップ、日本代表は結局2敗1分で終わりました。
こうして見ると開幕前に辟易するほどマスコミが盛り上げていたのも、この結果を見通していたからこそ「開幕前」に稼ぐしかない、という読みだったのではと思わしむるものがあります。

今回の戦績を受けて、後継監督人事や敗因の分析などが語られていますが、この敗戦、特にブラジル戦で誰もが認識せざるを得ない「世界との差」を前にして考えるべきはたくさんあり、まさに問題山積というところでしょう。
さて、ここで考えたいのは、「4年後」を見据えた話ではありません。
まさに「宴の終わり」となった今回の無残な結果を機に考えてみたいのは、ここ10年以上続いてきた「サッカーバブル」そのものです。

Jリーグの発足、そして「ドーハの悲劇」を経てフランス大会への初出場、2002年日韓大会、さらに3大会連続となるドイツ大会出場と、サッカーは日本の社会に根付いたかのように見えます。
しかし、ここ10年以上のサッカーの持ち上げようは果たして是なのか。バブルというよりも、サッカーの定着を強制させられて来たようにも見えます。

それこそ「ドーハの悲劇」の前、我が国でサッカーがどれだけ認識されていたか。
それで何か問題があったかというと別にあったわけでもなかったのも事実です。別に知る必要がないとはいいませんが、サッカーやワールドカップを特別視する必要があったのでしょうか。
当時もそのような疑問を呈した人は少なからずいましたが、「識者」とされる人々やメディアが「ワールドカップの意義」を滔々と説いてきたわけです。
結局はサッカーが定着はしましたが、結局は数あるスメ[ツのなかでサッカーだけが神聖視される、あたかも「高校野球」のような状態になったと言ったら言い過ぎでしょうか。

確かに世界のサッカー人口は多いです。しかし、だからと言って強迫観念のようにサッカーを取り込む必要もないのです。サッカーどころでないと国際社会で名誉ある地位を占められない、というわけではないことは、米国の現状を見れば一目瞭然です。

国営放送がテーマソング付きでメインのニュースに連日据えて来た現状が本当に正常なのか。
ニュース番組のスメ[ツコーナーのトップに据える価値はあれど、トップニュースに据える価値があるのか。見方を変えれば、確かにメディアはサッカーを持ち上げていますが、その実、国民の多くは醒めているのではないか。
サッカーくじの不振が伝えられていますが、そもそもサッカー人気自体が虚像であった可能性はないのか。米国でサッカーよりもフットボールや野球、アイスホッケーが人気なのと同様、日本では野球など他の楽しみがあるのであり、別にサッカーを無理に浸透させる必要もなかったのではないでしょうか。

前にラグビー人気の衰退を書きましたが、ラグビーのバブルがはじけたのは1995年ワールドカップでのニュージーランド、オールブラックス相手の歴史的大敗でした。
世界との実力差を思い知らされ、学生のコンパの延長線に過ぎなかった「作られた人気」が霧散したことで、長い低迷期に入りましたが、人気に頼らず地道に強化していく泥臭い路線を取れなかったことも低迷から脱せない理由でしょう。

サッカーも、ここでバブルがはじけるべきでしょう。そしてJリーグ発足前後から地道に取り組んできたレベルアップの長期構想をもう一度練り直せば、一度成功体験があるだけに、ラグビーのような悲惨な低迷をすることなく、いつか復活すると思います。


夕張の苦悩

2006-06-21 01:12:38 | 時事
夕張市の再建団体申請ですが、市側にも問題が大きいとはいえ、この市の抱える特殊条件を考えると、何とかならないのか、という部分もあります。

第7次石炭政策までの対策でビルド鉱として生き残りを約束されていた夕張新鉱や南大夕張鉱ですが、1980年代初頭に相次いで多数の死者を出す大惨事を起こしています。
これが引き金になり、という単純な話ではなく、それでもそれまでのスキームであれば再建は可能だったのに、国内炭保護政策を止めた第8次政策への転換、これが重なったのです。

夕張新鉱の場合、鎮火して再開すれば立ち直れる、そういう思いがあったからこそ、有名な「決断」があったのです。
まだ坑内に60人近い人間を残しながら、社長が「お命を頂戴したい」と泣きながら家族の承諾を求め、そしてまだ生きている人が残る坑内に「注水」して鎮火したという悲劇。
その社員の犠牲のもとにヤマを救うという決断も結果的に無駄になった政策転換だったのです。

閉山により人口は激減しましたが、こうした鉱山街には労災や事故などの補償的意味合いで、住宅に廉価に住んでいる主に遺族もいるわけです。
そうした人は移住するわけにもいきません。

国のエネルギー政策の影に、こうした犠牲になったり、その影響を大なり小なり受けている人がまだいるのです。
財政破綻と片付けるのは簡単ですが、こうした人を忘れない対応をするのも、犠牲の上に成立した繁栄を享受する我々の責務でしょう。