Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

海賊とその支援者を糾弾せよ

2013-02-28 20:37:00 | 時事
2月25日に米国サンフランシスコの連邦高裁が、反捕鯨団体シーシェパードが我が国の調査捕鯨の船団に対して行っている妨害行為を「海賊行為」と認定しました。
最近も南氷洋で船団に故意に衝突を繰り返しておきながら日本が悪い、日本がやったとぬけぬけと主張していますが、今回の認定はそのような詭弁が国際社会では通らないことを示したと言えます。

「海賊」ということは、その船がどのような国の旗を掲げようがその国の主権による庇護はなく、警察権の行使により取り締まっても文句は言えないわけです。マラッカ海峡やソマリア沖に出没する連中と同一認定であり、我が国がソマリア沖に海自を派遣しているように、厳しい対応で我が国の船団に対する海賊行為を撲滅しても文句は出ないと言うことです。

この海賊集団ですが、企業や国家ぐるみで支持、支援していることをどう見るか。
ソマリア沖の海賊に対する海軍力の行使や、マラッカ海峡の海賊に対する警察力の整備に見られるように、海賊は国際社会の敵と言うことは論を待ちません。

近年流行のフレーズを借りれば、海賊に対する警備行動は「テロとの戦い」であり、海賊支援者、支援国家はテロリストであり、ならず者国家といえます。
特に海賊行為の兵站をつとめる豪州は、最近も政府関係者が船団への衝突攻撃を擁護する発言を繰り返しているわけですが、まあ直接批判するのは厳しいでしょうから、まずはシーシェパードを「海賊集団」、攻撃などの一切を「海賊行為」と表現して、「海賊と海賊行為に理解を示す非」を訴えることから始め、それでも止まないのなら、「テロリスト」「テロ行為」と表現して、「テロ支援国家」とレッテルを貼るべきでしょう。

向こうは怒るでしょうが、「海賊」認定は我が国が勝手にしたわけではないのです。恨むなら米高裁を恨め、と言う話です。
そして我が国も「海賊対応」として警察権の行使を示唆すべきであり、海保か警察を同乗させて「海賊行為」に毅然と対応するぞ、と示すことが必要です。

国内の反捕鯨勢力がとやかく言うでしょうが、こちらも「海賊支援者」として批判すればいい話です。
捕鯨の可否や損得と言う相対論に持ち込もうとするでしょうが、まずテロを支援するのか、という部分でフィルタリングすべきです。


迷惑行為の放置が原因

2013-02-28 20:35:00 | 交通
錦糸町駅での車内トラブルから発展した斬り付け事件ですが、「トラブル」として片付けるべき話ではありません。

そもそもの発端が犯人による迷惑行為と言う部分をきちんと認識出来ていない、お互い様のような分析や解説が目立つのが気になりますし、「被害に遭わないために」というアドバイスもそういう視点で見れば的外れなのです。

はっきり言いましょう、侮蔑的表現かもしれませんが、ありがちというか実際に迷惑を蒙るケースが多いのではっきり言えば、デブが自分の占めるスペースをわきまえないで、あまつさえ肘を張ってゲームに興じていた。これに尽きるわけです。
せめて肩を閉じて座れば丸く収まるのに、ゲームをしたいと言うわがまま全開で肘を張ってカタカタやってぶつかったわけでしょう。よくあるケースとして、こっちが腕組みなどをして横幅を抑えていたら、ゲーム馬鹿が肘を張って脇腹を小突いてくるわけで、居眠りをしていてもそこで起こされるし、傍迷惑です。

小型の音楽プレーヤー、携帯ゲーム機に始まり、携帯電話、スマホ、小型の情報端末、電子書籍と「お外で楽しめる」というツールは使う側にとっては楽しいでしょうが、周囲は迷惑なのです。こうした迷惑行為について、交通機関では心臓ペースメーカーをだしにして携帯での通話は禁止していますが、それ以外の行為一切を容認しているのがそもそもの間違いです。

食事時に飲食するというごく自然な行為を「迷惑」としてあげつらうような「厳格」を装いながら、娯楽に過ぎない各種迷惑行為を放置するということを根本から見直さないと、同様の「トラブル」が発生したり、迷惑をかける側が我が物顔で、迷惑して言う側が肩身を狭くするという社会正義の切片もない状態になります。
このあたりはモバイルキャリアやゲーム機などのメーカーが各社の主要広告主であるということが影響しているとしたら話にならないのですが、それを疑いたくなるような事態と言えます。

ゲームと並んで迷惑なのが音楽プレーヤーで、昔のウォークマンもそこまでひどくなかった、と言いたくなるような音漏れ状態の横行です。趣味に合わない曲の特定の音階の部分だけを延々と聞かされることは「暴力」にも等しいわけですし、イヤホンのコードを弛ませて他人のカバンなどに引っ鰍ッる、歩く地雷のような連中も少なくありません。

それは一部が、とか、必要性があって、とか、自己啓発だし、とか言い訳だけは一人前に山のように出てくるのでしょうが、「公共の場」における「私的娯楽」は他人に迷惑をかけてまでは許されないのです。指摘されたら無条件で止めて当然なのに、無視や言い訳どころか逆切れまでとなるようでは、全面的に禁止すべきといえます。

ちなみに通勤電車だけでなく、新幹線や航空機で仕事の続きとPCを開くのも「迷惑行為」です。そもそも時間がどうのと言う前にセキュリティ管理の問題が強く問われますし。

さて、こうした「迷惑行為」に対して、それを放置容認している交通機関側の問題と捉えずに、迷惑を蒙る側が自衛しましょう、というのでは筋が通りません。もちろんある程度の自衛をすべきではありますが、まずは「迷惑行為」の撲滅があっての話です。
いわば、ひったくりに対する防衛をするのは当然としても、警察がひったくりを全く取り締まらないのでは話にならないのと同じです。

そう、交通機関の対応がまず問われるのです。積極的にゲームや音楽プレーヤーの使用中止を訴えるとか、車内や構内を巡回して注意すると言った対応を取るべきなのです。痴漢被害に対して警備警戒ではなく女性専用車を設定して男性にしわ寄せするのと同じであり、まずは交通機関が「迷惑行為」に対して厳しく対応するべきです。

積極的に対応すれば、同時に今回のような斬り付けなどの傷害や暴行、また痴漢の防止という意味でも有効です。
最近一部の鉄道会社では乗務員や駅員への暴力行為や性的嫌がらせへの対応を専らに警備員を置いていますが、今回の事件でもそうですが、それが乗客保護と言う面では全く機能していないわけです。

社員を守る用心棒よりも、お客を守るのが先決であることは言うまでもないわけで、そういう状況で「自己防衛」と言われても筋が通りませんし、何でこっちが遠慮しないといけないのか、と言う話になりますし、そんな社会正義のかけらもないような「カオス」で「公共交通を利用しましょう」というのは何かの冗談でしょうか、と言う話になります。止むを得ないとき以外は公共交通を利用しないことが究極の自己防衛ですから。



ジャーナル2013年3月号

2013-02-25 23:33:00 | 書評
月遅れになるのが常態化してしまい恐縮ですが、ジャーナル3月号の書評です。

特集は北陸新幹線と北越急行。2014年度末、つまり再来年となる2015年春の開通となる北陸新幹線(長野°熨jの進捗と、それと引き換えに幹線輸送から降りることは必至の北越急行の現状です。
さらに新規着工3区間(北陸の金沢%ヨ賀、九州の武雄温泉£キ崎、北海道の新函館℃D幌)も含めての内容になっています。

ここ数年、機構とのパイプが出来たのか、今回も施工主となる機構の解説、協力が大きいですね。1月号が実質「土木・建築特集」だったように、ニュース性ではネットに敵わないのだからと、じっくり見せる構成、さらに専門誌として正面から取材出来ることによる情報量を生かす方向にシフトしているのは正解ですし見応え、読み応えがあります。

北越急行の記事も、ダイヤが乱れがちで取材と言う意味では難しい降雪期に最大の特徴が見えるということで、敢えてこの時期の取材としたのが当たった格好です。こちらは鍋立山TNに代表される工事に焦点が当たりがちですが、「足回り」に焦点を絞っており、深みと分かりやすさをうまく両立させています。

こうなると制度解説の佐藤氏の記事が軽いわけで、ここに東洋経済クラスの記事が座れば完璧なんですが、このあたりは次のステップでしょうか。

富山地鉄の記事も水戸岡デザインの中間車導入が話題の元レッドアローがメインに見えて、実ははマクラで、京阪車とオリジナル車による現状をフォーカシングした車両特集の印象。まあ2010年12月号でも取り上げているので、こんなもんでしょう。

ちょっと物足りないのが並行在来線関係。JRのイイトコドリの問題ではなく、地元密着を掲げるしかない状況はいいのですが、その出資構成の大半が自治体となる並行在来線会社が地元の流動を取りにくると、地域のバス会社、要は頸城自動車とその地域子会社はどうなるのか。そういった視点が見られないのが残念です。

整備新幹線の新規着工3区間は決定したばっかりでラフスケッチと言うのは分かりますが、日本最長の陸上トンネルとなる渡島トンネル、というような「目玉」があるのですから、地図上で大まかな位置を示して欲しかったです。
長崎新幹線はフル規格での整備になったわけですが、こちらは新鳥栖と武雄温泉の間はどうするのか。誰もが抱く素朴な疑問が解決していませんし、評論対象とすべきところです。

青函トンネルの問題にしても、北海道側が数々の批判を「300km超での運転なら勝算あり」と反論してきたのに対し、整備新幹線の基本スペックである260kmはそのままで、青函トンネル問題まで加わったことをどう評価するのか。さらに言えば、「はやぶさ」の320km運転と鼻息が荒いJREにしても、整備新幹線区間のスペックアップは手をつけておらず、整備新幹線スキームをフル活用し、根元利益の最大化にしか関心がないように見えるわけです。

このあたり、新青森以北はJRHの管轄となるわけで、JREは新青森開業の段階で「終わった」わけです。
収益構造も確立したわけで、北海道の事情を斟酌してスペックアップしなくてもいい、したければ国や北海道が資金をつけてくれ、ということなんでしょうが、当初のバラ色の絵図面から見れば、相当な「見込み違い」が発生していることをきちんと評価して欲しいですね。

特集の後になぜここに?という姫路都市圏の乗り歩きは唐突感がありますが、県庁所在地でない、政令市でもない都市圏としては他に例がない拠点性がある都市といえます。このあたりは一部がかすめるレベルを含めると7ヶ国からなる兵庫県の生い立ちにも絡む話で、開港場として人工的に育てられた「神戸」に対し、生産力のある、西国の要石ともいえる播磨の中心である城下町姫路の存在感を解説しないと理解が浅くなります。(モノレールが導入されたのも都市の実力を示している)


(姫新線。キハ122の2連)

ここで物足りないのが基調の部分。高速道路網との比較は面白い視点で、道路は通過流動のジャンクションで鉄道は拠点と言うのは言い得ていますが、道路網については姫路バイパスを無視しては駄目でしょう。ある意味山陽道よりも重要であり、岡山方面から阪神方面への流動の多くが龍野西、山陽姫路西で山陽道を離れて太子龍野BP~姫路BP~高砂BP~加古川BP~第二神明とつながるバイパス群に抜けていきます。

あとは歴史的視点としての「銀の馬車道」への言及はいいんですが、飾磨港線の廃線跡の遊歩道には銀の馬車道由来と言うことが書いてあるわけで、廃線跡と銀の馬車道が全く別個にまとめているのはどうでしょうか。


(山電手柄駅脇の遊歩道にある看板)

趣味的な論点にしても、103系天国の播但線に言及するのなら、101系で夢見て103系では設計の段階で諦めたまさかのオールM編成が実現し、首都圏などで主力だった時代には酷評されていた走りっぷりが一変していることも触れて欲しかったですね。


(103系オールMの2連。銀の馬車道塗装)

山陽電車のウォッチはまずまず。飾磨で姫路を向かず明石、神戸方面を向いている流動が多いということは、「新快速との競争で惨敗」と言う固定観念を払拭する現実であり、行政区境とダイヤで決めたのでしょうが、本線の大塩までカバーしたのもいい感じです。そういう意味では、JR神戸線・山陽本線の曽根から相生あたりの流動も見て欲しかったですね。明らかに阪神方面との流動と異なる動きが見えますから。


(飾磨港線跡の遊歩道が並行する手柄付近)

余談ですが、山電網干線のくだりで新日鉄住金広畑の描写に続き、JFE条高竡R陽特殊製高フ工場もある誌曹ゥれていますが、それを称して鉄穀c地というのはちょっと...
両社のクラスはメーカーとして中堅から準大手であり、各地で「鉄穀c地」としてまとまっている問屋や加工業者とは全然違いますから。

あとは連載関係。山手線の陸橋ウォッチはちょっと休日に行ってみたくなる内容ですね。橋梁の連載もいい感じですが、野田線のあの橋梁の「足元」の「異状」には驚きました。ちなみに橋梁ブームなのでしょうか、今月のJAF-MATE誌が橋梁を特集してます。

隔月になったバスコーナーは今月が新装開店のはずですが、隔月にしても内容に目だった変化がない印象で、これでは単に扱いを軽くしただけに見えます。東洋経済もそうですが、「交通」と言いながらの「鉄道回帰」というか「逃避」の度合いが露骨と言ったら言いすぎでしょうか。

最後に、論評するのも嫌になる例の連載などですが、あてつけか偶然か姫路からのスタートで播但線を描写。チープな表現でだらだら進みますが、福崎の対面接続を台無しにする「柵」と「段差」への無批判もひどいですね。乗客の心情をあれだけ忖度しても、「何で正面の電車(ディーゼルカー)にまっすぐ進めないのか」という理不尽感は気がつかないようです。
まあ、天橋立での入れ替えのシーンはいい着眼ですが、それくらいです。

そして同じ作者による「氷河特急」ルメB何で全区間でなく、一部乗車ともいえない中途半端な区間なのかというイライラはさておき、サブタイトルの「恋する列車に揺られて」にまたこの手の表現か、一瞬たじろぎましたが、さすがに同じ声が大量に上がるのは必至とみた編集部が注記として、「氷河特急」のキャッチフレーズですと解説しています。

内容はだらだらとしてますが、ローカル線のようなチープさが薄いのは前にも指摘した通り。気になるのは2010年に日本人観光客が犠牲になる脱線転覆事故があったのは記憶に新しいと言うのに、事故への言及が一切ないこと。近年一番の「話題」であり、それを避けると言うのはパブリシティ記事でしかなく、「ジャーナル」の名が泣きます。

このところ特集記事の内容が向上している反面、これまで充実していた「サイドディッシュ」の品質が落ちています。
付け合せはあくまで付け合せという評価も可能ですが、評判がいい雑誌はコラムや連載などの脇役に見るべきものが多いのです。
70年代から80年代にかけての黄金期の誌面がこのバランスに長けていただけに、未だしの思いを強くします。



遥か昔の故実を学ぶ時

2013-02-25 21:25:00 | ノンジャンル
今月末にローマ法王ベネディクト16世が退位します。
生前の譲位は1415年まで遡るとされますから実に598年ぶりの出来事であり、それすらいわゆるシスマの解消のための「廃位」です。(3人鼎立していた教皇を総て廃位するという決定に対し、2人が廃位され、残る1人が自発的に「退位」した体裁をとった)

それを除くと歴史上には1294年のケースがただひとつあるだけですが、それも政争の中で「追い込まれた」というか、後を襲った枢機卿が「追い込んだ」と言う異常事態であり、よほどの裏事情が出てこない限り、「円満退位」は史上初ともいえます。

いずれにしても生前譲位は歴史の彼方の話ですが、それが先例として語られるわけです。
日本で言えば室町時代や鎌倉時代の話が先例となるわけで、西欧キリスト教文化の歴史の厚みを物語ります。

こうしてみると、我が国における「女系天皇」の議論も同様に長い歴史の中で「先例」(がないこと)が語られていると言う意味では引けを取りませんし、こちらも「万世一系」の長さと厚みを感じます。
今回のローマ法王の生前譲位に関する「先例」を我が国の歴史に落とし込んでみれば、鎌倉時代末期や南北朝合一後といった時代になるわけで、奇しくも我が国において皇位が2系統に分かれた時期の話になります。

さらに奇遇と言えるのが、世襲親王家の始めとなる伏見宮家の確立がまさに前回のローマ法王生前譲位の時期に重なるわけで、伏見宮家から皇位を継いだ後花園天皇の即位もこの時期です。
そういう意味では皇位継承における「先例」をあれこれ議論するにあたり、旧宮家との縁組で男系を保つという提案に対して「室町時代のような大昔を...」という議論はナンセンスと言うしかなく、逆に洋の東西を問わず、長い歴史に基づく地位というものは、長い歴史の流れの中で判断されていくべきものと言うことであり、室町時代の先例であっても、それは我が国の流儀として先例足りうると認識すべきでしょう。


「書聖」を見る

2013-02-24 23:04:00 | ノンジャンル
上野の国立博物館で開催中の「書聖 王羲之展」に行ってきました。
上野の山でも一番奥にあり、こういう時こそ博物館動物園駅が残っていれば、という位置関係でした。

中国の書家の中でも別格とも言える「書聖」の名を持つ王羲之は魏晋南北朝時代、東晋の人です。
私もそうだったのですが、高校あたりで書道を選択すると王羲之の蘭亭序とか、初唐の三大家の作品を臨書したことで馴染みのある書です。


(平成館入口。看板の書は左が行穣帖、右が蘭亭序)

解説を見て驚いたのが、後に唐の太宗(李世民)が王羲之の書をいたく気に入り、初唐の三大家と呼ばれる欧陽詢、虞世南、褚遂良に王羲之の模写をさせたということ。なんとも贅沢なやり方であり、今風に言えば、大家の歌を当代に人気実力兼ね備えた歌手がカバーする感じでしょうか。
模写と言うことでは、日本の三蹟、藤原行成の模写もありました。(ただし真筆とは断定できておらず、「伝藤原行成」だが)

で、太宗は王羲之の真筆を陵墓に副葬品として入れてしまい、そうしたこともあって真筆が残っていないということも価値を高めているのですが、拓本や模写ですら非常な価値を持ち、歴代の皇帝が手元に納めたわけで、行穣帖なんかは模写が2行15文字しかないのに、長々と跋文が付き、乾隆御覧之寶、乾隆鑑賞、太上皇帝之寶と乾隆帝の鑑賞印がべたべたと。まあ一般人が押したら台無しになるような鑑賞印ですが、乾隆帝ともなるとそれが宝物という裏書きになるわけです。

一方で初公開と銘打った大報帖なんかはこうした鑑賞印が一切押されていないわけで、どうやって歴代皇帝の目を逃れたのか気になります。

久々に文化に浸ったのですが、人気の展覧会だけあって混み合っていたのには辟易です。
こうした展覧会では解説が流れるイヤホンがレンタルされるのが通例ですが、それに聞き入って解説が終わるまで展示物の前を立ち去らない人が大半なので最悪です。

絵画と違い書ですから、壁に掲げるわけにも行かず、ガラスケースに平置きされるのを見る格好で、立ち止まられると全く見えないのです。
これがマニアックな鑑賞者ばかりならまだしも、「昔の人はすごいねぇ」と言うようなレベルのミーハーにも及ばないレベルの中高年が大半ですから、筆致や鑑賞印を含めて見たいのに邪魔の極みです。

「よく分かっていない」と言うのが露骨に出るのが、解説がある場所しか溜まっていないうえに、王羲之を理解するために、と設けられた、魏晋南北朝以前の書の解説に、イヤホン解説があるので溜まっていたり、王羲之以降に王羲之の書法がどう伝わったのか、というコーナーに王羲之でないから関係ないと人がまばらだったりするわけです。
特に後者は初唐の三大家の代表作の拓本が並んでいたりするわけで、もったいない話です。

解説イヤホンも重宝しますが、動きが止まり、係員が動くように促したり、追い越して好きなところから見て下さいと案内するのでは、イヤホンが元凶と言えます。
イヤホン組の鑑賞ラインを下げるとか、解説時間を短くするとか(今回はNHKアナの朗読付と謳っており、それも一因でしょう)、イヤホンを残すならそれなりの対応が必要です。