自民党の憲法改正案に対する批判の中で、首相がここ四半世紀以上の通説となっている憲法学者を1人も知らない、という衝撃的な事実が発覚しましたが、それを裏付けるような改正案の中身は、さもありなん、という感じです。
ところがそれに輪をかけたような改正案が産経から出ました。
新聞社の憲法改正案というと、1994年に読売が発表し、その後2000年、2004年に「改憲」されるくらいの老舗ですが、今回、まさに右派を代表するメディアが満を持して発表したのです。
自民党といい産経といい、まず頭を抱えるのが、憲法の中身を論じる以前の問題が山積していることです。
不用意な用語の変更で解釈に迷いが出てしまう自民党案に対し、抽象的な美辞麗句で精神論に走る産経案と、ある程度の抽象性が求められるとはいえ、かなりお粗末です。
特に産経案の問題は前文で、今の前文が海外の有名な文章のつぎはぎで日本の憲法にふさわしくない、と切って捨てて持ち出した文章が、何が言いたいのか分からないつぎはぎです。
憲法の基本理念を説くのに、「十七条憲法」や明治天皇の御製といった具体的な「サンプル」を持ち出したり、現行憲法の三大原則をテクニカルタームのままで持ち込んだりと、これからの日本国の「お手本」になるはずの憲法が、他者をお手本にしたり、現行憲法の理念を固定化しているのではいけません。
特に現行憲法に関係する部分は、現行憲法が理念を掲げてこれが日本国憲法の原則だ、と解釈させているのに対し、日本国憲法を事実上持ち出してしまったため、現行憲法以上に身動きが取れない状態になります。こうなると「占領憲法ガー」という産経の常日頃の主張は冗談か何か、と言わざるを得ないわけで、その程度の改正案を大仰に持ち出し、シンパにお手盛りの評価をさせているのを見ると空しさを感じます。
読売の改正案のときは、国民主権が第1章とか、集団的自衛権を明文化することなく容認するとか、いろいろ批判はありましたが、イデオロギー的対立からの批判がメインとはいえ、まだ憲法談義の体をなしていたように記憶しています。
それに対して昨今相次いで出てきた「美しい国」系の改正案は、「ボクのかんがえたけんぽう」の域を出ていないわけです。
立法府、つまり国会議員の法案作成能力が問われて久しいですが、憲法改正案の「出来」を見ると、その延長線上にあることが分かりますし、そのシンパのメディアもまた同様でしょう。
そういうレベルでは、96条の改正というのはいかがなものか、という感を強くしますし、そもそも、今の選挙制度のままで96条をいじると、分かりやすく言えば民主党が改憲案を発議して、国民投票までは進められた、という事態にもなるのです。
出来の悪い、というか、まさかの内容の憲法改正案が提出される可能性が高い状況では、最後の砦として国民投票がありますが、国民の選択、世論と言うものがどれだけ危ういものかを散々見てきたことを踏まえると、何が起こり得るかは容易に想像がつくのです。
ところがそれに輪をかけたような改正案が産経から出ました。
新聞社の憲法改正案というと、1994年に読売が発表し、その後2000年、2004年に「改憲」されるくらいの老舗ですが、今回、まさに右派を代表するメディアが満を持して発表したのです。
自民党といい産経といい、まず頭を抱えるのが、憲法の中身を論じる以前の問題が山積していることです。
不用意な用語の変更で解釈に迷いが出てしまう自民党案に対し、抽象的な美辞麗句で精神論に走る産経案と、ある程度の抽象性が求められるとはいえ、かなりお粗末です。
特に産経案の問題は前文で、今の前文が海外の有名な文章のつぎはぎで日本の憲法にふさわしくない、と切って捨てて持ち出した文章が、何が言いたいのか分からないつぎはぎです。
憲法の基本理念を説くのに、「十七条憲法」や明治天皇の御製といった具体的な「サンプル」を持ち出したり、現行憲法の三大原則をテクニカルタームのままで持ち込んだりと、これからの日本国の「お手本」になるはずの憲法が、他者をお手本にしたり、現行憲法の理念を固定化しているのではいけません。
特に現行憲法に関係する部分は、現行憲法が理念を掲げてこれが日本国憲法の原則だ、と解釈させているのに対し、日本国憲法を事実上持ち出してしまったため、現行憲法以上に身動きが取れない状態になります。こうなると「占領憲法ガー」という産経の常日頃の主張は冗談か何か、と言わざるを得ないわけで、その程度の改正案を大仰に持ち出し、シンパにお手盛りの評価をさせているのを見ると空しさを感じます。
読売の改正案のときは、国民主権が第1章とか、集団的自衛権を明文化することなく容認するとか、いろいろ批判はありましたが、イデオロギー的対立からの批判がメインとはいえ、まだ憲法談義の体をなしていたように記憶しています。
それに対して昨今相次いで出てきた「美しい国」系の改正案は、「ボクのかんがえたけんぽう」の域を出ていないわけです。
立法府、つまり国会議員の法案作成能力が問われて久しいですが、憲法改正案の「出来」を見ると、その延長線上にあることが分かりますし、そのシンパのメディアもまた同様でしょう。
そういうレベルでは、96条の改正というのはいかがなものか、という感を強くしますし、そもそも、今の選挙制度のままで96条をいじると、分かりやすく言えば民主党が改憲案を発議して、国民投票までは進められた、という事態にもなるのです。
出来の悪い、というか、まさかの内容の憲法改正案が提出される可能性が高い状況では、最後の砦として国民投票がありますが、国民の選択、世論と言うものがどれだけ危ういものかを散々見てきたことを踏まえると、何が起こり得るかは容易に想像がつくのです。