Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

トホホな改憲案

2013-04-30 01:37:00 | 時事
自民党の憲法改正案に対する批判の中で、首相がここ四半世紀以上の通説となっている憲法学者を1人も知らない、という衝撃的な事実が発覚しましたが、それを裏付けるような改正案の中身は、さもありなん、という感じです。

ところがそれに輪をかけたような改正案が産経から出ました。
新聞社の憲法改正案というと、1994年に読売が発表し、その後2000年、2004年に「改憲」されるくらいの老舗ですが、今回、まさに右派を代表するメディアが満を持して発表したのです。

自民党といい産経といい、まず頭を抱えるのが、憲法の中身を論じる以前の問題が山積していることです。
不用意な用語の変更で解釈に迷いが出てしまう自民党案に対し、抽象的な美辞麗句で精神論に走る産経案と、ある程度の抽象性が求められるとはいえ、かなりお粗末です。

特に産経案の問題は前文で、今の前文が海外の有名な文章のつぎはぎで日本の憲法にふさわしくない、と切って捨てて持ち出した文章が、何が言いたいのか分からないつぎはぎです。
憲法の基本理念を説くのに、「十七条憲法」や明治天皇の御製といった具体的な「サンプル」を持ち出したり、現行憲法の三大原則をテクニカルタームのままで持ち込んだりと、これからの日本国の「お手本」になるはずの憲法が、他者をお手本にしたり、現行憲法の理念を固定化しているのではいけません。

特に現行憲法に関係する部分は、現行憲法が理念を掲げてこれが日本国憲法の原則だ、と解釈させているのに対し、日本国憲法を事実上持ち出してしまったため、現行憲法以上に身動きが取れない状態になります。こうなると「占領憲法ガー」という産経の常日頃の主張は冗談か何か、と言わざるを得ないわけで、その程度の改正案を大仰に持ち出し、シンパにお手盛りの評価をさせているのを見ると空しさを感じます。

読売の改正案のときは、国民主権が第1章とか、集団的自衛権を明文化することなく容認するとか、いろいろ批判はありましたが、イデオロギー的対立からの批判がメインとはいえ、まだ憲法談義の体をなしていたように記憶しています。
それに対して昨今相次いで出てきた「美しい国」系の改正案は、「ボクのかんがえたけんぽう」の域を出ていないわけです。

立法府、つまり国会議員の法案作成能力が問われて久しいですが、憲法改正案の「出来」を見ると、その延長線上にあることが分かりますし、そのシンパのメディアもまた同様でしょう。
そういうレベルでは、96条の改正というのはいかがなものか、という感を強くしますし、そもそも、今の選挙制度のままで96条をいじると、分かりやすく言えば民主党が改憲案を発議して、国民投票までは進められた、という事態にもなるのです。

出来の悪い、というか、まさかの内容の憲法改正案が提出される可能性が高い状況では、最後の砦として国民投票がありますが、国民の選択、世論と言うものがどれだけ危ういものかを散々見てきたことを踏まえると、何が起こり得るかは容易に想像がつくのです。


記憶すべき日に昇華出来るか

2013-04-30 01:36:00 | ノンジャンル
「主権回復の日」の式典が終わりました。
反自民のメディアはおしなべて沖縄での反発を大きく取り上げ、中には「主権回復」の式典なのに「恥辱の日」と掲げるメディアもありました。
こういうメディアは一見沖縄に寄り添っているように見えますが、実は「反自民」の材料として利用しているに過ぎないわけで、そもそも「恥辱の日」というフレーズ自体が、今回の記念式典が具体化してきて急にクローズアップされているわけで、もし沖縄では「恥辱の日」というのが一般的であれば、今まで取り上げもしなかったくせに、という話です。ただ、沖縄でも「急にメジャーになった」という話も聞くので、沖縄への思い、というよりも一連の反政府活動の一環という残念な評価も可能です。

こうしたメディアや一部勢力の批判を見ると、何ともご都合主義の面が否めないわけで、両陛下のご出席に対して、そもそも「天皇陛下万歳」の発声にケチをつける天皇制を否定するような勢力が、天皇の存在と権威を認めて「天皇の政治利用」と批判しているわけです。

今回、「主権回復」という節目がクローズアップされたわけですが、まさに怪我の功名というか、我々が近代史を考えるうえで重要な問題提起になったことは収穫と言えます。第二次大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)の敗戦から日本が生まれ変わった、という歴史の流れにおいて、8月15日は記憶されていますが、では我々がどうやって国際社会に復帰したのか、今の「日本国」の体制がどうやって成立したのか、ということへの記憶が薄いからです。

大型連休を構成する休日としての認識しかなさそうな「憲法記念日」は何の日なのか。憲法にとっては「文化の日」、古い人なら「明治節」と呼ぶ11月3日も重要な節目なんですが、分かっているのかどうか。
そういう節目の一つが「主権回復」ですが、このイベントが企画されなければ、大多数の国民はその日どころか61年前に「主権回復」という出来事があったこと自体を認識していなかったでしょう。

ただ、そういう意義を考えると、1回限りのイベントで終わらそうとする政府のスタンスも軽すぎます。
戦後体制からの脱却を主張するために、進駐軍からの「独立記念日」を持ち出した格好で終わっては何とももったいない話ですし、自己満足の域を出ない話になってしまいます。

天皇陛下が、終戦にかけての日々で忘れてはいけない日が4日ある、と言われましたが、8月の広島、長崎の原爆忌と終戦記念日だけでなく、6月23日の沖縄戦終結の日(司令部が玉砕して組織的抵抗が終わった日)がその1日になっています。
これも左右問わずきちんと認識している人がどれだけいるのか。我々が近代史の中で記憶すべき日はまだまだたくさんあるのです。


主権回復の反面教師

2013-04-27 02:42:00 | 時事
28日からの首相訪露を前に、メディアが北方領土に関する特集を組んでいます。
1945年8月15日のャcダム宣言受諾の2日後、8月17日の占守島侵攻に始まるソ連による千島侵略は、降伏文書調印による停戦発効の9月2日を過ぎても続き、最終的に歯舞諸島が占領されたのは9月5日と、ソ連は連合国の一員とはいえ、接収とは到底言えない「侵略」でした。

この時、「9月2日」を強く意識していたことが、9月2日の国後島占領時にソ連軍司令官が時計を巻き戻して「9月1日に完了」と宣言したエピソードからも窺えるわけで(降伏文書調印を1日と勘違いしていたらしい)、停戦後の「侵略」は都合が悪いため、長くソ連シンパの左派系メディアや学会はこのあたりを曖昧にしてきました。

そういう意味では先日の朝日の北方領土特集が、ソ連による北方領土占領を9月5日と明記したのには時の流れを感じるわけで、中国や韓国へのシンパシーに転じた今となってはロシアの肩を持つこともなくなったようです。

その北方領土ですが、サンフランシスコ講和条約で北千島と南樺太の領有権を放棄ししたものの、南千島に関しては我が国固有の領土と主張してきましたが、講和条約にソ連が調印せず、ソ連の占領下にあるということで、我が国の主権が回復されていません。

1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結を条件としていますが、色丹島と歯舞諸島の返還が明記されています。しかしその後もソ連は両島を引き渡さず、我が国も国後、択捉両島を含む4島一括返還の原則を主張して現在に至っています。

時を経るごとに事態はややこしくなっているのも事実であり、内地人の入植が本格化した明治初頭からソ連占領までと、それ以降のソ連、ロシア時代の年数に差が無くなって来たばかりか、ロシア人入植者の数も敗戦直前の日本としての住民数と大差がない状態であり、日本に復帰したとしても、彼らロシア人とその資産をどうするのか、やり方次第では1945年に旧島民が味わったのと同じ問題を今度は日本が引き起こしかねないのです。

このように時が解決するのではなく、時が経つことで現状が固定化されることもあるわけです。
そういう「実例」を見てしまうと、今般の「主権回復式典」に対する批判への評価も厳しくなります。

主権回復、すなわちサンフランシスコ講和条約に対し、招聘されなかった中国(北京、台北)、調印しなかったソ連も含めた全面講和論がありましたが、結果は単独講和になったわけです。
講和条約を締結しないといつまでも「休戦」であり、連合国の支配をうけるうえに、国際社会への復帰も容易ではないわけで、単独講和をして、それを足がかりに日華平和条約、日ソ共同宣言と進み、国連加盟も果たせたのですが、全面講和にこだわっていたら果たしてこのようなスケジュールで国際社会に復帰し、今の繁栄があったかどうか。

そして講和条約で沖縄や奄美、小笠原を切り離したことも同じです。
「みんな一緒」に主権回復とこだわったとしたらどうだったのか。日本の主権回復自体が遅れたことは必至であり、全面講和論と同じく、日本の主権回復そのものを遅らせる、妨げることになったでしょう。

残念ながら実効支配をしていない場合、原理原則は大事ですが、こだわると一歩も前に進めなくなるのです。そのことは北方領土が70年近く解決していないことからも分かるでしょう。
そして時が経てば経つほど、イレギュラーな状態が固定化され、その状態に生活の根拠を置くケースが増えてくることで、「正常化」は同時にそういう人たちにとっての「生活破壊」になるというジレンマが増大します。

そう考えたとき、単独講和でまず「本土」の主権を回復し、それを足がかりに「返還」を果たしていった我が国の歩みは、決して「切り捨て」といったネガティブな評価で括るべき話ではありません。




反対に潜む思想とメンタリティ

2013-04-26 00:14:00 | ノンジャンル
靖国神社についての話を書きましたが、そもそも左派系の人と噛み合わない原点が、戦死者を「死者」と捉えるか、「侵略者」と捉えるかの部分と言えます。注意したいのは、靖国問題で左派系や中国、韓国系の批判に対して眉を顰める人たちの多くは、批判する側の「侵略者」の対極としての「正義の戦士」ではなく、単に「死者」として捉えており、死者に対する慰霊、追悼に対する批判、横槍として感じていると言うことです。

中国杭州の景勝地である西湖に、岳王廟があります。金の侵攻を受けて一旦は滅亡した北宋が再興した南宋の武将の岳飛が祭神であり、愛国烈士として称えられているのですが、なぜ杭州に岳飛、というと、杭州は当時の南宋の首都・臨安だからです。
そしてそこには主戦派の岳飛に対し、和平派だった南宋の宰相・秦檜の像があります。しかし主戦派の岳飛を謀殺し、金との和平を選び、領土割譲、歳費を貢ぐという屈辱的な条約を結んだ秦檜の像は後ろ手に縛られており、岳王廟に参る人はこの像に唾を吐きかけるという慣わしです。

秦檜が岳飛を謀殺したのは12世紀の話です。にもかかわらず死してなお辱めを受けさせられる、という国民性で、日本における敵味方の別なく死者を悼む国民性による追悼の場を評価することは不可能であり、それを受けいれることは永遠にない、とはねつけるべきなのに、なぜか秦檜の像に唾を吐きかけるような行為を期待する人が日本人の中にいるのはともかくとして、それを日本人もすべきと主張することには強い不快感を感じます。

朝日新聞などが、「周辺諸国に配慮を」ともっともらしいことを言っていますが、それは言い換えれば「千年不変」の発想であり、日本人もかくあるべし、という日本人の精神構造を変革、破壊することにほかなりません。それくらい重要なことなんですが、日本人のメンタリティを理解していない日本のメディアと言うのは、いったい誰が誰のためにその特権を行使しているのでしょうか。

さて、靖国神社という存在をなぜもっと素直に捉えられないのでしょうか。「神社」は須らく国家神道であり戦前の体制に繋がる、という「軍靴の響き」系の批判と言うよりも、神社、つまり「神」に対する崇拝と、宗教的権威から天皇という地位がスタートしていることから、反天皇制のイデオロギーに基づく批判に過ぎないと言えます。それを糊塗するために、平和や友好を持ち出しているに過ぎません。

そもそもそういった「神社」と違い、祭神が幕末以降の戦死者、殉難者という靖国神社は、「神社」のスタイルをとっていますが、神話や皇室に繋がる系譜を持たないので、国家神道を含めて神道というイデオロギーとは一線を画しているといえます。

参拝には神道形式が要求されますが、帰依までは要求されませんし、祭られる側も「神様」ではありますが、神話の世界のそれとは違います。
そういう意味では仏教寺院の形態を取るが、個別の宗派での信仰を要求されない長野善光寺や、最近増えてきている「総合宗派」の仏教系霊園のように、祈る場所、追悼する場所としての意義が第一であり、宗教活動の場ではない、という整理も可能です。

ならば無宗教の施設でいいじゃないか、という話になるのでしょうが、日本人のほとんどは、無宗教とは言われますが、なんらかの宗教に属しているのです。「葬式仏教」の揶揄があるように、日本人が宗教とのかかわりを意識するのは、肉親など近親者の死に際してであり、葬儀やその後の追悼は、それぞれの宗教の形態に従うのが通例です。

宗派どころか宗教を越えた「総合宗教」はないわけで、一方で異宗教に対しては非寛容であったり寛容であるものの、違う宗教への違和感は消えません。このとき注意しないといけないのは、自分と違うことでその違和感を感じるのであり、無宗教もまた、無宗教と言う名前の「宗教」として「無宗教による」宗教儀式を営むことで、異宗教を「押し付けている」ことには変わりがありません。

「無宗教」という「宗教」を押し付けるのであれば、既存宗教の形態でも本質は一緒です。逆に「押し付け」を感じる人が少ないほうがベターといえます。ならば「仏教」では、という声もありますが、少なくとも戦前までは「戦死者は靖国に祀られる」「靖国で会おう」というコンセンサスがあったわけで、戦後の基準で変わりました、というのは果たして故人にとってはその尊厳を守る行為になるのかどうか、疑問です。

米国のアーリントンにしても、基本はキリスト教形式です。注意深くやってはいますが、仏教や神道とは全くかけ離れた形態であり、米国民の多くが信仰するキリスト教徒の親和性が非常に高い格好です。
そういう現実を見れば、国家が管理していた時代の靖国神社というのは、実はよく出来たシステムなのかもしれません。

一方で、そうした「国家に殉じた人」の追悼施設と位置づけるのであれば、建立当初の幕末の取扱いはともかくとして、明確なルールが必要になります。特に自衛隊についての扱いが未定というのも問題でしょう。そういう意味では戦後は戦争に参加していない、という建前があるため、朝鮮戦争における相C活動に従事して「戦死」した海保の特別相C隊員の処遇も問題でしょう。

靖国神社に祀るべきではあるが、将来にわたって祀るのであれば、将来に通用するルールを決める必要があります。