昨夏の節電が「非常手段」であり、停止中の火発が復旧すれば2012年からは被災地の原発分を除けば電源は十分確保される、という前提があったはずです。それが稼働中の原発も事実上停止ということになって話がおかしくなり、いつの間にか昨夏並み、それ以上の節電を、という話にすりかわったのです。
ここには3つの問題があるわけです。
まずは節電による経済活動の低下を無視した議論ということ。非競争産業、独占業種で景気動向に左右されずに一定の収入が見込める階層が一定数あることで、経済問題を実感できない、していないということです。特に主婦層、年金生活層とメディアがその典型で、その収入をGDP連動とか日経平均連動にでもしないと最後まで分からないでしょう。
また前にも批判しましたが、「有識者」「学識経験者」の類もこの層に属することは強く指摘すべきことでしょう。
25日の朝日社説「急げ、急げ、もっと急げ」も典型的な空論であり、ピークカットに知恵を絞れというのならば隗より始めよで、甲子園大会の中止もしくは電力事情に余裕がある地域での開催、関電管内の朝日放送の昼間時間帯の停波、大阪朝日の夕刊の休刊といった「身を切る対策」をまず示してこそ説得力があるというものです。それで売上が下がる?「急げ」と昨夏以上の節電を強いられる側は、経済活動の低下、生産性の低下で昨夏から収入は下がっているのです。文句を言うな、です。
次いでゼロトレランス(ゼロリスク)が前提になっているということ。
震災では原発問題に限らず「想定外」という表現が飛び交いましたがその想定外としていた部分が大きな被害、影響を及ぼしただけに、「万に一つ」どころでないレベルでも許さない、という感情がどうしても出てくるのはやむを得ないところです。
しかし、「0%」(0.0%ではない)を保証することは、それが証明できない限り不可能ですし、基本的にそれは「悪魔の証明」に属する分野です。言い方を変えれば、リスクの確率をゼロと言い切ることは不可能であり、限りなく0に向けて近づくリスクのどこまでを許容するかという判断であるべき話です。
にもかかわらずゼロを要求しているわけです。ちょっとでもあればリスクがあるはず、とまさに悪魔の証明です。それを要求するのが「素人」ならともかく、科学的素養があるはずのアカデミズムが主張していますし、自称専門家の当時の首相も海水注入による再臨界の可能性につき、安全委の委員長に尋ねた際、相手はいちおう科学者ですから「ゼロ」とはいえないわけで、そこから迷走したわけです。
ゼロを要求したらあらゆることが出来なくなる。そういうスタートラインを認識できないのでは議論にすらなりませんし、「説明」をするだけ無駄といえます。
ちなみに「ゼロ」信仰は実は危険ともいえるわけで、「絶対大丈夫」ということがありえると信じることで、万が一への対応が出来ない。そう、ダメージコントロールを等閑にしてしまった日本軍と一緒です。
最後に、住民の同意が絶対視されていることです。
上記のように「説明」を本質的に受け入れない人が一定層いる中で、合意をどこまで求めることが妥当なのか。さらに言えば、同意を求める対象と、同意の対象となる事象のレベル感が一致しているのか。
つまり、集落レベルの反対を絶対視して基礎自治体にとっての最善の道が閉ざされることが妥当なのか。そしてその究極が自治体レベルの反対が国益を左右できるのか、ということです。
「原発は危険だから」と正当化するのでしょうが、そこにあるのは「迷惑施設への拒絶感」が根底にあるわけです。もちろん昭和40年代の杉並ゴミ戦争や、近年の小金井市のように、他地域に迷惑施設を押し付ける原発問題と真逆の地域エゴもあるわけで、そういう意味では地元住民の同意にも重みはありますが、それが絶対ではありません。
厳しいことを言えば、原発の立地には条件があるわけです。リスクは極小化されているとしても、万が一を考えなければならない。そう考えると、万が一とはいえ「東京に原発を」という感じであえてリスクを取ることは妥当なのかどうか。
もちろん原発に限らず、火発でも工場でも大なり小なり同じ発想で立地しているわけです。だから住宅地に火発や工場はないのです。
「地元住民」が一人もいない地域があればまだしも、そうではない状況では、誰かが犠牲にならないといけないわけです。我々はそれをお願いしなければなりませんし、それに見合う「補償」もしなければなりません。しかしそこに無制限の拒否権はないのです。
唯一それが許されるとしたら、同意を求める対象と、同意の対象の受益者の一致です。
そう、原発の受益者の「総意」でしょう。ただしそこに求められる条件は、合意による不利益を自分たちだけで分担するということです。
経済活動が停滞して沈没しても原発は稼動させない、というコンセンサスが得られるのであれば、それは自分たちが自ら選んだという「民主主義」の結果として尊重するしかありません。
ただし、そこには結果に対する責任と受容の義務があります。
「政権交代」に浮かれて民主党政権を選んだ人が、足下の末期的な状況に責任があるように。
ここには3つの問題があるわけです。
まずは節電による経済活動の低下を無視した議論ということ。非競争産業、独占業種で景気動向に左右されずに一定の収入が見込める階層が一定数あることで、経済問題を実感できない、していないということです。特に主婦層、年金生活層とメディアがその典型で、その収入をGDP連動とか日経平均連動にでもしないと最後まで分からないでしょう。
また前にも批判しましたが、「有識者」「学識経験者」の類もこの層に属することは強く指摘すべきことでしょう。
25日の朝日社説「急げ、急げ、もっと急げ」も典型的な空論であり、ピークカットに知恵を絞れというのならば隗より始めよで、甲子園大会の中止もしくは電力事情に余裕がある地域での開催、関電管内の朝日放送の昼間時間帯の停波、大阪朝日の夕刊の休刊といった「身を切る対策」をまず示してこそ説得力があるというものです。それで売上が下がる?「急げ」と昨夏以上の節電を強いられる側は、経済活動の低下、生産性の低下で昨夏から収入は下がっているのです。文句を言うな、です。
次いでゼロトレランス(ゼロリスク)が前提になっているということ。
震災では原発問題に限らず「想定外」という表現が飛び交いましたがその想定外としていた部分が大きな被害、影響を及ぼしただけに、「万に一つ」どころでないレベルでも許さない、という感情がどうしても出てくるのはやむを得ないところです。
しかし、「0%」(0.0%ではない)を保証することは、それが証明できない限り不可能ですし、基本的にそれは「悪魔の証明」に属する分野です。言い方を変えれば、リスクの確率をゼロと言い切ることは不可能であり、限りなく0に向けて近づくリスクのどこまでを許容するかという判断であるべき話です。
にもかかわらずゼロを要求しているわけです。ちょっとでもあればリスクがあるはず、とまさに悪魔の証明です。それを要求するのが「素人」ならともかく、科学的素養があるはずのアカデミズムが主張していますし、自称専門家の当時の首相も海水注入による再臨界の可能性につき、安全委の委員長に尋ねた際、相手はいちおう科学者ですから「ゼロ」とはいえないわけで、そこから迷走したわけです。
ゼロを要求したらあらゆることが出来なくなる。そういうスタートラインを認識できないのでは議論にすらなりませんし、「説明」をするだけ無駄といえます。
ちなみに「ゼロ」信仰は実は危険ともいえるわけで、「絶対大丈夫」ということがありえると信じることで、万が一への対応が出来ない。そう、ダメージコントロールを等閑にしてしまった日本軍と一緒です。
最後に、住民の同意が絶対視されていることです。
上記のように「説明」を本質的に受け入れない人が一定層いる中で、合意をどこまで求めることが妥当なのか。さらに言えば、同意を求める対象と、同意の対象となる事象のレベル感が一致しているのか。
つまり、集落レベルの反対を絶対視して基礎自治体にとっての最善の道が閉ざされることが妥当なのか。そしてその究極が自治体レベルの反対が国益を左右できるのか、ということです。
「原発は危険だから」と正当化するのでしょうが、そこにあるのは「迷惑施設への拒絶感」が根底にあるわけです。もちろん昭和40年代の杉並ゴミ戦争や、近年の小金井市のように、他地域に迷惑施設を押し付ける原発問題と真逆の地域エゴもあるわけで、そういう意味では地元住民の同意にも重みはありますが、それが絶対ではありません。
厳しいことを言えば、原発の立地には条件があるわけです。リスクは極小化されているとしても、万が一を考えなければならない。そう考えると、万が一とはいえ「東京に原発を」という感じであえてリスクを取ることは妥当なのかどうか。
もちろん原発に限らず、火発でも工場でも大なり小なり同じ発想で立地しているわけです。だから住宅地に火発や工場はないのです。
「地元住民」が一人もいない地域があればまだしも、そうではない状況では、誰かが犠牲にならないといけないわけです。我々はそれをお願いしなければなりませんし、それに見合う「補償」もしなければなりません。しかしそこに無制限の拒否権はないのです。
唯一それが許されるとしたら、同意を求める対象と、同意の対象の受益者の一致です。
そう、原発の受益者の「総意」でしょう。ただしそこに求められる条件は、合意による不利益を自分たちだけで分担するということです。
経済活動が停滞して沈没しても原発は稼動させない、というコンセンサスが得られるのであれば、それは自分たちが自ら選んだという「民主主義」の結果として尊重するしかありません。
ただし、そこには結果に対する責任と受容の義務があります。
「政権交代」に浮かれて民主党政権を選んだ人が、足下の末期的な状況に責任があるように。