Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

官邸の傲慢、便乗する前知事

2017-05-30 20:38:00 | 時事
文科省の前次官の発言に対し、「勝手に言っていること」と取り合わない政府の姿勢はどうなのか。
既に証人喚問への出席も容認しているということは、もし虚偽であれば偽証罪に問われるわけですから、それでも発言をするということに重みを感じるべきでしょう。それにしても黙殺するか人格攻撃か、という政府、特に官房長官の対応はどうなのか。さすがに国士様御用達新聞もコラムでかなり踏み込んだ批判をしてますね。基本は前次官の私憤だとしながらも、「菅義偉官房長官が人格を責めるような非難で応じては、政治の値打ちを下げるだけだろう。」と「人格攻撃」を批判し、さらに「知りたいのは、公正の原則に背く行為があったかどうかである。」「後ろ暗さがないなら、事業者選定の経緯をつまびらかにすればよい。核心をぼかすから全てがうさん臭く見えるのではないか。」と黙殺で良いのか、と指摘しています。

まあ「人格攻撃」で済んでいるだけ我が国はまだマシかもしれませんね。
外国では冤罪をでっち上げられて収監という名の幽閉や、果ては暗殺で口封じというのもザラにあるわけですから。ただ今回の流れを見るに、官房長官が人格攻撃を繰り返すような状況では、いつ「一線」を越えてしまうのか、不安に思わざるをえません。
足下の流れは案外「言論の自由」の関頭にあるのかもしれません。
さて、そんなこんなの記事が新聞紙上を賑わす中で、前都知事が朝日に「私へのバッシングは人民裁判だった」と寄稿しています。メディアが権力者を追い落とすために騒いでいる、という昨今の小学校や獣医学部の報道に対する批判に力を得たのでしょうか、
私も「冤罪」だというつもりなんでしょう。

言っていることは湯河原の別荘通いから何からの言い訳と正当化ですが、当時の繰り返しをするあたりが、そもそもなぜ辞職に追い込まれたかが分かっていないわけです。ああ言えばこう、こう言えばああ、と言い訳を繰り返した見苦しさなんですよ。
確かに人民裁判の気が無かったと言えばウソになりますが、「信頼」なんですよ、知事の座に留まれるかどうかの境目は。前事務次官も「信頼」という意味では天下り問題に出会い系で地に落ちていますが、「信頼」ではなく「真実」が問われているわけで、そこに「信頼」で「真実」を否定できないだけの話です。

未だにそこが分かっていない、というのが救いようがないですね。
お久しぶりね、と出てきたら恥の上塗りですから。



過剰な「弱者保護」が招く不公平

2017-05-29 22:37:00 | 交通
最近信号機のない横断歩道において歩行者が経っている状態で通過した場合、道交法違反として反則切符を切るケースが激増しています。確かに道交法第38条1項では、「車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。 」とあるわけで、法律違反と言われればそれまでの話です。

しかし、この条文を単独で杓子定規に解釈したら実際の道路交通はどうなるのか。交通量の多い地域では、この条文を順守した瞬間に道路交通はマヒするわけで、道交法第1条に規定されている「この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする。 」という趣獅フ実現から遠ざかります。
つまり、この法律の「一丁目一番地」の実現が困難になる規定はおかしい、ということです。

こういう主張をすると、反クルマで凝り固まっている向きからは、弱者保護ガー、クルマは走る凶器ダー、と聞く耳持たない状態で騒ぎ立てられるわけですが、足下の取り締まりとその基準は、クルマの側に必要以上の規制を強いており、また本来可能な行為を禁止するという恣意的な運用と言えます。

何故そういえるのか。
第38条前段では、「当該横断歩道等の直前(中略)で停止することができるような速度で進行しなければならない。」とあるわけですが、では横断歩道の手前の停止線で停止できるような速度というのはどのくらいでしょうか。
信号機のない横断歩道の場合、路面の手前50mにひし形のマーキングがされています。横断歩道のある一般道路の最高速度は法定速度の60㎞ですが、60㎞の制動距離は空走距離も含めて37m(一説には44m)とされており、これなら法令順守も可能です、と納得しそうです。

しかしこの距離は「急ブレーキ」の場合です。横断歩道があると認めて横断者の存在に配慮して毎回急ブレーキを鰍ッるものでしょうか。普通は前方の信号機が赤の場合に停車するような減速であるべきでしょう。そうすると前方の予告は50mで足りるのか。何が何でも横断歩行者を優先しないといけないのであれば、毎回急ブレーキですし、追突事故のリスクも高まります。この状態、渡れない歩行者は渡れなければ怪我一つしませんが、クルマに義務を厳格に課すことで自動車交通側に事故リスクが激増するわけで、これが「危険の防止」に資するのか。

さらに道交法第38条の2では「車両等は、交差点又はその直近で横断歩道の設けられていない場所において歩行者が道路を横断しているときは、その歩行者の通行を妨げてはならない。」とあるわけで、予告もない状態での「飛び出し」にも対応しなければいけないという規定があるわけで、クルマの運転にはエスパーのような能力を求められています。

また、夜間などそもそも横断歩行者がいるかを識別しづらい状況はどうなのか。横断している場合に停止するのは当然ですが、今回各地で問題になっているのは、横断歩道で待っているケースで取り締まっていることです。ハイビームを推奨して蒸発現象のリスクもあるなかで、横断歩行者を識別する。全く正反対のベクトルですね。
そして夜間で毎回急ブレーキ、悪い冗談です。

そして「横断しようとする」の定義も問題です。運転する側からこの人が歩道を歩いているだけか横断しようとしているか分からないケースが多々あるわけです。歩行者の側も状況を見て急に横断するわけで、横断歩道の近辺を歩いている、あるいは止まっているだけで横断歩行者と判断することは事実上不可能です。凝視すればある程度は分かるかもしれませんが、それは「脇見運転」の推奨ですね。

そう、一度ドライバーが「順法闘争」をしてみればいいんですよ。条文通りの運転をしたら洒落にならない事態になる。
横断歩道のそばに人がいるだけでいったん停止をする。横断歩行者かと思いました、ということです。もしそうだったら違反を取られるわけですから、止まりましょう。加減速が悪い大型車や路線バスも同様です。さて道路はどうなるか。実はバスの信頼性が低く、また道路交通に影響している理由の一つがこれの類似事例なんですが、なぜ道交法の「一丁目一番地」に危険防止と安全と並んで「円滑」が入っているのかをもっとまじめに考えるべきでしょう。

この問題、もう少し現実を見るべきでしょう。
数台が連なって走り、その後にクルマが来ないことが明らかな場合に、その梯団を停止させるのが妥当なのか。歩行者は何が何でも保護すべき、というのは本当に妥当なのか。数秒待てば円満に解決するのに(制動を鰍ッることで通過するのと時間的に大差ないこともあるわけです)、誰もが時間を損して、再発進で環境にも悪い。1人の横断のためにその何倍もの人が影響する。法律は本来公平であるべきなのに、弱者保護を建前にして半端でない不公平ではないでしょうか。

しかも自分だけ止まっても対向車が止まらなければ意味がない。実効性も低いわけです。あるいは常に停止するという両極端しかないわけですし、その対象もパッと見では判らないという状況です。
そう考えると、少なくとも「横断する」という意思表示が必要でしょう。道交法では盲人保護のために白杖の使用あるいは盲導犬の帯同を義務付けているのも、保護対象者を明示しないといけないという発想があるからでしょう。

だったら横断歩行者の場合はどうあるべきか。「手を上げる」という子供でも知っている「ルール」を明文化すればいいのです。
手を上げている人を認めたら停止する。それは逆に言えば、手を上げていなければ「横断歩行者」とは認められず、第38条による保護対象にはない、とするだけです。

あるいは幹線道路においては横断可能箇所を限定し、信号機を必ず付ける。遠回りだから、という「弱者」の声だけを聞いてきた「不公平」を見直すべきでしょう。逆に生活道路では今以上に第38条や第38条の2の取り締まりを強化してもいいわけで、メリハリが必要なのです。

そして「公平性」の最たるものとして、「横断しようとする」という客観性のない基準までをクルマの側に押し付ける反面、歩行者や自転車における「道交法違反」がほとんど見逃されていることを排除すべきです。
クルマの違反と違い、その大半が「故意」という点では非常に悪質なんですが、見逃されているわけです。
上記の幹線道路の横断禁止措置は中央分離帯の設置などで実施されていますが、分離帯の植え込みからひょっこり顔を出す人が絶えませんよね。クルマだったら歩道に乗り入れて走るようなものでしょう。

警察がやるべきことは、道交法第38条を厳格に適用して横断歩行者を保護するのであれば、同じく道交法の第12条を厳格に適用して、歩行者の乱横断を厳しく取り締まる。歩行者や自転車がやりたい放題で、というのは、法の運用として最低最悪であり、明らかに不公平、不均衡な「弱者保護」が、「弱者」による故意の道交法無視を招いている現実を同時に改めないと、運転者として全く納得いかない事態と言えます。


夏場所が終わり

2017-05-29 22:30:00 | ノンジャンル
夏場所が終わりました。白鵬の1年ぶりの優勝、それも全勝優勝ということですが、昨年名古屋が日馬富士、秋が豪栄道、九州は鶴竜、初場所と春が稀勢の里と、確かにご無沙汰でした。
まあ番付上は4横綱と賑やかでしたが2横綱が途中休場とあっては白鵬が踏ん張らないと夏場所の興味が激減していたわけで、その意味では「綱の責任」を果たしました。

2横綱を欠いてもある意味順当な結果になったのは、三役陣が高安を除いて微妙だったことでしょうか。5人いる関脇、小結が琴奨菊を除いて勝ち越したとはいえ、上位を食いまくる風雲児はいなかったわけで、平幕上位に至っては西5枚目の正代まで負け越しの山ですから、これは順当になるわけです。

大関を確実にした高安も、14日目、千秋楽と連敗して11番どまり。既に23勝を確保しての場所で「33勝」のハードルが低かったこともありますが、大関獲りの場所となる場合、同じ「33勝」でも尻上がりに星を稼ぎ、直前場所は12番以上というケースが多く、さらに関脇で初優勝、というケースも少なくなく、そういうケースは横綱まで駆け上がることもしばしばです。

そう考えると11番はなんとも微妙で、白鵬、照ノ富士、玉鷲、正代に黒星というのもちょっと不満です。玉鷲は東関脇ですから厳密な意味での下位、平幕への取りこぼしは正代だけというと立派ですが、フィニッシュを決める場所として「並み」の星という感じなのです。

有望株としては貴景勝や宇良でしょうか。星数では差が付きましたが、小兵業師の宇良に石浦と共に勝ち越しており、上位にどのような変則的取り口を仕鰍ッるのか。まあモンゴル勢は変則はお家撃ナすが(苦笑)

三役の入れ替わりが琴奨菊の小結留め置きであれば(昔で言うところの東の張出で7番で西小結に残れるかですが)、全くないという珍事ですが、幕内十両間も西の15枚目の魁聖が7番で東の16枚目に残れなければ4人の入れ替え。これも対象者は順当ですが、若手の有望株と言われていた妙義龍が東の15枚目でわずか4番と十両陥落間違いなしという事態には、栄枯盛衰を感じます。

最後に、先場所の「重傷」を押して出場しながら途中休場となった稀勢の里。
今場所休場時点での診断が全治1ヶ月と決して軽くない状態で、今場所の強行出場は是非が問われる部分です。出場することに義務を感じていても、結果として不甲斐ない星に終わったり、負けが込んで休場ではそれこそ綱の責任を果たしていません。
今場所を見送ってでも万全の体制を整えるべきでしたが、無理をしてしまった結果、来場所までに間に合うのか。

ただ、患部をさらに痛めて相撲にならなくなる前、中日あたりまでは相撲になっていたことには驚かされました。
腕が効かないという致命的な事態に、それこそ小手先の対応ではなく、下半身を徹底的に鍛えたと聞いており、非常に安定している下半身で踏み込んで、腹で突き上げて体制を崩して持って行く。腕が使えないなりに理に適った相撲ですし、相撲は足腰が重要ということを再認識しました。

これ、腕が良くなって、足腰も引き続き強化されていたら、「稀勢の里改」とでもいえる状態ですね。
その意味でも徹底的に直して、円熟の相撲を見せて欲しいものです。



何をされても民進党政権よりはマシ

2017-05-29 21:02:00 | ノンジャンル
安倍政権の期間が前回の第一次政権時と合わせて小泉政権を抜いて、佐藤栄作、吉田茂両氏に次ぐ戦後第三位の長期政権になりました。小泉純一郎氏の次は中曽根康弘氏と、錚々たるメンバーの一角を占めている反面、誰某といえばこれ、という実績にいまいち欠けるのも否めず、ゆえに「最後の大ネタ」とも言える憲法改正に燃えているのもある意味必然なんでしょう。

「いまいち」という印象については今朝の朝日も報じていたわけですが、珍しく率直な評価というか、「代える理由が無い」という消極的選択に言及していました。要は政権交代したらしたで大変と思う人が圧涛Iで、「野党への政権交代」までセットで見て考える、それが政権への支持という結果になっている、ということです。

皆までは書いていませんが、要は民進党に対する世間のアレルギーが凄まじいということに他ならないわけで、憲法改正も集団的自衛権も「共謀罪」も「忖度」も目を瞑るから民進党政権よりはマシ、というのがこの国のコンセンサスということです。
これはある意味最強の「アシスト」であり、民進党は「解党的出直し」どころか解党して二度と出てくるな、という評価が確定しているということです。

民主主義にとってはこれは極めて不幸な事態です。有権者にとっては選択肢が無い状態で選挙と言われても仕方がないのです。
では民進党に代わる信頼するに足る野党があるかというと、これがまた不作、不毛な状態であり、「政権を取る」という志が無いままに与党の別動隊として機能する道を選んでいるわけで、しかも政権担当能力は民進党以上に疑問符が付く状態です。

以前も書きましたが、本来保守政権であれば革新やリベラル系の野党が果たすべき機能すら与党が果たしている、そう、労働問題については本来雇用側の代弁者であるはずの保守政権が、雇用側に制約を課すような政策をどんどん打ち出している。ネズミを獲るネコが良いネコだとはよくぞ言ったもんで、政権側が賃上げをはじめとする労働問題の面唐ワで見てくれるに至っては、民進党の存在価値はありません。

民主主義の危機だなんだと叫ぶ間があったら、民進党の存在そのものが民主主義の危機になっているという自覚が必要です。