文科省の前次官の発言に対し、「勝手に言っていること」と取り合わない政府の姿勢はどうなのか。
既に証人喚問への出席も容認しているということは、もし虚偽であれば偽証罪に問われるわけですから、それでも発言をするということに重みを感じるべきでしょう。それにしても黙殺するか人格攻撃か、という政府、特に官房長官の対応はどうなのか。さすがに国士様御用達新聞もコラムでかなり踏み込んだ批判をしてますね。基本は前次官の私憤だとしながらも、「菅義偉官房長官が人格を責めるような非難で応じては、政治の値打ちを下げるだけだろう。」と「人格攻撃」を批判し、さらに「知りたいのは、公正の原則に背く行為があったかどうかである。」「後ろ暗さがないなら、事業者選定の経緯をつまびらかにすればよい。核心をぼかすから全てがうさん臭く見えるのではないか。」と黙殺で良いのか、と指摘しています。
まあ「人格攻撃」で済んでいるだけ我が国はまだマシかもしれませんね。
外国では冤罪をでっち上げられて収監という名の幽閉や、果ては暗殺で口封じというのもザラにあるわけですから。ただ今回の流れを見るに、官房長官が人格攻撃を繰り返すような状況では、いつ「一線」を越えてしまうのか、不安に思わざるをえません。
足下の流れは案外「言論の自由」の関頭にあるのかもしれません。
さて、そんなこんなの記事が新聞紙上を賑わす中で、前都知事が朝日に「私へのバッシングは人民裁判だった」と寄稿しています。メディアが権力者を追い落とすために騒いでいる、という昨今の小学校や獣医学部の報道に対する批判に力を得たのでしょうか、
私も「冤罪」だというつもりなんでしょう。
言っていることは湯河原の別荘通いから何からの言い訳と正当化ですが、当時の繰り返しをするあたりが、そもそもなぜ辞職に追い込まれたかが分かっていないわけです。ああ言えばこう、こう言えばああ、と言い訳を繰り返した見苦しさなんですよ。
確かに人民裁判の気が無かったと言えばウソになりますが、「信頼」なんですよ、知事の座に留まれるかどうかの境目は。前事務次官も「信頼」という意味では天下り問題に出会い系で地に落ちていますが、「信頼」ではなく「真実」が問われているわけで、そこに「信頼」で「真実」を否定できないだけの話です。
未だにそこが分かっていない、というのが救いようがないですね。
お久しぶりね、と出てきたら恥の上塗りですから。