Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

SKYに関するあれこれ

2015-01-31 22:26:00 | 交通
典型的なアリバイ作りとしかいいようがない30日の朝日の社説です。
というか各紙の社説でスカイマークに対する「ご高説」を拝見しましたが、各紙とも通り一遍の綺麗事、建前論に終始するなか、朝日のそれは「ボクきちんと指摘したよ」とアリバイ作りに勤しんでいます。

そう、JALとの提携を国交省が潰してANAに誘導した、民主党主導のJAL再生に対する鞘当てではないか、とまあ毎度の自民党批判もさることながら、取り返しがつかなくなってから今更のように言われても意味が無いだけであり、再三資本関係のあるANAによる救済や出資を煽ってきた朝日が、懸命のアリバイ作りといえます。


(早くも消えるA330)

そのSKYですが、A330の運航停止、減便ならびに路線休止を2月から実施します。
従来通り運航します、と破綻のお詫びで言ったそばから、と批判する向きもありますが、この状態で言葉尻を捉える様に無理難題を吹っかけるのもどうでしょうか。同様にネットではSKYの再生案がいろいろ語られていますが、噴飯なのは神戸を止めて関空に移転、という主張でしょうね。焼け太り狙いというか、ドサクサにも程があるというか、関空に移転したら出来る再生も出来なくなりますね。

ちなみにSKYの搭乗率を見ると、にわか評論家諸氏から諸悪の根源のように言われている就航空港が案外と数字を残しているわけで、738というそれなりに座席数のある機材だから搭乗率が芳しくないですが、リージョナルジェットならば、という路線が実は少なくなく、2機種目としてはA330と言う大型化ではなく、リージョナルジェットにしていれば、というところでした。


(茨城空港にて)

例えば茨城であれば、神戸線が6割前後の搭乗率ですし、8月完全撤退とされる米子も、誰が乗るのか、と言いたくなるような神戸線が5割強と、神戸を軸にFDAのような路線で活路を見出すほうが、実は消耗戦にもならずに良かったのかもしれません。


(米子空港にて)

さて、SKYの再建次第では日本の空はレガシーと傘下のLCCが大半を占めるわけで、いびつさ極まる状態になります。
そもそもLCCのようなビジネスモデルが「公共交通」なのか、という疑念があるわけで、移動需要に応えるのではなく、安いから乗ってみました、という需要創出に偏った感が強く、移動需要ありきの利用はレガシーで搾り取られる、という懸念が現実化しつつあります。

もちろん「安いから乗ってみました、行ってみました」という利用形態を否定ましませんが、LCCで空の旅を謳歌、という話を聞いて、何ヶ月も前の売り出しに対応できるような客層の「声」と言うのが利用者の最大公約数なのか。ついでに言えば成田や関空で夜明かししたり、半夜行のバスで乗りつけるような利用に支えられていますが、鉄道に対しては「夜行なんて異常でしょ」と言う社会派の視点で見れば、LCC需要は特異な客層に支えられているだけであり、大多数の移動需要に対しては、独占、寡占の弊害だけが残る、と言うべきですが、決してそんなことは言わないんですよね。

SKYも一時期LCCのような客寄せ価格で売り出していましたが、基本は極端に安くはないが、普通運賃でもリーズナブル、というある意味分かりやすい価格設定です。変更、払戻の制約がオールオアナッシングのレガシーに対し、ほどほどの制約でそこそこ安い、という価格設定も「必ず行くが、変わる可能性がある」というビジネスニーズにおいてはありがたいわけで、移動需要に応えるメニューを提示しているSKYが今後退場することがあれば、大きな不幸といえます。




官製破綻

2015-01-29 23:53:00 | 交通
スカイマークが民事再生法の適用申請をしましたが、運航中の航空会社の経営破綻としてはエアドゥに次ぐ事例になりました。
A380購入による国際線進出と言った拡大路線が頓挫し、A330導入による機材大型化が致命傷になった感がありますが、これまで繰り返されてきた拡大と集中の振れ幅が大きくなりすぎて、スピンアウトした格好です。

今回の経営破綻で「ほれみたことか」という声が早速湧き上がっていますが、経営の問題も確かにあるものの、極めて異例な破綻劇であることが見逃せませんし無視してはいけません。

そう、国交省による介入がその一因になったと言うことです。今回の経営破綻は、借金まみれの会社で銀行が資金を引き上げた、というようなものではなく、無借金経営の会社が業績の急降下でキャッシュショートの危機に瀕したためと言えます。
資金を食いつぶす過程で再建に目途が付けば破綻は免れるわけで、過去に何回も路線政策で「失敗」しても転進出来たのは、資金面での余裕が大きかったわけです。

当然資金を食いつぶしている期間が長くなればキャッシュショートを起こすわけで、早期に再建策をまとめる必要があるのですが、今回国交省が介入して、2ヶ月という時間を空費したことでキャッシュショートの危険水域に突入し、異例の両レガシーとの提携がスタートする前に力尽きました。このタイプの経営危機で一番やってはいけない対応を国交省が主導したのです。

一方でエアバス社との違約金問題を抱えていることを考えると、違約金債務を破綻処理でカットしてしまう、という荒業もあるわけで、それをあからさまに言うわけにはいかないがための国交省の行動だったと考えたくもなりますが、では強制的にカットできる会社更生法ではなく、あくまで債権者との間の「和議」になる民事再生法を選択した時点で、そういう目論見がなかったことが分かります。

結局は会社の自爆に加え、監督官庁が足を引っ張ったことで破綻した、という結果になります。


キャッチコピーが使えない?

2015-01-27 23:41:00 | ノンジャンル
大河ドラマ「花燃ゆ」が苦戦しています。
建前上営利事業でないNHKが視聴率の低迷に一喜一憂する必要は無いはずですが、その手の「大人の事情」はともかく、ドラマの舞台になった地域や原作関係者などは、番組の盛り上がりが経済効果を大きく左右するので気が気でないところでしょう。

今回、舞台は長州藩ということで、先日訪れた広島県下でも放映に合わせたキャンペーンが目に付きました。
幕末ものは視聴率が稼げない、というジンクスがある反面、吉田松陰(の妹)という絶大な知名度を持つ人物を巡る話ですから、舞台回しの知名度という意味では群を抜いているはずですし、ある意味「ご存知物」といえます。

ところがそのキャンペーンの類を見て、はたと気がついたことがあります。
幕末の長州藩を取り上げる時には欠かせないキャッチフレーズが無いのです。そう、長州藩とは切っても切れない「維新」の2文字が無いのです。明治維新前後で、キャラが立っていたのは長州藩のほうが圧涛Iであり、同じく明治維新の立役者である薩摩藩よりも「維新」のイメージが強い長州の幕末です、ここで「維新」と言わずにどうするのか、というところです。

よく見ると「維新」はあるわけですが、「やまぐち幕末ISHIN祭」「やまぐち幕末ISHINきっぷ」と何か変です。
なんでわざわざ「ISHIN」としているのか、ヘボン式ですから尚更ですが、察するに「維新」がNGワードなんでしょう。

要は政党が「維新」の2文字を使ってしまったわけです。
自由や民主といった一般的な単語であればまだしも、「明治維新」を強く意識して政党名にしているだけに、意味まで完全に被りかねない状況ゆえ、「維新」が使えないと思われます。

邪推に過ぎるのかもしれませんが、これまで表現されたことのない「ISHIN」が出回っている、それも公共セクターから、という現実を見るに、そう考えても不思議はないと思います。
特に今年は放映中の4月に統一地方選があるわけで、NHKが統一地方選と決まっている年に幕末の長州を舞台にした大河に決めたこと自体も邪推されかねないのに、そこに公共セクターが「維新」「維新」の大合唱では、明治維新をイメージした政党を後押しかねないと見られてもおかしくありません。

そうなると、「花燃ゆ」には罪が無いのに、唯一割を食う格好になりかねないのが気の毒です。


初場所が終わり

2015-01-27 23:38:00 | ノンジャンル
初場所が終わりました。白鵬が前人未到の33回目の優勝、という絵に描いたような予定調和で終わりましたが、対抗馬が不在で後進もいない状態での一人旅で数字をいくら伸ばしても、という感じです。
後述するようにいろいろあるのに、今朝の朝日の「声」欄では「角聖」と呼ぶべきと言うような噴飯ものの投書が掲載されましたが、「角聖」といえば常陸山であり、その実績と白鵬を比べるのも愚かしいというのにちゃんちゃらおかしいです。

とにかく対抗馬不在が総てです。鶴竜が5敗、日馬が4敗では大関じゃないんですから話になりません。
その大関は稀勢が4敗で、あとは琴奨菊がクンロク、豪栄道に至っては千秋楽でようやく勝ち越しです。だいたい琴奨菊と豪栄道がカド番というのもひどい場所でしたが、琴奨菊は11日目に鶴竜を下して8勝3敗でカド番を脱出してからは1勝3敗と「互助会」を疑う成績ですし、豪栄道は12日目で5勝7敗と絶体絶命の状況から3連勝と、こちらも微妙すぎる結果です。遠藤、碧山、琴奨菊と3連勝する実力があるのなら、としかいいようがないですね。

三役陣は関脇小結が全滅で、関脇は碧山が5番、逸ノ城が6番、小結は高安6番、栃煌山7番と全員出直しです。
逸ノ城は体格任せで工夫がなく、しかも取り口がセコい、というマイナス面が完全に定着してしまい、これを何とかしないと三役エレベーターで終わるでしょう。若手注目の遠藤も東の3枚目で6番と期待外れで、一皮むけたか、と思っていた勢に至っては西の2枚目でわずか1番、14敗とはひどすぎます。

勝ち越しは東2枚目の照ノ富士が8番、東6枚目の隠岐の海が9番(1不戦)で、勝ち越しが目立ちだすのは8枚目以下というのでは面白くないのも無理はないでしょう。二桁勝ったのは東9枚目の玉鷲が10番、東幕尻16枚目の徳勝龍が11番だけですし。
来場所の三役はいよいよ難しく、東関脇照ノ富士、西関脇隠岐の海、東小結妙義龍、西小結玉鷲でしょうか。8枚目の9番(勝ち越し3点)で三役と言うのもまさに番付運です。

さて、白鵬ですが、大鵬を抜く前人未到の33回目の優勝は「立派」です。
でも、横綱として「大横綱」ですか?ということです。大鵬や北の湖、千代の富士のような圧涛Iな強さはなく、ダメ押しや張り差しやとったりといった取り口(さらに言えば汗を拭かないヌルヌル疑惑)もありますし、朝青龍を追放するための作られたヒーローが、対抗馬不足に乗じて、というところなのです。

今場所は優勝を決めた13日目の「誤審」批判が話題になっていますが、まず審判批判はあらゆるスメ[ツで御法度というのに、それを「大横綱」がしてしまうのですから話になりません。
大鵬の連勝が45で止まった戸田との一番は、ビデオ等で見ると明らかに誤審でしたが、大鵬は顔色こそ変えましたが審判を公然と批判したでしょうか。それが「大横綱」の品格です。

そもそもあの一番が「誤審」だったのか。
攻め込む白鵬に対し、稀勢の里が捨て身の小手投げを放ち、両者が飛ぶように土俵際に落ちたわけです。両者の体が落ちる前後も大事ですが、流れはどうなのか。ビデオのみならず毎日に掲載された写真が分かりやすいですが、稀勢の足は両足とも宙に浮きいわゆる「死に体」ですが、白鵬の右足も返って足の裏が完全に見えるのでは「土」と言える状況であり、この場合は土がついている白鵬の負けのほうが説得力がありますが、流れを重視して同体としたといえます。

それを自分が勝っていたと言うのはどうなんでしょう。
審判部からは白鵬の右足を指摘する声が噴出していますが、物言いの説明では確か白鵬の手と稀勢の足であり、白鵬の足を理由に挙げていなかったことがそれこそ「誤審」であり、いわんや「審判に逆らうとは」という観点でしかものを見れない横審の老害連中は論外ですが、それはおいといて、自分が「誤審」で救われているのにあの言い草はないでしょう。


邦人拉致を巡る問題

2015-01-25 01:29:00 | 時事
「イスラム国」に拉致された2邦人は1人が殺害された可能性が非常に高くなり、最悪の事態になっています。
日本人もこの手の「テロ」とは無縁ではない、と冷や水を浴びせかけられたうえに、無残に殺されると言う結末は、平和ボケした日本人には衝撃的というに余りある事態と言えます。

このような「身代金目的の誘拐」という犯罪行為は、「独立運動」などの政治的活動とは程遠いと言うよりも無縁のものであり、厳しく指弾するとともに容認、いや、理解することすら躊躇われるものです。さらに言えば、フランスの風刺画を巡る事件でイスラムへの批判や無理解が広まっているなかでの今回の事件は、イスラムの立場を損ねる方向に働くものであり、イスラムを名乗る組織としてあるまじき行動と言えます。

さて、邦人が犠牲になったこともあり、国内ではイスラム国を徹底的に批判すると同時に、事件の原因をイスラム国側以外に求めることが許されない風潮になっています。
有り体に言えば、首相の中東歴訪というタイミングで発生したことでもあり、日本の中東政策を含む対外政策が今回の事件を招いたのではないか、と批判することを全面的に批判する流れです。

もちろん一部の野党政治家のようにこの機に乗じて首相批判を繰り広げているのは、原発事故での被害を強調して反原発活動を繰り広げている勢力のように、犠牲者をダシにしているようにしか見えないわけで論外ですが、事件の原因を冷静に検討する過程で生まれた批判すら認めないような動きは疑問です。

そういう批判はもっぱら、日本は軍事面ではなく民需への支援であり、首相批判は失当というものですが、アラブと敵対するイスラエル訪問と、イスラエルとの経済交流拡大が大きく報道されることからスタートした今回の中東歴訪は、フランスでの風刺画を巡る問題でイスラム圏と欧米諸国の間に溝が出来ている最中という視点で見れば、「まずイスラエル」という形で焦点が当たる組み立てが問われます。

そして民需への支援と言う建て付けにしても、結局は日本お得意の「軍事オンチ」であり、後方支援も「兵站」という軍事行動に見られかねないと言うことを忘れています。そして「テロとの戦い」への「参戦」は、「敵国」と「敵国民」として扱われる、という認識がなく、政府もそれを認識し、国民に対して意識と覚悟を問うべきであり、我々もそれを認識、覚悟して行動すべきなのに、それを欠いて来ているのです。

外交問題は平時であればプラス面が大きく、今回の問題はただただタイミングと言うことも出来るのですが、一方で国民のなかに湧き上がっている「運動」はどうなのか。
そもそも今回「犠牲」になったとされる人は昨年8月に消息を絶ったわけですが、その際には「無計画」「民間軍事会社って」と四方八方から批判を浴びていわば「自業自得」という雰囲気だったわけです。

最たる結果として、救出運動が事実上起こらず、今回事件が起きるまで、国民の間では忘れられた、というか無視されていたわけで、1人の邦人が拉致されているのに忘れられていたという事実は消えません。もちろん当該人物の行動の責に帰すべき部分が大き過ぎるのですが、それでもまずは解放を訴えるのが筋であり、国を挙げての放置プレイだったのに、掌を返したように「許し難い暴挙」というのもどうでしょうか。

そして、最も理解不能なのが、ネットで拡散している「I AM…」のメッセージボードを掲げる活動でしょう。
イスラム国はイスラムの風上にも置けない、イスラムの立場を悪くする行動という批判を上で述べましたが、イスラム国への抗議行動にこのメッセージボードは、イスラム国には反対だが、という普通のイスラム教徒の賛同を遠ざけかねない運動です。

要はフランスでの風刺画を巡る事件で掲げられた「私はシャルリー」を強く意識している行動であり、そこで「擁護」されているシャルリー誌がイスラムに対して何をしたかを考えたら、このタイミングでどうしてこういう行動になるのか。
「私はシャルリー」のメッセージボードについては、シャルリー誌の論調を擁護するのではなく、言論の自由を擁護しているのだ、という「解説」「解釈」が流れていますが、ならば直接的に主張すれば良いだけであり、「私はシャルリー」と敢えて謳う根底には、同誌の論調への擁護、さらに言えばイスラムに対する意識があるとしかいえません。

そのメッセージボードを今回わざわざ導入したのはなぜか。同誌の問題で弁明されているメッセージボードの「真意」が今回のそれにはあるのか。人質釈放への願いと連帯感以外の何物でもないメッセージボードは、「私はシャルリー」の表面的な部分以上の意味は持っていないわけで(これが「犠牲」になったほうの人の名前であれば、「あの人の行動は支持できないが、人質は容認できない」という「私はシャルリー」的なメッセージになるのですが...)、世界に向けて発信されることが果たしてプラスだったのかを考えたいです。