Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

真相隠しと教訓の死蔵

2012-05-29 23:55:00 | 震災・災害
原発事故の国会事故調で当時の政権中枢が参考人聴取を受けています。
初動での当時の菅首相の対応に問題があったことで概ね一致していたところに、それを全否定と言うか、自己正当化に終始したのですから呆れます。

今朝の産経が社説で批判していましたが、事故調の質問自体が及び腰と言うか、事故の拡散につながった核心でもある「初動の遅れ」に直結する部分には決して触れないのがもどかしく、そうなるとやはり昨年末あたりから出てきたリビジョナリズムの総仕上げとして「正史」を構築する儀式に過ぎない疑念が消えません。

今回の聴取でスルーされた事項で最大の問題は、3月11日当夜に小牧基地から入間に向かった東電社長を乗せた自衛隊機をなぜ追い返したのかという事項に全く言及がなかったこと。2時間もすれば東電のトップが本社で指揮を取れるという「希望」を踏みにじった当時の官房長官と防衛相の判断についてきちんと証言を求めないのはなぜか。

その後の状況を鑑みれば、経営トップが決断することで迷いなく対応できたと思われる場面があったわけで、その際たるものが1号機のベントでしょう。これに成功していれば、1号機の爆発が避けられたか遅らせられたわけで、1号機の爆発により支障された2号機~4号機の仮設電源設置も順当に進んでいれば、後の連鎖的な爆発も避けられた可能性があります。

権限がなく決断が出来ない東電側に、勝手に乗り込んでかき回した首相。時間が空費され、破局への連鎖が始まってしまった原因に挙げて然るべき官房長官と防衛相の行動です。

社長がいても同じ、と官邸を擁護する人もいるでしょうが、菅前首相がいみじくも「直接視察して顔が見えるようになってよかった」と言ってるわけです。トップが直接事態を把握することは大切だ、というのであれば、社長の帰京を阻害した行為は真逆です。

原発事故において、この社長の帰京こそがあとから見たら運命を分ける事態だったわけです。
多少の放射性物質の放出や原子炉の損壊はあっても、何とか封じ込めて、あとは燃料をどう運び出すか、というような議論になっていたかもしれないのです。
そしてその判断が歴史に残る大事故となり、我が国の国土を長く蝕む結果になった。その責任のひとつはあの判断にあるのです。

こうした判断ミスの連鎖により破局に至ったことで、原発の安全対策というものが思考停止に陥っています。本来事故があれば、そこで判明した事象を横展開して再発や再現を防止するのが技術です。
しかし想像を絶する事態の前に、「原発はもうヤダ」という思考停止が幅を利かせてしまったのです。

そう、福島第一の不幸な経緯から、何がネックになるのかが洗い出せます。
また、福島第一の5号機、6号機の経緯や、福島第二、女川、東海第二から、どこまで耐えられるか、どのような体制が確保できていれば大丈夫なのかも洗い出せます。

この手のリスクの見積りについては、通常なら想像で積み上げるしかないところ、1000年に1度の未曾有の大災害という「実証」データが手に入ったのです。それを活かすことで、それこそ1000年に1度の大災害にも耐えられると自信を持っていえる体制が作れるのです。

本来、震度6強でも耐えられる。津波を被ってしまっても電源が確保できていれば冷温停止に持ち込める、という実証データが得られ、非常用発電機の位置や回線確保、水素の排出など排気の配管経路などの問題点も明るみに出たわけです。ならばどうしたら巨大地震にも対応できるのか。答えは目の前にあるも同然なんですが、対応をせずに諦める道を選んだわけです。
それだけならまだしも、きちんと分析もしていませんから、1000年に1度の貴重な実証データが今後に活かされないとしたら、恐るべき思考停止といえます。


これも叩いてブーメランか

2012-05-29 23:22:00 | 時事
売れっ子倹lの母親の生活保護問題が、扶養義務全体を見直す動きになっています。
前々から言っているように、「金持ちに追い込みを鰍ッたつもりが、自宅に来たでござるの巻」を地で行く話であり、独立した生計単位で社会保障の原資を払い込んでいながら、その受益は親族全体での余裕で見ます、というやらずぼったくりの片棒を担いでいるあたり、やはり「B層」と言わざるを得ません。

親族の有無にかかわらず、社会保障費の金額は変わらないのに、受益については親族がいなければ貰えて、いれば貰えない、というのは不平等どころの騒ぎじゃありません。

さらに言えば、扶養義務を強化するということで、扶養義務者の有無が結婚の条件になることは必至でしょう。昔から「家付きカー付きババア抜き」と揶揄されてきたのですが、嫁姑戦争レベルのうっとうしいかどうかという話ではなく、金銭的負担を伴う本人の生活に直結する問題になるからです。

それこそ、かつてはなかなか縁遠かった「ご両親を幼少のころに亡くされ、天涯孤独で頑張られて」という薄幸な人は、今後は「金の卵」でしょうね。扶養義務者が圧し鰍ゥってくることが絶対にない安全パイですから。
逆に「ご両親も祖父母も健在で、ご兄弟にも恵まれて」という人は見向きもされないかもしれません。それこそ、私が生きていたら子供の結婚の妨げに、という人が出てくる時代が来るかもしれません。

さて、別の倹lも母親が生活保護を受けていると報じられましたが、こちらは受給している母親が祖母の面唐ゥている中で収入を絶たれた事情があり、倹l側も子供の養育や家のローンで余裕がないということです。

ただ、家を提供しているということは「扶養」であり、生活費に充てる収入がないとしても、その支給額は家賃支出に相当する額を控除すべきケースでしょう。(生活保護が家賃が外数なら控除の必要がない)
また、本来であれば「扶養家族」と見做すべきケース(ただしその場合は倹l側の所得控除が増えて税金の戻りが発生する)ですし、生計が別という建前であれば、マンションの提供は「贈与」として逆に課税対象になる可能性もあります。

しかし、これについての「識者の意見」を見ると、まさにこれまで懸念してきたことを平然と主張している人がいるわけで、いよいよ「親族共唐黶v「子の生活の崩壊」が現実になりそうです。

つまり、「(倹lは)ローンの返済額からみると、十分に母親を養う能力がある。母親に買ってあげたマンションを担保にローンを借り換えて繰り上げ返済し、母親に生活費を渡すなどの方法もあったのではないか」と言っているわけで、住宅ローンの有無が理由にならないと言いきっています。
(簡単に借り換えと言うが、倹lの収入構造で住宅ローンが組めるのか、という根本的な問題が置き去りです)

今の生活で組めるローンを組んでいるのに、それは過大だから資産を担保に入れてローンを減額し、その分を扶養に回せ、というのでは、扶養義務者は資産を処分するか借金でもして扶養せよ、と言うわけです。
特に本件は家屋の提供後に親が収入を得られなくなったケースであり、家屋と言う現物支援以上の支援を、資産を担保提供するとか処分することで実行すべきなのか。

資産が本人名義であれば、資産を保持しながら保護を受けることは許されませんが、扶養義務者名義の場合は、それを処分することを前提にすることを一般則化することには問題があります。

本件は豪華マンションに住まわせているからケシカラン、という「庶民感情」が噴出しているようですが、本人ではなく扶養義務者に資産があるが運転資金が無いケースで、生計が別の親族を資産を処分してまで扶養する義務があるのか、という話です。

これはまさしく今の生活を崩壊させてでも扶養しろと言ってるのと同義であり、運用が、とかいって楽観視していた人は自分の不明を恥じるべきですし、危機が足下に来ている事を自覚すべきでしょう。



英文表記で読めない地名

2012-05-28 01:06:00 | 交通
山手線のラッピング電車ですが、最近目立つのが外国の宣伝。「世界遺産といえば GREAT」と書いてその下に小さく「Britain」と書いてる英国政府観光庁の広告は、ロンドン五輪のサッカー「英国」代表の組成に今なお紛糾している「連合王国」が、「大英帝国」単位で売り込んでいる面白さもあります。

この手の宣伝では前に一発撃ナ挙げた「元カレよりニューカレ」のニューカレドニアがありましたが、このところのは真面目ですが、そうした中の一つに、中国杭州市の宣伝があります。

南宋の臨安があった都市で、中国の歴史で南北が競う時代には必ず南朝方の都が何かしらの形で置かれた古都です。文化遺産も多く、中国を代表する観光地の一つですが、今回のテーマは杭州の宣伝ではありません。

中国・杭州市と漢字で書かれているほか、Hangzhouと英語表記がありますが、「g」がその形状をデフォルメして茶器のように描かれているのが、龍井茶の本場であり、中国第一の茶どころである杭州流です。

しかしこの「Hangzhou」、なかなか読めません。
日本では広東省の広州と区別するために「くいしゅう」とわざと読む人もいますが、英文を見ると「ハンチョウ」のようで、地図でもそう書かれていることが多いです。
しかし現地に詳しい人に聞くと、「ハンゾウ」と言ったほうが通じるよ、とのことでした。

このように、英文表記があっても中国語の複雑な表音を無理やり当てはめた感じが強く、サイレントや「zhou」のような発音しづらく、英語でもあまり見たことがない組み合わせのスペルになるのが中国語、また韓国語での地名表記の特徴といえます。

こうした「英文表記でも読めない」という特殊事情が駅ナンバリングなどの「記号化」の原動力になっているのでしょうし、ひょっとしたら日本のように地名等の英文表記が実は普及していない(一般人に認識されていない)のかもしれません。

一方、日本では訓令式だと拗音、撥音を除けば母音のみ、もしくは子音+母音の2字でカナの1字に対応する「ローマ字」という単純化が確立しており、ヘボン式の例外も「八丁堀」の「っちょ」のように「tch」になるのが分かりづらい程度で、大半のヘボン式の特則が子供でも理解している状況だと、英文表記に対する理解度も高いですし、英語圏の人も若干違っていても遠からぬ範囲、日本人なら分かる範囲で発音できるでしょう。

そう考えると、日本語の英文表記が中国語や韓国語でのそれと比べて発音などの実行面で簡単であれば、駅ナンバリングのような自国民が読み替えを必要とするシステムを導入する必要も薄いのでは、と思いますね。道案内で「トキオ」「オサカ」「コービ」でも何とか通じるレベルですが、ナンバリングでは通じませんから。


車内飲食批判の矛盾

2012-05-28 01:04:00 | 交通
掲示板のほうにご意見を頂いた車内飲食の話ですが、拙サイトの元記事がヤフーのニュースで私的サイトの意見として紹介されたこともあり、かなりのアクセスを頂いたこともあり、未だに議論の対象となるようです。

あの時点からさらに車内での飲食に対する風当たりはきつくなっており、ヤフーの「知恵袋」には広島地区の山陽線で弁当を遣っていたいた家族連れに車掌が注意した、という事例を引いて是非を問う質問が出ていましたが、思いのほかに規制に対する肯定論が多いのには驚きましたね。
それこそ投稿者も行楽の途上でしたし、電車自体あのエリアはまれに103系も来ますが、原則は転クロかボックスですから、「ラッシュ時云々」「通勤型云々」という規制論者が持ち出すエクスキューズが当てはまらない事例でも容認しないと言うのは、相当非寛容な社会が進行した印象です。

掲示板での事例もまあ極端な例なんでしょうが、そういった極端な例に対しては個別に対応すればいいだけで、それを盾に一般論化することは出来ません。前にも述べたことがありますが、自説を押し通したいがために、極端なケースを持ち出して「どうなんだ」と迫るような、アローワンスを極端に削る、しかも自説に合う側は極端に緩める形で可能性を最大限配慮するやり方はいかがなものかと思います。

極端な事例を持ち出すのなら、例えば消化器系の手術をして食事は少量多頻度で摂取しないといけない人はどうなのか。薬の効力の関係で極力決まった時間に食事を摂らなきゃいけない人はどうなのか。それこそ携帯電話の通話規制の根拠になっているペースメーカー装着者よりもそうした事情を抱えている人は多いでしょう。

「マナー」と称して一般論化したいのなら、客観的根拠が必要です。
車内飲食そのものではなく、飲食後の空容器を適切に処分できない、というのは「マナー違反」と言えますが、そのように社会のコンセンサスを無理なく得られるレベルでないといけません。

車内飲食の場合は、「公共の場だから」というマナー論を装いながら、「私が嫌だから」という私的感情の押し付けが強いところが問題です。もちろん何から何まで我慢すべき、というのも無理筋ですが、「公共の場だから」と言うのであれば、どこまでが他人に強制できるのか、お互いに我慢すべきなのか、と言う話になります。

実はこの線引きは簡単です。対象となる行為の必要性を計ればいいのです。
そしてそれが規制や「マナー」と称する制限において整合性が取れているか。取れていれば社会のコンセンサスは簡単に得られますし、また多数が規制(開放)を支持していてもその行為は容認すべき、という結論になります。

飲食のように生活における必要な行為、ベビーカーでの移動のように乳幼児を安全に移動させる行為といった、「必要度」の高い行為がなぜか蛇蝎のように嫌われていると言うのもおかしな話です。
一方で、携帯やスマホを一心不乱に操作しているのは何の必要性があっての話でしょうか。まさに不要不急の「娯楽」「お遊び」に属する事例であり、現実に多種多様な迷惑行為も発生していますが、みんながみんな「お楽しみ」になっていることもあり、声が上がりません。

最近の迷惑行為の上昇株であるキャリーバッグにしても、階段でひょいと持ち上げるようなレベルの荷物ならゴロゴロ引き回す必要性はないわけで、「楽」に属する事例であればやはり必要性は小さくなりますが、これも声がなかなか上がりません。

飲食にしても、特急の車内ならいい、というしたり顔の意見を目にしますが、「駅弁」など駅構内での飲食物の販売の存在が自説と矛盾するが故の苦しい言い訳であるのは論を待たないでしょう。
そもそも「臭い」その他の迷惑を主張するのであれば、2人鰍ッシートで、時間単位で動きがない閉鎖空間こそ規制論者が根拠とする「迷惑」の度合いは上昇するわけです。

実際、車内美化対策だのテロ対策だのでゴミ箱が車内、構内とも極小化している中、隣席で弁当にビールと小宴会をした挙句に、下車駅まで足下に弁当ガラや空き缶を放置する度合いは、一般列車よりも高いですし、飲み物をこぼして周囲に波及するリスクも一般列車に比べて低いわけではないし、「座席指定」の関係上、逃げられないと言う固有リスクもあります。

まあ、私から見たら詭弁を弄する域の「区分」までして車内飲食を規制するのも、時代の変化かもしれませんし、個人の権利意識というか、積極的な侵害どころか「見える範囲」の消極的な侵害ですら他者を積極的に規制することまで進むのも時の流れと諦観するしかないのかもしれません。

車内飲食に対して、「日本人のモラルが低下した」などと批判する人もいますが、かつての日本では交通機関で弁当を遣うことは当たり前でした。浪曲でお馴染みの森の石松の金比羅代参・三十石船の名調子も、今で言うなら混み合う京阪特急の車内で大阪寿司をつまみに酒を飲んでいるというシーンですし。

屋外での飲食と言っても、交通機関や公園のように、「腰を落ち着けた」場所で食べることはあっても、逆に掲示板に書いた実体験のように、駅のベンチなど人通りがある場所で弁当を遣うことは、道端での飲食のようにモラルが低い行為だったはずです。駅弁に限らず、花見弁当、芝居の幕間に食べる幕の内弁当にしても、広場や芝居小屋のように「腰を落ち着けた」場所での食事です。

そう、マクドナルドが初めて日本に出店したとき、車内での飲食を咎める人はいませんでしたが、路上やオープンスペースで食べることを前提にしたハンバーガーについては強い批判がありましたが、半世紀近く経つとモラルの基準も変わったようです。それも時世時節といえばそれまでですが。

28日の朝日天声人語に、京都のお香屋さんのエピソードをネタにした匂いに関する話が出ていましたが、今の日本人が匂いを極端に排除していることと本件は無縁ではないでしょうね。人間として不可避の加齢臭ですら、あたかも迷惑行為のように排除するような社会をどう考えるのか。
そして飲食というある意味人間として不可欠な行為すら排除する風潮が行き着く先がどうなるのでしょうね。


「良いお手盛り」

2012-05-28 01:02:00 | 時事
内閣府の原子力委員会が「秘密会議」を開いていた、ということが問題になっていますが、「勉強会」を開いて悪いのかな、とも思いますね。こういう専門性が強く、しかしミスが許されない分野においていちばん浮「のが「衆愚主義」による決定であり、きちんと専門家の意見を反映させないととんでもないことになるからです。

直近でそういう危険性を強く推定させたケースとして、大阪市長による原発のパートタイム稼動の話。素人民主主義だと、「そのあたりが落としどころですな」と安易に合意しそうですが、原発の負荷変動といったらチェルノブイリへの道の一里塚ですから、恐ろしい話です。

もちろん「脱原発」「反原発」の委員も参加させればベストでしょうが、聞く耳持たないどころかトンチンカンな質問で紛糾させて勉強が出来ないようになるのが関の山ですから、勉強したい有志で「小委員会」を作ることについては是々非々で判断するしかないでしょう。これがアウトなら、反対派が市民団体と連絡を取り合っても「秘密会議」ですから。

そもそも「脱原発」「反原発」が「正義」だから推進派の一挙一動をおどろおどろしく伝えて印象操作に走っているんでしょうね。

そうしたなか、朝日の「プロメテウスの罠」は「脱原発の罠」のシリーズですが、政府・エネ庁の基本問題委員会における推進派、反対派の攻防が舞台になっています。
文中でさらりと「脱原発(依存)」をテーマにする委員会、と言ってますが、「現行のエネルギー基本計画をゼロベースで見直す」委員会であり、脱原発を推進する委員会ではないはずです。

もちろん政権が「脱原発依存」を打ち出していると言う原則があるのですが、だからといって脱原発、反原発派が半分を占めるように委員会の構成を考えるべき、という制度設計の舞台裏を見ると、これって「委員会」と言いながら「お手盛り」じゃね、と言う話でしょう。

他のジャンルで政府の意見に沿った委員で半分を占めるように設計した、と言ったら鬼の首を取ったように騒ぎ立てるくせに、脱原発、反原発ならお手盛りマンセーでは開いた口が塞がりませんし、こうした「ご意見伺い」の正当性、公平性を根本から疑う事態をスルーしていたという事実もまた強く指弾されるべき話でしょう。

この委員会、ゼロベースで見直す、と言っておいて、原発を維持すると言うシナリオの提示を拒むとか、最初から結論ありきというのも「お手盛り」と言うんですけどね。それも脱原発、反原発からは「結構なこと」とマンセーですから...
シナリオ提示ならゼロベース、しかも即時停止のクラッシュケースから、積極的推進までそろえてその特質を分析するのが「仕事」であり、誘導するようなシナリオ提示ではそれはプロパガンダといいます。