防衛相による原爆投下に関する発言が問題になっています。
要は原爆投下は悲惨な出来事だが、それで終戦となったことでソ連参戦による被害を最小限に食い止めた、つまり、北海道占領や日本分割統治を免れたから、しょうがないという話です。
確かに結果論からすれば、原爆投下は終戦のきっかけの一つになったわけで、8月8日のソ連参戦から1週間程度、ソ連軍が「本土」に侵攻する前に降伏したことで、国土分割などの悲劇は免れたことは確かです。実際ソ連は8月15日以降も南樺太や千島列島を侵攻し続けたわけで、歯舞諸島や色丹島の占領は、東京湾の戦艦「ミズーリ」で降伏文章に調印した翌日の9月3日でした。
しかし、原爆投下で即座に政府の意思が降伏に傾いたことは必ずしも言えない訳で、政府首脳は広島の投下前から降伏を指向していましたし、軍部、特に陸軍は少なくとも広島に投下された時点ではまだ戦争継続を指向していました。
それどころかどちらかというと終戦工作の仲介者として期待していたソ連が参戦したことで政府や陸軍が継戦意欲を失ったともいえるわけで、ある意味ソ連参戦を防ぐための降伏と言うより、ソ連参戦が降伏の最後の引き金を引いたともいえます。
原爆が投下されなくとも、ソ連が参戦して満洲、樺太、さらには北朝鮮や千島で怒涛の進撃を繰り広げれば、8月15日とは言えなくとも、早期に降伏でまとまった可能性も指摘できるわけです。
結局、首相が言うように、アメリカの考え方としてはそうであっても、我が国がそうしたスタンスに立った行動をしたとはいえないのです。
そうなると、それを我が国の側から「しょうがない」と評価することは妥当なのでしょうか。
先日、広島の原爆資料館を運営している広島平和文化センターの理事長が、原爆投下を日本の植民地支配からの解放と肯定する意見に配慮した展示の見直しを表明して議論を呼びましたが、今度はアメリカの立場に配慮した意見が出てきたわけです。
「核兵器」という一般市民への攻撃を半ば前提とした兵器の存在はやはり絶対悪として否定すべきです。どうしても戦争や戦闘行為が不可避であっても、それは軍人によってなされるから戦争なのであり、非戦闘員の虐殺は東京裁判やBC級戦犯裁判で断罪されたように、正当化できません。核兵器の否定はその法理において戦争の肯定とすら矛盾しないのです。
ここに来て原爆をいわば「必要悪」として相対化する動きが出てきたことが何を意味するのか。
中国が原爆実験をした当時、「共産圏の原爆は良い原爆」と主張した「進歩的文化人」の思考を最早笑えない状態になったのでしょうか。
要は原爆投下は悲惨な出来事だが、それで終戦となったことでソ連参戦による被害を最小限に食い止めた、つまり、北海道占領や日本分割統治を免れたから、しょうがないという話です。
確かに結果論からすれば、原爆投下は終戦のきっかけの一つになったわけで、8月8日のソ連参戦から1週間程度、ソ連軍が「本土」に侵攻する前に降伏したことで、国土分割などの悲劇は免れたことは確かです。実際ソ連は8月15日以降も南樺太や千島列島を侵攻し続けたわけで、歯舞諸島や色丹島の占領は、東京湾の戦艦「ミズーリ」で降伏文章に調印した翌日の9月3日でした。
しかし、原爆投下で即座に政府の意思が降伏に傾いたことは必ずしも言えない訳で、政府首脳は広島の投下前から降伏を指向していましたし、軍部、特に陸軍は少なくとも広島に投下された時点ではまだ戦争継続を指向していました。
それどころかどちらかというと終戦工作の仲介者として期待していたソ連が参戦したことで政府や陸軍が継戦意欲を失ったともいえるわけで、ある意味ソ連参戦を防ぐための降伏と言うより、ソ連参戦が降伏の最後の引き金を引いたともいえます。
原爆が投下されなくとも、ソ連が参戦して満洲、樺太、さらには北朝鮮や千島で怒涛の進撃を繰り広げれば、8月15日とは言えなくとも、早期に降伏でまとまった可能性も指摘できるわけです。
結局、首相が言うように、アメリカの考え方としてはそうであっても、我が国がそうしたスタンスに立った行動をしたとはいえないのです。
そうなると、それを我が国の側から「しょうがない」と評価することは妥当なのでしょうか。
先日、広島の原爆資料館を運営している広島平和文化センターの理事長が、原爆投下を日本の植民地支配からの解放と肯定する意見に配慮した展示の見直しを表明して議論を呼びましたが、今度はアメリカの立場に配慮した意見が出てきたわけです。
「核兵器」という一般市民への攻撃を半ば前提とした兵器の存在はやはり絶対悪として否定すべきです。どうしても戦争や戦闘行為が不可避であっても、それは軍人によってなされるから戦争なのであり、非戦闘員の虐殺は東京裁判やBC級戦犯裁判で断罪されたように、正当化できません。核兵器の否定はその法理において戦争の肯定とすら矛盾しないのです。
ここに来て原爆をいわば「必要悪」として相対化する動きが出てきたことが何を意味するのか。
中国が原爆実験をした当時、「共産圏の原爆は良い原爆」と主張した「進歩的文化人」の思考を最早笑えない状態になったのでしょうか。