菩提寺の通信を配る。
自分の住む集落の檀家がどこかはわかる。さて隣の村の責任者の家がどこなのかもっと簡単にわかると思っていたら、これがそうじゃなかった。簡単な住宅地図に沿って探すがわからない。そこで在宅している人に声をかけて聞いてみるもこの人たちがその家の住人の名前を知らないのだ。
都会だと隣人のことを知らないというのはよくある話だと思っていたが、これが伝統的な農村集落でも代が変わると知らないのだ。思った以上に時間がかかってしまった。暑かったので途中でやめて帰ってきた。
現代は自分の家族と職場と学校以外のことには関心を持たず暮らしているのだと改めて感じた。
いい悪いではなくそうしてみんな暮らしているし、そう暮らせるのだ。
ところがいったん災害などになるとこのために取り残してしまうというようなことがあって、「これじゃいけない」ということになって、隣近所の「防災マップ」はできたのだが・・・。
「あそこの家には子供が何人いてどこの学校に行っていて、その後就職したか、結婚したか」というような話を近所でしたりというようなことは「プライバシーの侵害」だというのでみなしなくなった。
それでいいのだが、隣村に配りものなんて言うときには困ってしまう。そう何度でもあることではないが。
そして家の建て方も昔はあった縁側というものがない。家には上がらなくてもちょっとした話をする場としての縁側。話をするしないは別としてちょっとした空間の余裕は家には必要だと思う。