≪世界遺産「ペルセポリス」観光≫
4日目はいよいよ「イラン」古代遺跡のハイライト「ペルセポリス」に向かって、8時にホテルを出発した。57kmを1時間強で到着した。
ガイドブックによると、「ペルセポリス」は「ペルシャ人の都」という意味のギリシャ語が語源の名だそうだが、「イラン」では普通「タフテ・ジャムシード(ジャムシード王の玉座)」と呼ばれているという。
紀元前520年、アケメネス朝ペルシャの「ダイオレス一世」が「ラフマト山」から切り出した石材で造成に着手、その子どもの「クセルクセス一世」の時に125,000㎡の都が完成した。ここでは即位式や重要な儀式を行ったという。
当時のアケメネス朝は、西はエジプト、東はインドまで支配権を有していたが、紀元前331年に「アレクサンダー大王」が陥落させた。その後は廃墟のまま今に至っている。
駐車場から暫く歩いたら左右に大きな階段があった。上り切ると目に入って来たのが「クセルクセス門」だ。本来は東西南の三方に門があったが、この門は西の門で、入り口は「牡牛像」反対側は「人頭有翼獣身像」だ。偶像崇拝を禁じるイスラーム教の信者の手で破壊された。
かっては百本の柱が並んでいたという「百柱の間(玉座の間)」。当時は70㎡の部屋に財宝を展示して、朝貢者に帝国の力を見せ付けていたという。
「謁見の間(アバダーナ)」は、2.6mの高さに造られていて、「ダイオレス一世」はこの部屋に高さ19mにレバノン杉の屋根を葺き、36本の石柱で支えていた。
北側と東側の階段に彫られているレリーフが見事だった。「牡牛を襲うライオン」の解釈の一つは、ライオンが夏、牡牛が冬を表していて、季節の移り変わりを示すという。また、ライオンを王、牡牛が敵と見る見方もある。
同じく階段のレリーフだが、朝貢に来た人々の色々な服装を表している。また羊、馬などの貢物も描かれている。
「ダイオレス一世」の「冬の宮殿(タチャラ)」には、所々に黒大理石が使われて黒光りしている。
「アルタクセルクセス二世王墓」(在位は紀元前404~358年)は、東側のラフマト山の岩肌に高さ12m、横6mのファサードが浮き彫りにされていて、「ペルセポリス」のあちこちから見ることができる様になっていた。
ここまで登って振り返ると広い「ペルセポリス」が一望できた。
王墓から降りたところで写したこの部分は、多分「三十二柱の間」だったと思う。
バスへの集合時刻に間に合うように「ペルセポリス」を後にした。
2時間見学した古代遺跡は、2500年前のこの国の人々の建築と彫刻の素晴らしい技術と王家の生活の一部を今に伝えてくれていた。
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