花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「チェコ共和国の旅」(11)

2017年06月11日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ

≪「チェスキー・クルムロフ城」≫

この町は、山に囲まれた盆地の様な地形の所に、山の裾を流れる「ヴルタヴァ川」が大きく折れ曲がっている。
丘の上に13世紀、南ボヘミアの貴族「ヴィートコフ家」が城を建設し、川の内側の場所に町ができた。
城は14世紀から次々と幾つかの貴族の支配が変ったが、16世紀に現在の形ができ上がったという。
その後この街は衰退したため、中世の姿が残されたのだ。

初めて着いた日は、バスを下りると駐車場から傾斜した坂道を350m程登らされた。暑い日だったので、私はかなり汗をかいた。20年前には、いきなりこんな坂道を登らなかったのにと思っている内に「チェスキー・クルムロフ城」の西側に出た。
展望台があったので、下を流れる「ヴルタヴァ川」と赤い屋根の家々がぎっしりと建ち並ぶ城下町を眺めた。

その後坂を少し下りて「チェスキー・クルムロフ城」の中を通り抜け、さらに下って橋を渡り、少し歩いたら市庁舎やホテルがある町の広場に着いた。その日のホテルは、その中の1軒だった。
古い旧市街の建物なので、エレベーターはない。スーツケースを各自が運び上げなければならず、本当に大変だった。わざわざ、この場所の不便なホテルを選ぶ必要があったのかどうか、私には大いに疑問が残った。

(この町の観光は翌日の午後だったので、翌朝は他の町に行くため、もう一度丘の上の城まで上り、坂を下りて30分近く歩いて駐車場に行った。私にとっては朝からすっかり疲れてしまった)


(旧市街の展望台から丘の上の「チェスキー・クルムロフ城」を臨む)
 
(下から城の塔を写す)                  (市街地の入り口にある門)

(城の第一の広場。だまし絵の壁面装飾)

(旧市街広場の一角)

(城の西側展望台から下の市街地を写す)

(最後の朝、ホテルを出て他の町に向うに当たり添乗員が案内した駐車場までの道は、城のある丘を越えない平坦な道だった。つまり彼女はその道を知らなかっただけだったのだ)

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「チェコ共和国の旅」(10)

2017年06月11日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ

≪「ホラショビッツェ」の「フルボカ城」≫

「フルボカ城」は「プラハ」の南方約125kmの所にある世界遺産である。
ボヘミア王プジェミスル・オタカル2世が所有していた頃からの記録はあるが、この城を誰が建てたのか不明だ。やがてドイツの貴族「シュバルチェンベルク家」の所有になり、膨大な経済力でこの城を豪華なものにして行ったという。
19世紀には、イギリスの「ウインザー城」をモデルにネオゴシック様式に改装された。
この城には広いフランス様式庭園と広大なイギリス様式の自然庭園があり、立派な温室では熱帯植物が育てられていた。

   

≪「トゥシェビーチ」の「ユダヤ人街」と「聖プロコビウス大聖堂」≫

「プラハ」の南東180kmにある「トゥシェビーチ」は、かって12世紀にモラヴィアの中心だった都市だというが、1468年ハンガリー軍が侵攻してから衰退し、18世紀に復興した。
またこの街は、チェコで最も大きいユダヤ人街があった事でも知られる。町を東西に流れる「イフラヴァ川」をはさんで北側にユダヤ人達が町を作り、第二次世界大戦前は1700人に上ったが、ナチスドイツの迫害が始ると多くは他の地域に移住、300人居た人達も収容所に送られ、戦争終了後は僅か3人が残っただけだったという。
現在でも約123棟の建物、学校、病院、工場、ユダヤ人墓地などが残されいて、「ユダヤ人集落の全機能が残る場所」として2003年に世界遺産に指定された。



                

ユダヤ人街の端にある「聖プロコビウス大聖堂」は、1290年ベネディクト修道院の一部に建てられたが、ハンガリー軍の侵攻後破壊された。18世紀に現在のゴシック様式に修復された。





 

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