Something-New

710は私の好きな数字。
西海岸をDATSUN710で走った記憶・・・
その道は今も続いている。

無題

2010-07-28 | 無題



写真を撮りたい・・・ と思う時
私の その 視線は いったいどこに向けられているのだろう。

ついこの前まで 写真に撮りたい レンズで覗いて見たい
と思うものがあって 実際 それをカメラというフィルターに通してしまえば
あれほどに撮りたかったものが たった1回 鏡に映ったというだけで
どうでもよいものに変り 忘れて   いく。


ところがこの頃の私には
撮りたいものも なく
ヒトの声 電話 手紙 新聞 目覚まし時計 トイレのドア
そういう何かに繋がりそうなものがイヤで
自分の身体も「勾玉」のカタチにして
眠ってばかり いた。

仮に職場でワタシの姿を見た というヒトがいたとしても
本当のワタシではなく
いや 始めから ワタシには ワタシなどというものは なかったのかもしれない。


しかし 今日は なぜかパソコンというもののスウィッチを 入れた。


ほしいもの 
「自由」
それは ヒトの声 電話 手紙 新聞 目覚まし時計 トイレのドア から
逃げることではなくて
物事が 予定されていたとおりにいかなくても
スケジュールのひとつ ふたつが 時間とおりでなくても
物事は始めから「無い」という考えの厳しさを
自分で引き受ける 「自由」。


予定通りに 何かを見た 何かを読んだ 知識を得たと
思っても
それは 写真というヤツと同じで
通り過ぎれば 何も「無い」。
お釈迦さまの 瞬きのような もの。


そういうこと です。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お家 大好き!

2010-07-19 | やれやれ・・・

 2連休。

とっても シアワセです。

今日は 午前中 車を洗ったり 庭の手入れ。

特に手入れをしていないような庭が

実は マメに手入れをしているのです。

人工的に ナチュラルな自然ってやつを 作っているようなもの。 

おや

今日は次女も お家セイカツ?

机の上の整理など いかがでしょうか。

本当のナチュラルは 困ります。

人工的にきれいにして下さい。

 

オットは・・・ と見れば

昼ごはんですか。

 

それでは と・・・

今 うどんでも茹でますから

それまで これでも さらさらっとね。

ゆうべの残りご飯をざるに入れて洗い

やっぱり残った茄子の味噌汁も冷蔵庫で冷たいまま

味噌汁かけご飯にして

梅干しと白ゴマでも。

大葉を細く切ったものを乗せてもいいですね。

 

午後は アイロンがけ・・・っと。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無題

2010-07-19 | 無題
暑くてタイトルを考えるのが
イヤになっちゃった。




昨日は久々の寄席だったが
ずっと気になって いる。
それは高座にあがる多くの落語家が
話しの枕に「高齢者」を出してくることだ。
たしかに昨日の寄席のお客も高齢の方が 多い。
そして 落語家は某ヨシモトのお笑いを バカにする。
だけど 落語家のひとりは羽織も脱がず
痴呆になったおじいさんの念仏を
それもヒステリックに唱えただけで 高座をおりていった。





いっそ この際落語家は
高齢者を揶揄するような日本の言葉は
毒の蝮か なんとか丸に任せておいて
(こちらは芸になっている)
自身の高齢や 目の上のタンコブの真打ちのあれこれは
ナガツマやレンホウに任せて
本来の「枕」を学んだらどうだろうか。
それは季節であり 人情のはず。
それから 「チクリ」と いきましょうや。

そんな話で 笑うほうも 笑うほう。
私の前の座席の男性など 民謡漫談で『さんさ時雨』 を 柳家三郎とうなったあと
こんな話しには ぐうぐう寝ていました。
おみごと!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴本演芸場

2010-07-18 | 箪笥

2010-1985 の私。

フジカラー100年プリントなのに

色・・・ 昔っぽくなっていますよ。

そして 上野は鈴本演芸場。

1985もオットと。  もちろん この時の撮影も。

 

 

そして 2010の 私。

「昔は 若かったね」 というのですが

どう解釈したら・・・

 

 

そして 鈴本演芸場。

昨日までのお仕事をリセット。

天むすを食べながらビールを飲んで

ウトウトしたり・・・

 

 

歌舞伎も寄席も ひとりで出かけると

自分の隣に知らない誰かが座るわけで

これが「運命の分かれ道」・・・ というか

すぐに帰りたくなっちゃうことも  ある。

知らない誰かとこんなに長時間 

かなりの接近度ですから・・・・ ね・・・・

 

 

上野駅の回廊で。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わかるヒト には わかる

2010-07-17 | 無題
めちゃめちゃな画像を集めたようですが
わかるヒト には わかる あの行事です。



夢の世界の作り物・・・
とてもよくできていて いつもびっくりします。
限られた素材の中で よく作ったものです。




ところで
玉ねぎは目にしみるから 玉ねぎなのです。
玉ねぎの目にしみるという個性を 私たちは受け入れるべきで
ゴーグルなんてして玉ねぎを切るなんて 
言語道断!
当然 ゴーグル なし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無題

2010-07-14 | 箪笥
どうしてもタイトルが思いつきません。
箪笥の中から帯や着物を出して
手にとって ながめているだけなのですが。

『菊花稚貝』
お祝い・・・
それも とてもおめでたい席に締める帯です。
よく見ると 菊や貝だけでなく
七宝や亀甲の柄も隠されていて
よくもこれほどの図案を考えたものだと思うのです。



この頃 考えます。
この1年間の春夏秋冬。
実に真剣に着物について学び 買い 着たものだと。
そして それはいったいなぜなのだろうかと。



仕事で今のポジションに就いてから
本当にたくさんの事があったな。
夫や父の闘病もあった。
木を倒し 枝を落とし この頃は土を耕している。
たくさんの人がいたな。
その あれこれは 健気で 辛抱強く 
ある時には 暴力的で 宿命的。
昨日は まだ具合が悪いのに出勤して どうするのかと見ていたら
子どもから元気をもらっちゃった!と笑顔で帰った若い人がいて
そうかと思うと 少しでも余分に仕事をすることは 
なにか人生において問題があるのだろうか と 思う人が いる。
そういう小さいひとつひとつが 同じ器にあることが
私は 苦手だ。

そういう黒く濁った灰汁のような出来事を
着物は季節の巡りを 一筋の経糸と横糸の連続から生まれる美しい布で
包んでくれる。
ようやく手に入れ 着物の形に縫い上げられて
それで着られるかというと 紐の1本から襦袢に至るまで季節の約束があり
今度こそ!と思うと襟元が微妙に合わなかったり
強い身体が露わになったりする。
「今度こそ」などと思うからなのだが
こういう時間は静かで 空気も透きとおって
私とカメラと撮りたい何かだけの 写真を撮る時間に似ている。

時々だが
その手もお腹も黒い政治家が
大臣交替のおり 毛筆の署名をして
その文字の美しさに出会うと とても意外。
人とは どんなに黒い仕事をしても
胸に一滴の「清」や「高」があれば
黒も白になるのかもしれない。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010-07-14 | Say it with Flowers
それは 月曜 の 朝。
孫を送ってきたひとりの祖母が
朝の挨拶に来てくださり
私の手に乗せてくれた 花。
その朝 自宅で咲いたのだそうだ。
この方が育った台湾では この花を摘んで糸に通して
車にさげて その香りを楽しむという事だった。



梅雨空の 月曜日。
亜細亜の 水を感じる朝の空気。
この民族の黒い髪に感じる豊かさは
この水を含んでいるから。


水曜日。
ミント水と 白い花。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フルーツ ケーキ 1

2010-07-14 | R’s Kitchen
何年振りだろう
フルーツケーキを 焼いています。

今日は 夏休みの1日を早々と取り
何をしようか考えたけれど
今なら あのフルーツケーキを焼くことができそうだ。





だって このケーキは父の大好物で
冬になると時々作っては 届けた。
そうすると父はとても喜んで 母にいく切れかを包ませて
車のちょうどよい場所に入れて 夜中の仕事の合間に食べたのだった。
暖かい車のどこかで バターもプラムも口ほどけのよいやわらかさになり
それが又美味しいのだと父は言っていた。





そんなシアワセな時間に限りがあることなんて
ずっとわかっていた。
そして父の肝臓の癌は 母や私の作る父の好物を栄養にして
まるでこの世のものとは思えない色とカタチに増殖していった。
手術によって取り除かれたこの癌細胞と肝臓を見たとき
自分の戦える相手ではないことは すぐにわかった。
B型肝炎は母子感染だったこと C型も混在していたことも
このときに初めて知った。
何 してたんだ   私。
もっと 何か できたのに。
診察に行くたびに 少しは良くなったと言われることに
小さく強い希望を持っていたのに けっしてあきらめなかったのに
それは 医師が数字を言葉にするたび
可能性が狭くなっていった。


なんで わたしのおとうさん しんじゃったんだろう・・・






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

午睡

2010-07-11 | やれやれ・・・
日曜日 の 午睡。





私もこの土日は仕事でしたが
今日は夕方には帰ることができて
少し本を読みました。


このところ このブログの写真が少ないな と
感じていらっしゃる方もおられるのでは。
その通り。
理由。
「なかなか ひとりに なれない」。

私は『鶴の恩返し』のツルと同じで
ヒトがいるところでは織物(写真)が できない。
ヒトの気配があると ダメです。
できるだけ 私 と カメラ と 撮りたい何か だけ。
その空間が 好き。
その時間が 好き。
ヒトがたくさんの中の私は 私ではなくて
仕事をしている私。

※仕事に必要な写真は パシャパシャ撮っています。
 勤務先のHPをご覧下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

摘果

2010-07-10 | 無題
畑の茄子。
土に触れそうな根元の茄子。
一番初めの実は 実にならないうちに摘んでしまう。
それでもなぜか大きくならなかったり
虫に喰われてしまったり。





これだけきれいに穴をあけられると
まるで茄子の実の迷路で だれかがこっそり生きているような。




輪切りにしてみたけど やっぱり誰も いない。
虫食いも 病も みんなあって 自然 というもの。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010-07-10 | 無題
ある日の私の 足。
職場の畑のじゃがいもを子どもたちと掘り
掘ったあとの畑を再び耕し
胡瓜の世話をして やれやれの 足。





今日の 子どもの 足。
竹馬の練習。
それを見守るお父さんの足も 少し。



竹馬も練習を始める今頃は
竹にあたる足の指の皮がむけ
そんなことお構いなしに練習をする子
バンドエイドのお手当て中の子
いろいろだ。
だけど おとなは子どもの足を自分の膝に乗せ
おとなの手のひらで 子どもの足の砂をはらってやる。
こういう時 たいていおとなは
子どもに自分で足を洗わせる。
水で足を洗わせる衛生の気持ちよさではなく
おとなは手のひらで 子どもの足を触ってやる。
その手のひらの丸さが 子どもの心に届く。
本当だよ。


そうそう おとなになると
おとなの足は だれも洗ってくれない。
手のひらで包んでも くれない。
ちぇ!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サラダパン

2010-07-10 | やれやれ・・・
サラダパン・・・
とはいえ はさんであるのは
沢庵をきざんでマヨネーズで和えたもの。



けっこうイケます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内言語

2010-07-07 | 無題


思い返せばレンアイとは(思い返さなくってもいいけど)
「内言語」連続の日々のことである。
あのヒトは今頃何をしているだろうか・・・とか
夜になると考えてしまう。
これはレンアイの始まりですね。
でも「アノヒト ハ イマ ナニヲシテイルダロウカ」と
声にはださない。
気持ちが胸の中で言葉に なる。
そういうのも「内言語」と 私は呼びたい。

ところがこの頃 私の周りときたら
内言語を失った人達ばかり。
いえいえ恋愛を失った・・・という意味ではなくて
喋りっぱなしか 自分の行動を言葉にしてしまうヒトが多い。

このことは 私はたいそう苦しくて
本当なら 誰かの胸の中に納まっているべき言葉たちが
空気に混じって それを取り込むと 自分の息が苦しい。


もしかすると「オトナ」というのは
最後まで自分の内言語を守れるヒトのことかもしれない。

みなさん オトナのお付き合いをしましょうね。

※本日の文章 かなり分裂気味です。
 わざとストライクゾーンをはずしました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呉服の しらやま

2010-07-05 | 箪笥

実家への道を通るたび ずっと気になっていた店。

「呉服の しらやま」。

その店は駅から離れた街道沿いにもかかわらず

いつも誰かしらお客がいて

そのお客は きれいな人が多い。

こんな場所の呉服屋に なぜいつもきれいなお客がいるか・・・

ある日 この街に四半世紀は住んでいる妹に尋ねると

その店は 妹ご贔屓の「呉服の しらやま」と言うそうな。

それで先日 夕方も遅くなって そっと玄関をあけてみました。

するとそこには 写真の姉妹がいらして

お茶をすすめて下さり 時にはご紹介の着物の知識

時には あれやこれやとお話をしながらも

販売への道は通奏低音のように流れつづけ

私はすっかり楽しくなって お姉さんの背中の箪笥から

次々出てくる布の美しさに時間を忘れてしまうのでした。

このように街の中にあって

しかも そっと玄関を開けるだけで

川島織物や龍村の帯を見ることができる博物館を

私は他に知りません。

箪笥の引き出しにかけてある反物は

「糊糸目訪問着」 図柄は貝桶。

実は 夫が中古を含む着物を衝動買いする私を見て

そういう着物の集め方ではなく

ある程度の良い品物を きちんと買って着ては・・・

と 言ってくれました。

それで 今 この訪問着について思案中なのです。

今日は 午後からがん検診があって仕事は早退。

夕方 このお店で妹と待ち合わせ。

妹の意見も聞いてみることにしました。

でも そんなことより妹はホンモノの!「更紗の訪問着」を試着中。

妹の方は 家を出てくるときに旦那サマから

今日はけっして着物を買わぬよう一筆取られたとのこと。

 

実は 私は訪問着は持っていません。

振袖もないので 色無地と付け下げでフォーマルをしのいできました。

だから この夫からのプレゼントの訪問着が最初で

・・・・たぶん最後。

袖丈を 少し長くして (襦袢も合わせて作らなければなりませんが)

ちょっとおしゃれな訪問着になる予定です。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水無月

2010-07-04 | 無題
今月末の新幹線の手配をしに出かけ
(こういうのは 全部オットにお任せなのですが)
帰りに「水無月」を買ってきました。



白い外郎(ういろう)と小豆の和菓子。
奈良のあるお寺でもいただいたのだが
この時の外郎のおいしさといったら・・・
今日のもおいしいのですが・・・



頭痛に悩まされた水無月の終わり。
木曜の夜にBSで海外ドラマを見ていたら
私は もうイヤになってしまった。

そこに登場する老人の 死を前にしての悔い改めのわがままさ。
病院付きの牧師の少しでも心の平安ももたらそうとする時の
ただの知りたがりのような言葉。
ニンゲンの世界のあれもこれも全部を甕にいれて何年も放置させた時の
その汁が 濁って溶けてこちらに流れてきそうになって
テレビのスイッチを切ってしまった。

こういう時は 美しいものに触れると よい。
人の手から生まれる 仕事の技。
それはたとえば 昔の意匠を再現した布であり
この6ヶ月の穢れを祓う 水無月の菓子。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする