無題
2010-07-28 | 無題
写真を撮りたい・・・ と思う時
私の その 視線は いったいどこに向けられているのだろう。
ついこの前まで 写真に撮りたい レンズで覗いて見たい
と思うものがあって 実際 それをカメラというフィルターに通してしまえば
あれほどに撮りたかったものが たった1回 鏡に映ったというだけで
どうでもよいものに変り 忘れて いく。
ところがこの頃の私には
撮りたいものも なく
ヒトの声 電話 手紙 新聞 目覚まし時計 トイレのドア
そういう何かに繋がりそうなものがイヤで
自分の身体も「勾玉」のカタチにして
眠ってばかり いた。
仮に職場でワタシの姿を見た というヒトがいたとしても
本当のワタシではなく
いや 始めから ワタシには ワタシなどというものは なかったのかもしれない。
しかし 今日は なぜかパソコンというもののスウィッチを 入れた。
ほしいもの
「自由」
それは ヒトの声 電話 手紙 新聞 目覚まし時計 トイレのドア から
逃げることではなくて
物事が 予定されていたとおりにいかなくても
スケジュールのひとつ ふたつが 時間とおりでなくても
物事は始めから「無い」という考えの厳しさを
自分で引き受ける 「自由」。
予定通りに 何かを見た 何かを読んだ 知識を得たと
思っても
それは 写真というヤツと同じで
通り過ぎれば 何も「無い」。
お釈迦さまの 瞬きのような もの。
そういうこと です。