ある週末。
キセキのように連休がやってきて
花瓶と鋏を籠にいれて
逗子の家に行くことにした。
目にとまった庭の草花を
井戸の水で養生させる。
花瓶を 選ぶ。
オットは 掃除機。
お茶の時間は あるのかな。
この篭からはじめてみよう。
職場の玄関ホールでも
花を飾っているから
わたしは毎日 野の草花から
心を鎮め 考えるチカラをもらっています。
これは・・・
もう少し 彩があってもいいな。
薊を挿してみようかな。
棘もあるし
葉の先も険しい花なのに
わたしは薊が 好きだ。
次は
先残りなのか
蒼がきれいな紫陽花。
少し枯れた色が入っているところも
わたしは 好きだ。
行き先を迷わせるような蔓の伸びとカタチも
少しの余韻と不安を感じさせて
「完全終止形」を許さない。
欠けや ひびに
人の在り様を感じる。
日本の草花は
他人を押しのけて上には伸びない。
人もまた そう在りたいと願っているかのようだ。
今度は
今にも倒れそうな ガラスの花器。
先ほどの紫陽花のひとかけらをもらいました。
この花びらは
今も 本棚にいて
愉しませてもらっています。
→ 今 思えばこの日がまだまだ「牧歌的」に思える。
明日は2週間ぶりの休日です。
今日は こちらのブログ も
書きました。