sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「断片的なものの社会学」1:浮かび上がるもの

2015-10-16 | 本とか
友達がTwitterで
>「断片的なものの社会学」も立ち読みしてみた。
>ごく平易な日常的な言葉で描かれていて読みやすいし、
>マイノリティ性を持つ人と持たない人が、
>人としていかにして対等に関わることができるのか?ということが
>事例から浮かび上がる気がした。
と言ってたのが何となく気にかかってたんだけど、先日本屋さんに行って
大きな本屋さんの棚の間を、とある詩集を探しながらブラブラ歩いている時に、
最初に目に入ったのがこの本でした。あ、なんか見覚えある。と。
手にとって少し立ち読みしてから、買って帰りました。
あなたの好きそうな本と思った、とその友達に後で言われた。

社会学者の本ですが、最初の部分は
むしろ彼の関わってきた、というよりもっと軽く、
どこかで一瞬すれ違ってきた人たちの、ちょっとした人生の断片のスケッチが
いくつか挙げられていて、それがとてもよかった。
でもそこは。その断片をさらに断片にすると良さがわからなくなるので、
(でもとてもいいので、ぜひ買って読んでみてください)
それ以外の、まあ社会学者っぽいところ?をいくつか抜粋してみる。

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ほんとうはみんな、男も女もかぎらず、大阪のおばちゃんたちのように、電車の中でも、路上でも、店先でも、学校でも、気軽に話しかけて、気軽に植木鉢を分け合えばいいのに、と思う。でも、私たちは、なにか目に見えないものにいつも怯えて、不安がって恐怖を感じている。差別や暴力の大きな部分は、そういう不安や恐怖から生まれてくるのだと思う。別に、大阪のおばちゃんが差別しない、と言っているわけではない。まったくそうではなく(や在日に対する差別は大阪でも強い)、ただ私はどこかで、通りすがりの人と植木鉢について話を交わすことが、あるいは植木鉢そのものを交換することが、なにかとても重要なことのように思えるのだ。
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一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人々がいるのである。
 そして、このことこそ、「普通である」ということなのだ。それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人々なのである。

ラベルを付与されたものがほんとうに「無徴」になることは困難だ。

表現される側のラベルに言及されることなく、純粋な表現者として表現できるようになること。これがラベルを貼られたものが表現するときの、理想の状況だろう。
もちろんこれは、現実の社会運動がめざすべきこととはまったく異なる。なぜかというと、ラベルを完全に消去して忘却することは、とても難しいからだ。現実的にはやはり、ラベルを引き受け、それとともに生きていくしかない。

誰も誰からも指を指されない、穏やかで平和な世界。自分が誰であるかを完全に忘却したまま、自由に表現できる社会。それは、私たちの社会が見る夢である。
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(バスのステップを降りられない年配女性を持ち上げて降ろしたり、
線路から上がれない男性を持ち上げたりという経験の後で)
身体接触はもちろん、他人と身体の動きを同期させる程度のことにすら、普通は強い苦痛をともなうのだが、予期せぬかたちでふと他人の身体に触ってしまうことがあり、そしてとても不思議なことだが、それが強い肯定感や充足感をもたらすという経験が、ごくたまにだが、ある。
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本人の意思を尊重するというかたちでの搾取がある。そしてまた本人を心配するというかたちでの、おしつけがましい介入がある。

そして、私たちは小さな断片だからこそ、自分が思う正しさを述べる「権利」がある。それはどこか、「祈り」にも似ている。その正しさが届くかどうかは自分で決めることができない。

私たちは、私たちの言葉や、私たちが思っている正しさや良いもの、美しいものが、どうか誰かに届きますようにと祈る。社会がそれを聞き届けてくれるかどうかはわからない。しかし私たちは、社会に向けて言葉を発し続けるしかない。それしかできることがない。
あるいは、少なくともそれだけはできる。
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この日は他に何冊も買ってしまって、
久しぶりにたくさん本を買った日になったのだけど
一緒に買ったミランダ・ジュライの「あなたを選んでくれるもの」が、
「断片的なものの社会学」とセットで読むと面白い本だったことに
翌日になってから気づきました。
描かれているのは同じことかもしれないと思う本で、
でもまったく性質の違う本、そしてその性質の違いの間に、
いろいろなことを考えられそうで面白いです。
明日それについて書きます。

ちなみに上の写真の本は、全然別の小説ですすみません。笑

追記:続きのリンクも貼っときます
→「断片的なものの社会学」2:「あなたを選んでくれたもの」と読む、
  消費しない誠実さ

→「断片的なものの社会学」3:「あなたを選んでくれたもの」と読む、
  瞬間や断片それぞれの奇跡

→「断片的なものの社会学」4:自分の境界線


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