sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

ネット右翼になった父親の話を読んで

2019-08-31 | Weblog
「亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか」 という記事。
遺品整理のパソコンの中の嫌韓嫌中コンテンツ、保守系のヘイトサイト、右傾雑誌雑誌の数々。
「晩節の父は、がんと同時にヘイト思想の猛毒に侵されていた。けれど、かつての父は、世の中のあらゆる知識を求めるような、フラットな感覚の持ち主だったはずだ。」
「父の中には、間違いなく大きな喪失感があったと思うのだ。父が喪失したように感じていたのは彼が子どもの頃に過ごしていた、若き日に見ていた「古き良きニッポン」だ。」
「僕の中に「父は何者かに利用され、変えられたのだ」という答えが浮き彫りになってきた。父は、その胸に抱えていた喪失感を、ビジネスに利用されたのだ。父の歴史を喰い荒らしてくれた輩がいたのだ。」

そして、世に溢れるヘイトコンテンツが父を蝕み喰い物にしてきたと筆者は言う。
父も自分も被害者だと・・・。うーん。。。

この人は父親の変節について腑に落ちたと言うけど、私はこれ読んでも全然腑に落ちないぞ。
どんな深く辛い喪失感があってもそれをヘイトとして発散するのは間違っているし、
まともな人間ならこんな手頃な憎悪という娯楽に流されず、自分の頭でもう少し考えるはず。
喪失感でいらいらしたからって関係ない人を言葉で殴っていいはずがない。
この父親を被害者扱いして、誰もがこの父親のようなネット右翼になり得るのだとか、
ヘイトは誰にでも楽しい娯楽になるのだなんて、わたしは絶対思いたくない。
単純に馬鹿だから、と言う説明の方が納得がいくくらいです。そこまで言いませんが。

この人は父親を金儲け右翼メディアの被害者のように書くことで許し、責任を転化してるけど
ヘイト被害者にとってこの父親は明らかに加害者なのに、そういう部分はすっぽりと抜けてる。
ヘイトは言論でも暴力だし、加害なのに、その自覚や反省が全く読み取れない。
世の中に大勢いる、ヘイトの被害者の存在はまるで目に入ってないようで、
父の変節に、ヘイトをしない自分は嫌な気分になったけど親孝行として黙って見逃していた、
父にも事情があったのだ、と言う文章でしかないよね、これ。
こういう父親がたくさん集まって、そのヘイトメディアを支えているわけで、
明らかにヘイトの一翼を担っていた加害者なのに、
なぜぬけぬけと被害者ポジションに置いてかばえるのか?息子だから?身内だから?

もちろん、完全な加害者というのはないかもしれない。
環境や生育過程で加害者になった人には被害者の側面ももちろんあることでしょう。
それは理解します、この人の言ってることもわかる。
でも、だからってそのヘイトの被害者たちから許されていいものではないと思うけどな。

ゆっくり親しくなる

2019-08-30 | Weblog
何度も顔は合わせているけど、まだよく知らない人のお家に伺うことになった。
共通の友達もいると思うけど、じっくりお話ししたことのない人。
そういう人は多いけど、そういう中からたまに何かの機会があると、それから
少しずつ個人的に親しくなっていったりする。少しずつゆっくりです。

自分が地味な人間だなと思うのはこういう時で、パーティなどで何回会っても
結局全然喋れず親しくもなれないし印象にも残らないことが多い。
でも、その後、二人だけとか少人数の小さな静かな機会ができて、
ゆっくり食べたり飲んだりしながら喋ってやっと、個人として認識してもらえるし、
そういう風にしか、仲良くなれない。
グループづきあいが苦手なのです、大勢いる中で自分を自分として位置付けるのが下手。

友達がいなくて昼休みにトイレの中や図書館の奥でじっとしてたようなところは、
50過ぎてもなくならないな。

二人きりというのも苦手だけど、仲良くなれるような人とはそういう時に仲良くなるし
わたしの人間関係の基本は個人対個人しかないからなぁ。
例えば友達の友達だからとか、家族づきあいだからとかではなく
自分対その人、しかないと考えています。
家族だから、友達の友達だからとか、そういうの全然どうでもいいし。
今は優しい友達がいて、パーティや人が大勢いるところでも楽しめることもあるので、
まあ少しは大人になったかなと思う。
中学生のわたしが見たら、すごい!よくそんな友達のいる大人になれたね〜!と驚くな。
中学生の時と変わってないところは変わってないのに、
中学生の時より100倍くらい、今の方が楽しいし。

写真家トーク雑感

2019-08-29 | 写真
写真家のトークを聞きながら、作りたい写真のシリーズのことを考えてて、
でも手間がかかるものなので中々手をつけられない。
うまくできるかどうかもよくわからないし。でも絵ならすぐ描けるなぁと思う。
長い間描いてないし老化で目も手も勘もダメになってると思うけど、
そう言う状態でも描ける絵を考える。
いくつかのアイデアはずっとあって、その中で一番古いテーマを、
今の体力気力と下手になってるはずの画力でも描ける形にできるか考えてた。
でもやっぱり今の猫がいると無理。じりじりしながら猫がもう少し大人になるのを待つ。

子供が小さい時は、私にも今よりもっとエネルギーがあったのに、
育児は猫よりもっと大変で、焦りで苦しいくらいの気持ちだったけど、
今は隠居だから、何も作れなくても昔のように苦しくない。
あと1年待てば、猫ももっと普通の猫のように落ち着くだろうか。
そうしたらまた何か作るだろうか。
それまでは、猫の目を盗めるだけの短い時間で、少しの写生と水彩で練習くらいはしておこう。
本番は岩絵の具で描きます。やや抽象。そう言うことを考えながら写真家の話を聞いていました。

写真家は、第一回木村伊兵衛賞受賞作家の北井一夫さん。話すとふんわりした人。
でも中身はふんわりではないんだろうな。



あと、このフィルムは何十年もつ、この時期のこれだと100年もってる、
ああすれば、こうすればどれ位もつと言う話を写真について、
それからあらゆるデータについて話すのをきいて、
わたしの日本画の先生はいつも、それだと300年もちませんよと言い、
そう言う意識で実際に描くことを求める人だったな。
でも、なんだかふと、もたないものはもたなくていいのでは?というようなことを思いました。
あまりにも膨大なデータ。自然に消えるものは消えていいのでは。
寂しかったり困ったりするかもしれないけど、
何も困らず寂しくもない世界なんかないしね、と

映画:ソウル・フラワー・トレイン

2019-08-28 | 映画


友達が映画「ソウルフラワートレイン」上映後のトークに出るので見に行った。
映画はずっとすごくよかったのに、後半のクライマックスのところが無理で、
キモいれキモいキモいっ!と思ってしまった。
娘好きすぎる父が娘のプラベート空間に乱入する場面。
受け入れる娘だけど、わたしなら自殺するレベルの展開だぞこれ!無理!
これをいい話と思って感動したりなんか、絶対できない。ないわ!無理!

父親好きな女性には平気なのかもしれないけど、わたしは全身で拒否!
なんで娘の性生活というか、性的な世界にそこまで踏み込む?
これって、愛しすぎた娘と性交できない代わりに
擬似性交的といえる異常に濃い理解?関係を結ぶ父、って風にしか見えないよ。
いやいやいやいや、キモいわ。ないわ!
この映画の原作も監督も男だからこれを親子の美談みたいに描けるのか?と思ったけど、
この後一緒の食事に行った男子数人も女子一名もわたしの拒否にきょとんとしてたので、
えー?わたしがおかしいの。。。?

そこ以外はかなり好きな映画で、娘じゃない方のヒロインの子もすごくよかったけどなぁ。

その後監督も交えて食事に行ったけど、そこでふと気づく。
あれ?今日もまたわたしがここで一番年上?
最近、いつの間にか、自分が一番年上の場が増えていってる。
でもまあ、あなたは座って飲んでてくれればそれでいいんですよ、といろんな人に
諦め混じりに言ってもらえるので、いい年上ポジションなのかも。。。

大阪へ出た娘に会いに行く父親は平田満。
フェリーで出会って、大阪を案内してくれる女の子、そして娘と再会したものの
娘の仕事が予想外のものでショックを受ける父親・・・というお話。

漫画を原作に映画化されたのは数年前で
その後クラウドファンディングでブルーレイ化、支援してくれた人には
監督自らブルーレイを配達するという話など、トークは面白かったです。

スマホから目を挙げて

2019-08-27 | Weblog
先日、夕方の空が、すごいドラマチックな色で、電車の中からぼーっと見てたんだけど、
スマホのゲーム?から目を挙げて、空と雲の色の凄さにしばらく手が止まってた男の子がいて、
なんとなくうれしい。こんな空に見とれない人のほうがおかしいもんね、と思う。

美しいものに気づいて、それに心奪われている人を見るのは、とてもいい。

できる妥協とできない妥協

2019-08-26 | Weblog
自分は選挙権がないので、
あまり突き詰めて自分ならこう投票するということは考えずに、
ぼーっと政治を眺めているのですが、
政党や候補を選ぶ際にできる妥協とできない妥協があって、
在日外国人と女性というマイノリティ当事者として、
自民や維新に関してはできない妥協ばかりだなと思っています。

政治家が漢字を知らなくても財閥の出でも滑舌が悪くても人相が悪くてもなんでも、
ちゃんとした仕事をしてくれればいいとも思ってて、
個人的には、なんなら裏で何か悪いことをしても許すかもしれない。
自分にとって一番譲れないのは差別と人権意識で、
これがダメならどんなに優秀で経済や外交ができても嫌だ。そこははっきりしてる。

ただこういう問題意識も人それぞれで、
譲れない妥協できないポイントも人それぞれであることはわかっている。
わたしが山本太郎やれいわ新撰組の中の不本意でも(ありますよそういうこと)
妥協できると思う点を、どうしても無理という人もいるだろうというのもわかってる。

自分には選挙権がないので、その先を突き詰めては考えてない。わかる、と思うだけ。
そこは、さぼってます。
具体的に選挙ってどう言うものなのか知らないままだし。
そのうち眺めに行こうとは思うけど。でも、
もしも選挙権を手にしたら、何が最善なのかもっとよく考えなくてはいけないだろうなぁ。


早口のポッドキャスト

2019-08-25 | Weblog
熱で寝込んでたとき、ベッドで退屈なので、何年振りかでポッドキャスト聞いてたんだけど、
落語聴いても語学を聴いても少し早い気がした。
語学は勉強になるからいいんだけど、
落語はそうでなくても速い江戸弁なのにさらに速くてよく口回るなーと感心する、
というかなんか再生が勝手に速くなってる???
あれこれみたけど、よくわからない。何か設定さわっちゃったかな?
それともわたしが、熱でスローになってただけ?

ばばばーっと喋るのをぼんやり聴いてると、あーこんな風に聴いてたなーと
英語がもっと下手だった時のことを思い出す。
半分くらいしかわからないけど半分くらいはわかる感じ。笑
今も、英語はさらに忘れてしまってダメで、字幕がないと映画も見られないし、
読むのはもっと下手だけど、それは英語の問題だけではなく、
鬱で本や文字を読めなくなったときの後遺症的な部分もあるなぁ、などと思う。
随分治ったけど元通りにはならなくて焦りもしたけど
今は仕方ないか、と受け入れている。老化の一部と思うと受け入れるしかないしな。

その時聞いてた英語ニュースのポッドキャストは
2人の、バイリンガルが話してるんだけど、
日本語ネイティヴは日本語で喋り英語ネイティヴは英語を喋り議論してて、
時々チャンポンになるのがかわいい。
ぺちゃんこになる、というのを、gonna be ペチャンコ、とか言う。
言葉のちゃんぽんって、なんかかわいいよね。

子供の絵と美術史

2019-08-24 | 芸術、とか
ニューヨークのメトロポリタン美術館で、子どもたちの絵を展示、という記事を以前見た。
かわいい、楽しい、素敵〜、というのとは別に、
これは、アートってなんだろうと考える良い機会を大人たちにも与える企画だなぁと思う。

おそらく世界中に大勢大勢いる多くの芸術家たちが、
どんなに実力や才能があっても中々辿り着けない超有名美術館の壁に、
なんでもない子どもたちの絵が掛けられて、世界中から見られるわけです。
作品には、上手い下手などの技術や才能、現代の美術の文脈の問題や知識、
教養の差などはあるでしょうが、小ごくさい子の無邪気な作品でも、
先入観なくひとつの作品として見たら、大人の作品と比べて遜色ないと思われることも
見る人によるとあるかもしれない。
特に美術を志しているわけでもなんでもない子どもの絵が、
何億円の絵と同じように展示されるのって、
そして値段を離れたその価値について考えさせるって、
すごいことなんじゃないかって思う。

現代美術を考える時、美術史やアート市場の事抜きでは考えられないことがとても多い。
素晴らしい作品でも、値段を聞くと腰を抜かすような金額がついてて
それがまた知名度を上げ、結果的に美術史に残る文字が大きくなり、
そうやって残って行くものが歴史を作りその先にその時々の現代が乗っかる。
でも子供の絵には、そういうものが一切ない。すがすがしいなぁ。

芸術ってなんだろう、美術館ってなんだろうと考えながら見てみたいものですね。

映画:芳華〜Youth

2019-08-23 | 映画


このタイトル、覚えにくい言いにくい意味取りにくい広がりにくいので残念ですが
これはすごくいい映画。ああすごくいい。
中国の映画には時々こういうスケールの大きさと描写の繊細さを併せ持つ
すごい映画があるなぁと思う。
大好きな映画、ジャ・ジャンクーの「世界」などと、どこか似たところがあると思う。
こういう映画は本当にどんな説明をするかより、実際に見るしかなくて、
見て初めて良さがはっきりと分かるタイプであらすじを言ってもあまり関係ないけど
物語は、軍で歌や踊りを披露し兵士たちを時に慰め時に鼓舞する役割を担う文工団に、17歳のシャオピンがダンスの才能を認められ入団するシーンから幕をあける。周囲となじめずにいる彼女の唯一の支えは、模範兵のリウ・フォン(ホアン・シュエン)。しかし、時代が大きく変化する中、ある事件をきっかけに、二人の運命は非情な岐路を迎えるー。何十年にもわたる関係を軸に、文工団の若者たちの初恋と交錯する想いが、心に沁みる美しい音楽と踊りに彩られ、描かれる青春ラブストーリー。 (公式サイト)
ああ、このあらすじではやっぱり何も伝わらないなぁ。

青春のきらめきをみずみずしい筆致で描く、というのは間違いじゃないけど
それだけじゃないのです。前半はこの文工団の世界なので、戦場に慰問に行ったりしても
他の人たちとは違ういわばスターたちなわけで、どこか浮世離れした世界なのです。
大変な時代と言われても、ここの人たちは全然お気楽だよなぁ、
特権階級みたいなものよね、食べ物も何も心配いらず歌って踊っている毎日だもんね、と。
ところが後半は舞台が変わって、まるで別の映画のようになるのです。
戦場、前線の悲惨な日々です。
文工団の思いやりのない自分勝手な世界に疲れたヒロインは前線で看護師として働きます。
この2つの世界の対比は鮮やかで、そしてどちらに人間の真実があるかも明白ですね。
ヒロインにしても、模範兵の子にしても、偽物のうわべだけの世界では
真面目で正直なものは損ばかりするし、そこから逃げてもやはり苦しむだけなのかと
後半に進むにつれ厳しい現実に苦しくなってくるけど
ラストには大きな救いがあるので、最後まで頑張ってみて欲しい。
ありふれた言い方だけど、お金や名誉や安楽ではない大事なものを知る人が、
ちゃんと自分なりのしあわせを手にできるというのは、本当にホッとする終わり方。

後半は胸の痛いシーンが多くて、涙でぼろぼろになりました。
心を病んだヒロインがひとり外に出てふわりふわりと踊るシーン、
ずっと好きだった人を友達にさっと横取りされた女の子が出さずに破いた手紙、
何十年も言えなかった思い。
ああ、書くとこんなにベタだけど、見ると本当にいいんです。見るしかない。

映画:僕たちは希望という名の電車に乗った

2019-08-22 | 映画


悪くない邦題だけど長くて覚えられないのが問題。
あの、希望の列車か電車の、あの、学生の、あれ。って感じ。
でも映画自体は記憶には残ると思います。
非常によくできた脚本。すばらしい。

ベルリンの壁のできる数年前、ソ連の強い支配下にあった東ドイツの高校生が
同様にソ連の支配下にあったハンガリーの民衆蜂起とその失敗を知り
ハンガリー市民への哀悼を込めて2分間の黙祷をする。
授業中だったので、それは校長、さらに党の上層部の知るところとなり
どんどん問題が大きくなっていく。
友達を密告して自分だけ助かるか、かばって一生辛く苦しい労働者として生きるか。

チラシなどを見て、信条を守ることに対する「覚悟」について描かれた映画と思ってたけど
見てみたら微妙に違う。すごい決意と覚悟があって始めたわけじゃないんです。
わりと軽い気持ちだったかもしれない。
そもそもこの映画の舞台の1956年は、社会主義にもまだ希望があった時代で、
この生徒たちも最初から明確に反体制的な子たちだったわけじゃないのです。
でもそれがじわじわと抑圧・弾圧されていく中で、覚悟が生まれていく、あるいは
覚悟するしかなくなっていくのでした。

学生の中で中心になる親友同士のふたりは、家庭環境が全く違い、
片方は強権的な父と抑えつけられ死んだように生きる母とのエリート家庭、
もう一方は温かく仲のいい愛の溢れる家庭だけど父は一生苦しい重労働の労働者で、
それぞれの家族や背景が丁寧に描かれ、大人たちの事情がまた
主人公たちの苦悩や選択に大きな影響を与える様子がすごくよくわかる。
他の学生、黙祷に否定的であまり好かれていない感じだった子の人生には
また別の暗い事情があって、なんともやるせ無い結果に胸が締め付けられる。
さらに他の登場人物、ハリーポッターみたいな子も、ヒロイン役の学生も、
事なかれ主義で大騒ぎになるとオロオロする校長も、どの人物も複雑な迷い悩む人間で、
安易で単純なキャラクターにされていない。
ただ党のひとたちだけは、ロボットのようです。でも事実そうだったのでしょうね。
こういう風に人を見張り取り締まり分断し抑圧する全体主義システムの高官といえば、
アンジェイ・ワイダの映画「残像」を思い出しました。
どちらも表現の自由が脅かされる全体主義社会の下で抵抗する人たちの話で、
こちらは有名な画家とそれを取り巻く大学生たちの話ですが、
自由というのはこんな風に奪われていくのだというのをひしひしと感じることができます。
一方で長いものに巻かれて抵抗する気のない人にとっては日常は日常として過ぎ、
これほどの全体主義もさほど苦しい世界ではないのかもしれないという一面も。
でも抵抗しないで、それで本当にいいの?と思う。
わたしにもこの画家や、高校生たちのような勇気が出せるだろうか。。。