sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

映画:ポトフ

2024-03-24 | 映画


ポトフという料理を知ったのはいつだったろう。
小学生の頃は知らなかった。中学か高校あたりで雑誌「オリーブ」を読むようになって
フランスに憧れて、フランス映画などをみるようになってから知ったのだったろうか?
実際に初めて食べたのは多分、料理本を見て自分で作ったものだろうと思うけどあまり覚えてない。
外食で食べたことはほとんどなく、まあそもそもおうちのお料理ですよね。
シチューより軽いし野菜もたくさん取れてシンプルでヘルシーでおいしい料理。
たくさん作って残ったらカレーやシチューにアレンジできる。
そしてまだあまり知られていなかった頃は少しおしゃれな感じもありました。

これはそのポトフがタイトルになっているので
わたしの好きなタイプの暖かい料理ドラマ映画かと思ったけど
(「バベットの晩餐会」「シェフ三つ星フードトラック始めました」「大統領の料理人」「南極料理人」
「ジュリー&ジュリア」「マダムマロリーと魔法のスパイス」「幸せのレシピ」「デリシュ」
「めぐり逢わせのお弁当」「ウィ、シェフ!」などなどどれも好きな映画!)
なんと監督がトラン・アン・ユン!
わたしのオールウェイズトップ5に入る映画「青いパパイヤの香り」や「夏至」のあの美しい絵を撮る監督ですよ。
最近では5年くらい前に「エタニティ永遠の花たちへ」を見ましたが
その監督だからいわゆるハートウォーミングドラマ系ではありません。

19世紀末、シャトーに暮らす美食家の男とそのおかかえ料理人の女の話です。
毎日美と美食に明け暮れながら生きている美食家って一体何をしてこんなに裕福なんだろうと
疑問に思ってたけど、19世紀末なら、普通に貴族ということか。
その優雅な暮らしの中で、二人はお互い尊敬しあってるし愛し合ってもいるけど、
自立していたい女は結婚を断り続けている。
主人と料理人ではあるけど対等な恋人同士でもあるという現代的な設定は
この時代背景の中ではちょっと違和感もあったけど、まあいい。
グルメの仲間との食事会などの、食卓の様子が食いしん坊のわたしにはこたえられません。
素晴らしく美味しそう・・・
そしてすごくいいワインを飲んでるようなんだけど、グラスは今のたとえばリーデルとかの
薄く繊細なのではなく分厚くて小ぶりだったりするのも興味深かった。

料理の映像の素晴らしさだけでなく、愛の物語もあるんだけど、
天才料理人を演じる気高く美しいジュリエット・ビノシュはとてもいいけど
美食家のブノワ・マジメルが、いい男なんだけど声がなぁ。
ベッカムと同じ系統の、微妙に高く細くギザギザした声。この声がダメ。
容姿は顔も体格もなにもかもこの役にあってるのに、声が…
声くらい気にしないでいようと思っても最後まで気になって困った。

確かフェリーニが、映画俳優の声を、別の役者(声優?)で吹き替えするのを、
役にぴったりの俳優が役にぴったりの声をしてるとは限らない、と語ってたのを
読んだ気がするけど(間違ってたらごめん)、声が惜しい俳優を見ると吹き替えで…と思う。

「詩と散策」

2024-03-22 | 本とか
散歩をしながら思索にふける本というのは、5年前くらいに読んだ新潮クレストブックスの
「オープン・シティ」というのがあった。
クレストブックスは信頼してるし、表紙の美しさに惹かれて買ってゆっくり読んだ。
ナイジェリア系の作家がマンハッタンを歩きながらあれこれ考える知的な思索の本で、
精緻な文章で読むのに時間がかかったな、と思って5年遅れで昨日感想を書いたのだけど、
それはそもそも今回の「詩と散策」のことを書こうと思って思い出したのだった。
そして、よく思い出すとこの2冊の本にはあまり共通点はないのだった。
「オープン・シティ」はより系統立てて古典に造詣が深く、詩的というよりは哲学的で
彼のマンハッタン徘徊は過去の多くの哲学者の散歩の後を継ぐものに近い。
一方「詩と散策」の方は、詩人である。学者は過去からのつながりの中に生きているけど
詩人は案外ポツンと、今、ここ、にひとりで生きている人が多いかもねと思う。

本の帯に「散歩を愛し、猫と一緒に暮らす詩人」のエッセイと書いてある薄い本なので
ゆるふわな感じかなとぱらりとめくると、オクタビオ・パスの詩がまずあって、それがよかった。
ぼくに見えるものと言うことの間に、
ぼくが言うことと黙っておくことの間に、
ぼくが黙っておくことと夢みることの間に、
ぼくが夢見ることと忘れることの間に
詩。       /オクタビオ・パス「ぼくに見えるものと言うことの間に」



中に引用されている詩も平易な言葉でつづられる淡々としたエッセイも心地よく
同時に味わい深く考えさせられるので、見た目よりは読むのに時間がかかった。
薄くて軽めの本なので旅先に持って行って電車の中などで読みました。

>冬に凍った川を馬に乗って渡った人たちが、翌年の春、氷が解けたそこで馬の蹄の音を聞いたそうだ。川が凍るときにともに封印された音が、氷が解けるにつれよみがえったのだ。馬も人もとっくに去ってしまったのに、彼らがいたことを証明する音が残っている。
遠くの遠くの星の光が何百年も経って地球に届いていることを思い出す美しいエピソード。

プライベートな主観で地図を作った人に関して、
>ある人が言ったように「取るに足らぬものなどなに一つない、と思う心が詩」なら彼の作った地図は詩と言えるのではないか。
いいねー。ほんとにそう。

>私の目で見たものが、私の内面を作っている。私の体、足どり、眼差しを形作っている(外面など、実は実在しないのではないか。
これはごく最近わたしも全く同じことをSNSで呟いてた。
見るものが人を作る。なにを見たかが、その人だ。
なにを聞いたか、なにに触れて、なにを感じて、なにを考えたかがその人だ。
でもその中で「見る」ことってわりと簡単に考えられちゃってるなぁと思うのです。
先日、福田平八郎展見たときに改めて思ったけど、こういう日本画の先生の言う「見る」は
ありのままのものを見えないものが見えそうなほどちゃんと見る、
見て、そして気づくということで、ただ見るのと違ってそれは人に変化を引き起こす。
ぼーっと生きてるとなにも見なくても困りはしないし変化も不要かもしれないけど、
その変化の連続というものがその人を作っていくとこの頃よくわたしは思う。
もっとよく見よう、世界の小さな良いものに気づこう、と思ってます。
>だから散歩から帰ってくるたびに、私は前と違う人になっている。賢くなるとか善良になるという意味ではない。「違う人」とは、詩のある行に次の行が重なるのと似ている。

>手に入れられないものが多く、毀されてばかりの人生でも、歌を歌おうと心に決めたらその胸には歌が生きる。
ああそうか、わたしも歌を歌おう。

>私はまだ老いてないのに老いたと思うときがある。なにも失いたくないから、なにも受け入れない人間になったと。長く使うと体の関節が擦り減るように、心も擦り減る。だから”人生100年”というのは残酷だと思う。人間には百年も使える心はない。
この前半はとても理解できる。わたしは50歳くらいでもう降りた、という気分で
隠居の心持ちで生きている、それはこういうことか。
でも後半には同意できない。わたしの心は擦り減って100年の半分ですっかり重く
くたびれてしまったけど、不屈の心を持った人はいる。擦り減らない強い人もいると思うよ。

テオ・アンゲロプロスの「永遠と一日」という映画の老詩人アレキサンドロスのこと、
>死を前にして虚無に浸っていたアレキサンドロスも、幻想の中で三つの1日に出会って、「永遠」を自覚するようになったのではないだろうか。最後に、明日をも知れぬ余命わずかの彼がこんなことを言う。「明日のために計画を立てよう」
わたしが憂鬱で気分が沈んでドロドロになったときにつぶやく言葉があって
それは「計画がわたしを生かす」。
とにかく何か、遠い目的ではなく、明日か明後日か具体的な計画を何か持つことが、
それが具体的になっていくことが今の自分をなんとか生きさせてるなとよく思うのです。

>シェイクスピアは、人間は夢と同じ材料でできていると言ったらしいが、同時に、幽霊の寂しさとも同じ材料でできていることは知っていただろうか。
大人になって幽霊が怖くないなってから、幽霊の寂しさに思いを馳せる余裕もできた。

愛読しているリルケの詩集について
>「変化」という言葉には、訳者の注釈がついている。「目に見えるものを見えないものに移し替えること」と。まさに夕暮れのなすこと、夕暮れ時に起こることだ。

最近心の距離が野山に近づいたわたしはここを読むと、さあMacBookを閉じて散歩に行こうと思う。
>部屋の中にいるときに世界はわたしの理解を超えている。しかし歩くときの世界は、いくつかの丘と、一点の雲でできているのだということがわかる。   /ウォレス・スティーブンズ「事物の表見について」

それだけだ。いくつかの丘と一点の雲。その中の無限、そして無。
日々、誠実な散歩者として生きているが、私はまだ全ての丘と雲を見たわけではない。

誠実な散歩者の散歩に行ってきますー!



「オープン・シティ」

2024-03-21 | 本とか
ナイジェリア系作家の本というだけで買った本。いや表紙にもやられた、好きな感じ。
移民に関する小説が気になって、特にアメリカの、アジアやアフリカ系の移民の話は読みたくなる。
エイミ・タン、ジュンパ・ラヒリ。数年前に読んだジュリー・オオツカの「屋根裏の仏さま」は、
アメリカの日系人の話だけどものすごく強い印象を残した。
それに比べると、欧米系の移民の話は、なんだか少し遠い物語のように思う。
そしてラテン系の移民の話は、また違う。
ジュノ・ディアスの「こうしてお前は彼女にフラれる」はわたしには未知な感じが面白く、
わかっているのについつい浮気してしまうどうしようもないダメ男の切なさがよかったけど。

この本の作家はナイジェリア系だけどアメリカ生まれ。ナイジェリアに戻って子供時代を過ごした後
高校以降はアメリカで、医学部中退のあと、美術史を学んだ。
この本の主人公「私」は精神科医で、マンハッタンを散歩しながら何かを見たり誰かに会ったり
何かを思い出したりして思索する。
詩的な思索の本かと思って読み始めたけど、詩的というより知的だった。でも思索は広く深い。

>ー教授は片方の手でそれを表現したー一行か二行の言葉があればすべてをつかまえることができる。詩が何を語り何を意味するのかすっかりわかる。釣針のあとに全体が現れる。陽が和らぎし夏の季節に、我は羊飼いのごとく外套を纏う。何だかわかるかね?もう誰も暗記してないだろ。(略)それはそれとして最初に記憶の価値を教えてくれたのはチャドウィックだ。記憶を精神の音楽だとする考え方も教わった、
これは日系人の恩師サイトウ教授の言葉の部分。すぐれたバイオリニストはバッハやベートーヴェンのソナタをそらで弾ける、詩も同じだという。それをケンブリッジにいた頃にチャドウィックに教わったと。わー、チャドウィックか!歴史がすぐそばにある。

世界と移民についての思索が多い。
ある鬱病の女性患者の話。彼女は17世紀アメリカ北東部の先住民と
ヨーロッパからの移住者との接触に関する広範な研究をしていて
>それを彼女は豪雨の日に川の向こう岸を眺めている感じだと表現したことがあった。彼女は対岸で起きていることが自分と関係あるのか、いやむしろそこで何が起きているのかわからなかった。(略)彼女と話してはっきりしたこともあった。白人の移住者のせいでアメリカ先住民が耐えねばならなかった恐怖、彼女によればアメリカ先住民をいつまでも苦しめた恐怖に、彼女は内奥まで侵されていたのだ。

また、カーネギーホールでのサイモン・ラトル指揮のマーラーのコンサートで
>こうしたコンサートではほぼいつものことだが、そこにいる全員が白人だった。私はそんなことについ気がついてしまう。毎回気づいては、やり過ごそうとする。そのとき、気持ちに折り合いをつける一瞬の複雑な心の動きもある。すなわち、それに気づいた自分をたしなめ、世界は今なお隔てられていることを知って悲しみ、夜のどこかでふとこうしたことが頭に浮かぶと思うと嫌になるのだ。
白人の同質性に紛れ込んでしまう自分に驚きながら、でもマーラーの音楽は白くも黒くもなく人間的かどうかも疑わしいと考える。
同様に映画館に行くと、映画についての批評というより、
観客が白髪の白人ばかりの時と、多くが若い黒人絵あった時のことや、
その映画を見ているうちに思い出したある集の記憶などについて語っていくし
映画の後に地下鉄に乗るときに祖母のことを思い出したり、考えはとめどなく彷徨う。

ブリュッセルでたまたま知り合った男性との会話で、
政治哲学の議論中マルコムX化かマーティン・ルーサー・キングのどちらかを選べと言われ
自分一人だけマルコムXを選んだというその友人の言葉(作家の考えというわけではない)
>マルコムXを選んだのは同じムスリムだからだねって言うんだ。ああ、そうとも、僕はムスリムだよ。でも彼を選んだ理由はそれじゃない。哲学的に彼と同意見だったからで、マーティン・ルーサー・キングに賛成できなかったからだよ。マルコムXは、差異それ自体に価値があり、その価値を促進することが戦いだって理解してた。マーティン・ルーサー・キングは誰からも敬われてて。彼は誰もが手を取り合うことを夢見てる。でもそれは片頬を打たれたら反対の頬を差し出せってことだよ、僕には意味がわからない。

ブリュっセルで詩人ポール・クローデルのブロンズの像を見ながら
>第二次大戦時にナチスの協力者やマーシャル・ペタンを支援したことで人々の非難を浴びたが、左翼的不可知論者のW.H.オーデンはクローデルのことを情け深くもこう記している。「時間がポール・クローデルを赦すだろう、優れた筆に免じて赦すだろう」と。私は激しい雨と風の中で問うた。本当にそれほど単純な話なのだろうか。時間とは、筆が優れていれば倫理的に生きたことにしてしまうほど、過去に固執せず恩赦を与える心の広いものなのだろうか。しかし私は街じゅうの無数の銅像や碑が讃える悪者は、クローデルに限らないのだ、と思い知らずにはいられなかった。そこは碑の街であり、ブリュッセルの至る所で石や鉄に偉業が刻まれていた。それらは不愉快な問いへの有無を言わせぬ回答なのだ。

アパートから見える部屋で壁に向かって祈る女性を見ながら紅茶を飲み
>人はそれぞれだ、と私は考えた。人のありようはみんな違う。しかし私もまた祈った。もしも彼女のように私がユダヤ教徒であれば、壁に頭を向けていただろう。祈りは何かを保証するものではないし、生に望むものを得る術でもない、とずっと思っていた。それは単なる存在のための実践だ。それだけだ。今を生きるためのセラピーであり、心の願いに名を与えるセラピーだ。すでに形のある存在のための実践だ。すでに形のある願いにも、未だ形になっていない願いにも。

いくつか引用したものの、なんか、引用してもその前後に絶え間なく思索は続き、
いろんなものが絡み合いながら進んでいくので、ここだけでは多分よくわからないと思うけど、
あちこちに考えが伸び、彷徨うのに、頑張ってついていく感じの読書でした。
自分も普段ものを考えるときは確かにこんなふうに揺蕩いながら、
難しいことだと立ち止まりながら、延々と考えは続いていくなぁとは思うけど
知識と教養の差が大きいので文学にはならないですね。笑

映画:アーガイル

2024-03-20 | 映画


やー!わー!やー!面白かったー!
「キングスマン」の最初のやつを見た時の面白さを思い出したくらい面白かった。
(同じ監督です。さすが!)
猫もかわいいです。猫えらい。活躍もする。

予告編が良くて何度も見るのに本編は微妙かなという映画としては「パターソン」を思い出すし、
予告編はそそられなかったのに見たら面白かったのは「哀れなるものたち」ですが、
これは予告編も本編もどっちも好きだった!

え?そういう話?ん?そうなるの?お!そうくるか!と何度も小さく驚いて楽しみました。
前半より後半にかけて良くなっていきます。あー面白かったー。

あとなんと言っても主人公が美男美女じゃないのがすごくいいです。
特にヒロイン、かつてスパイ映画でぽっちゃりの人が主人公だったことってあったろうか?
スパイ映画の女スパイってシャーリーズ・セロンみたいな、すらっとかっこいい人しか見たことない。
(シャーリーズ・セロンの「アトミック・ブロンド」大好きだけど)
ここでのヒロインはなんとも親しみやすいぽっちゃり。こんなヒロイン見たことない!
冴えない感じのスパイ、サム・ロックウェルが、どんどんいい男に見えてくるのもいい。
イケメンとは言えない容姿だけど、スパイとしてはずいぶん優秀なようで
とにかく頼れる男に弱いわたしは、どんどん好きになった。強くて優しくて余裕のあるいい男やん!

お話は:
凄腕エージェントのアーガイルが、謎のスパイ組織の正体に迫る大人気小説「アーガイル」。ハードなシリーズの作者エリー・コンウェイの素顔は、自宅で愛猫のアルフィーと過ごすのが至福の時という平和主義。だが、新作の物語が実在するスパイ組織の活動とまさかの一致でエリーの人生は大混乱に! 小説の続きをめぐって追われる身となった彼女の前に現れたのは、猫アレルギーのスパイ、エイダン。果たして、出会うはずのなかった二人と一匹の危険なミッションの行方は──?!
と、公式サイトにあるし、予告編見てもそんな感じだけど、いやいやいやいや!
全然違う話だから!
映画の中では主人公の過去や過去に起こったことが明らかにされて、
他の登場人物も「いいもん」なのか「わるもん」なのか、もうく〜るくる変わって、
お話は二転三転、いやもっとどんどん暴かれて、所々わからなくなるほどです。難しい。
でも、とにかくとにかく面白くて楽しいです。
語彙が全然足りないけど、スパイ映画なのでさすがにネタバレができなくてごめんなさい。

アクションシーンも特に後半の山場は、「キングスマン」でコリン・ファースが
大勢を倒す場面のあの感じを思い出した。
予告編に少しある、カラフルなスモークの場面ですが、もうすっごく面白くて
パチパチ拍手しながら見たかった(映画館なのでしませんでしたが)。
いやぁ、マシュー・ボーン最高!

これ続きがあるそうで、それも楽しみです。
でも「キングスマン」も最初のが一番好きだったので、これもそうなるのかな。

おまけにこれ、懐かしのボーイ・ジョージ!
映画『ARGYLLE/アーガイル』OFFICIAL MUSIC VIDEO|Electric Energy 

映画:葬送のカーネーション

2024-03-19 | 映画


これは今年立て続けに見ているゆっくり映画の一本。とはいえロードムービーで、
とりあえず一つの目的に向かってゆっくりだけど進んでは行くので、
そもそも何も起こらずどこにもいかない映像詩映画(これですね→「オール・ダート…」)よりは映画っぽい。
ていうか、ゆっくりだけどとても映画的な映画と思う。
この予告編見るだけで、ああ、映画だなぁと思ういい映像ばかり。

トルコの映画で、小津安二郎好きの監督らしいけど
個人的には小津安二郎好きな監督というのに、ちょっとうんざり。
小津はわたしも好きですけど、小津好き監督、世界に多すぎないか?笑

お話は、おじいさんが亡くなったお婆さんの入った棺を故郷に埋葬するため
両親を亡くしてる孫娘と旅に出るロードムービー。
最初は車に乗せてもらってるけど、途中で降ろされて途方に暮れたり、
引きずってるうちに棺が壊れたり、トラブルは続くけど、いやそんなの当然でしょう?
そもそもが、お金もなく車もなく、棺を担いで紛争地域まで国境越えてって、
いや、それめっちゃ無謀でしょ?無理でしょ?と最初から最後まで思うような道のりなのです。
野垂れ死ぬんじゃない?とか、ほんとに辿り着けるの?などと心配しながら見ることになる。

去年、ひょえー!最高!すごいー!と思ったロードムービー「君は行先を知らない」より
さらにずっとセリフが少ないしドラマも少ないけど、
左右に続く道をゆっくり人や車や何かが横切る構図をスクリーンで見るのは、
映画館で映画を見る至福のひとつなので、それはかなり堪能できます。美しい。
じっくり見せるので、時間の流れも一緒に見ることができます。美しい(2度目)。
ちなみに主人公二人は本当にほとんどしゃべりませんが、周りの人間はペチャクチャよく喋ります。
なんか二人の世界だけが別の世界で、リアルのおしゃべりな世界とは離れている感じに見える。

この映画のポスターがこの絵なんだけど、この絵はかわいすぎる。
色もきれいだし人間の姿も顔も、なんか線にユーモアがあるけど実際の映画はもっとストイックです。


この映画にも一筋の希望が、とかいうレビューもたまに見るけど、わたしはそれには懐疑的です。
だってこの映画には幻想的なエンディングはあっても未来への光は見えないし(むしろ逃避)、
生きている人間の間にコミュニケーションも秘めた思いやりさえも感じられないんだもん。
おじいさんのおばあさんへの愛は感じるんだけど孫娘への愛を感じる箇所はほとんどなかった。
両親を失った小さな子供の方こそ守るべきなのに、おじいさんは自分の悲しみだけを優先する。
そんな大事なお婆さんと何十年も添い遂げたんだから、まだましやん、
孫娘の傷を癒してあげてよ!と思って、つらかった。
おじいさん、自分のことだけじゃなく12歳の子どものことを少しは思いやってあげてよ。

あるブログで「今まで遺体を運ぶ物語の映画なんて、聞いたことがない。
本作『葬送のカーネーション』は、非常に斬新なアプローチで展開される作品だ。」
と書かれてるのを見たけど、いや、わたし見たことあるよ。
「悲しみのミルク」ペルーの映画です。これは素晴らしい映画だった。
悲しい話だけどこちらにはちゃんと希望も少しあった気がする。

月記:2024年2月

2024-03-18 | 月記
閏年で1日多いけど、それでも忙しかった月。
年末年始はとっくに過ぎ去ったなぁと思う月。

・隣町の友達の家で「哀れなるものたち」を喋る会
・久しぶりに福島で卓球をした
・芽キャベツとキャベツの炊き込みご飯おいしかった
・御影バル
・遠方の友達と久しぶりのzoomおしゃべり。久しぶりというか5年ぶりくらい?
・裏山からその先の山、またその先のお寺まで山歩き
・もふもふ動物カフェで爬虫類や蛇ともたわむれた
・本棚にスペースを作りたくて本を売る。5箱!
・gallery176「再び、春」済州島の4.1事件の遺族の方達のポートレート
・釜山から馬山へ父のお墓参り旅行
・大山崎美術館で藤田嗣治の小さな作品展
・その後天王山へのぼる。下り道を間違えて急坂に泣きそうになる
・隣町の友達の家で転勤の人を送る会のワイン会
・大阪のお料理の先生をしてる友達の家でのホームパーティ
 珍しいイタリアのカラブリアのワインをイタリアから持ってきてもらって。
・神戸ビアジャンボリーというビールイベント。息子の作ってるビールも出てた。
・姫路動物園
・3年ぶりくらいに髪をショートに


映画館で観た映画:「フェルメール」「ジャンヌ・デュ・バリー」「ダム・マネー」
「カラーパープル」「Here」「ゴースト・トロピック」「瞳をとじて」「坂本龍一 CODA」
「ぼくたちは見た」「燃え上がる女性記者たち」「落下の解剖学」「人生は美しい」

韓国墓参り:韓定食

2024-03-17 | 一人旅たまに人と旅
前のブログでは、映画博物館の展示の写真をいろいろアップしましたが、
展示以外の体験的なものもいくつかありました。

チケットを買うときに何か説明を受けて入場券以外にカードのようなものをくれて
帰りに返すようにと言われたけど、その時は今ひとつなんのことかわからず。
あれこれ見ながら歩いてるうちに、カードを入れて操作するようなものがありました。
たとえば、これは指示に従って選んだり記入したりしていくとどうやた短い映画ができるっぽい。

わたしにはハングルで話を書くだけの韓国語力がないので途中で諦めたけど
ものすごくゆっくりでよければできたかも?
そしてできあがったものは、カードを通じてどこかにあって、
帰宅後でもアクセスすれば見れるような仕組み・・・だったのかな(まだわかってない)w
ほかに、よくあるスターの手形を自分の手形で作るものとか、
特殊効果を自分が出演した映像で作るものとかありました。
ちゃんとできたら、あとでアップできるし楽しかっただろうなと思うけど
時間が全然なかったので横目に見ながらどんどん歩きました。

これは看板描きの仕事のこと


映画館のような小部屋ですが、何か上映したりするのかな?


ぐるぐる渦巻きの模様が移り変わる部屋


釜山、映画、とくればやっぱり釜山国際映画祭


歌舞伎座と書いてありますね。日本語はあちこちで見かけました。
日本の占領時代のものなのでしょうか。ハングルを読むのがすごく遅いので読んでる暇がなかった…


ショップにあるものが「ロブスター」とか「コロンバス」とかどういうマニアック・・・笑


もっとゆっくりしたかったけど1時間ちょっとで駆け足でまわりました。
時間のあるときにゆっくり来たかった。今度釜山国際映画祭に来るときはゆっくり来たい。
(ちなみに前に釜山映画祭に行った時のブログ→釜山映画祭0なんと18回の連載。笑
映画博物館にいるうちに雨が降り出して、母と待ち合わせのホテルまで走りました。
ホテルで傘を借りて、現地の知り合いに徒歩数分の韓定食の店に連れてってもらう。

すぐそばで仕事をしてる人で、時々来るというそこは、靴を脱いで上がるのですが
満席で、わたしたち以外のお客さんはなんと全員現地の男性!
早い!安い!うまい!の店ですね。
お店の人も「地球一美味しい!」と言ってました。笑

ナムルやキムチいろいろに、魚、牛肉、豚肉、チャプチェ、テンジャンチゲ、
そしてなぜかカレー。ご飯はもち米を混ぜてあってもちもち。これだけ食べて1万ウォン!安っ!

お腹いっぱいになって、母と叔母はもう一泊遊んで帰るのでわたしひとりタクシーに。
空港は行きも帰りもわりとすいすいと行けて時間が余りました。
ということでビール。滑走路の見える席で搭乗前のビールを飲むのが好き。

短い旅行でしたが、やっとお墓参りできて良かったです。
とりあえず、もしも何か呪いがあったらならそれは解除してもらえたのではないかな。笑
晴れ晴れ。(そういうことは何も信じてないけどね笑)




韓国墓参り:映画博物館

2024-03-15 | 一人旅たまに人と旅
前に釜山映画祭に行った時に、この博物館の存在はチェックしてたけど
短い日程でとても寄る暇はなかった。
今回も母たちとの約束まで2時間弱しかないけどとても近くだったので、
とりあえず行くだけ行ってみようと思いました。

釜山タワーがすぐ後ろに見えますね。

立派な建物

入場料のいらないスペースにも映画関係の展示がありました。

チケットカウンター。1万ウォン(1200円くらい?)だったかな。


釜山の映画館の写真。釜山は韓国映画発祥の地だったとか?


20世紀初頭の釜山にあった7つの映画館


映画雑誌


「釜山港へ帰れ」の台本?


古い映画の入場券


「ロミオとジュリエット」

朝鮮戦争の頃洋画が入ってきたのは釜山中心だったそうですね。
そして韓国で最初のトーキー映画も釜山で上映されたみたい。

韓国墓参り:朝の散歩

2024-03-14 | 一人旅たまに人と旅
釜山タワーの麓に泊まって、朝。
飛行機は午後の便なのでそれまで母と叔母は散歩と買い物に出ると言うので途中までついて行きました。
港の方へ向かってぶらぶらと繁華街を下るんだけど、母の大阪のおばちゃんとしての
コミュニケーション力の凄さに改めて感心する。
お墓参りに来る時は同じホテルに泊まることが多いので、近くの店も馴染みになって
小さい服屋さんのお店の人に、めちゃくちゃブロークンな韓国語と大阪弁で挨拶する。
また後で来るからね〜と、の前にちょこちょこと世間話などもする。
母は祖父母が在日1世だったので、その田舎の言葉だけは少し聞き取れるようですが
韓国語を習ったこともないのでほぼ喋れないんだけど
世界どこに行っても大阪弁でコミュニケーションしてしまい知り合いが増える。
わたしにはその才能は遺伝しませんでしたが…

ロッテマートという多きなショッピングセンターの地下に行くと
こまごまと店が並んでて、そこでもいくつかの店の人に挨拶する。
そして靴下やTシャツが安いとか高いとか言いながら見て回る。

しばらくついて歩いたけど、買い物が苦手なわたしはすぐに疲れて
お昼に待ち合わせをすることにして別れました。
母や叔母の買い物に興味のないわたしが横にいるのは、彼女たちも落ち着かないので
別行動はお互いのため。
ちなみに、母たちはしばらくウィンドウショッピングした後に近くの市場で海産物や乾物などを買います。
多分いくつかの店の人が既に知り合いで、またおしゃべりしながら歩くのが楽しいのでしょう。

ロッテマートから少し歩くとすぐに海です。



海沿いに西に歩くと母たちがいつも買い物するチャガルチ市場があって、
その北側には国際市場。(映画の舞台にもなりましたね)
国際市場とチャガルチ市場の間の辺にBIFF広場があります。
ここは以前釜山映画祭に行った時に歩いたことがあるし、屋台ストリートもあるので
ぶらぶらしても良かったけど、今回はそこまで行かず、影島大橋(ヨンドテギョ)のあたりを少し散歩。
この橋はいろいろ歴史があるようだけど今は週に一度だけ跳開するようです。

ふもとにある家族5人の銅像は、朝鮮戦争時に逃げてきた避難民の姿のようです。
生き別れになった人がこの橋での再会を誓ったとか。

海辺を歩くのは、浜でも港でも好きなので少し散歩しながら写真を撮りました。








Googleマップによる釜山タワーの近くに映画博物館があるようなのでそこへ行ってみることに。






韓国墓参り:夜の散歩とバー

2024-03-13 | 一人旅たまに人と旅
知らない街の散歩は昼でも夜でも楽しいですね。
夜は、都会だといいバーがあるといいなぁと思いながら歩くし
田舎や地方だと古い建物や味わい深い雑草の茂みや空き地を見ながら歩く。

ダイヤモンドタワーはライトで色が次々に変わる。青、赤、黄色、紫、緑。


長い名前?のホテル。
「昨日」は今日の思い出だけど「明日」は今日の希望ホテル?


くじら専門店!


若い女性が楽しそうに飲んでたここ、こういうテント、冬にいいな〜。


今回はいいバーはなさそうな町内だけど、夕ご飯の腹ごなしができたらいいやと思って歩き始めた。
上着がいらない暖かい夜だったので歩くのも楽で足取りは軽い。
バーと書いてある店は結構あるものの、どれもカラオケがあるような店で
飛び込んでそういう店だととても嫌なので慎重に見ながら歩く。
できればオーセンティックなバーでウィスキーを1杯飲みたいけど
カジュアルなビアバーみたいなのなら少しあったので、他になければこういう店で1杯だけ飲んで
落ち着いて帰るのもいいかなと思いながらなおもぐるぐる歩いてると
狭い階段の上にバーがありそうな気配が。

外観はカジュアルなかわいい感じなので、オーセンティックは期待しないけど
とりあえずおじさんたちがビールと焼酎でカラオケをしている店ではなさそうだし、
大丈夫かな?とドキドキしながら階段の下からそっと様子を見たら
ドアが開いてて、洋楽の音がして、人の気配はなく静かである。
よし、と階段を登って店に入った。
カウンターだけの小さな店で、バックバーにはスクリーン。
お酒の種類は少ないけど、スコッチはいくつか置いてるし高いお酒もあるみたい。
最初にハイボールを飲んだら甘かったので、普通に目に入ったスコッチを頼む。
お店はカジュアルな服装の若いマスターが一人でやってて、他にお客さんはいなかったので色々お話しした。

喋ってるうちに、すっかり忘れてたわたしの韓国語も少しずつ出てくるようになり、
韓国語で話しながら、マスターも以前日本語を勉強したことがあると言う。
その頃日本人女性と付き合ってて・・・と。
さらにマスターのお母さんも日本語が少しわかることを大人になって知って、
その理由を聞くと、お父さんと結婚する前に日本人男性と付き合ってて、ということだったと。
あはは、親子で同じことを、と笑い合う。

この町内で、カラオケやスナックでないバーはここくらいだとも聞いて
それを探し当てた私の嗅覚よ!と自分を褒める。

一人になりたくて爆発しそうに疲れてだけど、知らない街の知らないバーに飛び込んで、
何のしがらみもない知らない人と、辿々しい言葉で静かにおしゃべりをしてるうちに、
霧が晴れるように気持ちがすっきりした。
自分は理解してもらえない家族より、ゆきずりのバーでゆきずりの人と短く優しい会話を
ぽとぽとと交わす自由の方が必要な人間なのだな。
こういう時、気持ちが広々として楽しくて、ついついいくらでも飲んでしまいがちなわたしですが、
お腹がまだいっぱいで苦しかったので2杯だけ飲んでホテルに帰りました。

家族で決められた予定をどんなにこなしても充実感はないけど
知らないバーに飛び込むことで、やっと今日は少なくとも一つは、
自分自身として何かできたという気持ちで、しめくくれるのよね。