goo blog サービス終了のお知らせ 

sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「楽園のカンヴァス」

2025-04-14 | 本とか
スイスワインを輸入している友達が月に一度毎回テーマを決めて
間借りワインバーをやるんだけど、そのテーマが
建築家だったり食べ物だったり映画だったりの中、
今回は原田マハの「楽園のカンヴァス」。
小説の舞台がスイスのバーゼルで、その友達はバーゼルにいたことがあったのでした。
バーではバーゼルの話を写真も見せてもらいながら色々聞いて楽しかったです。

この本は文庫本がうちの本棚にも積読されてたので、
いい機会だと読み始めて割とすぐに読み終わりました。
ルソーの隠されてきた絵に関するミステリー、みたいな話で
普段ミステリーっぽいモノをあまり読まないけど、逆にそれが新鮮だったかも。
原田マハさんの小説は文学としては物足りない作家だけど
美術をテーマにした小説の一つのジャンルを自分のものにしてるのはすごいし面白いと思う。
ニューヨーク近代美術館のキュレーター、ティム・ブラウンはある日スイスの大邸宅に招かれる。そこで見たのは巨匠ルソーの名作「夢」に酷似した絵。持ち主は正しく真贋判定した者にこの絵を譲ると告げ、手がかりとなる謎の古書を読ませる。リミットは7日間。ライバルは日本人研究者・早川織絵。ルソーとピカソ、二人の天才がカンヴァスに籠めた想いとは――。山本周五郎賞受賞作。
(新潮社のサイトより)

ルソーは日曜画家の税関吏と紹介され、正規に勉強していない特徴的、個性的な絵で
素朴派というグループに分類される画家。
最近ではヘタウマと評されたりもしてて、
確かにわたしも若い頃はそういう解説や批評を読んでなるほどと思っていたけど
今となっては心底、そういう説明はもうどうでもいい。
ああ、言葉もいらずにただ感動して感じ味わうって、
一通りの言葉や思考を通ってきてやっとできることなんだなぁと、
ルソーの絵を、年と共にどんどん好きになってきて、そう思う。

そういえば高校の時、美術の授業で油絵の模写をやらされて、
絵は好きな絵を選べたのでわたしはデュフィで、友だちはルソーを選んだ。
授業としては油絵の基本を知りながら慣れようという趣旨だったはずだけど、
デュフィやルソーは基本を学ぶには変化球すぎたよね。
でも好きに選ばせてくれる先生だった。今思うといい先生だったな。

その時にも、ルソーの良さも少しはわかるつもりだったけど、
かといってそんなに好きとは思えなくて、それを選ぶ友だちを面白い子だなぁと思ってた。
それがその時から40年経って、今のわたしはデュフィよりルソーの方が好きかもしれない。
デュフィのセンスや洒脱さや自由で晴れやかな色彩より、
ルソーの真面目で不器用な感じが好ましいのよね。
小説を読んで、ますますルソーを好ましく思いようになった。

「深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと」

2025-04-07 | 本とか
前書きのところがとてもよい。
考え方次第で、なんでもない日々を少しぐらいは楽しいものにすることができるという思いは確信に近い。ドーンと海外へ旅行するのももちろん最高だけど、遅い時間に起きた日曜日でも、「今まで通り過ぎるだけだったあの店に行ってみよう」とか、何かテーマを設けて散策してみたら案外いい一日になったりする、そんなイメージだ。思うようにならず、息苦しさを感じることもある毎日の中で「まあ、まだまだ楽しいことはあるよな」と少しでも前向きな気持ちになってもらえたら嬉しい。
ここはおお、同類よ!と思った。それこそわたしの毎日だもんな。

この本は前半はとても良くて、いろんな場所に安いバスで行って
(とはいえ華々しい場所でも映える場所でもなかったりする)
あまりお金は使わずなんとなくうろうろして、
何かちょっとした面白いものやことや人を見つけておお!などと思い、満足して帰ってくる。
小さい旅の小さい発見、そういうものがわたしも好きです。

でも後半は少し失速、というか、なんか空回りしてる感じがした。
前半はしょぼいなりに(←褒めてる)、新しい発見のようなものが生き生きしてたけど
後半は、ちょっとだれてきてるのに無理やり記事にしてるように感じてしまったけどどうかな。

さて、この本の一番好きなところは「許された時間」についてというところだ。
目的地まで移動してる時というのは、人間にとって一番の許された時間なんじゃないのかと思う
熱が出て寝込むとわたしは、なんか許されているような気持ちになって、
何もしないで寝ていることを穏やかで安心した気分でできるんだけど(体はしんどくても)、
なるほど確かに移動してる時もまたそういう風に感じることは、とてもよくわかる。

図書館から一旦帰って本を置いて、さあ夕方の散歩に出ようと思ったら雨、という日があって、
この雨というのもまた「許された時間」に近い感じがする。散歩は楽しいし好きだけど、
家でぬくぬくしてても許されている感じは雨のおかげである。

結局、深夜高速バスに100回ぐらい乗ったからといっても、
何かすごいことがわかったわけではないようですが
小さなことに目を止め、考え、納得し、それを繰り返すことで
この著者スズキナオさんという人はできてるんだなぁと思った。
わたし自身も小さい散歩に出るたびに同じ道でもいつも何かを見つけ、おお!と思い、
しゃがみ込んでよく見たり写真を撮ったり調べたりして、
その繰り返しの毎日で、自分というものが構成されていると思ってる。

読書ルネッサンス

2025-03-26 | 本とか
本読も、と思うとすぐに読めるのが実は奇跡のようなことで、
40代半ば以降、何年も長い間わたしは本が読めなかった。
同じ行を10回読んでも何が書いてあるのかわからない、声に出してもわからない、
ひと単語ずつ頭に無理やりねじ込むとやっと少しわかる、
その頃にはもう集中力がきれかけてて、
結局数行も読めない、そんなふうになってた。
全く読めない時期のあとの、無理をすれば少し読める時期が長かったかな。
Twitterは問題なくするすると読めて書けたんだけどねぇ。

その後、頑張れば人並みに読めるくらいの時期がまた長くあり、
今は気楽に人並み程度に読めるようになった気がする。
心がだいぶ健康になってきたのだなと、これまでを振り返って思う。
すごくすごくつらくて苦しい時も幸せな瞬間もあったけど、
平穏で安定している今が一番いい。
お風呂で1時間くらい読んで、お風呂を出てまた別の本を読んで、
こんなこと長い間無理だった。

読書会もこの楽しさの支えになってる。
大勢の読書会も、親しい友達少しと1年かけて長いものを読む会も、
zoomでのもっと遠くの知らない人たちとの読書会も、それぞれの楽しさがあって
一人では読めない本も読んでいける。

さらに、長い間行ってなかった図書館にもまたいくようになって
気楽な本や、料理の本を借りて読んでいます。
本を好きな人にはごく当たり前のことができなかった年月を思うと嬉しくて仕方ない。
わたしにとっての読書ルネッサンスだなと思う。
もっと健やかな心になってもっと本を読みたい。

「写真家井上青龍の時代」

2025-03-25 | 本とか
写真関係の知人に借りた本を読んでるんだけど
昭和の写真の業界の感じがよくわかるのは面白かったけど、なんだかねぇ。
男しかいない世界だしね、男のかっこよさしかない世界で、
孤独や無頼のかっこよさ?の一方で、家庭は蔑ろにして暴力を振るい
子供達はその後、大人になっても人の顔色を伺う癖が取れない。

時代が違った、とは思わないし思いたくない。
どんな時代でも弱い者に暴力をふるわない男だっていたでしょう。
時代に関係なく自分より弱いものを理不尽に殴る男は卑怯でずるい奴でしかない。
そう思うと、どんなに立派な人がどんなに褒め称えていても、
あるいは愛情込めて批判しながら懐かしんでいても、弱いものを殴る人間は認められないわ。

妻は、この夫が勝手な恋愛で家を出ても女を連れて帰ってきても、
甲斐性がなくても、ギャンブルに狂っても、そして暴力に怯える子供達がいても、
結局最後まで夫を愛して添い遂げたので、他人のわたしが夫婦のことに口出しはしないけど、
それでも妻が許してても家族を殴る男はあかん!と思いながら読んだ。
昭和の男たちが郷愁を込めて言う「無頼」に、げろげろーげーっ、という気分である。
「無頼」なら家族を持って暴力ふるったりせず、たった一人で生きてみろよ、と思いましたです。

そう考えると、あんなに酷いと思った「チボー家の人々」のジェロームは本当にダメな優男だけど、
暴力は振るわなかっただけマシだし、
みんなで文句轟々だった光源氏でさえ、ちゃんと最後まで女たちの世話をし面倒を見て、
女子供を殴ったりしなかったのでマシなのかも。

「アンの幸福」

2025-02-19 | 本とか
リラックスする漢方薬を飲むように「赤毛のアン」のシリーズを
何十年かぶりに少しずつ読んでます。
赤毛のアンのこの5巻は、アンがグリーンゲイブルスから離れた土地の高校で
校長として赴任してからの3年間の話。
幼馴染のギルバートとは遠距離婚約中で彼への手紙を中心に書かれるのがこの巻。
校長と言ってもまだ20代前半。
この時代、地元の学校(小中学校に当たる?)を卒業して師範学校を出たら
16歳とかでもう学校の先生になって、アンはそこで2年教えてから、
大学へ行き卒業して、まだ20歳ちょっとで校長先生になったようです。
先生や校長になっても教える相手と年が変わらないので大変だろうなと思うけど
師範学校や大学で教育を受ける人が少ない時代だったから、これが普通だったのかな。

アンがクリスマス休暇でグリーンゲイブルズに帰省するパートにはもう、
世の中の良いものが全て詰まってて、一瞬わたしまで良い人間になった気がした。
アンに対して全く協力的でない副校長キャサリンは誰からも嫌われている皮肉屋で、
人を侮蔑するばかりの女性なんだけど、アンは彼女を放っておけなくて休暇に誘う。
アンは結構休暇にいろんな友達を誘って家に迎え何週間も過ごしたりするので
そういう風に親戚や友達の家で長く過ごすのもこの時代には割と普通の習慣だったのかな。

自然の美しさと人の暖かさに満ちたグリーンゲイブルズでの生活で
キャサリンの心の氷の棘がみるみる溶けていくとき、
読んでるわたしの心の小さな棘も溶けていく気がする。
めくるめくさまざまな美しさを見せてくれる自然、それぞれに短所があっても優しい人たち…
アンに小さなことに気づく目があって、人との関係を育む善良さと魅力があるからなんだけど、
何も派手なものも高価なものもないこういう生活こそ最高だなぁとしみじみ思う。

もっと素直で朗らかで優しい人間になろう。
尖って屈託があって捻れて歪んでいるのが自分の味だと開き直ってきたけど、
やっぱり素直な人になろう。

ジム船長の犬と猫

2025-02-11 | 本とか
赤毛のアンを、リラックス漢方を飲むような気分でちびちび読んでるんだけど6巻目。
アンが結婚して海辺の小さな家での新婚生活が始まる。
そしてご近所のジム船長と親しくなるんだけど、この人物がとてもイキイキしていいです。
「銀の森のパット」のジュディに似た語り部で、さまざまな経験からつむぎ出される話が良い。
その中で犬や猫に関する言葉。
「生き物を助けたとなるとかわいがらずにやいられなくなるものですよ。
いのちを与えるに次ぐことですな」

夏の家で猫を飼ってかわいがったくせに夏が済むと置きざりにして死なせてしまった人への言葉
「あんたは最後の審判の日にあの哀れな母猫の命について説明しろと言われた時、
それで十分な申し開きになると思いなさるのか?
神は考えるために使うんでなかったらなんでわしはお前に頭をやったのだとおたずねになりますぞ」

飼っていた犬のことで「大事にしてたで、それが死んでしまうと、
またほかのをそのかわりに飼うなど、考えるだけでもたまらなかったですよ。友達でしたでな」
「メーティ(猫)はただの仲間ですわい。わしはメーティが好きですよ、 
ちょっと悪行を働くところがあるで、よけい好きですよー猫はみなそうですがね。
だがわしはあの犬を熱愛してたですよ」
「よい犬には悪い性質が一つもないでな。それだからこそ犬の方が猫よりかわいいんだと思うですよ」

わたしは犬か猫なら猫の方が断然好きだけど、確かにそれは、
猫とは分かり合えない届かないところがあるからこそ惹かれてしまうからかも。
それに対して犬とはわかりあえてしまうのが良さなのだろうなと思ってて、
ジム船長の言うことにもとても納得する。

「アンの夢の家」

2025-02-10 | 本とか
赤毛のアンの6巻はアンの新婚生活ですが、若い頃はさほど面白く思わなかったのに、
今読むと少女時代のアンほどではないけど、十分面白い。
若い頃は、自分が結婚に夢も希望も興味もなかったから、
当時と比べても古風なアンの結婚生活はちっとも魅力的に見えなかったのだろう。
今はもっと時代が進んで古風な結婚観はますます受け入れたくなくなってるけど、
物語として読むのは楽しいし、これはこれでありとも思うようになった。
昔の、固定された男女の役割のある結婚も、それを好む同士で幸せに生きられるのなら
それは今でもいいことだと思う。ただ、今はそこになんらかの社会的抑圧や刷り込みがないか、
よく見極めないといけないとは思うけど。 

ワンピースを着てフェミニンな気分になるのが好きな自分でもいいと
わたしが思うようになったのは40歳を過ぎた頃だったか。
それまでは強く勇ましくなりたいばかりだったし
女らしいと思われる物事には反発することが多かった。
いつも社会に対して、世界に対して戦闘気分でいなきゃ行けないように思ってたのだろう。

アンは家のことをこなし、このあと子供もたくさん産み育てる主婦になるわけだけど、
社会的成功は望まなくなっても本を読み物語を書き夫と対等に議論する。
誰かの妻や母だけの人間にはならないで、誰よりも豊かな世界を自分の周りに作り出している。
そう思うと今は結婚後のアンのことも心からいいなぁと思える。
そして二人の幸せがとても美しくて読んでいるだけで気持ち良くなる。

「世界のおばあちゃん料理」

2025-02-02 | 本とか
近くの図書館と仲直りした。
いや、喧嘩したわけじゃなく、夏の空調が多分お役所的に28度とかで、
実際は30度くらいある感じで蒸し暑く、風もなく、気持ち悪くなることが続いて
図書館に近寄らなくなって10年以上経ってただけですが。
うちから徒歩5分足らずの近くで、商業施設のビルの4階なんだけど
まあまあ広くて吹き抜けで天井が高く悪くない図書館なのです。でも空調がなぁ・・・
夏以外の季節にはもっと利用しようと思います。

ちゃんと読む本はすでに家に積読が果てしなくあるので借りない方がいいんだけど、
軽いエッセイやイラスト入りの本、写真入りの本や料理本などは
図書館で借りれば、必要なページだけコピーをとればいいし、家の本棚を圧迫しない。
そういうわけで、仲直りして最初に借りた数冊のうちの一冊がこれ。

原題はさっぱりと「IN HER KICHEN」、彼女の台所。
こっちの方が好きだけど、日本だとやっぱりもっと情に訴えるタイトルになるのね。

写真家のイタリア人の著者のおばあちゃんの写真が最初で
見開きの右にお婆さんと食材の乗ったテーブル、
左ページにできた料理が載ってて、
その次のページにそのお婆さんについての簡単な紹介文があります。


見たことのない料理も多く、中にはイグアナ料理なども。ペットかと思った。

日本の料理も出ていました。ばらちらし。


本当に世界中のおばあちゃんたちで、とてもバラエティ豊か。
料理写真は、料理本のように美味しそうでも美しくもないんだけど
お皿やテーブルクロスを見てるだけで興味深い。
ましてや、おばあさんたちの顔や表情、服や食材、台所の様子など
すごい情報量で、知らない文化への興味が湧き起こって面白い。
だから、次のページの文章は結構あっさりしてるのがちょうどよくて、
これで文章が上手くて物語性があったりしたら情報量多すぎて戸惑ってしまいそう。笑

世界、といった時に思い浮かべる世界よりも、実際の世界はもっと多様なのだと改めて思う。

詩を見せてもらう

2025-01-04 | 本とか
戯曲を書いている友達や詩を書いている友達ができた作品を読ませてくれることがあって、
一方通行でない関係の作者から個人的に届けられる感じがちょっと嬉しくて、一生懸命読む。
いい作品だともっとうれしくなる。

写真を撮る友達はすごくたくさんいて、プロの人も結構いるし、写真家を名乗る人も多いし、
いい写真を撮る人も多いけど、人の撮った写真は大概SNSか個展やグループ展で見ることができて
個人的に見せてもらうことはまずない。
でも写真と違って文章作品にはSNSは軽すぎるというか、
短歌や俳句でも、たまに気まぐれにアップするのではなく
作品としてアップするのはSNSではないよなぁと思う。
だから個人的にpdfやテキストで送られると、より親密な密やかな感じが素敵でうれしい。

久しぶりに書いたので読んでみてと言われた詩は、とてもいい詩だった。
わたしの最も信頼している友達であるその詩人は
鮮やかなイメージが不規則なステンドグラスのように組み合わさりながら意味や物語を脱ぎ捨て
スピード感をもって進んでいく繊細で硬質な詩を書く人だったけど、
なにやら少しスタイルが変わって少し落ち着いた詩になっていた。
内容は落ち着いてなくて、抑制の効いたパッションがある恋の詩だった。
甘さもセンチさもないけど、隠れた情熱がある。良いなぁ。

堀江敏幸訳「土佐日記」

2024-12-30 | 本とか
今年読んだ源氏物語8巻、角田光代さん訳は河出文庫の古典新訳コレクションで
ここから何かもう少し読もうと思って買ったのがこれ。
堀江敏幸さんの訳ですからね。
でも冒頭の「貫之による緒言」を、1、2ページ読みかけたままよくわからずに積読してたら、
友達がこの本の話をして、すごいすごいと褒めるのです。
冒頭のその緒言は堀江敏幸の創作だということも知って、ああそういうことかと少しわかって
続きを読み進めることができました。
土佐日記って、中学や高校の古典の授業で日本最古の日記文学と教わり
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」とさわりの部分だけは
記憶に残っているけど、当時海外文学の方をよく読んでいたわたしは全然興味がなかった。
それで内容について全然わかってないまま読み始めたけど、へー、こんな本だったのかぁと
全く別の印象をうけることになりました。

文庫本の帯に「日本最古の日記を試みに満ちた新訳で味わう」と書かれてるけど
いやこれ本当にそう。堀江さんの試みに満ち満ちてるわぁと、感嘆のため息が出る。
河出書房のサイトには「土佐国司の任を終えて京に戻るまでの55日間を描く、日本最古の日記文学を試みに満ちた新訳で味わう。貫之の生涯に添い、自問の声を聞き、その内面を想像して書かれた緒言と結言を合わせて収録。」
と書かれています。

紀貫之は平安時代の前期から中期の900年前後の人で、70年以上生きたならわりと長生き。
「古今和歌集」の撰者の一人で三十六歌仙の一人。
歌人としては日本文学史上トップの有名人なわけですが、
出世ということではだいぶイマイチだったようです。
生きてる時でも十分な名声があったようなのに、目覚ましい出世はできずというのは
歌は詠めても世渡りがかなり下手だったのか。
「土左日記」を読むと、なんとなくぼんやりした人を思い浮かべて
颯爽とした印象がないので、まあそうか、とも思う。
いや、ぼんやりした印象はこの日記の作者の印象というか、もっと全体の印象かもしれない。

天候などのせいで舟を動かさない日がすごく多くて、舟、全然動かへんやん!
そりゃ55日かかるわ、などと想いながらもどかしい気持ちになったり、
本文は堀江さんの訳ではほぼ全部ひらがなで書かれ、文中で詠まれる歌も行を分かたず
地の文章に溶け込むように書かれているので、それが文章の中の緩やかな波のように感じられて
なんともつかみようのない揺れの中にいる印象だったのです。
でも、それは堀江さん自身が感じた揺れを、意図的に翻訳に反映させたものなのですね。
堀江さんが書き加えた、作者の心情などを(カッコ)内注釈でぼそぼそと説明する調子は
男の私なのか、おんなのわたしなのかするりと視点が入れ替わってるようなところもあって
あまり進まず動かないが揺れる舟の上、こちらの気分も揺れてぼんやりする。

視点の揺れ、意識の揺れ、水面の揺れ、というと思い出す本に
高樹のぶ子の「トモスイ」という短編小説がある。
これは川端康成文学賞を取ってるけど、なんというか、ゆらゆらとゆらぎのある世界なのです。
どちらも舟の上の話だけど、揺らぎって、なんか似通うのかな。
「トモスイは」小説の中で自他の境界、男と女の境界が揺らいで
自分自身もなくなってしまう感じなので
「土佐日記」の視点の揺らぎの虚構をわざと見せるのとは違うんだけど。

あと、わたしは漢詩に多い望郷の詩にいつもイマイチ乗れないし、
光源氏が明石でうだうだ都恋しさに文句ばかり言うのもうんざりしたし、
おっさんの島流し的状況が、贅沢な悩みにしか見えず同情しにくいんだけど
それは特権階級の贅沢な悩みというより、男という特権階級にもやもやしてのことでした。
望郷を詠む漢詩はまだいいのだけど明石の光源氏の、
こんな美しく賢く高貴で最高な自分がこんなあわれな境遇にいるとは、みたいな嘆きに、
いやあなたそう言いつつ、自分では何をする自由もないもっとさびしい境遇の女たち
にどんだけ慰めさせてるのだ?と思うと。
「土佐日記」にもそういうところがあるのでは?と危惧してたのだけど
この男女の視点の揺らぎのせいでそういうものを感じずに済んだのはよかったです。

以下引用ですが、ページ数は文庫本のページです。
「貫之による緒言」より
>ここにはいないひとを想い、月影ひとつない秋の闇に飛ぶ雁が音に耳を傾けること。うたのなかではそれが許される。いるはずのないひとを想い、飛んでいない雁の声を聴くことさえできなくはない。いやむしろ、そこにあるものをあると言わず、ないものをないと言わない、このふたつの眼差しのかけあわせこそが、心と言葉を引き離すために欠かせない、語りの、もしくは騙りの大切な軸なのである。ここにはないものを、ここにあらしめるための言葉。p.20

>言の葉を一枚で空に飛ばすには力が足りない。というより、言葉は単独で空を飛ぶことができない。見えても見えなくても、周囲を固める言葉の隊列が必要なのだ。心のすきまを吹く風は、高い空で冷やされ、渡りの鳥たちの羽で切られる。その羽音が、うたになる。p.21

>おしあゆだって、こんなひとたちにくちをすわれたりしたら、こころがおしあゆへしあゆ、どうにもへんなきもちになりはしないだろうか。p.43
「おしあゆへしあゆ」って押し合いへし合いと「押し鮎」をかけた駄洒落?

「全集版あとがき」より
>つまりこれは、女のわたしもやってみようと思ってと書いておきながら、そのじつ完全に男性の視点で統御された虚構であることを、事前申告しているに等しいのではないか。このような印象は、それまで注釈書を頼りに読み進めてきた「土左日記」の本文全体にただよう、奇妙な視点の揺らぎの感覚に合致していた。p.119

>彼はつねに冷静な眼で、「いま書かれつつある言葉」からいっときも眼を離さないメタフィクションを創造しようとしていた。書かれたものを読み返すまなざしが、「書かれつつある」現在を二重化する。p.120

「文庫版あとがき」より
>歌物語でもたんなる紀行文でもない、どこか隙が多くて奇妙なゆらぎのある散文。それが930年代半ばに紀貫之が記したとされる「土左日記」に対する私の認識だった。語り手の視点が揺れて、読んでいるこちらの足もともおぼつかなくなり、船酔いに似た居心地の悪さに襲われる。p.124

「女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ映画」

2024-12-19 | 本とか
こういうタイトルってここ数年の流行りなのかな?、
著者の北村紗衣さんはTwitterで昔からフォローしてて
彼女の書評や映画評も時々見てきたので読んでみました。

100本のうち50本以上は見ているけど、見てない映画も結構あって、見てみたいなぁ。
レンタルビデオのツタヤがあった時代なら、お店になくても取り寄せで、時間はかかっても
案外安く古い映画でもなんでも借りることができたけど
今は配信になければ見られない時代になっちゃった。
わたしはアマゾンプライムには入ってるけどネットフリックスも他のも入ってないので
観たくてもみられない映画が案外多い。この本の中の多くもそうだと思うから、それは残念。

20歳前後まで何度も死にたいと思ったことのある著者が、
その後もっと大変の人生になってももう死にたいと思うことがなくなったのが、
>楽しそうな映画が多すぎて死んでいるヒマがありません。人生の目的は死ぬまでひたすら楽しいことをすることだと思えるようなりました。(略)人生の役に立つと思って映画を見ているわけではないのですが、どういうわけかひとりでに映画は私が生き抜くのを助けてくれるようになりました。
ということで、映画の力すごいな。
そしてこういう映画を見て大人になれたらよかったなと思う外国の映画を
22のテーマで100本紹介されています。
わたしは映画自体はもちろんだけど、この本が若い頃にあればよかったなと思います。
だって、例えば若い頃に「紳士は金髪がお好き」を何度も見たけど
それをフェミニズムの観点から見たことは一度もなかったのでした。
>ふたりともセクシーで、自分の性欲や性的魅力、モテっぷりに居心地の悪さを感じていませんが、この映画にはそうした女性の性的な自信や自己主張を断罪するようなところもありません。
なのにわたしはこれをシスターフッド映画であるとは思わず、
女性をめぐる男たちの話のように見ていた気がします。
それはわたしのせいだけではなく、古い映画はずっとやっぱり主役は男たちだったのです。
一昨年か、林真理子が浅丘ルリ子の人生を書いた「RURIKO」を読んだけど(面白かった!)
そこにも、女優が添え物やお飾りの花、あるいは主人公の相手役でしかなく
本当の主役になる映画は、以前はなかったことがよく書かれています。
浅丘ルリ子(異常にかわいい)でさえ、小林旭や誰かの相手役という扱いが長かったのよね。
今回初めてそういうフェミニズムの視点で考えて、とても興味深かった。

大好きな映画「ホリデイ」はロマンチックなラブコメとして何度も見ていて
特にジュード・ロウの優しさ誠実さに毎回感銘を受けるんだけど、
男女関係に関する大事なメッセージがあるというふうには見てなかった。
紳士だからというより、性的同意や男女の平等が大事ということが
ちゃんと盛り込まれている映画なのだと書かれていて、うれしくなりました。

家のインテリアやハンナ夫妻の様子などに関心を持った「ハンナ・アーレント」では
>しかしながらこの映画には希望もあります。それはある程度の知的好奇心さえあれば学歴などを問わずに深く考えることが可能であり、深く考える人にはそれを信頼して助けてくれる人も出てくる、という可能性が示されていることです(中略)考え続けることが闘う道なのです。
と書かれていて、確かに最後まで彼女を理解して寄り添ってくれる夫や友人がいたことを思い出します。

「未来を花束にして」の邦題のダメさは「嘆かわしい」と書いてくれてほんとそうよね!
>いくら平和的に頼んでも、モードのような女性たちにはそもそも議論の席につく権利すら認められていないので、議会に影響を及ぼすことができず、無視されるだけです。無視されないために女性たちは先鋭化しました。暴力は良くないことですが、過去の政治運動を考えるときに、「抗議活動は平和的」であって当然だという考え方では通用しないこともある・・・ということをこの映画は教えてくれます。
この映画を見て、一見過激な抵抗運動や活動が、どれだけ切実な思いでなされたのかに気づき
その後のわたしの考え方はここに書かれているように変わったのでした。

「グロリア」もいい映画だけど、わたしは大人の責任や子育てについては考えてなかったなぁ。
>子育てというのは家事や料理がうまいというようなことより、大人として未成年者が保護を求めてきた時に、責任をもって対処できるかということだ、というのがこの映画がさりげなく示唆していることだと思います。

「マダム・イン・ニューヨーク」については言葉というものについて書かれている。
>外国語を学ぶ際に、意思疎通だけできればいい、ただの技術だ・・・という考え方と、言語はそれを取り巻く文化や自己表現の手法などを含めた全人格の教育だという考え方があると思うのですが、シャシは最初はおそらく前者のツールとしての言語を学ぼうとして、最後は後者のような解放の手段としての言語に至るという過程を経ています。

若い映画好きな人に読んでほしい本ですね。

「スイマーズ」

2024-12-12 | 本とか
「屋根裏の仏さま」がとても良かったジュリー・オオツカの新作。
中盤まではなんだか微妙だった。(褒めてない)

誰か一人か二人の視点によるものではない語りての人称の扱い方などは
「屋根裏の仏さま」と少し似ていて、誰の話なのかよくわからず進んでいくのは同じ感じ。
「屋根は裏の仏さま」100年前写真花嫁としてアメリカに渡ってきた女たちの声を
特定の一人ではなく大勢の「わたしたち」という一人称でたたみかけるように書かれていて、
不特定多数の彼女らの声がバロック音楽のポリフォニーのように呼応しこだまする文体。
でもとても切実だったそれに比べて「スイマーズ」の前半は
SF的に日常と非日常の境目を行き来する雰囲気にユーモアもあって、
でもかといってどうもユーモア小説の感じでもなく、どこかに不穏さもあるので、
ずっと中途半端な気持ちで読むことになる。だから何?って感じの。

「屋根裏」では魂の訴えの様々なディテールの積み重なりが小説を良いものにしたけど
こちらで微妙で不安定なユーモアがひとつひとつこまごまと続くので面白がるのに骨が折れる。
それがいつか積み重なってよくなるのかと、我慢して読み進めるものの、
ただ他人事として積み重なるばかりで疲れてきて、もう投げ出そうかと何度か思った。
でも、後半をすぎて描かれている人物が特定の人に変わったら急激に良くなってホッとした。
後半で良くなっていくために、この前半も必要だったとは思うけど、しかし長い前振りであった…

→新潮社のサイト
白尾悠さんの書評がわかりやすいけど、長文なので、サイトと本の帯にある短評を引用します。
>地下深くにあるプールで泳ぐ“わたしたち”スイマーの日々から、章を追うごとに“彼女”そして“あなた”と人称や視点人物を変えて浮かび上がってくるのは、認知症の一人の女性とその娘の、人生の断片だ。詩的な語りが鋭く繊細に掬い取る、母と娘の特別でない日々の些細な瞬間は、優しいものも、残酷なものも、どれも愛おしい。それらの記憶が次第に失われていく痛切さは、読者である私たちの、すでに存在すら忘れてしまった瞬間と呼応する。この小説の息をのむほどの美しさは、私たちの人生のかけがえのない美しさそのものだ。

前半はある公営プールに集う常連の人々についてや、その人々の心の声など。
その後プールにヒビが見つかりそれが増殖し、プールが閉鎖されることになり
人々の不安が不穏な空気を纏って増幅されていく様子が描かれる。
それか「、〜を彼女は覚えている」「〜を彼女は覚えていない」という文が
何度も何度も何度もいくつも長くくりかえされる。
この彼女というのは認知症の女性アリス。日系二世で戦争では強制収容所へ入れられた過去がある。
>彼女は自分の名前を覚えている。
>戦争が始まってすぐに政府から自分たち一家に割り振られた番号を、彼女は覚えている。13611。あの戦争の五ヶ月目に母親や弟といっしょに砂漠へと追いやられることになり、初めて列車に乗ったことを、彼女は覚えている。

ここは、「屋根裏の仏さま」にもあったような描写だ。

その後は彼女がはいる施設について、施設側からの説明。この章はなんだか怖い。
認知症患者について感情のないロボットのような文体で書かれる。
>あなたの疾患にはなんの「意味」も「崇高な目的」もありません。「賜物」や「試練」でもなければ、個人的な成果や変化のチャンスでもありません。怒れる傷ついたあなたの魂を癒してくれはしないし(中略)あなたを神に近づけてもくれませんし(中略)この疾患はただ、避けようのない人生の終焉へとあなたを近づけていくだけなのです。

>あなたの世話をするのはもっぱら疲れ果てた中年の白人ではない女性たちで、現金収入の乏しい国々出身の彼女たちは家賃を賄うために二つか三つの仕事を掛け持ちしています。彼女たちは、血圧は高く、背中は痛み、何年も歯医者へ行っていません。

>あなたの主たる活動は、もちろん、待つことです。薬が効いてくるのを待つ。「午後のおやつ」を待つ。フレンチフライ・フライデーを待つ。誕生日を待つ。(略)娘さんからの次の電話を待つ。(略)そして最後に大事なこと、眠りという甘やかな忘却を。

そして最後の章はアリスの娘が、母の様子や思い出などを「あなた」という人称で語っていく。
この章で、全部の元が取れた気がしました。さすが「屋根裏の仏さま」のジュリー・オオツカだ。
「あなた」の父親(アリスの夫)のエピソードで、鳥の話が興味深かった。
つがいの鳥の片方が死んでしまい、餌も食べなくなって衰弱してた鳥が
鳥籠に鏡を入れたら、鏡を見て囀るようになりみるみる元気になった話。
と、これだけ書いても脈絡がわからないでしょうが、そう、順番に積み重なるディテールを
丁寧に読んでいかないと脈絡のわからない小説なのです。
一見人つながりではない細切れの断片を、ひたすらたくさんの断片を全部読んで初めて、
ぼんやりしながら存在感のある大きな脈絡が現れるタイプの小説。

どぎつい描写もなく日常の範囲の話なのに、誰にでも勧められる本ではないですね。
でも彼女の新作が出たら、わたしは絶対また読むだろうな。

「猫社会学、はじめます」

2024-12-11 | 本とか
副題に「どうして猫は私たちにとって特別な存在となったのか?」
猫社会学とは数年前に編者の赤川学さんが立ち上げたものだそうです。そうなの?
でもそれっぽいものはあったかもしれませんね。猫好きの社会学者は結構多いだろうし。
その赤川さんが飼い猫を亡くし、ペットロスで苦しんだ後、新たに3匹の猫を引き取る中で
「猫と人とのさまざまな関係を言語化するための理論や方法」がほとんどない状態を
なんとかしたいと思うようになったのが、猫社会学を立ち上げる発端だったとのこと。

赤川さんを含む5人の研究者が各一章と、最後に赤川さんと斎藤環さんとの対談です。
「猫はなぜ可愛いのか?」と題された第1章は調査の方法と結果が書かれているけど
それによって整理されはしても、猫飼いにとって新しいことは特にない章です。
他には猫カフェの歴史や文化としての猫カフェ、猫島について、猫から見たサザエさん、
猫とのコミュニケーション、などについて書かれていて、
最後の対談では、猫が教えてくれた「ただ。いるだけ」の価値について語られています。

目から鱗が落ちるようなことはなかったし、内容的にはほぼ想定の範囲内だなぁと思ったけど
なにしろ猫のことなので、楽しく読みました。
以下、気になったところを少しずつ引用。

>「純粋な関係性」の極地は、猫と人間の関係にこそ存在するのではないか
>子どもは、親や周囲の人たちから愛されるために産まれてくる。それ以外に、産まれる理由は必要ない
(編者の赤川さんの第1章)

猫カフェについての第2章(新島典子)では、犬と猫の入手先の違いが書かれていて
犬の1位はペットショップで50%超、猫の1位は野良猫を拾ったで約32%、人にもらったのが約26%。
おお。確かに野良犬がほとんど見られなくなった今、この結果は当然だろうけど
このことからだけでも色々考えることができますね。興味深い。
そして犬の場合はペットショップで見て飼いたくなった人が多いのに対し
猫は拾ったから、迷い込んできたから、というのがトップだそうです。
犬も好きだけどやっぱり猫好きのわたしとしては、この運命を感じる偶然の出会いが
ペットショップに見に行って犬を選ぶという出会いより、より尊い気がしてしまう。笑
また日本の動物カフェの歴史は江戸時代からのようだけど、世界初の猫カフェは
1998年の台湾だったとのこと。
日本初の猫カフェは2004年の大阪で、ほんの20年前かぁ。

第3章の猫島について(柄本三代子)では
>「猫はかわいい」と思うことは、けっして自明なことではなく、社会的な環境によって形成されたものであり(中略)学習の結果として形作られたものです。
すでに猫原理主義になっているわたしには、いやいや自明のことでしょう!と反論したいけど
確かに猫嫌いの人や猫より犬の方がずっとかわいいという人も多いか。

第5章の猫と人間の相互理解(出口剛司)についてでは
>同じ言語を話す人間どうしでも、相手の頭の中を覗くことはできません。ですから、同じことを考えているのかどうかを確かめることなど、本当は不可能なのです。にもかかわらず、私たちはなぜか、そのことにこだわってしまう。でも、私たちがコミュニケーションをしている、わかり合えているという状態は、同じ方向を見ているということなのです。同じことを考えていなくても、同じ方向を見ているということが、コミュニケーションを可能にする。そのことを、私たちは猫によってきづかされるのです。

第6章の対談での斎藤環さん
>私は猫が真の自発性のモデルだと思っているんです。たとえば猫は人が与えたものは絶対受け入れない。高価な猫用のクッションを買ってあげても、絶対そこには座らず、自分で見つけたダンボールにしか入らなかったり。寒い冬の日にベッドに招き入れ用と布団を持ち上げても、そこからは入ってこないで足元からもぐってくる。そういった、自分で見つけたものにしか価値を置かないという強靭さや、「私が選ぶ」ということを強く主張し続ける部分は、人間にとっても非常に学ぶところが大きい。

悲嘆夢、という言葉が対談で赤川さんが死んだ猫のことを話している場面で出てきた。
それは故人が出てくる夢のことで、
>「繋ぐ機能」と「切る機能」があるといわれていて、喪失感の総まとめじゃないですけど、その象徴としての悲嘆夢があると。

そういう言葉や研究があるのは知らなかったなぁ。死んだ人が出てくる夢のことだけど
死んでないけどもう会えない人が出てくる夢は、悲嘆夢ではないのかな?

「スプーンはスープの夢を見る」

2024-11-25 | 本とか
スープのレシピ本を10冊、いや20冊くらい持ってると思う。
実際のスープも好きだけど、それよりなんだか概念としてのスープが好きなのです。
童話や昔話で好きなものはアンデルセンの人魚姫が一番で、これは悲しい愛の話だけど、
心温まる話も好きで、「石のスープ」の話は子供の頃から大好き。
ポルトガルの民話が元なのかな、いろんな話にアレンジされてるかもしれないけど
旅人が水の中に魔法の?石を入れておいしいスープを作るという。
鍋を沸かしながら、玉ねぎがあればもっとおいしくなるんだけどなと言うと、
それならと誰かが玉ねぎをくれる。
じゃがいもが、にんじんが、肉が、塩が、と次々にいろんなものを入れたら
鍋いっぱいの美味しいスープができて、みんなで美味しく食べる、というお話。

最初は協力的ではなかった人たちも、少しずつ自分の持ってるものを持ち寄って
みんなで分け合える素敵なものになるという暖かいお話で、
このお話の影響もあってスープという暖かいものが、さらにほくほくと優しいものになる。

(今、改めて考えると旅人は嘘つきであって、村人を欺いて好意や好奇心を利用したのよね。
結果的にはみんなハッピーになったけど、やり方には嘘があった。
わたしは基本的にポリコレの側に立つけど、誰も傷つけない善意の嘘は、まあいいじゃないかと思う。
それを細かく糾弾する「正しさ原理主義」みたいなものが、余裕がなくなってくると増えるのよね。
それは嫌だなぁと、この話のことを考えると思ったりする)

そういうわけで「スープ」という概念に弱いので、こういうアンソロジーにも弱い。
タイトルがいいなと思ったらクラフト・エヴィング商会の吉田篤弘さんが作ったそうです。さすが。
いろんな分野の人が書いたものを61編集めてるので、一つ一つは短くて読みやすく
秋の始め頃からお風呂で読みました。
嫌なことがあった時も(アメリカの大統領選や、兵庫の知事選!)お風呂でこれを読んで
気持ちを緩めることができた。

長田弘の「ユッケジャンの食べ方」という詩
悲しい時には熱いスープを作る。
(中略)
スープには無駄がない。
生活には隙間がない。
「悲しい」なんて言葉は信じないんだ。
悲しい時には額に汗して
黙って涙を流しながら
きりっと辛いスープを深い丼ですする。
チョッタ!芯から身体があたたまってくる。


高山なおみ
部屋に湯気があるというのは良いものである。

江國香織
夫の寛容。
これはもう我が家のキーポイントだ。それなしではにっちもさっちもいかない。
でも、私は都合よく思うのだけれど、寛容などというものは夫婦の一方が持っていればいいのではないかしら。両方が持っていたらかえって困るかもしれない。
(中略)
片方が寛容を備えているのなら、もう一方は情熱を備えていなくては、というのが私の主張。


星野道夫
私たちがいきてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受け止めなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。そしてその悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのである。

岸本佐知子
エノキダケ。エノキダケはうまい。まずあの色と造形だけで優勝だ。石づきの近くのところを「しゃくっ」と切るときの、あのえも言われぬ快感。それをさらに手でこまかく裂くときの喜び。噛むときの、あのたくさんの鈴が同時に鳴るみたいな歯応え。(後略)
ナメコがうまい。なぜぬめろうと思ったのか。その斬新な思いつきはどこから出てきたのか。もはや天才だ。

なぜぬめろうと思ったのか、と考える岸本さんも天才だわ。笑

林芙美子
シベリヤの寒気は、何か情熱的ではあります。列車が停まるたび、片栗粉のやうにギシギシ下雪を踏んで、ぶらぶら歩くのですが、皆毛皮裏の外套を着込んで、足にはラシャ地で製った長靴をはいてゐます。

斉須政雄
梅干しに耳があるなら、僕は話しかける。
「梅干しさん、いいかい、待っていろよ。我慢していろよ。僕がきっと上等にしてあげるからね(中略)さあ、胸を張って出てお行き。とてもよく考えて作ったから、君に嘘はないよ。上等そうに見せているのではない。本当に上等なのだから、自信をもってお客さんの席に行きなさい」

わたしも木に耳があるなら、と書いたことはあるけど、
梅干しに耳があるなら、って、なんかすごいな。

山本精一
それにしても昆布はエライ。奥が深い。一体昆布で出汁を取るということを誰が始めたのだろう。
これはわたしも常々思ってる。何にでも昆布使う関西人として。

ウィリアム・アドルファス

2024-11-14 | 本とか
赤毛のアンのシリーズは、アンの成長の見られる1〜3巻が好きだけど、
アンの話ではなく、アヴォンリーやその周辺の人々を描いた他の巻も、
おやつみたいにちょこっと読むのにいい。
牧歌的な世界はすっかりすっぽり気持ちが安らぐ。
アンだけでなくアンの子供たちや村の多くの人々の小さなエピソードも
「赤毛のアン」から10巻にわたって書かれているのだから、
これはもうアヴォンリー・サーガと呼んでいいのでは、と思う。
この時代の古い価値観の古風で牧歌的な日常の話なんだけど
人々はやや類型化されてはいてもそれ以上にイキイキと描かれ
美しい村や町の木や花や自然の描写もとても楽しく、引き込まれながら読んでいる。

この前の休みの朝に猫に起こされて、ベッドの中でぼんやりした頭のまま
枕元のKindleを手に取って読んだのは男嫌いの中年女性の話。
勝ち気で、男なんてろくでもない、必ず騒ぎを起こす生き物だと決めつけて避けて生きてきて
そのお陰で良い人生になったと思ってる。問題が起こってもなんでも自分で対処できるし、
女性がみな「オールドミス」にだけはなりたくないと思っている時代に、
人目を気にせずはっきりとものを言う性格の、とても自立した強い女性。
日曜学校で男の子たちを教えることになりビシバシとしつけるけど、来ない子が1人いて、
ある日その子が仕事してる家に話をしに訪ねていくことに。
(この時代10代の子供もどこかの農場に預けられて働いたりしてました)
 
主人公は5匹いる猫のうち一番お気に入りの気高い猫ウィリアム・アドルファスをお供に
馬車に乗っていきます。
彼女の横に座るのにウィリアム・アドルファスほどふさわしい相手はいない。
さて、通学してこないその子供が働いてたのは、
有名な女嫌いの中年独身男とその犬の住んでいる家。
(もうここでベタにロマンスの匂いはしてきて、話の先もまあわかるんだけど)
その男は、街で天然痘の出た店で食事をしてたせいで隔離されてたのに、
それを知らない主人公が家に入り込んでしまったので、
彼女と猫も一緒に隔離されることになるのです。

2人ともたいそうな皮肉屋なので無愛想で辛辣な言葉の応酬をしながらも、
汚い家の我慢できない主人公は猛然と家をきれいにして、美味しいご飯を毎日作る。
男は反発し、時に怒りながらも仕方なく受け入れていき、そうしてるうちに1、2週間が過ぎ、
(その間に当初毛嫌いしていたお互いの猫や犬にも慣れていく)
隔離期間が終わって主人公は家に帰る。

主人公、家に帰るとなんだか気が抜ける。つまらない。そしてある日男が来て、
もうがまんできん、いつ結婚してうちに来てくれるのかね、と言い・・・
とあらすじを書くと、100年前の話でもあり古臭く陳腐で紋切り型でありきたりなようで、
たしかにそうかもしれないけど、読んだ後に声を出してハハハと笑って愉快になり、
1日をなんとも温かい気持ちでスタートできるのですよ。なんだろうこの魅力は。
今と比べてうんと堅苦しい宗教的なモラルの時代で、男女の役割は固定され、
(特に女性には)自由がなく、閉鎖的なところもないとはいえない人々の話だけど、
そんな中でも優しく善良でユーモアを解し、夢と情熱と想像力、
そして愛のある人が出てくるからかな。

主人公はアヴォンリーの人で、日曜学校で教えるのに男の子のクラスを選んだのは、
女の子のクラスには「生きた疑問符」のようなアン・シャーリーという子がいたからで、
その子を嫌いではないけど面倒を避けたのだというようなところがあって、
赤毛のアンを読んできた人は皆クスッとする箇所でしたね。

そしてこの猫のウィリアム・アドルファスという名前がいい。立派な猫なんだろうな。
うちのクロちゃんには、野良の三毛猫らしくクロちゃんという名前が似合ってるけどね(?)
(本名はクロシェです)