sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

モランディ展

2016-01-31 | 芸術、とか
舟橋桂の個展に行った時に、無料券をもらったので行ってきました。
無料券なくても、行ったけど、ジョルジョ・モランディ。

モランディは、生きているうちに名声を手に入れた成功した画家でしたが、
ほとんど旅行もせず、結婚もせず妹たちに世話をしてもらいながら
ひとところにずっと住み続けた人でした。
かといって特に頑固で気難しいというようなこともなさそうで、
真面目で物静かな人だったのかなぁ。
ずいぶん背の高い人だったようです。

画集を1冊だけ持っています。好きな画家です。
同じモチーフを使って繰り返し描く画家で、
ほぼ同じ絵を描くときもあるし、少しだけ変えているときもあるし、
ひとつひとつの絵をはっきり判別するには
よっぽどじっくり、何度も見ないといけないですね。
でも大体の人はそこまでしなくても
なんとなくもモランディが好きなんだと思う。
だって、本当に気持ちの落ち着く、静かないい絵だもん。
わたしはモランディの静物画を見ると、こういう絵は日本画の絵の具でやると、
とてもいい作品ができそうだなぁと思います。
シンプルな構成で、落ち着いた色彩で、過剰なものがなにもなく、
でも穏やかで趣味がいいだけのインテリア絵画とは違う絵にしたい、
それは、日本画の絵の具を丁寧に重ねることで近づくんじゃないだろうか。

全く別の種類の絵で、ジョージア・オキーフの花の絵にも似たことを思った。
似たことというか、反対のことだけど似たこと。
あの、したたるような妖艶さを、日本画の絵の具を使うことで
ちょっとしめやかに、居住まいをただした別のいいものに
できないだろうか、と。

こういうようなことを考えると、真似はよくない、個性が、自分らしさが、
オリジナリティが、など、あれこれ言う声が聞こえる気がするけど、
もうね、そういうの個人的にはどうでもいいの。
どうでもいいと考えることにしたの。
コピーがダメなのは、コピーだからではなく、
オリジナルより良くないからで、
商売するわけでなければ、コピーだからというだけの理由で
ダメだと決めつけるのって、それこそ思考停止なんじゃないかと。

絵のクラスをしているときに、わたしは子供たちに模写させるのが好きでした。
オリジナルとは全く別のものができちゃうんだけど、
高学年でうまい子だと、かなりオリジナルに似てくる。
でもどっちも、それぞれいいのよ。
真面目によくよく見て模写しても滲み出る個性が面白いし、
その個性を押し込めるほど一生懸命真似した作品は
それはそれで丁寧で味がある。
わたしにとっては、オリジナルかどうかより、
好きか嫌いかの方が優先される価値観なのだと思います。
だから、いつかまた日本画の絵の具を使う時が来たら
モランディみたいな絵や、オキーフみたいな絵を描いてみるかもしれません。


ちなみに、モランディ見たのは1月の初めで、
この後、友達の店で初飲み、初おごられ、初酔っ払いをしました。
お正月なので、いつもより良いお酒ばかり飲んでやった。笑
 

映画:殺されたミンジュ

2016-01-30 | 映画


覚悟してたけど疲れた。しばらくは気楽な映画しか見たくない。笑
半分くらい、画面を手で覆って隙間から見ながら、
背中も肩もバリバリに緊張して見たので、
ビールやワインではなく、ウィスキーか何かが必要な疲れです(^_^;)

一言で説明すると、拷問映画と言っていいかも。
暴力シーンのエグさで言えば、彼の他の映画の方がエグい感じはするんですけど、
キム・ギドク見るの久しぶりで免疫が切れてたので疲れました・・・。
(前作「メビウス」はこわくてまだ見てない・・・笑)
エグい暴力描写はとても苦手なので見たくないし疲れるんだけど、
見ると彼の表現の強度みたいなものにさすがだなぁと、度肝を抜かれるので
かなり頑張って気合入れて見に行きました。
怖いものや不快なもの苦手なものでも、普段意識していない部分の気持ちを
激しく揺さぶられるようなものは、結局見に行ってしまう。

ある夜、ミンジュという名の女子高生が男たちに捕まえられ、殺されます。
ミンジュというのは韓国語で民主というのと同じ音なので、
殺された民主主義という意味にも取れるようになっています。
1年後、実行犯の男たちからそれを命じた者たちまで順番にどんどん拉致され、
拷問の末に自白を書いたあと解放されるということが起こります。
だんだん偉い人が出てくるけど、誰も女子高生殺しの犯行の理由は知らず、
言われたことをしただけだと言います。
実行犯には罪悪感に苛まれていた人もいるけど、
将軍とか、もっと偉い人になると、どんどんふてぶてしくなり
良心の呵責も無くなっていきます。
女子高生を殺すことも上の命令であり、それは国のため世の中のためであるはずで
何も間違っていない、正しいことなのだと信念を語ったりする。

一方、この女子高生殺しの犯人たちを拉致し拷問するグループの正体も
少しずつ明かされていきます。
国家権力や諜報組織ではなく、過激派でもなく
いうなれば世直し必殺仕事人的な存在?
でも、そこに参加する人々の動機も様々で、
社会やその支配構造の中で虐げられた鬱憤のある人たちという共通点があるだけです。
そしてこの彼らのしていることをテロと呼ぶシーンも出てきます。

とりあえず、それぞれが何かを象徴していると考えられるので、
殺されたのは民主主義や自由や人権、無力な個人など、
殺したのは官僚や政府や独裁者やそれらの混合したシステムのようなもの、
それを暴き正そうと拷問するグループは
社会の不平等と不条理に不満を持つテロリストたち、
という構図なのかなと真ん中へんくらいまで思いながら見ていました。
テロリストの中で内ゲバ的なことが起こり、
テロリストの中でボスが独裁的になり、暴力で味方を脅したり縛ったりする。
テロリストのメンバーは政治的理想があるものだけではなく、
単に個人的鬱憤ばらしがしたいだけの者もいて、
そういう者を集めて訓練させ拷問部隊にしたてあげる・・・。
実際に世の中で起こっていること、そのままですね。

キム・ギドクは、いつも、どこかむき出しで、案外稚拙というか、
マンガっぽい単純なところがあると思います。
この映画も、語られないことにこだわらずに、距離をとって見ればわかりやすい。
上記したような構図がわかれば、難しい映画ではないのです。
でもまた、そういう構図で見るのはわかりやすいけど、単純化しすぎかな、
と思って、途中からはそういう構図に全部当てはめて見ることはやめました。
キム・ギドクの映画は、そういうむき出しの単純さを見てとり、
したり顔で割り切ってしまうものではないからです。
彼の映画には独特の図太い強さがある。
勢いと強度と激しさで突き進む。
エロもグロもバイオレンスも、表現の手段として存分に使われていますが、
それもどれも、この「強さ」の道具でしかないように思います。

この映画には、ひとり八役の俳優さんがいるんだけど、それを知らずに見に行って、
2人目の役が出てきた時、同じカフェで前とは別の女性と一緒のシーンだったので
同じ人が年月を経てこうなったの?純真そうな子と付き合ってたのが、
別れてはすっぱな女と付き合うようになったの?傷が消えてるから何年かたったの?と
時系列を思い違いしたり、
3人目の役が出てきた時もまだわからず、
また似た顔だなぁ、いや、イケメン俳優の見分けがつかないわたしの老化現象?
と思ったりして、けっこう混乱しました。
4人目くらいで、あれれ?これって、もしかしてひとり何役という趣向?
って気づいて少し落ち着いたけど・・・。
それで、その同じ人の役は、あるグループのメンバーを、それぞれの生活の中で
いたぶったり暴力振るったりする人たちの役だったので、
そういう抑圧支配する側を一人の俳優に象徴させてるのかと思ったら
全然違うタイプの役もまた出てきて、さらに少し混乱。
単純に一人複数役、と考えると、やっとすっきりしました。笑

そして、それがすっきりする頃には、冒頭で女子高生が殺された理由も、
最後まで明らかにはされないのだなきっと、と思うようになり、
それは一体なんなんだろうと複雑な深読みをすることもなく
もやもやしたはっきりさせたい気持ちもなく、なんだか納得していました。
あえて描かない、あるいはどうとってもいいように観客に委ねるために描かない、
あるいは何かを象徴する形で示しているので明示しない、など
描かれない理由にもいくつかの取り方がありますね。
まあ、わたしは描かれないものは描かれないまま放っておく派ですけど。
それぞれなりの答えを見つけて、安心するのではなく
答えのない状態を、そのままにしておくのに、慣れてきたのだと思います。
大人になったということかな。笑
でも、ラストはいろいろ考えさせます。虚無的でやるせない。

主演俳優も、八役やった俳優も、他も役者はみんなすばらしいですが、
(いやぁ、うまいわみんな・・・)
グループの中にひとりだけいる女性が、私生活でDVを受けるシーン、
あのシーンの女優の演技はすごかったなぁ。

続:不機嫌

2016-01-29 | Weblog
いわゆる→不機嫌な人について先日書きましたが
今日は自分自身の不機嫌のこと。

人前で不機嫌になることはまずないですが、ニコニコしながら、
自分の中に不機嫌が渦巻いていることは、たまにあります。
そういう不機嫌を持て余してしんどい時、
不機嫌隠すのも、人に不機嫌な顔見せるのもストレスだけど、
わたしは約束のドタキャンができない性格だし、
不機嫌を撒き散らせない性格だし、
ささくれ立った気分のまま仕方なく人に会って、にこにこして過ごして、
帰ってから疲れて夜中に発熱したりする。

あるときは、不機嫌を顔にださないことに疲れすぎていて、
いっそ正直に不機嫌を表明したら楽になるかと、
わたくし本日は不機嫌なんです、と言ってみたけど、
なんで?と聞かれたり(なんとなく説明したくなかったりする)、
却ってやさしくされて余計申し訳なくて疲れたりで、表明しても楽にならなかった。

理由はなに?不機嫌には理由があるでしょ?と言われるど、
はっきり言える理由のない不機嫌もあるよね。
自分のダメさに自分で怒っていたことの八つ当たりだったかなと思うこともある。
不機嫌というか、単に気分が沈んで憂鬱で、
何もかも面倒になって何もできないしやりたくないだけで、
別に自分以外の何かに怒ってるわけでは決してないときももある。
よく考えたら理由は見つかるけど、それ、見つかっても誰も得しないと思うので、
そのまま見つけないことにする、って時もある。
まあとにかく不機嫌な時はには誰にも会わない方がいい。
こちらはやさしくされても余計しんどいし、
相手にとっては全く理不尽だろうしね。
いや、相手が理不尽に思うほど不機嫌を顔には出しませんんが、
だから結局ますます自分が疲れる。

本当にしんどいときは人の親切も優しさも、痛いんだよねぇ。
誰かに甘えて癒されたいとか思ってるうちはマシな状態で、
もっとひどいと、もうとにかく本当に、そっとしといてほしいだけになる。
肌が荒れてるときに、
どんなにマイルドで効果のある敏感肌用化粧水でも沁みて痛いのと同じ。
優しささえ、刺激でしかない。
自分が自分の手に負えない不機嫌な時は、
仮病使っても誰にも会わないほうがいいのかなと思った。

玄米のびっくり炊き

2016-01-28 | お弁当や食べ物
お料理に関して、こういう小さい比較実験が、自分はかなり好きなようです。
過去のブログ読んでも、クスクスの食べ方、フライパンご飯の炊き方、
タジン鍋、おこわ、など、いろいろと疑問に思うことをあれこれ
考えたり調べたり作ったりしてきてるけど、今回は玄米。

玄米を炊くときは、普通に炊ける発芽玄米を使ってたんだけど、
高い玄米をいただいたので、びっくり炊きという炊き方で炊いてみることに。
普通必要な長時間の浸水がいらない炊き方です。
うまくできるのか。わくわく(こういうの試すのが、好きなんですね)

最近の炊飯器は玄米炊きモードがあったりするけど、
それでも玄米は長時間浸水させて、そのモードや圧力鍋で炊くようですが
びっくり炊きは思い立ってすぐに炊けるらしい。
うちには炊飯器はないのでいつも通りフィスラーの重たいお鍋で炊きます。

いろいろぐぐってみたところ、秋田県で江戸時代から伝えられてきた炊き方、
と書かれているけど、ほんとかな?まあいいや。
いろいろなサイトを見ると、水の量が、多少まちまちではあるけど、
要は途中で差し水をして、もう一度炊くということですね。

玄米を軽く洗ってゴミやホコリを流す。
精米してないので、糠が出ず水は透明なままです。軽く洗うだけでいい。
浸水時間はいらないとも書かれてるけど30分くらいだけ漬けておきました。
それから水気を切った玄米と水を鍋に入れて炊きます。
水の量が、精米してある普通の白米は、お米の1.2倍くらいが標準ですが
玄米の場合はもっと多め、1.2~1.8倍と、サイトによって違いが。
間をとって1.5倍くらいでやってみました。

白米だと、吹きこぼれるまでやや強火、そのあと弱火15分くいらいですが
玄米もほぼ同じ炊き方でいいようで、その通りに。
水が多いためか15分経ってもまだ焦げ始める気配がない。
(焦げ始めるとパチパチ言うのでわかります。)
結局20分くらい炊いたでしょうか、そこでびっくり水を入れるのです。
冷たい水を玄米の0.8~1.2倍(これはどのサイトでも同じ量だった)
一気に入れて全体をかきまぜます。
それからまた蓋をして、沸騰したら(鍋が分厚いのですぐ沸騰します)
弱火でさらに15分前後。
お焦げが欲しければ、パチパチ音がし出してから30秒くらい強火かな。
火を止めて10分くらい蒸らして出来上がり。

結果は、うまく行きました。おいしかった。浸水時間ゼロなのに
十分柔らかくもちもちしながら玄米らしいプチプチ感もあっておいしい。
いつもの発芽玄米ともまた少し違う食感ですね。
一食分多べた残りは一食分ずつ冷凍したけど
後日チンして食べたら、変わらずおいしくいただけました。
もう少しだけ水を多めにしてもいいかな。
ただ水の量が多いせいか盛大に吹きこぼれて、
シンクを掃除するのがちょっと面倒でした。笑
今度は普通に玄米炊く時の、何時間も浸水させてから炊くオーソドックスな方法と、
同じ米で比べてみようかと思います。

息子がいた時は、息子が玄米をあまり好きじゃなかったし、そのあと、
2、3年前貧血がひどかった時は、玄米はあまり良くないと言われたけど
今は貧血も良くなったし、玄米の味が好きなので時々炊こうと思います。
でも真っ白なご飯も大好きだし、もち米のおこわも好きだし
それぞれおいしくいただきます。
ああ、お米っておいしい。

いくつかのサイトを見た中で、水量を変えて2度試した比べていたここが
参考になった気がする。
このひとは土鍋だけど、まあどんな鍋でも炊けると思います。
洗ってすぐに炊ける玄米の”びっくり炊き”に挑戦してみた

映画:FOUJITAと小栗監督トーク

2016-01-27 | 映画


予告編見て、なんか薄っぺらな映画なんじゃないかと、見ないつもりでいたら
近くの映画館で小栗康平監督のトークがあるというので聴きに行きました。
そして、そのあと映画も続けてみたのですが、
トークも映画も面白かったです。見てよかった。
予告編では、この映画の良さは出てないなぁと思いました。

小栗監督は、もう70代だと思うのですが滅法頭の切れる方ですね。
訥々と落ち着いた話し方ながら、とても整理されて筋道立っていて、
自然で余裕のある語りをなさいます。
映画のカット数の話から(「FOUJITA」は結構長回しの多い映画)、
画角とワンショットの長さとの関係、といったところから始まって、
1時間ほどの間に、いくつも興味深い話をされました。
最後のお客さんからの質問の時に、
映画の中に出てくるクリュニー美術館のタペストリーを
藤田が見るシーンは史実に基づくのか?と聞かれて、
いえ、そういう記録はないんですけど、だってあれ美しいでしょ?
本当に美しいんですよね~。だから。と答えてらした口調が
しみじみとしてよかった。
またラストに説明がなさすぎて、知識がない者にはわからないんじゃないか?
という質問には、藤田のその後を見事に簡潔な数行の説明で述べてから、
~という字幕を最後に流せば、そのことはわかるでしょうけど
わかっても、だからなに・・・?
っていうことですよ、と答えられた。そうだなぁ。

さて映画ですが、藤田嗣治がパリで時代の寵児としてもてはやされた20年代と
日本で戦争に協力して戦争絵画を描いていた時期とが描かれます。
パリでも、パーティーに明け暮れた破天荒な日々ばかりではなく、
日本人の画家を連れて、ここで君らは勝てるのか?と話したり、
考え深く複雑でやや変わり者の性格に描かれています。
日本では日本人の妻(中谷美紀がちょっと怖いメイクでやってますが
それはそれで、なんともいえない雪女みたいな美しさがあります)と
田舎に疎開して、田舎の名士的に大事にされながら
戦争絵画を描き、戦争絵画展を開き、何かの名誉職についたりしている日々。
家のトタン屋根まで軍に提供しないといけない苦しい状況の中でも
結構いい着物を着て、芸術のことを考え、一目置かれ尊敬されています。
オダギリジョーは頑張っているけど、大きな動きが苦手な人なんですかねぇ?
あと、みんな、本物にそっくりっていうけど
あの髪型とあのメガネとあのヒゲにしたら割と誰でも藤田に似ると思うんだけど。

小栗監督は、細かいところでは何箇所か、
あちこちからお叱りを受けた、など笑って言いながら
でも映像には力を入れた自負心があるようで、
映画制作にはお金がかかるという話の中で
この映画の画面の重厚さや深みを出すには
あんまり低予算では無理なんです、これくらいはかかるんです、
だからしょっちゅうは作れないんです、と言ってただけあって
(とても寡作な監督です)映像は丁寧に作られてたと思います。
予告編はなんか安っぽい気もするけど実際はもっといいと思った。
ここに描かれるちょっと舞台じみた20年代のパリの喧騒と絢爛は、
ヘミングウェイの、パリは移動祝祭日だと言った言葉を思い出させるし、
前述したクリュニー美術館ののタペストリーもきれいで、
実物を以前→中之島の国立国際美術館で見たのを思い出しました。
モンマルトルの女王キキを演じた女優さんは、とっても豊満で、歌が上手くて
実物もこんな感じだったのかな。フランス女感ムンムンでした。

一方、日本の田舎では、幻想的なシーン、もやに包まれた景色が、
それはそれはきれいです。
そして最後の方に出るキツネのシーン・・・。
(以下ちょっとネタバレですが)

CGのキツネが跳び回るシーンがあって、これが
とってつけたようだとか、ぶち壊しだだとか批判されてるんですが
自分では気に入ってるんです!と監督は言いきってたけど、
わたしは少し不満かなぁ。
茶色いふっくらした大きなキツネではなく、
もう少し痩せた、真っ白いきつねならよかったのに、と。
思い出したのは去年の10月、大阪の難波宮で見た野外文楽のキツネでした。

文楽ですから黒子の人形遣いが操るのですが、
ちょっとユーモラスな動きを交えながらも怪しく素早く
右に左に跳び回る様をとても興味深く見たので、
あのキツネのイメージの方がずっとぴったりくるのに、と思ったのでした。
暗がりの中でぼうっと白く光るキツネなら、もっとよかったのになぁ。



藤田の絵についてはここでは説明しません。興味のある人は調べてください。
当時のパリで、日本的なところがあってユニークでありながら、
西洋にも受け入れられる美があり、これは売れただろうなぁと思います。
個人的には嫌いじゃないけど特に好きというわけではなかったのですが、
一度ちゃんとまとめてみてみようと思いました。

監督の話からもう一点。
映画の中で藤田の友達が高村光太郎の詩を朗読するところがあるのですが、
藤田はその青臭さ泥臭さが好きじゃなかったという感じがちょっと描かれています。
高村光太郎も戦争協力をして、戦志高揚の詩を書いていますが
敗戦後はその過ちを認めはっきりと謝ったそうで、
戦争協力しながら謝ることなどなく、フランスへ行っちゃった藤田が面白いと。
そんなみっともないことできるかい、という感じだったのかな?
実際の藤田は戦争が終わるまで日本は勝つと信じていたようなのですが
そういうダサい自分をなかったことにしたかったのでしょうか?
モラルからでも誠実さからでもなく、美意識から、
ダサい自分が許せない人だったのかなと、ちょっと勝手に想像しました。

映画:ディーン、君がいた瞬間(とき)

2016-01-26 | 映画


今年に入って中々映画館に行けなくて
やっといけたので調子に乗って3本見たうちの一本。
そういえば、去年の1本目も、アントン・コービン監督のだった。
「誰よりも狙われた男」

その数年前に、彼の写真家としてのドキュメンタリー映画も見たんだった。
「アントン・コービン」
中々かっこいいカメラマンさんなのよ。
彼はこれからも毎年映画作っていくつもりなのかな?
お正月1本目映画に決めちゃおうかな。

映像のトーンは、「誰よりも狙われた男」と似てるところがあります。
渋いスパイ映画と、甘く切ない?青春映画と、全く違う中身だけど
映像や色味は、似てるなぁと思いました。
撮影は別の人のようだけど、アントン・コービン・カラーかな。

ジェームズ・ディーンの役を、デイン・デハーンがしていて、
友達が溺愛してる俳優なんだけど、なんか今過渡期な感じがする。
若い時の細面で繊細な美少年ディカプリオががっしりとたくましい男に
なっていったように、数年前までは不安気な甘い美少年だったデハーンも、
ずいぶん丸い印象になっていました。こんな丸い顔になるとは。
エンドロールの時にも出てくるけど、ジェームズ・ディーンの写真は有名で
あちこちで何枚も何度も見てるから、そういうシーンがあると心の中の
ジェームズ・ディーンと比べちゃうんだけど、
シャープでどこか投げやりで尖ったところのあったジミーに比べて
デハーンは顔が丸くて可愛い感じになってて、なんかとっちゃん坊やっぽい。
(ごめん!デハーン好きの友達)
とはいえ演技は悪くないと思います。声やしゃべり方とか、すごくいい。

写真自体は、さすがアントン・コービンで見事に再生されてる。
それ見るだけでもなんだか楽しい映画です。
写真家の撮った写真家の映画、として楽しめました。

1955年のアメリカ。マグナム・フォトに所属する、野心溢れる写真家
デニス・ストックは無名の新人俳優ジェームズ・ディーンに惹かれ、
ライフ誌のフォトエッセイとして彼の日常の写真を撮ろうと、LAからNYへ、
そしてジェームズ・ディーンの故郷のインディアナに一緒に旅をすることに。

二人とも20代前半の若さ、野心も自信もあるけどまだ幼い。青春映画です。
カメラマンの方は、本当に若くて我の強い身勝手な野心家の目をする時があって
ちょっとホアキン・フェニックスなんか思い出します。

インディアナでの、田舎の信心深い穏やかな人たちの中に入った
まるっきり都会人のデニスの浮き方がいいですね。
田舎の高校のパーティに呼ばれていったり
家の食卓で詩を読むジミー、甥っ子と遊ぶジミー、
自由だけど浮ついてないジミーの素顔的なところも、とてもいいです。

あと、ワーナー社の社長を、ベン・キングズレーがやってるんだけど
なんか変な髪型をして、とても楽しそう。笑

もう一点、邦題ですが、
瞬間と書いて「とき」と読ませるのはもう、とほほセンスだと思うんですけど。

映画:禁じられた歌声

2016-01-25 | 映画


西アフリカ、マリ共和国の、世界遺産芋登録された古都ティンブクトゥ近くが舞台。
ある日イスラム過激派が乗り込んできて一帯を支配するようになり、
厳格なイスラム法により、娯楽や美術、スポーツや音楽も禁止される。
厳格なイスラム法というより、支配者たちの都合とわがままにより、という感じ。
たとえば、街で見かけたある少女を、ある兵士が娶りたいと少女の親に言う。
親が拒否すると、せっかく平和的に申し込んでやったのにと
力づくで少女を連れ去り妻にしてしまう。
親の訴えで、昔からある村のイスラム寺院の指導者が、兵士たちと話し合うけど
保護者の同意がないのにと責められると、
町の支配者は自分たちだから自分たちが保護者であり
従ってこの結婚は認められていてイスラム法的に何の問題もないと言い張る。
なんでもこの調子で、自分たちの都合だけで勝手な支配をして、
銃と暴力で人々を苦しめるのです。

と、まあ、そういう映画かと思ってドキュメンタリー見るように見ていたら
そういうテーマにあまり関係の無い物語がメインになってて、
ちょっと焦点がボケると言うか意味わかんない映画になってるかもしれない。
ドキュメンタリー風の、恐怖政治の支配とそこの人々に関する描写は、
ディテールもよく映像も美しく、それだけならいい映画だったんだけどなぁ。
特に川のシーンいくつか、超望遠で俯瞰で撮ったシーン、
息をのむ美しさでした。

(以下ちょっとネタバレあります)
物語は、町外れに住む少女と、その両親、そして牛飼いの少年。
牛飼いの少年は親が兵士で殺された孤児らしいんだけど
一緒に仲良く暮らしてます。
その少年が大事にしていた牛を、川で漁をする男に殺されてしまう。
でもそれ、殺したのはやりすぎだけど、この男もなんども警告してるんです。
牛たちを自分の網のところまで来させるな、網を壊すな、近寄るなと。
あらかじめ警告されていたのに、牛が暴走して網を壊し、
怒った男に殺される。
少年が子供だから仕方ない部分はあるけど、あれだけ警告されてたのに
暴走する前に、網の近くに行かないようになんで気をつけないのか。
なんでわざわざそこに、水飲ませに行くのか、その辺わからない。
少女の父親がそれを聞いて怒り、川の男のところに銃を持っていく。
もみ合ううちに銃が暴発して川の男を殺してしまう。。。

この父親、こそシーンの前までは本当にやさしく穏やかで
娘と家族を何より愛している頼もしい素敵なお父さんなんだけど、
ここから急に行動が幼稚で馬鹿っぽくなっていくので、愛想が尽きてしまった。
むしろ川の男の方が気の毒になりました・・・。

結局父親は支配者たちのイスラム法によって裁かれるのですが、
父親と漁師の決闘という、この一連の物語は、
過激派支配による抑圧された日常、というテーマに全然関係ないですよね。
テーマの悲劇と物語の悲劇に相関がないところが、なんかちぐはぐというか
変な感じで、一体どう見ればいいのかわからない。

「人間の『赦し』とは何かを描いた壮大な叙事詩」とあるけど
叙事詩と言っていいくらいの映像美の方はあるのですが、
赦しについて何か描かれていたか、そういう映画か?とういうとノー!です。
いい加減なコピー書くなぁ、ほんとに。見てないんじゃないの?と思う。
でも、物語を忘れて、テーマ(と思われること)と映像だけを見ると、
とてもいい映画なんですけどね。

丁寧に作られているディテールはどれもいいです。
音楽を愛する人々、指導者たちの中にもある心の揺らぎや弱さ、
奔放に自分を貫き笑うカラフルな装いの狂女。
でも予告にもあるエアサッカーのシーンは、きれいだしエモーション煽るけど
ちょっとやりすぎ、嘘っぽい作り事だよなぁと思ってしまった。
サッカーが禁じられてて、ボールなしでサッカーに興じ、
兵士たちが来ると知らん顔して柔軟体操してたりするんだけど、
ボールなしのエアサッカーってありえないでしょ。複数で。
みんなに一つの同じボールが見えてないと、ゲームとして無理だから。
ただ、シーンとしてはとてもきれいで盛り上がるり感動的なので
嘘っぽさをわかってても入れちゃったんだろうなぁ。
それともあえて、なのかもしれませんね。

スムージー

2016-01-24 | お弁当や食べ物
ひとつくらい体にいいことをしましょう、ということで、
先週くらいから朝、野菜飲みはじめました。
やってみるとおいしいし、案外めんどくさくなかったので、続けてみます。
ブルーベリーやラズベリーが入ると豪華な気分(^-^)

スムージーって、凍らせた果物とかのジュースと思ってたんだけど
今は、いわゆる野菜ジュースもスムージーと呼んでるようで
では、わたしの飲んでるものもスムージーなのでしょうか?

スムージーは、いろいろググると、ダイエットにはあれ入れちゃダメとか
これは入れなきゃとか、1日分作って何度も飲むとか
いろんなこと書いてあるけど、あまり気にしないで作ってます。
元々朝ごはんは食べたり食べなかったりなので
朝スムージーだけ飲むのは苦じゃない。
作るのも、いくらかまとめて切っておけばいいし
前日大体用意しとけばいいし、
いわゆるミキサー持ってないけど、いつもポタージュ作るハンドミキサー?で
十分できるとわかったし、結構楽しんで作ってます。

セロリは10センチくらいに切って、パプリカは4つくらいに切って
小松菜やホウレン草など緑黄色葉っぱ野菜はざくっと半分くらいに切って
パセリは洗ってバラして、冷蔵庫に入れておきます。
朝はそこから適当に摘んで、ざくざくっともう少し小さく切って、
あとはトマトとりんご、ヨーグルト少し、人参少しくらいかな。
水分は水のときも、グレープフルーツジュースやパインジュースの時も。
ジュース使うのは邪道でしょうが、少量だし気にしない。
全部で400cc分くらい作ります。
顔洗ったりお化粧したりしながらゆっくり飲む。
今のところ特に体調の変化は感じませんが
まあ悪いことはないと思うし野菜好きだしおいしいので
しばらく続けてみましょう。
(二日酔いの朝にもよさそう)
(10日くらい続けてますが、痩せはしてません。むしろ・・・笑)

港のへんとか

2016-01-22 | 写真
写真グループのワークショップで時々お世話になっている横木安良夫さんが
デジタル写真集をばりばりと出版しだしまして、
そのお話など聞きながら、何人かの写真の組み方を講評してもらうワークショップ。
ワークショップの後は、海辺から新開地のあたりまで
写真を撮りながらぶらぶらして、
それからKAVCでやってるKOBE☆HEARTの写真展。
この写真展行くのももう6年目かなぁ。
毎年、お世話になってる先生たちや友達が出展しています。

神戸の海の見える。某新聞社の会議室。景色がすごい。


それから写真撮ったり、途中でコロッケやホルモン焼きを買い食いしたり。






パーティは、知ってる人の合間を、写真を見ながら飲みながらゆらゆら歩いて
喋って笑っていつも楽しい。
毎年番号くじで、写真のプレゼントがもらえるんだけど
毎年行ってるのに一度も当たったことがない。
初参加で当たる人も、2年目で2年とも当たってる人もいるのに。
10年続けても、当たらない気がしてきた。笑

ワークショップの時の話は、また今度書きます。


灰色

2016-01-21 | Weblog
以前、友達がこの色は自分には似合わないから、というのを聞いて
自分に似合う色似合わない色ってあんまり考えたことなかったなと思った。
色は白い方で、顔も特に派手ではない(つもりな)ので
何着てもあんまり変わらない気がしてたんだけど、
ある時に、ある種のベージュと灰色は似合わない色だと気付いた。
ちょっと濃いめのベージュは、ものすごく老けて見えるし
中間くらいのグレーは地味な作業着にしか見えなくなる、わたしの顔には。

灰色に関しては、もっと明るい色や、チャコールグレーなどは大丈夫だけど
それでも特に似合う感じはしないのであまり灰色の服を買ったことがなかった。
買うなら黒か紺、でした。
それが、今気付いたら、冬の服が灰色だらけになってて、びっくり。

そういえば、少し前にペット屋さんで見かけた
ビロードのような毛並みのロシアンブルーの子猫が
あまりにきれいでかわいくて、飼えないかわりに
(ペット屋さんでの生体販売には反対の立場だし)
似た灰色のセーターを1枚買ってしまったのは覚えてるけど
いつのまに、こんなに灰色ばっかりに・・・?

なんだかもっときれいな色の服が着たいなぁ。