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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「短編画廊」

2019-11-30 | 本とか
エドワード・ホッパーの17枚の絵で17の短編というのはすごくいい企画と思うけど
表紙の無駄にデコラティブなタイトル文字デザインだけは、ちょっとやりすぎと思う。
アメリカ版のデザインはどんなかな。

紙も良くて印刷もいい気持ちのいい本です。
何度も絵を見ながら、それぞれの短編を読んで、改めてエドワード・ホッパーの絵が
ちょっとクラシックな現代アメリカの短編小説とものすごく馴染むことにも感心。
かなり楽しく読んだ。
毛色の違う話の集まったアンソロジーでも、ホッパーの絵が付かず離れずまとめてくれるし
若い頃はアメリカの短編は少し遠いよその世界で嫌いじゃないのに
自分とは距離があったけど、今読むとなんかすごく近くなってきたなぁとも思った。
世界が縮まったしわたしが広がったのかな。

ホッパーの絵がそうさせるのか、推理小説や探偵物っぽいのが多かったけど
一番好きだったのは、幻想的なお話。
部屋がどんどん増えるので実像がつかめない家に住む人と料理人、
ドアを開けると海の上という部屋、水陸両生で二度死ぬという古のバスク人の子孫。
海辺の部屋というホッパーの絵と見事に呼応していて、
その屋敷のことを映画でみたように思い浮かべることができました。

横尾忠則さんの書評。


ベッドで寝転んで毎日一編ずつくらい読みましたが
寝転んで、枕の上に本を乗せて読んでいるといつも猫が枕の横に来て
うとうとするのが、かわいくて、仕事が終わったらはやく帰って読むのが楽しみでした。

モテ

2019-11-29 | Weblog
モテない男友だちがモテたいモテたいといつも言うのを聞いて考える。
モテると言う時に、好きな人からだけモテたいと聞くことがあるけど、
それはモテではなく、単にその相手に好かれたいというだけのことでしょ?
いや、では、モテると好かれるの違いは何?
モテるはやっぱり複数からのニュアンスがあるよね。
あ、では好きな人が複数いればモテでいいのか?いや、やっぱりモテるは単複関係なく、
特定の相手から好かれるというより、不特定の人々を想定するものなんじゃないのかな?

漠然とモテたいなーという気持ちになることはわたしもあるけど、
よく考えると別に親しくなりたくもない人に好かれても、
困りこそすれうれしいことなど何もないわけで、
ではどういうモテをわたしは漠然として欲しがっているのかというと、うーん。
好かれたい層の人たちに好かれることなのかな?
ただ、層というものって、モテの先、その後に関しては、また意味がなくて、
自分が好きになるのはある「層」だから、というわけでは全然ないことが多いのよね。
十分モテてるとたまに人に言われると、いつも
本当にそうなのか?でも漠然としたモテたい感は満たされてないぞ?
モテてる気もしないぞ?モテって何?と思う。
大体、そういうことを考えたこともない人の方が、ちゃんと幸せな恋愛してるとは思う。

赤ずきんちゃん

2019-11-28 | 小さいもの
赤ずきんちゃんの靴みたいだな、と弟に言われた赤い靴。
少しヒールがあるので子どもは履かない靴だと思うけど、
確かにトウが丸くて浅くて赤ずきんちゃんっぽい。

でも無地のピンクのワンピース着てた時は、
林家パー子か、と言われたし
白いふんわりしたブラウスを着てた時は雪だるまか、と言われたし、
大体ひどいことを言われている。笑

映画:存在のない子供たち

2019-11-27 | 映画


トレーラーでは、子供が親を告訴する、自分を生んだ罪で、という過激なシーンが印象的で
そのせいで激しさばかり尖ったメッセージ優先映画かなと思ったけど、
冒頭数分の俯瞰の映像で、いやこれは良い映画だというのはわかった。ほんとに評判以上。
映画としての素晴らしさとメッセージの強さが両立しているのは(両立してないやつ多い)
見はじめてすぐにわかったんだけど、それにこれだけすごい中身があるのは中々ないのです。
ただ、話はひたすらつらい。眉間にシワの2時間です。
子どもが苦労する映画はしんどくて苦手で見たくないのよ、2時間つらい。
それでも見るべき素晴らしい映画。
全体的にドキュメンタリータッチながら、やや引きの目線で進むけど、
そうでもしないともっとつらくて見ていられないもんな。
とはいえラストはほのかな希望があります。みんな見て欲しい。
わずか12歳で、裁判を起こしたゼイン。訴えた相手は、自分の両親だ。裁判長から、「何の罪で?」と聞かれたゼインは、まっすぐ前を見つめて「僕を産んだ罪」と答えた。中東の貧民窟に生まれたゼインは、両親が出生届を出さなかったために、自分の誕生日も知らないし、法的には社会に存在すらしていない。学校へ通うこともなく、兄妹たちと路上で物を売るなど、朝から晩まで両親に劣悪な労働を強いられていた。唯一の支えだった大切な妹が11歳で強制結婚させられ、怒りと悲しみから家を飛び出したゼインを待っていたのは、さらに過酷な“現実”だった。果たしてゼインの未来は―。(公式サイトより)

映画も素晴らしいけどもう何よりもう!主人公の子役うますぎて惚れました。
少年時代のリバー・フェニックス君にあったキリリとした強さと孤独のある子。すごいわ。
そしてこの子だけでなくなんと登場人物のほとんどが映画と似たような境遇の素人なのです。
主人公に訴えられる両親役、子供を自分の持ち物のように扱い家畜のように利用するだけで
安心も愛情も与えない身勝手な親の役の人たちも、映画の中の彼らと同様
彼ら自身が過酷な境遇の被害者なのです。
教育どころか国籍・戸籍もなく、存在のない親たちなので、そこに一抹の同情の余地はある。
とはいえ、子供を道具のように売り飛ばし、死に至らしめる
映画の中の親たちは、許したくないけどね。

一つ一つのシーンやエピソードにあれこれ書きたいことの多い映画なんだけど
(いやもう、それはたくさんあるのよ、あらゆる登場人物やあらゆるシーンについて
いろいろ話がしたい!あの遊園地!あの親子!あの脇役!あの雑踏!あの叫び!)
それは置いといて、個人的な後日談を書きます。

良すぎる映画を見ると飲まずにいられないけど、その夜は真っ直ぐ帰って、
その分の飲み代くらいを世界の子どもの福祉と教育のためにどこかに寄付をしようと
募金先をググって探して、かなりいろいろ探してからやっと決めて、
翌日郵便局でわずかな額ですが振り込みました。シリア緊急募金というものでした。

そしてここに感想も書きかけのまま忘れていって2ヶ月も経った後、ついこの間
ユニセフから電話がかかってきたのです。
さらに募金のお願いとかの勧誘電話かな、やだな、めんどくさいなーと思いながら
話しはじめたんだけど、話してるうちに、なんかいい感じになってきて、
最後はとても充実した会話をした気分になった。
電話はやはり2ヶ月前にわたしが振り込んだ、このシリア緊急募金にについてで、まず
募金のお礼の後、どういう経緯だったのかおしえていただけますか?と聞かれた。

それは、「存在のない子供たち」というレバノン映画を見たからです。
あまりに強く心に響いたので、何かしないと自分の気持ちが落ち着かないという
自分のため、自己満足のためかもしれないけど、寄付や募金を探してたのです。
でも最近は以前より、マンスリータイプのの継続的な寄付形態が多くて、
いろいろ探したんだけど、単発で、手数料がかからず簡単にできて
信用できる寄付先がそちらしかなかったからです。
ネットでのクレジット決算の寄付は、大体必ず何かに登録して
メールアドレスや年齢や性別や余分な個人情報をあげないといけないのが嫌だし、
お礼や個人的な報告はいらないので匿名に近い形でできるものを探したのです。
そして、このような支援には継続性が必要なのはよくわかるし、
それでマンスリー形式のものが増えているのは理解できるのだけど、
世の中の全部の問題に関わることはできないので個人的に寄付する分野は決めていて、
それ以外は単発の無記名の募金をしたいだけなんです。自分勝手な個人的都合ですが。
お礼も何もいらないので匿名でしたかったのです。
そちらのシリア緊急募金は、郵便局で払い込むと手数料ゼロでできて
個人情報も名前住所電話番号だけですむし、
気まぐれな募金に合う数少ないものだったのです。
というようなことを考えながら思い出しながらなんとか全部話すと、
じっくり聞いてくれたユニセフの人は、
実は今回のお電話はマンスリータイプのものをお願いする電話だったのですが、
お気持ちやスタンスがとても良くわかったので、今回お勧めはいたしません。
お礼だけ申し上げます、と言われて、なんだか通じたかなという気持ちでうれしくなった。
頑張ってくださいと電話を切りました。

恵まれて余裕のある生活をしている人間が、気まぐれに
自分の気持ちを落ち着かせるためにするだけのことでも、お金はお金だし、
みんなもっと募金はするといいのにと思う。
日本国内の震災募金はもちろんとして、例えば映画を見て、本を読んで、ニュースを見て
心が動かされて何かできることがしたいと思ったら気楽に募金したらいい。
映画なら映画の感動の分だけ振り込むといいと思います。
あれもこれもはできないし、自分の生活や楽しみを優先したいし、、
でもそんな無責任で安全なところからたまに思い出すだけのお気楽な人間でも、
やらないよりはやったほうがいい。ほんの少しでも。

ただ、その一方で、過去に見たルワンダの写真展示で寄付を拒否してたものがあって、
寄付すると人はそれで気が済んで忘れてしまう、それをしないで
ずっとモヤモヤした気持ちを持ち帰って欲しい、と書かれてたのがあって、
→「ルワンダ ジェノサイドから生まれて」
その気持ちにもまた深く頷かずにいられないんだけど。。。

雑然としたテーブル

2019-11-25 | お弁当や食べ物
雑然としたテーブルの景色は好きなことが多くて、
→散らかった机の上のことを以前書いたことがあった。

そういえば、台所を新しくしてシンク横の調理スペースを白くしてから
そこの景色もなんだか好きです。
食器も調理器具も随分整理して少なくなったし、ボウル類もほとんど処分したので
一人分の料理は食事にも使う小皿や小鉢をボウルがわりに使います。
食器洗いは好きなので、使ってすぐ洗って拭いて、というのは全然苦にならない。
そして、味気ないボウルではなく普段の食器を調理中も使うと
その景色がまた、なんとも好きな感じなのです。

一人分の半合だけのお米や、ひとかけらのお肉、少しの野菜、
作りながら飲んでるワインや、お茶などが雑然ときゅうきゅうに並んでる景色。好き。

スロヴェニア料理

2019-11-24 | お弁当や食べ物
日本で唯一の?スロヴェニア料理の店に行ってきました。
友達が、若い頃は優しい味の洋食としか思ってなかったけど
大人になって行ったら、調和のとれた絶妙のスパイス使い出会ったことがわかって
とにかくおいしいというので、5にんでコースをお願いしました。
飲む人たちなので、デザートはいらないのでその分料理を増やしてとか
色々わがままを言いましたが、とにかくどれも本当に美味しかったのです。

食前酒は青い小さなグラスで、和食のお店でよくある梅酒的な甘いお酒だろうと
ごくりと飲んだら、ずいぶん強いお酒でびっくりした。喉が焼ける感じ。
エルダーフラワーで香りづけしたウォッカっぽいリキュール?おいしい。

胡椒の効いたクラッカーにイワシ。アルコール度の高い食前酒に合うわー。

パンは日替わりでこの日はライ麦パン。おいしい。

そしてスープですが、一見普通のミネストローネっぽい野菜スープに見えるけど
これのしみじみとした滋味!上にかけてあるサワークリームの酸味も良い。

前菜の盛り合わせ。野菜にとてもこだわりがあるようで、
スロヴェニア野菜を育ててたり京野菜と組み合わせたり、それぞれにまた
すごくさりげなくブレンドされた優しいスパイス使いが素晴らしい。滋味、また滋味!

白身魚をハムの上に置いてハーブと一緒にフィノ(薄いパイ生地)で包んだもの。
ブロッコリーをあえてあるソースは小松菜。

ケーキのようだけど甘くなく、でもケークサレとは全然違って
しっとりしたパンのような不思議な一皿。でもこれ最高に美味しかった。
中に挟まってたのはなんだったんだろう。野菜?お芋?
ザワークラウトもソーセージも最高。

お肉は鹿のステーキ。栗とキノコのソース。
ブラックカラントだったか、ベリーだったかのジャム添え。組み合わせが最高。
トップの写真は食事の最後にまだワインが少しあるのでもう一皿ということで
ハーブのきいたカッテージチーズを生ハムで巻いたものでした。

またスロヴェニアはワインもおいしいらしく3本開けてもらいました。
これはスロヴェニア固有品種のぶどうの白。輪郭のはっきりしたフルーティなワイン。

2本目の白はもう少しさっぱりしつつしっかりしたワイン。どの料理にも合う。

父と息子でやってるワイナリーの赤。すごく酸味が強くフルーティながらエレガントさも。


お店はとてもアットホームでかわいく、すごい料理が出てくる感じではないのですが。

シェフがスロヴェニアの方でサービスをしてくれるのが日本人のパートナー女性で
暖かい気持ちになれるお店。
京都のはずれの住宅地の中、ちょっと変な場所だけどまたいきたいです。



真面目にワインを飲む

2019-11-23 | お弁当や食べ物
わたし違いのわからん人間だなーと思う。
ここ一年弱、ワインもちゃんと飲もうと思ってアプリでマメに感想など書いてきたけど、
相変わらずわかんない。
白はこの夏かなり飲んだので、入門の入門、誰でも知ってる代表的ぶどうの感じは
少しだけわかったけど赤がさっぱり。元々赤飲みで赤ばっかり飲んでたのに。
正解がよくわからないから、なんでも美味しいままだわ。
この前友達がキムチの味の話をしてて、それも同じ。
正解がわかんないから、どれも美味しいように思う。
しあわせな味音痴ということでいいのか?

ワインはね、たまに何かで高いやつ飲むと、あーこれ高い味だなーとは思うのよ。
それが好きかどうかはまた別よね。
でも、安いのも高いのもそれとわかって楽しめたらいいなーと思うんだけど、
すぐに楽しくなっちゃってどうでも良くなるから難しい。。。(^_^;)

外で飲むことを考えたら、2、3千円のワインを時々家で開けてもいいと思うので
最近はその価格帯のワインを買うことも多いです。
アプリにアップしていろんな人のレビュー見て自分の感想も書いて
今年多分もう100本近くメモしたと思う。でもこんなにわかんない。
おいしきゃいいんだけど、なんでもよく知ればもっとおいしくなるから
まあコツコツ飲んでいきます。

一昨年の冬くらいはとにかく熱燗が飲みたくて
その前はホットワインやホットウィスキーが好きだったけど
結局ワインに戻ってきたかなぁと思う。
いえ、日本酒もウィスキーも飲んでますけど、
40代半ばまでワインが一番好きだったもんね。

この夏はスパークリングワインばかり飲んでたけど
冬はブルゴーニュ中心に真面目に飲んでみようと思っています。
違いのわからない舌は残念だけど、まだわからないことがあるというのも
楽しいことだしね。

ヘイトに遭遇したとき

2019-11-22 | Weblog
>飲み屋で男性客が
>「韓国崩壊おめでたいな」
>「キムチ野郎が」
>「慰安婦なんてただの売春婦」
>「嘘つきの国」
>とヘイトを繰り返していたため
>「そういうこと言っちゃダメです」と私が注意すると激昂し
>私に繰り返し罵詈雑言を吐き、
>ひとつ奥の席の男性も一緒になってヘイトを浴びせてきました。
というつぶやきを見かけて、どういう状況で、この人自身はどういう立場だったのか
わからないのだけど、もしも自分だったらと考えてしまう。
こういうのに遭遇した時わたしはどういう風にしたらいいんだろうといつも考えてる。

自分の店だったなら注意できる。お店やってたときにはそういう客に遭遇しなかったけど
そういうのがいたら注意できたと思う。それは自分のテリトリーでホームだからだ。
さすがに自分のホームでそんなヘイトは許せないし、ホームだから強気にもなれる。
でも知らない店でこういうのに出会ったら、ちゃんと注意できるだろうか。

飲み屋じゃないけどカフェなどでは何度かあって、
そういう差別発言をする人は離れたところに座ってたり、店の人だったりしたけど
どちらのときも、わたしはただ固まってじっとしてただけだった。
今まで遭遇したのは全部年配男性で、それも複数なので、
やっぱりこわくて何も言えなかった。
お店の人とお客さんの会話がヘイトだったときには、
もう二度とその店には行けないと思ったな。

どういう風にしたらよかったんだろうなぁ。誰か教えてください。



鍋物用ひとり鍋

2019-11-21 | 小さいもの
この秋、1合用の炊飯土鍋を買ったけど丸っこい鍋なので、いわゆる鍋物には向かない。
ある程度広さがないと鍋焼きうどんとかの具も載せにくい。
去年使ってた小さい一人鍋はヒビが入ってて捨てたし、
晩酌小鍋用の一人鍋を買わねばならない。
去年の鍋は確か500円くらいで買った気がする。
ごく普通のシンプルなデザインで5.5号という一人鍋にもぎりぎりの小ささはよかった。
でもラーメンとか煮るにも、少し大きさが足りなくてぎりぎりだし具をいれられなかった。
鍋焼きうどんどころかきつねうどんでもうどん半玉がちょうどくらい。ダイエットにはいい?

あれこれ考えて結局、去年より少し大きめのスタンダードザイズの6号のものを買った。
これで、普通の一人前鍋焼きうどんサイズかな。ラーメンでも具が入れられます。
5.5号は、ちょこっと湯豆腐とかには良かったんだけど煮込み麺類には小さすぎたし
鍋も本当にシンプルな小さいのしかできなかったけど、今年は鍋をいろいろ研究するつもり。

「わたしを空腹にしないほうがいい」

2019-11-20 | 本とか
あなたが書いたみたいな本と言われた本を、なんとたまたま偶然
その日にわたしも別の場所で買ってたので、
それを読むとほんとにその通りなので、なんかムカつく。
文体はぜんぜん違うし書いてる人は息子くらいの年なんですけど、中身が、
いちいちわたしが書いたのか!と思うような相似具合で、もう
2ページに一回くらい、わたしか!と思ってムカつく。笑

たとえばこれ。ビアガーデンの話。

文体を変えれば、まるっきりわたしの普段のブログである。
外で飲むお酒の至福、小さなベランダで無理やり立ち飲む満足、
乾杯と言いながらその言葉のPの音について考える。まるで自分だ。

そしてこれ。

美味しいものを作って食べながら、すっかり王になった気分だと、ここで
少し大げさな王と言う言葉が出てくるところ、やっぱりわたしだ。

「自分がどれだけ書くことと料理をすることに救われているのかわかっておどろく」
というこの人の文章が、自分と似るのは仕方ないことなのかもしれない。

ただこの人はまだとても若く、わたしが半世紀以上かかってやっと手に入れたものを
当たり前のように手にして生きていて、それにわたしは嫉妬するのだろう。
暖かな家族、友達、恋愛、希望や未来、失敗や挫折も含めて、自分の生活を、自分の人生を、
自分で進めることのできる自由。
自分の人生が大体自分のものになったとき、わたしはもう50歳だった。
親に軟禁されたり就職させてもらえなかったり結婚させられたりしなかった場合の、
のびのび育った異次元の自分か、これ、と思って、嫉妬するんだろうなぁ。


父のような人かもしれない

2019-11-19 | Weblog
おそらく想像もつかない苦労をして、ひどい差別の中を生き抜いてこられた
年配の男性について、尊敬を込めて書かれた友達の文章を見て想像する。
その人も、うちの父のような人だっかかもしれないなと。
それだけの苦労を耐え抜いて生きてきた一方で、その保守的な家族主義、女性蔑視で
家族を苦しめ痛めつけてきた人だったかもしれないな、と。

差別と戦う人の中にも、一方では別の差別を平然とできる人はたくさんいるということは、
何度も、何十回も言ってきたけど、
尊敬される立派な人も、実はそういう人かもしれないな、といつも思ってしまう。
父と同じだ。違うかもしれなくても必ず、考える、
ああ強権的な女性差別主義者かもしれないなと。つい、想像してしまう。

友達を含め男の人というのは、そういうことは多分考えないか思いつかないか忘れていて、
その苦労されてきただろう立派な年配男性の人生に素直に思いを馳せるのだろうけど、
そういう人のしたかもしれない家庭内での差別の可能性などについて
勝手な想像を思いを巡らせないということは、わたしにはできないのです。
常に、常にそれ思い出す。

なんの根拠もないので、もちろんそういう人ではないだろう。
家族を愛し愛される理解のある暖かい人なのかもしれない。
でも、もしかしたら?と間違っていてもつい考えずにいられない。わたしは。
そして男って気楽だよなと、意地悪な気持ちになって、
そしてとても悲しくなる。

というようなことを、その友達の投稿にコメントしかけたけど、
せっかくのいい話に、在日の年配の保守的な男なんて女性差別者だったかもなどと
根拠もなしに勝手に決めつける気もないし、そんな意地悪になりたいわけでもないの。
ただ常に、必ず、いつも、そう考えないではいられない自分が嫌なやつで、
そんな嫌なやつになってしまう自分がかわいそうだなと思うのです。
差別などと無縁に育てば、こんな嫌なやつにならずに済んだのになぁ。
差別ということでは、在日を差別する日本人より、女を差別する男というものの方が、
より許せないのだな、わたしは。
自分がどちらにより苦しんだかということで、比べられるものでもないんだけどね。

向田邦子「鮒」朗読

2019-11-18 | 芸術、とか
今まで聴いた朗読の中で一番良かった。
いや、プロの役者さんの朗読を生でちゃんと聴いたのが初めてだったかもしれない。
すごいなぁ。

食事をして、あるいはしながら朗読やダンスやお芝居を観るという企画で
狂言で稲垣足穂を読むというのを以前神戸で見てて、それがすごく良かったのですよ。
その時の感想→「狂言師の稲垣足穂」
それで今回は別のもの、と向田邦子の短編の朗読を選びました。
朗読される林英世さんは、以前朗読のワークショップで教わったこともあり
その時に、役者さんってすごいなぁと感動した方だったので安心して楽しめました。

お寿司屋さんでお寿司をいただきお酒をいただき、
それから二階にあがってお座敷に並べられた椅子で聴きます。
林さんはシックなお着物が素敵だった。お寿司屋さんの雰囲気にも合っていました。

向田邦子は何か読んだことがあると思うし、ドラマ化されてるものもあるし
向田邦子の料理本も持ってるし、なんとなく親しみはあるけどこの短編は記憶にない。
でも、これがまたすごくうまい小説で、小説のうまさを隅々まで伝えながら、
その世界に引きずり込む朗読のうまさに、いやはやすっかり舌を巻いた。
朗読自体は30分ちょっとなんだけど、ひとりの声だけで演じるというのは
聴いてる以上にすごく大変なことだろうな。
芝居以上にごまかしがきかないんじゃないかな、何しろ声だけに全てをこめるんだもんな。
ワークショップでもやればやるほど難しくなって声が出せなくなったわわたし。
いろんな声が出るけどどの声をどう選んでどのように出すか、選択の連続。
絵を描くときもそうだけど、絵は考えないでも自然に選んで自然に手順を見つけて描くけど
声でそれをするのに全く慣れていないので、本当に難しかった。
朗読、おもしろいなぁ。
そして少しお酒飲んだ後に1時間弱の短めの舞台を楽しむというのは
体力のないわたしには、大変ありがたい企画でした。

そのあと一緒にいた人と何軒かハシゴして初めての店にも行ったんだけど
初めて行く店に行くのって当たりハズレはあるけど楽しい。
月に1、2軒は初めての店にいってみたいものです。

うんちくおじさん

2019-11-17 | Weblog
市民講座的なとこでも通信の大学でも、およそ年配男性のいるところにはほぼ必ず
こういうおっさんおる!というおっさんが先日のとある講座にも、いた。
やはりというかまたかというか。
人の話を全く聞かず、自分の知識をひけらかしたいだけのために、
誰でも知ってることを得意そうに話して何度も授業を中断させる人。
さっき講師が言ったばかりのことを聞いてなくてすぐまた聞くとか、
たった今他の人が言った全く同じことを得意そうに言うとか、
順番に答えている途中で、ひとりで人の分までどんどん答えてしまって
教室がシーンとなっても全く気付かないくらい周りが見えてないとか、
気にしないくらい自分のことしか考えてないとか、
ほぼ関係ないエピソードを自慢のためだけに無理やり口を挟んで話し出すとか、
とにかく隙があれば自分の知識をひけらかしたい。大体浅〜い知識なんだけど。
講座の内容がよくても、この人がいるならもうやめようかなと思うレベル。

公平にいうと、わたしの経験上こういう女性も稀にはいました。
でもその10倍くらい、こういうのは男性に多い、中年以降の男。困ったもんだ。

こうしてまた、わたしの、おっさん嫌いと、おっさん差別は悪化するのであった。

鬼海弘雄 PERSONA 最終章

2019-11-16 | 写真
「どういう人を撮りたいと思うのかは、なかなか説明しにくいんですよね。
人間とは何かっていうことの、うっすらとした手がかりになるような人です」

鬼海さんの浅草で撮る非常に印象的なポートレートは、2012年に伊丹市美術館で見た。
作品点数も多く、ポートレイト以外の写真もあって非常に充実した素晴らしい展示だった。
その時の感想→「PERSONA」
その後、別の方の写真展トークにこられた鬼海さんの話を聞きに行ったのは一年前かな。
そのときの鬼海さんのお話は、ものすごくまともな普通の話で、
ちょっと年寄りの説教じみたところのあるような、実に普通すぎる話ばかりだったのだけど
本を読んでも写真を見ても、そして彼の歩んできた人生を見ても
ありきたりな説教の人などではないのです。この日は多分普段着の話をされたんだろうな。

奈良であったこの展示は、伊丹に比べるととてもとても小さい規模でしたが
PERSONAのシリーズで伊丹後に撮られたものもあって、それを見に行きました。
一部屋だけの展示で、すいててほとんど人がいなくて、静かに見られて行ってよかった。

「誰にでも写せる写真が、滅多に表現にならないことに徐々に気づかされた。
振り返れば、その時から写真家になったような気がしている。」
「写真が威厳と尊厳性の芸術だとしたら、観てくれる人との対話なしでは成立しない。
それは、あなた自身の発見でもあるからだ。
私は、写真表現のその不器用さを信じている。」

わたしも、不器用さというものを信じているし、もしかしたら愛していると思うので
これを読んで心の中で何度も頷いた。

行きはバスで行ったけど次の予定まで時間があったので帰りは歩きました。
小雨降る曇り空、方向音痴なのに4キロ弱をとことこと。奈良は歩くのにいいな。







セイタカアワダチソウ。憎まれてるけどわたしは好き。

途中で休憩。ここでこの秋初めてのモンブランをいただく。

アート畑の人

2019-11-15 | 芸術、とか
あいちトリエンナーレの一連のことを振り返ってて、
実際に何度か行った人の展示があった時と撤去後の比較レポートを読んだりしてて、
根本的なところでモヤモヤし続けていました。
聡明でニュートラルに見える人でも、
表現の自由には大きくイエス、でも慰安婦問題にはそぉっとノー、という発言なんだよね。
展示内容に問題はあるけど表現の自由のためには展示するべき、ってスタンス。
この展示内容に問題がある=「歴史修正主義者の日本人を不快にさせるもの」は問題である
という認識ってことよね?結局慰安婦問題にはノー、ってことよね。うーん。
むしろそう言うスタンスこそが聡明ということになっているのかもしれない。うーん。
アート畑の人はすごく賢い人もそんな感じで、こっそり、がっかりしている。
わたしにはとうていわからない難しいことを、大変な知識と教養を元に話すような人でも。

表現の自由の方が賛同を得やすいのか大きな声で主張しやすい、とは思う。
でも、慰安婦問題は微妙だしどうかと思うけど表現の自由はアートには大事だからね、
という姿勢は、結局もっと根本的で大きな問題から目を背けてるだけだと思うんだけどな。
元々の歴史問題、人権問題をスルーして、単に表現の自由イシューにしてしまうのって、
慰安婦問題は問題であるというのを既成事実のようにしてしまうところもあって
それって歴史修正主義に加担することになっちゃうと思うんだけど。

そういう人たちにもやもやしていたところで、東京藝大の元学長、文化庁の宮田長官。
この人が、あいちトリエンナーレに関しても、ずっと黙ってた末に弾圧側として発表をして
仮にも東京藝大の元学長が、まさかそこまでひどくはないよね?という思いを砕かれた。
東京藝大に、私個人はなんのしがらももないけど、日本でただ「芸大」といえば
この学校としか思われないほど、日本の芸術アカデミズムの中心で頂点であるわけで、
芸術が好きで好きでやりたくてやりたくて、芸術のために死ねるくらいの気持ちで
死ぬ努力をしてそこに入ったはずの人やその周りにいる人たちが、今、怒ってくれれば
わたしもまだまだスッキリするのだけど、どうもそういう声を見ない。
むしろ、この人はいい人なんだとか板挟みで苦しんでいるはずとか庇う声ばかり耳にした。
わたしもそれでしばらくは板挟みは確かに辛いしな、と思って様子を見ていたけど
結局わかったのは、はっきり、この人は単なる政権の犬だということです。
権力の手先。そんな者に芸術をどうこうする資格はないと思うくらいの、腐った犬。
(罪のないわんこたちごめんよ)
基本的に激しい言い方をかなり避けるわたしが人に対して腐った犬とまで言うのは珍しいよ。
それだけ裏切られた思いがつらいのです。心からがっかりしたし怒ってる。
宮田文化庁長官が、文楽のパンフレットに書いてる挨拶文を見ても、よくわかる。
権力の犬以外何者でもない。この人を擁護してた藝大関係者の甘さを改めて感じた。
というかこの人を批判しない藝大にはもう、裏切られた感しかなくて、余計腹たつ。
権力の犬だった人で優れた芸術家っているんだろうか?
反語的表現ではなく、普通の疑問。いるのかな?

あいちトリエンナーレの問題で、わたしが一番怒っているのは実はこの人に対してです。
馬鹿なだけの河村名古屋市長なんかより、この人の欺瞞の方が許せないのです。
それでもこの人をかばうなら、
もう日本の現代アート界に見るものなんかないわ、とやけくそになるほど残念。
心を権力に売り渡した政府御用達の芸術なんか、滅びればいい。
お金と権威で磨かれたきれいな服できれいな場所で腐った作品を褒めていればいい。

人権問題や歴史を振り返ることに背を向ける人や、表現の自由より権力に媚びる人たちの
アート畑なんか、ほんとうにどうでもいい。わたし忘れないからねこれ。